12話 柏餅
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「あ。いらっしゃいませ」
水茶屋で使用した銘々皿を洗い、ふたたび店の外に出た小夏は、そこに立っていた紳士に笑顔で声をかけた。
「柏餅を、いただけるか?」
ぶっきらぼうに声をかけられる。「ありがとうございます」と頭を下げながらも、この辺りでは見ない顔だな、と思った。
まず、外見が違う。
鳥打帽に背広、という洋装だった。
年は三十代後半だろうか。ひょっとしたら、四十代かもしれない。だが、父親の重太郎のように腹が出ているわけではない。すっと伸びた背筋や、がっしりとした肩幅に、お武家様かもしれない、とおもった。
「申し訳ありません。蒸し上がりまで、あと少し、お待ちいただけますか?」
床几台を手で示し、「よろしかったらおかけください。お茶をお持ちしましょう」と促す。
「茶はいい。だいぶん、待つかな」
腰をかけ、足を組む様子は、みとれるほど流麗だ。小夏など、洋装をしたことがないが、随分と着なれた様子だった。
「いえ、もう、こうやって話をしていると、すぐです」
小夏は笑い、今日は店頭に出している蒸籠を一瞥する。
白い蒸気が青空に向かって、しゅわしゅわと上る様子は、見ていて気持ちいい。
(だけど、暑いのよねー……)
袂を襷がけにし、二の腕に近いところまでむき出しにしているが、それでも竈の側は熱い。肩口で汗をぬぐいながら、ちらりと店奥を見た。
外でさえこれなのだから、厨房の伊織など、地獄ではないだろうか。
何度か大丈夫ですか、と声をかけたが、「真夏はもっと地獄」と涼しい顔で笑われた。
「今日はやはり、柏餅が売れるか?」
「五月の節句でございますからね」
笑顔で応じながら、おや、と小首を傾げる。
声はぶっきらぼうだが、随分と気さくに話しかける御仁だ。
「さっきまで、行列ができてました。お客様はよい時期にいらっしゃいましたよ」
『五月の節句と、七夕。それから大晦日は、大変になります。覚悟してください』
桜が散り始めたころ、伊織がまじめな顔でそう言った。
ちょうど、店頭の商品が変わり始めたころだ。
桜餅や花見団子が姿を消し、柏餅や鮎菓子が代わりに登場した。
『柏餅、露店、餅。もう、これが……。これが、毎年さいあく……』
最後には泣きごとのようになっていたが、あまり実感としては沸かなかった。
忙しいと言えば、五十鈴屋も行事ごとに忙しい。
そのようなものだろう、とおもったのだが。
「朝、六時ごろからお客様が並ばれていたんですよ。もう、びっくりしました」
笑いながら小夏が言うと、「六時かね」と、紳士も目を丸くする。
もちろん、それに間に合うよう、深夜から伊織や小夏も動いている。
小夏は客さばきだけだが、大量の餡を作る伊織は、数日前から張り詰めていた。
主菓子や、普段使いの和菓子を作っているときの伊織は、楽しそうでもあるが、数日おきに餡を作る時の彼は別人だ。小夏さえ声をかけられず、厨房にも入れない。
「店頭と、それから厨房でも蒸すんですが、飛ぶように売れて行って……」
ある程度の計算なら、小夏も千寿堂に来てからできるようになったが、それでも咄嗟になると、よくわからなくなる。
そんなとき、カワウソと子狸が釣り銭を入れている笊の側から、顔を出して教えてくれたりして、朝から助かっている。
その二頭は、というと。
現在、お駄賃としていただいた柏餅を持って、大橋の方に行ってしまった。川を眺めながら、食べるのだという。
「やっぱり、節句だからかね」
「それだけでなく、伊織さんのお菓子がおいしいからです」
断言すると、紳士はぽかん、と小夏を見上げた。「だって」。ふん、と胸をそらせた。
「この大通りだけでも、何軒も菓子屋はあるんですよ? だけど、早朝からいままで、ずっと列が引きも切らないのは、千寿堂だけです。これは、伊織さんのお菓子がおいしいから……」
「小夏さん。そんな、ちょっと、やめてください」
不意に背後から声がかかり、振り返ると、次の蒸籠を持った伊織が店から出て来た。
相変わらずの作務衣姿だ。頭に巻いた手拭いが、さっきと違う柄だと気づき、ああ、やっぱり熱いんだ、と気の毒になった。汗でグズグズになるから、すぐに取り換えるのだろう。
「千寿堂の看板娘のおかげですよ」
くすり、と微笑んで見せるから、顔が熱くなる。「わ、私なんて……」と急いで額に浮いた汗を拭う。
「お客様。いくつお求めですか?」
話を変えるために、小夏はわざと大声で紳士に尋ねた。
「そうだな。十ばかり、いただこうか」
小夏は返事をし、伊織は蒸籠の蓋を開ける。もわり、と上がった蒸気に目を細め、小夏は手早く柏餅を取り出した。
強く香るのは、柏の匂いだ。さわやかでいながら、喉の奥を刺激する、香辛料に似た独特の香りもかすかにある。
「やけどに気を付けてください」
手伝いながら伊織が声をかけてくれるが、朝からもう何度もしていることだ。「ありがとうございます」と笑顔で応じ、柏餅を経木の皮に十個包んだ。
「おいくらかね」
持ち運びしやすいように紐を括りつけていると、紳士が伊織に声をかけている。蒸籠を新たに乗せなおしながら、にこやかに伊織が値段を告げた。
立ち上がった紳士が、札入れから紙幣を取り出し、手渡す。伊織が釣りを出そうとすると、首を横に振られた。
「釣りは結構だ」
「いえ、しかし……、お客様……」
伊織が狼狽えている、ということは、結構な額だったのかもしれない。おどおどと小夏も様子を伺っていたが、紳士に手を伸ばされ、とりあえず商品を渡した。
「桜の時期に、わたしの家の者が世話になった。遅れたが、礼を」
鳥打帽を軽く持ち上げ、会釈をする紳士を、ふたりでぽかん、と眺めていたが。
「あの……、洋装のおじいさん」
呟く小夏に、「ああ!」と伊織が声をあげた。
あの桜茶をお出しした、高齢の男性だ。
「あの方、もう大丈夫ですか?」
「まったく。うるさいぐらいにね」
まじめな顔でそんなことを言うから、ふたり同時に吹き出してしまう。




