10話 夕飯
◇◇◇◇
「……あ、あの……。本当に、すいません……」
身を小さくして小夏が言うと、「なにがですか!」と素っ頓狂な声で伊織が尋ねる。
「……夕飯、作れなくて……」
箱膳の上に載った鯖の切り身を見つめ、すでに何度目かの溜息をついた。
情けない。
結局、この夕飯のうち、小夏が手を加えたのは、味噌汁だけだ。
「作らなきゃ、いけないのに……」
とにかく、店が忙しすぎた。
開店当初こそ、『水茶屋になんて人が来るのか』といぶかしんでいたが、十時過ぎのあの大工たちを皮切りに、昼の鐘が鳴るまで、ひっきりなしにやってきた。
物珍しいのもあったのだろう。
伊織曰く、『普段来ない客』が大半だったそうだ。
その後も、水茶屋の手が空くと、今度は手土産の客や、お茶席用の主菓子が出たり、と、こまごまとしたことが続いた。
おまけに、予想以上に来るのが、あやかしだ。
『くーださーいなー』と、カワウソと子狸がお金を持ってやってきたのには驚いた。
『このお金、どうしたの』と、尋ねると、悪びれずに『阿弥陀寺のさい銭箱から持ってきた』という。鳩羽の寺だ。
慌てて伊織に確認すると、『いつものことだからいいですよ』と、あっさりしたものだ。
戸惑いながらも、二頭が注文した花見団子を一本ずつ渡すと、ご機嫌で帰っていった。
そのあとも、大天狗が草餅をひと箱購入したり、人に化けた狐が、桜餅を十ほど買っていった。ちなみに、どうして狐だとわかったかというと、尻尾が出ていたからだ。
手渡された折箱に詰め、正絹の風呂敷に包んで手渡す時に、『お客様。尻尾が……』と小声で伝えると、『うふふ。あなた、いい店員ね』と上品に笑って、尻尾を隠し、店を出ていった。
そんな風に、閉店になるまで動き続け、五十鈴屋とは違う〝接客の疲れ〟に、ぐったりとしていたら。
夕飯のことなど、すっかり忘れていた。
「いいんですよ。ぼくだって、ここ数年。作ったこと、ないですよ?」
「え。そうなですか」
返事に驚いて顔を上げる。途端に、向かいの席でにっこりと頷かれた。
「いつも、近所の飯屋に行くか、振り売りの商人から何か買ってます。ほら、こちらも商売をしてますから」
互いに売ったり買ったりしている、ということなのだろう。
ははぁ、と言いながら、小夏は膳を見る。
鯖の塩焼きに、玄米混じりのごはん。青菜のおひたしに、味噌汁。
魚と青菜のおひたしは、近所の飯屋で買ってきて、皿に移し替えただけだ。
米は朝、伊織がもち米を蒸す時に、まとめて炊いてくれて、お櫃にいれてくれていた。この中で小夏が作ったものと言えば、お味噌汁だけ。しかも、具は、豆腐売りから買った豆腐のみ。
(一応、妻なのに、これはどうなんだろう……)
五十鈴屋にいるときは、従業員用の賄飯を誰かが作っていた。もちろん、順番が回ってきたら、小夏も作る。そのとき、姐さんたちからは、「将来は旦那や子どもに作ってやんだよ」と、よく言われたものだ。
それなのに、ちっとも、うまくいかない。
(……でも、切り身のお魚かぁ)
ちょっと、ほれぼれ、と眺める。
五十鈴屋にいたときは、料理屋なだけあって、賄飯の材料は豊富だ。
だが、自分たちの口に入るのは、いつも客に出せないところばかり。
ある意味、〝《《可食部分》》〟を、自分が食べる日が来るなんて。
「……やっぱり、五十鈴屋さんの夕飯はもっと豪華ですかね……」
まじまじと無言で見続けていたからだろう。勝手に伊織が解釈し、ひとり落ち込み始める。
「え!? いや、違いますよ!! 五十鈴屋のは、あれです! お魚なんて、切り身で食べられることありませんからっ」
腰を浮かせて、左右に手を振る。きょとんと目をまたたかせる伊織に、小夏は慌てて説明をした。
「魚だったら、アラと骨ばっかりですし……。エビとかだと、頭とか殻とか……。とにかく、ガシガシ噛んで、食べられなかったら、ぺっ、して……。大根も人参も、葉っぱや皮のところしか食べませんし」
言ってて情けなくなってきた。徐々にすとん、と腰を落とし、「なので」と、力なく笑った。
「お店みたい、っておもって」
少なくとも、伊織と同じもの、が食べられるとは思っていなかった。
重太郎と佳代では食事の内容が違う。主である重太郎は、数品、皿が多い。
席だって違う。こんなふうに対面であの夫婦が食べることなどない。
だけど。
自分の目の前にあるのは、伊織と同じものだ。
昨日の晩も、そうだったが、あれは祝い膳的ななにかだったのだろう、と小夏は思い込んでいた。
だから、伊織に頼まれて飯屋で魚と青菜を買うときも、鯖は伊織の分しか買わなかったのだ。
おかげで、家に着いてから驚かれ、慌てて伊織が小夏の分を買いに走る、という、意味の分からない二度手間をかけてしまった。
「じゃあ」
ふ、と風が動くように、伊織の声が頬を撫でる。目線を動かすと、彼が恥ずかしそうに笑っていた。
「よかった。小夏さんに贅沢をさせられた」
その笑顔や表情は。
〝かたち〟として、明らかに小夏に触れて。
心を揺らして、身体を熱くさせる。




