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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

劣等種の手

作者: 藻塩 綾香

 私の手を握るのは、同じ大きさのかわいらしい紅葉に似た手だ。

 私の手を握るのは、小麦畑の黄金に負けない美しい金髪の人間種の少女。


 大きく腕を揺らすようにしながら二人並んで歩く。


「クリステルお嬢様、今日はお城を抜け出してもよろしかったのですか? またお母さまにお叱りを受けますよ?」

「だって、お城に居たってつまんないもん。お外の森を探検したほうが、ずっとずっと楽しいんだもん」


 そういう彼女は、森を探検するのだと言わんばかりに道なき道を歩いていく。

 木漏れ日が心地よく、どこかひんやりとした空気感は、私の故郷に酷似しているが、目の前の姫が歩いていいような場所ではない。


 しかし、森が好きだと言ってくれたことに対して、小さくため息を漏らすものの、悪い気はしない。


「毎日、お勉強、お勉強で、お勉強ばかりでつまらないんだもん」

「ですが、立派な女王様、延いてはお母さまのような立派な御方になるには、教養が必須となります。私どもとしてはぜひとも勉学に励んでほしいものですけど」

「でも、つまんないんだもん」


 そういう彼女はどこか俯いてしまう。

 女王様だというのに、お淑やかさの代わりに森が好きというやんちゃさを身に着けてしまったのは、私の影響もあるかもしれない。


「森は、魔物も出ますし、迷子になったりしたら大変でございます」

「でも、フェルマが居てくれるもん」


 どこか駄々っ子のように言葉を濁す彼女に対して、私はどこか困惑の表情を浮かべるしかなかった。


「フェルマが、いつも、いつまでもずっと私の事守ってくれるもん」

「確かに、私のお役目はお嬢様をお守りすることですが……」

「フェルマは一番、いっちばん強い騎士だもんっ!!」


 うれしいような、恥ずかしいような気持ちで今度はこちらが視線を背けてしまう。


「……今日一日だけ、森を探検しましょうか」

「えっ、良いの?」

「あまり根を詰めすぎてもよくありません。息抜きが必要な日もあっても良いでしょう」

「フェルマっ? 大好きっ!!」


 そういって飛びついてくるお姫様。彼女があと十年もすれば大人の仲間入りをすると思うと、どこか寂しくもあり、父親代わりとしてはうれしくもある。


 この握る手が、私よりも大きくなる日を。

 この握る手が、私よりも偉大になる日を。


 そんな日をちゃんと迎えられるように、ゴブリンという人間種とは違う、劣等種と位置づけられる私が成し遂げなければならない。


 それは、彼女の母親である現王妃との約束であり、どうしようもない日々を送るしかなかった私を救ってくれた王妃に対する恩返しでもある。

 あなたの手を迎え入れる先を、守るのが私の使命なのだから。



 ◆◇◆  ◆◇◆



 豪華絢爛とは、この部屋のことを指すのだろう。

 部屋の上部から吊り下げられたシャンデリアは匠の技を凝らして造られた一品であり、光を反射する美しい宝石が数多に散りばめられている。地面には、一般市民ではお目にかかれないような大理石で埋め尽くされた床があり、壁にはわざわざ手彫りによって作られた柱が等間隔に並び、その細部に金があしらわれている。


 居るだけで目が痛くなってしまうような部屋で、フェルマはクリステルの隣でただ静かに、話し合いの様子を窺っていた。


「では、今年の中央聖都市闘技会の対戦順を決めようではないかね」


 円卓の上座に座る老人が、これから始まる会議の始まりを宣言する。

 円卓を囲むのは十一人の領地を統べる貴族と、その護衛を任された聖騎士と呼ばれる特別階級の護衛がその後ろに立つ。


「その前に一つ良いかな?」

「なんだね? アルデュール公爵」


 この場を取り仕切っている中央聖都市の王であるマルグラーテ国王が、アルデュール公爵に、その長く伸びた白い髭を撫でながら問いた。


「少し聞いておきたい事がございましてね」


 アルデュール公爵は、細く釣りあがった狐のような目をこちらへと向けてくる。


「クリステル公爵。母親のご容態はいかがかな? お歳を召されて最近は寝たきりだという噂をお聞きしたのだが?」


 それをわざわざこの場で言わなくても良いではないか。そう思いつつも、フェルマは自身の主の口が開かれるのを待つ。


「アルデュール公爵、ご心配してくださりありがとうございます。ですが、ご心配には及びませんよ。最近は少しずつ快方に向かわれており、先日は散歩をなされるほどまでになりました」


「それはよかった。いささかあの城には雑種が紛れ、空気が悪いと感じていたので、心配をしていたのです」


「お気遣いありがとうございます。最近は庭園の薔薇をお部屋に飾っていますのよ。一度足を入れれば、薔薇の香りが優しく歓迎してくれますの。まぁ、フェルマの案ですけどね」


 アルデュール公爵と、フェルマの主人であるクリステルが口喧嘩を始める。その口喧嘩の理由は、フェルマにある。


 アルデュール公爵は極度の排他的主義者である。人間種以外を嫌う。特に容姿に難がある事など、容姿があまり良くない種族に対しては特に厳しく当たる傾向にある。

 だからこそ、小鬼種であるフェルマについて棘で突いてくるのだ。


 罵るもう一つの理由としては、フェルマが第一等級聖騎士であることが挙げられる。


 聖騎士とは、この国で認められる名誉ある称号である。年に一度開かれる中央聖都市闘技会において、それぞれの貴族が代表となる人物を一人ずつ選出し、死闘を繰り広げた末に、その順列を決める。その順列によって、国からの様々な補償が受けられたりする。そのため、この闘技会は国力をかけた大事なものとなる。


 フェルマの等級は第一等級聖騎士、前回大会の王者である。

 アルデュール公爵の聖騎士は第二等級騎士。つまり、フェルマに敗れているのだ。


 自国の聖騎士に対し『ゴブリンなどに負けおって!! この役立たずがッ!!』と罵る姿は、今でも鮮明に思い出せる。


「それじゃあ、対戦順を決めようかね」


 マルグラーテ国王がのんびりとした声で言うと、室内に一つの箱が運ばれてくる。この箱の中にクジが入っており、それぞれが引いて対戦順を決める。


「例年に従って、第一等級聖騎士であるフェルマ・バイスオートはシード枠での参加とする」


 第一等級聖騎士はシード枠として、決勝のみに参加できるが、その代わり負けた場合は第十一等級聖騎士に落ちる事となる。


 フェルマは五回連続で挑戦者を排除し、第一等級聖騎士の地位を守り抜いている。だからこそ、今年こそはとアルデュール公爵がこちらに対して熱い視線を送っているのを、フェルマはひしひしと感じ取っていた。


 それぞれの貴族が順にクジを引いていき、対戦順が決定する。


 そして、対戦結果が決定する。


 シード枠であるフェルマは対戦表を見たところで、誰と当たるなどあまり関係はないのだが、その視線は別の方向へと向いていた。


 アルデュール公爵の背後にいる人物。全身を覆う黒いローブに、腰に掛けているのは細身の剣。魔術剣士を思わせるその風体だが、フェルマに向ける視線の鋭さが異様に際立った。


 名前をアドルフォという。レイピアの扱いに長けており、その素早い一撃一撃はとても目を見張った。だが、去年と印象があまりに代わっていることに、違和感が隠せない。歴戦の戦士といっても差し支えないフェルマでさえ、アドルフォ視線に見つめられると、背筋が凍るかのような錯覚を覚える。


 まるでこちらが蛙で、蛇に睨まれているかのような感覚だ。


 顔が見えないほど深くかぶったフードは、シャンデリアの光を受けて一層強く影を落としている。相手から見えるただならぬ殺気を感じて、ついこちらも手を腰の剣に添えてしまう。


 ゴブリンという種族である以上、こちらが小さいのが常であり、他の種族が大抵大きいのが常なので、あまり気にならない。だが、自分より上の視点から、舐めまわすように見てくるその視線の気持ち悪さ。


「フェルマ? 怖い顔してどうしたの?」

「い、いえ……。何でもございません」


 ふいにクリエステルの声が聞こえ、我に戻ったときにはその気持ち悪い視線は消えており、あたりはどこか今年の闘技会こそは、という意気込み溢れる聖騎士たちの熱気が篭り始めていた。


 アドルフォは、先ほどのような視線を送ることはなく、対戦表に視線を送っている。


 フェルマは昨年の試合の様子を思い出していた。


 アドルフォのレイピアが唸ったと思えば、自身の純白の鎧に傷をつけており、こちらが剣をふるえばゆるりと風に舞った葉を切るような感覚に襲われる。素早さが印象的な試合だったのを覚えている。


 アドルフォが貴族お抱えの騎士ということで、そのレイピアには泥臭さの無い、格式ばった印象が見受けられたが、その一撃一撃は剣舞には無い相手を倒すという強い意志が感じられた。


 だからこそ、フェルマは騎士として、アドルフォのレイピアの剣筋を評価すると同時に尊敬もしていた。


 しかし、目の前のアドルフォの印象は昨年とは打って変わって、あまりに淀んでいる。アドルフォが握っていたレイピアのように、細くも他を寄せ付けないような凛と芯のある立ち振る舞いではなく、芯に傷が入り、そこから悪臭が漏れ出るような。


 フェルマがその違和感に嫌悪感を抱いていると、いつの間にか会議は終ろうとしていた。


「今年も、良い試合を見せてくれることを祈っているよ」


 マルグラーテ国王は、のんびりとした声音で終わりを告げると、それぞれの貴族が立ち上がり、互いに視線で威嚇しつつ、部屋を後にする。


「フェルマ。私たちも行きましょうか」

「えぇ」


 フェルマはどこか後ろ髪を引かれる思いを残しながらも、クリステルの後に続く。



 ◆◇◆  ◆◇◆



 クリステルとともに国王への個人的な挨拶などを済ませたのち、社交の場で派手さのある服ではなく、町娘のようなラフな服装へと着替えると、街へと歩を進める。


 クリステルは今年で二十歳になるが、大人の階段を一歩一歩と歩む中、なかなか子供らしさというか、森で育った田舎民の本質が抜けない節がある。だからこそ、貴族であるというのに、下町の雰囲気が好きという、貴族としては変わった嗜好を持っている。


 だからこそ、こうして王都の街をぶらりゆらりと巡る。


「ほら、フェルマ? 早く行こっ!!」


 フェルマもいつもの甲冑を外し、わざとみすぼらしい衣装を纏う。王都では人間種の他にもいるものの、国外からの旅行であったり、自国の製品を売りに出したりと、その目的はいろいろだが、子鬼種であるゴブリンとは圧倒的な差別が存在している。


 高貴で知られ魔法に特化したエルフはその魔法製品を売り、ドワーフは持ち前の鉄鋼製品を売る、そして人間種の生み出す生活必需品を購入するという、平等な売買がなされている。そして、平等な売買が成立している裏には、種族間においての確かな信頼があるのだ。


 しかし、子鬼族といえばどうだろうか。売りにくるのは、深い山奥にある山菜やキノコや薬草といった商品価値の低い品物ばかり。それゆえ、どこか他種族からは役立たずという目で見られがちである。


 何か障害があるような差別はないが、その言葉の端が気になってしまう。


 そんな差別のことを知っているはずのクリステルなのだが、まるで気にしないようにフェルマを街へと連れ出す。


「クリステル様、やっぱり私がいたら邪魔じゃありませんか?」

「そんなことありませんっ!!」


 クリステルがフェルマを見下す形で顔を赤くする。


「私一人で街に出たら悪い人に襲われちゃうじゃない?」

「そうですが……お買い物に支障が出ませんか?」

「買い物なんてしようと思えばどこでだって誰とだってできちゃうわ。でも、それは命があってこそでしょ? 命なくしてお買い物なんてできないわ」

「はぁ……」


 あくまでも護衛として着いてきて、と言い張るクリステルに対して、渋々といった表情でフェルマは着いていくしかない。


 王都の市民街というのは、自国の市民街と比べてもやはり賑わいが違う。人々が生を謳歌している。すべての物が集まり、あらゆる面で不満のない生活から生まれる娯楽。町を歩けば吟遊詩人が詩曲を歌い、どこからか聞こえる管楽器が街に彩を与えながら、酒を煽った市民がどこか楽しそうに笑い声をあげ、市場からは自身の品を売り捌こうと活気のいい掛け声が飛び交う。


「クリステル様。王都は何度もいらしてますし、今更何か買うものなのございますでしょうか?」

「フェルマは分かってないなぁ」


 クリステルはフェルマに得意げな表情を浮かべつつ答えた。


「何回でも、何度でも来たくなる良さがあって、何度でも楽しめる良さがこの街にはあるんでしょう?」

「しかし、服などは自国でも購入できますし、クリステル様がお一声かければ王都まで馬が駆けますし……」


「それじゃダメでしょ? その場所の雰囲気だったり、その場所ですぐに食べたり、その場所じゃなきゃできないことってあるじゃない。付加価値って意外と大事なものよ?」


 フェルマはクリステルにはもっと一国の女王として、下っ端にこき使う人間性を養うべきだと思っている。クリステルは使用人すべてに平等に優しく扱う。感謝の気持ちを述べることを忘れず、時には使用人の仕事も手伝うことだってあるくらいである。


 人徳ともいえるその優しさだが、その優しさが尊厳に変わるとは限らないのだ。女王でありながら下に見られたりする隙にもなり得るし、大事となれば乗っ取りを計画する者もあらわれるかもしれないのだ。


 クリステル様は飴を少々与えすぎていると感じる面が多々ある。

 そんな思考に耽っていると、クリステルがフェルマに声をかける。


「フェルマ、ちょっとここで待っててねっ!!」


 そういうとクリステルは何を思いついたのか、スタスタとフェルマから離れていくようにして走って行ってしまう。


「護衛の任を押し付けておいて、護衛を置いていくなど何事ですか……まったく……」


 女王という立場でありながら天真爛漫な性格が抜けない主の待機命令を無視して、フェルマはクリステルの後を追おうとする。

 しかし、ここで待機命令を無視してしまうと、また何を言われるかわからない。


「……」


 フェルマは仕方なく、近場のベンチに腰を掛ける。


 そして、行き交う人々に何気ない視線を送る。

 白い肌に、黒や金の髪を持ち、美麗な顔立ちの種族。ゴブリンとは大違いの造形美にフェルマはため息をついてしまう。


 子鬼種の歴史は我慢と衰退の歴史である。子鬼種の寿命は長くて六十年ほどである。寿命が短い代わりに、繁殖力が高いのが特徴である。しかし、繁殖力が高くても、その生物として生きていくには些か弱い。


 エルフは魔法という攻撃に特化しており他種を圧倒するような魔力を保有する。獣人種は圧倒的な身体能力を保有しており、そのフィジカルに勝てる種族は存在しない。ドワーフは培った鉱山知識を持つ。人間種は、身体能力、魔力、知識においてあらゆる面において平凡である。逆に言えばあらゆる面において凡にこなせる器用さがあると言い換えてもいい。


 それぞれの種族が、様々な素晴らしさを持つ中、ゴブリンはこれと言って秀でるものがない。エルフのように魔法に秀でているわけではなく、獣人種のように身体能力が突出しているわけではなく、ドワーフのように専門知識を有しているわけでもない。それでは人間種のようにあらゆる面に触れられるかといえば、ゴブリンは繊細な作業が苦手である。


 あらゆる面において、他種とは劣っているのだ。


 故に、森の奥に潜むように生活し、戦火のある場所から逃げ、他種からの侵略の無いように関わりを絶ってきた。飢饉が起これば同種食いすら躊躇わず、木の根を啜る生活をしてきた。人口がめっきりと減ったと思えば、種の存続のためまた数を増やす。しかし、生きる力の弱いゴブリンはすぐさま何かしらの要因で大量死する。そんな我慢と衰退の歴史。


 それに終止符が打たれようとしているのが、二十年前になる。


 クリステルの母親であるシャルマーラ女王が、自国の領土に住むゴブリンを自国の民として認めると公の場で発表した。それが二十年前である。シャルマーラ女王の誘いに半信半疑になりながらも、ゴブリンの一族は誘いを受けた。国民も最初はどこか新しいゴブリンという種族の新規参入に対して若干の不満もあっただろうが、温情あふれる女王の事だと信じて受け入れた。


 それからは怒涛の日々だった。フェルマが国の聖騎士代表として選出され、死にもの狂いで王者の座で居座り続けた。ゴブリンという劣等種が上位種と同様な生活水準で生きるために、必死で戦い続けた。


「何辛気臭い顔しているの?」

「クリステル様?」

「はぁ……辛気臭い顔したいのはこっちよ」


 そういうとクリステルはフェルマの隣に腰を掛ける。それと同時にフェルマは立ち上がろうとするが、クリステルが目線で訴えかける。一緒に座っていて、と。


「これ、近くで売っていた果実水。なんか南国の……パイナ……パイナップ? いやパイナッポイだったかな?」

「パイナップルですか? 最近王都で流行の果実ですね」


「あぁ、それそれ。それの果実水があるから買ってきたわ。私、これ飲んだことないのよね」

「そうでしたか? 過去に国王からの贈り物という事で届いていた気がするのですか」

「あれ、保存方法間違えてなんか腐っちゃったじゃない。それで食べ損ねているのよ」

「そうでしたか」


 クリステルがパイナップルの果実水を含むとぱぁと顔が明るくなる。


「なかなかおいしいわね。酸っぱい果実っていうのもおいしいものね」

「では失礼して」


 フェルマも一口含むと、すっきりとした酸味に加え、酸味の裏に隠れる甘味が、次の一口を誘うおいしさがあった。王族とまではいかないものの、知識として様々な食材を食べてはいるが、パイナップルは初めてであったため、そのおいしさについ驚いてしまう。


「そういえば、何かご不満でもあるのですか? 先ほど辛気臭い顔をしたいのは私のほう、と仰っていましたが?」

「そうね……。アルデュール公爵の態度どうにかならないものかと思ってね」


「別に、あの方は昔からあのような雰囲気の方ではないですか」

「フェルマはあんなこと言われてなんとも思わないの?」


「気には障りますが、私としてはクリステル様が下手にボロを出さないかのほうが心配ですので」

「なに? 上から目線?」

「そんな事はありませんよ。どちらかといえば、護衛としてのご意見です」

「ふぅん」


 クリステルは何気なさそうに果実水を啜る。

 そして、街を行きかう人々を眺めながら呟いた。


「フェルマってさ。どうしてそんなに強いの?」

「唐突にどうしたんですか?」

「いや、だって普通不思議に思うじゃない。他種からしたら弱いゴブリンなのに、今やこの国最強の第一級聖騎士なんだもの。その強さの秘訣があったら知りたいじゃない」


「強さの秘訣ですか……?」

「だって、私が今からどれだけ鍛錬を積んだってフェルマみたいに強くなれる気はしないもの」

「憧れですかね……」

「憧れ?」

「えぇ……」


 フェルマはどこか懐かしむように空を眺めながら答えた。


「ドラゴンを倒して街を守る勇者、砂漠を一面森に変えたエルフの魔術師、山のようなゴーレムを生み出したドワーフの技師。……一人の姫を守るために、千の軍勢に立ちはだかった騎士。お恥ずかしい話、そんな姿に憧れていました」

「へぇ〜」


「ゴブリンという種族でありながら、人間種に、森精種、獣人種に憧れを抱きました。そして、その姿になるために必死に努力を重ねました。それだけです」

「なんか、思ったよりシンプルね」

「この世界には、ユニークスキルや、特別な魔法などがあるそうですが、私のようなゴブリンにはやや大きすぎますからね」


 フェルマは自嘲気味に笑ってみせる。

 そして、隣で話を聞いている主に向かって言葉を投げかける。


「そして、今私の夢は果されている」


 隣で話を聞いているクリステルはその真意を理解してか、理解せずにか「そっか」とそっぽを向くのだった。



 ◆◇◇ ◇◇◆



 カランカラン。

 店の扉を開くと、店内にいた人間種の青年がフェルマの姿に気がつく。


「フェルマさんですね。今お師匠様呼んで来るのでちょっと待っててください」


 青年はそういうと、店の奥に小走りで走っていくと「お師匠様?」と声を上げる。

 しばらくして小柄な男性が現れる。


「久しぶりじゃねぇか?」


 暖簾を潜って現れたのは、鍛冶屋をしているドワーフのマッグだった。身長は低身長のフェルマと同じくらいであり、どこか親しみを覚える。


「剣と装備をちょっと見てもらいたくて伺った次第です」

「そういえば、中央聖都市闘技会が近いんだっけか? そうかそうか」


 フェルマは卓上に剣と装備を置く。手始めにマッグはフェルマの剣を手にとると、目を凝らす。


「手入れはしておるようじゃが、ちと欠けとるな。何を斬った?」

「鉄竜と戦ったので、そのときでしょうか?」

「鉄竜か。そりゃ欠けもするかの」


 そう言ってマッグはどこか嬉しそうに言葉を落とす。


 鉄竜は全身が鉄のように硬いと言われるほど、堅牢な竜種である。並の弓や剣では攻撃が一切通らないほど鱗が硬いのが特徴。その代わり、火属性魔法にはめっぽう弱いという弱点がある。しかし、フェルマは火属性魔法など使えなので、剣をもってして叩ききった。


 マッグが嬉しそうな理由は、もちろん自身が鍛えた剣が、鉄竜を切ったからに他ならないだろう。


「そういえば、風流石が最近入荷したのだが、エンチャントは施していくかい?」


 エンチャントとは武器に、属性を付与する魔法である。属性によって様々な恩恵が得ることができるのが特徴だ。


 普通なら付与魔法を術者が唱え、その場でエンチャントをするのが多いのだが、フェルマのように付与魔法が使えないものは、鍛冶屋で専用のアイテムを使用して、エンチャントを施すこともできる。

 今回マッグが入荷した風流石というのは、風属性のエンチャントが施せるアイテムである。


「お願いしてもいいですか?」

「もちろんよ。俺の作品が更に強くなるんだ。喜んでうけてやるよ」


 そういうとマッグは肩をど突いてくる。


 マッグとはかれこれ二十年以上の付き合いになる。それこそ、フェルマが最初の中央聖都市闘技会に出場したときからの付き合いである。


 当時無名だったマッグに剣と装備を鍛造してもらい、闘技会に出場した。そして、フェルマが一位をもぎ取って以来、マッグの鍛冶屋としての評判は右肩上がりになり、今では何人もの弟子を抱える大きな鍛冶屋となっているのだ。


 多額の収入を得てなお、今もその心の中で燃える最高の一品を作るという職人の意思は消えることはなく、今でも立派な剣を鍛造し続けている。


「そういえば、クリステル嬢は元気にしてるかい?」


 マッグは剣に目を通しながらフェルマに懐かしむように問いかけた。


「えぇ。今も変わりなく元気にやっていますよ。昨日も、街の探索だと言い張って、借り出されましたから」

「ガハハハ。あのお嬢様も相変わらずかい。城で優雅に過ごす姫よりも、おてんば街娘のほうがお似合いじゃねぇか」


 マッグとクリステルとは何度か面識がある。フェルマの専属の鍛冶師という事で、紹介させられたのだ。


「そうですね。城に居ては窮屈すぎてむしろ悪影響が及びそうなくらい活発な御方でございますね」

「元気が一番ってもんよ。城を抜け出して森に行っても、お前が居るから別に問題はねぇしな」

「本当なら、危険な目に会わないように道を示すのが

護衛の一番の役目なのですけどね」


 フェルマは小さくため息をつきながら言うと、マッグは「そりゃそうだ」と良い景気良く笑うのだった。


「そういえやぁフェルマ。お前邪神についてはどれくらいの知識がある?」


「過去、世界を滅ぼそうとした天災のような神であり、勇者一行に討伐され、頭、胴、四肢の六部位に分裂して封印された。そして、その六部位は後に更に分裂して封印され、十一になり、それぞれ聖騎士が守護する事となる」


 聖騎士の本当の役割というのは、世界を滅ぼす邪神の封印を守護するものの事を指し閉めるのだ。フェルマは第一級聖騎士として自国にて、邪神の頭部を守護している。全部部位が集合した瞬間、災厄が撒き散らされる。それを阻止するのが聖騎士の本当の役割である。


「さすが聖騎士を伊達にやってねぇな」

「それで、その邪神がどうかされたのですか?」


 マッグは剣に注いでいた視線をフェルマのほうへと向ける。その視線は、どこか真剣味を帯びており、その視線を見たフェルマもつい神妙になってしまう。


「これは裏筋の情報だから、信頼性は薄いがちと聞いておいて欲しい」


「……えぇ」

「アルデュール公爵のところの邪神の前腕が奪われたって噂だ」

「それは本当ですか?」


 フェルマはマッグの思わぬ言動に声を上げてしまう。


「いや、確信はない。そういう話がうちの情報網に入ったってだけだ。そして、まだそのことをアルデュール公爵は、誰にも漏らしてねぇ。国王にバレりゃ、地位剥奪なんて温い刑じゃ済まねぇ。死刑は確定だろう。死刑どころか、下手すりゃ世界が滅んじまう恐れだってあるわけだ。一大事で済む問題じゃねぇと俺は思ってる」

「……」


 封印された邪神の各部位は、互いに引き合う性質をもっている。だからこそ、封印されているとはいえ安心はできない。仮に、二つ以上揃ってしまえば封印を解くには十分な力を取り戻す。そして、二つ揃った瞬間、引き合う力が強くなり、三つ、四つと部位が集まり、完全に姿を取り戻した瞬間、世界はまた厄災に飲み込まれるだろう。


「マッグはそれを聞いて何か行動は起したのか?」

「国王に一言してぇのは山々だが、その確証があるわけじゃねぇ。仮に偽の情報だったときは、俺が死刑くらっちまうよ」


 マッグの言う通りだろう。この情報は簡単に扱っていい情報じゃない。

 国王に一言したとしても、それが法螺話だと分かった瞬間、それは大罪になりえる。それは今や国内最大規模を誇るマッグ鍛冶屋の主であるマッグであっても、世界最強の聖騎士であるフェルマでも同じである。罪は平等に与えられる。


「気には留めておくが……私も行動を起し難い案件なのは理解していてください」

「もちろん分かってらぁ。だが、長年の付き合いだし、第一級聖騎士たるお前さんに言わずして誰に言うって話だからな」


 フェルマはマッグを鍛冶師として信頼している上に、人間性も信頼している。鉄のように曲がらないまっすぐとした信念は、信頼を勝ち得るに十分過ぎるほどであり、事実フェルマはマッグの事を信頼している。


「すまんな。大事な戦の前だって言うのに、こんなこと言ってよ」

「いや、気にしないでください。私にも関係する話ですから」


「それじゃあ、剣のエンチャントと防具の整備に関しては、お前さんの戦の前には仕上げて小間使いに送らせるよ」

「よろしくお願いしますね」

「気にすんな」


 マッグが笑い声を上げながら、背中をバシバシと叩いてくる。お互いに若くはない年齢だが、付き合いが長いからこそ、若いときからの交流をもっているからこそ、互いが互いを信頼している。


 フェルマは背中を叩いて来るマッグに対して、苦笑いを浮かべると、店を後にするのだった。



 ◆◇◇ ◇◇◆



 さすがは王都と言ったところだろうか。全面石畳で作られた道にどれだけお金がかかっているだろうかとフェルマは思いつつ道を歩く。フェルマの履くブーツがコツコツと石畳みを叩くと同時に、どこか耳につく嫌な足音。


 夕暮れ時だというのに、人通りの減らない道。多くの住民が往々する中で、フェルマの耳を突く嫌な足音。


「……」


 背後を確認する事なく、フェルマは裏路地へと入る。


 一本道を外した瞬間、高い壁に囲まれた裏路地には人通りが一切なく、夕暮れという事もあり暗闇がフェルマを包み込む。


 嫌な足音が少しずつ近づいてくるのを感じ取ると、背後を振り返る。

 振り向いた先にいたのは、三人のローブを被った人間だ。体格から見るに男であること、平和的な人間でないことは簡単に読み取れる。


 ローブから腕がぬるりと伸びると、その手に持つのは細いナイフ。明らかな殺意の乗った刃が向けられたフェルマの心臓はいつの間にか心拍数を上げていた。


「何か果物を切って欲しいわけではないのですね?」


 ジョークを投げかけると、ローブの男達は言葉の代わりにナイフを投げつけてくる。切っ先が向けられたナイフを避けると、ローブの男達は一斉に突っ込んでくる。


 不運な事に、今のフェルマには武器がない。いつも腰に携帯している愛剣は整備のために預けてしまっている。


 数メートル空いているだろう距離をものの数歩で踏破してくるローブの男。その手に持つナイフがフェルマの首を切断しようと一閃する。


「ッ?」


 フェルマはそれを一歩引き下がる形で回避。フェルマの緑眼がナイフを睨みつけるように細くなる。

 一歩引き下がった瞬間に、フェルマは敵の小手目掛けて、蹴りを繰り出す。小さな体からまるで鞭のように伸びる脚。小手を突くようにして繰り出した蹴りは、ローブの男からナイフを手放させるに値するだけのダメージを与える。それは、フードの奥に隠れた口が引き攣る事で証明できる。


 そして、一手入れたら即座に二手目を繰り出す。

 身長差のあるフェルマは蹴り上げた脚を地面に着けるのと同時に、体を捻る。そして、遠心力を武器にして、左足で回し蹴りを繰り出す。


 踵に伝わるローブの男の頬骨の感覚。そして、鉄板仕込みのブーツが頬骨を砕き、頭蓋骨に踵が埋まる感覚。


「はぁッ!!」


 渾身の一撃を叩き込むと、ローブの男は隣の外壁に顔面から突っ込む。その衝撃は恐ろしいもので、壁にヒビが入るほどである。


 そして壁に叩きつけられた男は、頬から血を流しながら白目を剥き、地面に倒れこむ。

 一人をニ撃で仕留めると、他の男達へと視線を向ける。


 小柄なフェルマには利点もあるが欠点も存在する。利点は小柄な体躯を活かした回避、欠点は相手の弱点を突きにくいこと。体格差という点でゴブリンは他種族に対して圧倒的不利にある。が、その差はフェルマともなれば無に等しい。

 敵が暗殺者であることは、この場においては自明の理。


「雇い主は誰だッ!!」


 フェルマが声を上げても敵はにやりと口角を上げるばかり。味方が一人地面に沈んでいるというのに、その笑みを浮かべていられるというのは奇妙であり、嫌悪感さえ抱いた。


 フェルマの体を斬りさかんと振るわれるナイフ。それを緑眼が必死に捕らえ、脳がすぐさま反応する形で回避する。そして、回避の裏で脳は逆転の一撃を見舞う隙が生まれないかと熱を帯びる。


 視界の端にギラリと刃が光ったと思うと、フェルマは鎌首をもたげていた。脳が意識する前、脊髄反射で首を動かしたフェルマの肌を擦過したのは、いつの間にか背後に回りこんでいたローブの男の片割れだった。


 肌を擦る際、フェルマの肌に冷たい液体が滴る。それが毒だと気づいたとき、敵の本気度というのが伺えた。麻酔毒などではすまないだろう。致死性の高い毒、フェルマを確実に殺しにかかっていることが伺える。


 しかし、殺し殺されの環境など、今に始まったことではない。常に命を懸けている。この命を賭す覚悟などとうの昔に決めている。


 フェルマは地面を前転するかのように転がる。股を潜りぬけるようにしてフェルマは前転すると、持ち前の身体能力を活かし手を地面につけ、伸縮されたばねが、溜め込んだエネルギーを開放するように、伸びた。


 鋭い槍の如く地面からフェルマの両足蹴りが伸びる。それは敵の太股に直撃。思わぬ背後からの一撃。太股の肉を通り越し、大腿骨を砕く。下半身を支える重要な骨を砕いたことで、歩くことすらままならないだろう。


 フェルマは再び地面を転がるようにして体勢を整える。残った一人に対して、視線を向けると倒れた二人に視線を向ける敵の姿を映る。


「雇い主を言えば、その命は助けてあげます。一人目のように死ぬか、二人目のように四肢の骨を砕かれるか、五体満足で逃げるか、どれがいいですか?」


 フェルマが脅しをかけるが、敵はまるで聞く耳を持たなかった。

 右手にナイフを構え、左手を背後に回すと、姿勢を低くして突進してくる。


 右手のナイフは接近戦に持ち込んだ時に振るわれると推測し、左手は恐らく投げ道具など推測すると、フェルマは投げ道具に対して目を見開き注意を向ける。


 投げ道具に関してこちらは後手に回らざるを得ない。先に動いては着地点を狙われるため、投げた瞬間に軌道を読み回避するしか手がない。だからこそ、フェルマはいつでも回避できるように腰を落とし構える。


 敵との距離はおよそ五メートルもない距離。何か武器を投げてくるかと思ったが、その左手が振るわれることはなく、代わりに眼前に現れたのは小さな小袋。そして、眼前に移ったのはナイフの鈍い光を放つ刃と、したり顔を浮かべる敵の顔だった。


 至近距離だからこそ分かる小袋の孕んだ熱。そして、焼き切れんばかりに回転する脳は、眼前の光景をスローモーションで映し出す。


 敵が投げてきたのはまさかの爆弾。そして、首元の的確に狙ったナイフ。


 ―――自殺覚悟の特攻


 まさかの行動にフェルマの脳は、危険信号を発し、何かできないか、この危機的状況を回避できないかと必死に回転する。


 ナイフを回避しようにも爆弾の爆風から逃れられる気がしない。一瞬の逆転撃に、恐怖すら覚えた。そして、死を覚悟するには時間はたっぷりと一秒残されていた。


 そして、死を覚悟すると共に、生へと噛み付く泥臭いゴブリンの意地が一秒を食らいついた。


「はぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


 眼前の爆弾を思いっきり蹴り上げると共に、フェルマは地面に倒れこむ。生き残るための一手。


 蹴り上げられた爆弾は敵の頭上を越えると、爆発。それと同時にフェルマの頭上を擦過するナイフ。降り注ぐのは小袋に詰られた鉄片。爆発と共に鉄片は周囲に撒き散らされる。鉄片は、フェルマを覆う形で突っ込んできた男にも降り注がれる。そして、男の体に無残に刺さる。刺さった瞬間に肉は抉れ、骨が露出する。


 フェルマを覆う形で男に鉄片が刺さり、フェルマは何とかそ五体満足で切り抜けた。


「……」


 周囲に撒き散らされた鉄片は、まだ息の合った二人目にも刺さり無残にそのローブを切り裂き、こぽりと血を噴出している。そして、フェルマの盾となった三人目に限っては、腕が千切れ、その死体は余りにも無残であった。


 なんとか爆発は凌いだものの、フェルマの無事というわけではない。左腕に二箇所鉄片が食い込んでいる。食い込んだ鉄片はフェルマの腕を食い千切ろうとするかの様であり、流血が止まらない。


「チッ……」


 思わぬ怪我にフェルマは舌打ちをしてしまう。

 そして、すぐにその場を離れる。

 先ほどの爆発で人が集まってくるだろう。この場に居合わせて良いことなど一つとしてない。


 破った服で自身の腕を止血しながら、すぐさま王都で自身の主の居る宿へと向かう。


 敵はフェルマが一人のとき、かつ武器を預けている状況を狙ってきた。それは、今クリステルの元にフェルマが居ないという事を敵も把握しているという事。宿屋にはフェルマの選んだ護衛が十名守護に就いるが、この状況を踏まえるとどこか不安が過ぎってしまう。


 背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、自身の腕の傷など忘れるほどに、フェルマは宿屋へと疾駆した。



 ◆◇◇ ◇◇◆



 フェルマは自身が宿泊する宿屋に到着すると、門番に事情を告げることなく叩き破るようにして門を開き、主がいるであろう部屋の扉を叩き開ける。


「クリステル様っ?」


 扉を開けて驚愕の表情を浮かべていたのは、クリステルの方だった。

 ソファーに腰をかけながら巨大な書物に目を通しているところであった。そんなところに、まるで蛮族のようにフェルマが部屋に入ってくるのだ、驚愕の表情も浮かべたくなるだろう。


「ふぇ、フェルマ……。どうしたの、そんなに慌てて?」


 落ち着いた表情で、話しかけてきたクリステルだったが、徐々に顔つきが神妙に変わっていく。


「その傷、どうしたの?」

「私の傷など後でもよいのですっ? それよりクリステ―――」

「よくなどありませんッ!!」

「っ!?」


 思わぬクリステルの口調にフェルマはたじろいでしまう。まるで、いたずらをした子供を怒るようにクリステルは、フェルマの傷口を見ながら言う。


「事情は後でちゃんと聞きます。だから、いまはその傷の処置を優先します」


 そういうとクリステルは、覇気のこもった声でメイドを呼びつけると、水と布を持ってくるように指示する。


「フェルマ、隣に座って腕を出してください」


 フェルマはクリステルのその表情を見て、ただ従わざるを得なかった。


 主従関係であるフェルマがクリステルの隣に座るなど、おこがましいとも思いつつも、クリステルが座るソファーの隣に座り腕を出すと、クリステルはどこか悲しそうな表情をする。その腕の傷に濡れた布を当て、腕周辺に付いた血をふき取る。そして、どこか緊張した面持ちで、左手で腕を支え、右手を傷口に添えるようにして置くと、ゆっくりと息を吸う。


「大地の加護よ。汝の傷を癒したまえ。下位治癒ライトヒール


 クリステルが言葉を発すると、どこか淡い緑の光がクリステルの右手を包み込み、温かい空気がフェルマの傷口を覆う。そして、ゆっくりとだが、フェルマの傷口が塞がり始める。


「いつの間に回復魔法をご修得なさっていたのですか?」

「いつだって良いじゃない」


 どこかぶっきらぼうに語るクリステルだったが、その瞳はやはり悲しげだった。


 フェルマはどこか誤解をしていたかもしれない。

 山を駆け回るのが大好きで、貴族の礼儀作法なんかよりも薬草の知識の方が大好きで、おいしいお菓子よりも川魚の素焼きが好きで、どこか貴族とはかけ離れた性格の持ち主。そんな主の子供の頃を知っているからこそ、時間の流れがどこか遅く感じてしまっていたのだ。フェルマの十年と、クリステルの十年は違う。子供の十年と、大人の十年は違う。


 魔法を覚えるというのは簡単なことではない。だからこそ、その成長を見てフェルマは微笑ましく思う。


「ちょっとくらい、護衛を労っても良いじゃない」


 クリステルは傷口の治療をしながら言葉を零す。


「フェルマは私の国の大事な聖騎士なんだから、今怪我で出場できませんでしたじゃ困るのよ」

「ありがたいお言葉です」


 だが、その言葉がどこかクリステルの胸に棘を刺した。


「違うじゃないっ!! フェルマ!! あなたは私の国のために戦ってるっ!! 理不尽に戦わされて、あなたに一切の利益がない戦いなのよ? 命を落とすことだってあるのに、あなたは……戦ってる」


 クリステルはその目に涙を浮かべ始めた。


「おかしいじゃない……。私の国のために、あなたが命を張るなんて……。ゴブリンのあなたは私の国のために働く必要なんてないし、命を懸ける必要もないじゃない……。私は……母が嫌いよ……」


 そう口にしたクリステル。


 確かに、子鬼種が人間種に手を貸す理由もない。自国の問題は自国で解決すればいいだけの話だ。だが、ゴブリンは飢餓に苦しみ、クリステルのローゼッタ国はその兵力の低さに悩んでいた。だからこそ、子鬼種に食料を与え、子鬼種はローゼッタ国に武力を供給する。利害の一致の関係で、二種族は手を組んでいるのだ。


 しかし、ここには一方的な関係も存在する。


 リスクの大きさである。子鬼種の飢餓問題は生死に直結する問題だが、ローゼッタ王国の問題は生死には直結しない。他国にペコペコと頭を下げる状況が続くだけで、死人が出るような事態には直結しない。


 だからこそ、クリステルはその点を嘆いている。こちら側が今ゴブリン達に一方的に使役しているのではないかと。


 そして、二種族の同盟を結んだのはクリステルの母である。この状況を思い、フェルマが戦う度に傷つく光景を見て、クリステルは胸の内で母に対して恨みを抱えている。


「ふふふ」

「な、なにがおかしいのよ?」


 フェルマは小さく微笑むと、クリステルに怒られてしまう。


「だから小さい頃のクリステル様はお城をよく逃げ出していらしたのですね」

「別に良いじゃない」


 クリステルの気持ちは、フェルマにとってありがたい言葉だった。自身をこれほどに思ってくれているのと思うと、護衛冥利に尽きるというものだ。だが、フェルマはきちんと言っておかないといけないと思う。


「いいですかクリステル様。私たちゴブリンは損な役回りをしているわけではございません。飢餓に苦しんでいたのは事実ですし、この関係に少し怯えているのも事実でございます。しかし、その反面、救いの手を差し伸べてくださったことにも感謝をしているのです」


 飢餓で苦しみ、木の根を啜るような生活を送る日々。

 困窮の果ての共食いさえ起きた事もある。


 そんなときに手を差し伸べてくれたのが、クリステルの母親であるベアトリス女王である。


「ベアトリス女王は大量の馬車に小麦のパンと燻製肉を詰め込んで村へと訪れて言い放ちました。『食料を届けに来ました』とね。突然の救済でしたから、毒が入っているのではないかと、むしろ私たちは疑いましたよ」


 しかし、とフェルマは言葉を続ける。


「ベアトリス女王は食料が切れる頃になるとまたパンと燻製肉を運んできてくれたのです。それから食料供給が数か月も続きました。そして、私たちは思ったのです。この御恩を何かで返さねばならないと……。その結果として、私たちは戦士として騎士として、従事することにしたのです。見た目も醜悪で、何か才があるわけではない私たちは、恩人を守るために剣を握ったのです」


 フェルマは当時を思い出し、どこか懐かしく語った。だからこそ、決意の籠った声音でクリステルに言う。


「私たちゴブリンはこの剣に尊厳と感謝の気持ちを抱いています。この剣を振るうことが、私たちにとって不利益なのは理解しています。ですが、私たちの胸の内には感謝の気持ちがあるのです。だから、母親であられるベアトリス女王を恨まないでくださいませ」


 フェルマ達、ゴブリンを思ってくれるクリステルの言い分も正しい。だが、救いの手を差し伸べてくれたベアトリス女王も素晴らしい御方であることには間違いないのだ。


「私は、これほど素晴らしい女王と姫の護衛として剣を振るうことに、誇りを感じております」


 どの種族も自分たちを見捨ててきた。


 見た目が醜悪。


 エルフのように魔法も使えない。

 ドワーフのように技術もない。

 獣人のように戦闘にも不向き。


 そんな、劣等種である自分たちに救いの手を差し伸べてくれて、自分たちのことを思ってくれていることがどれほどありがたい事なのか。涙を流してくれる人がいるというのは、どれだけ誇らしい事なのか。


 だからこそ、クリステルにちゃんと伝えたい。


「私は、ちゃんと幸せでございます」

「……嘘だったら、処刑するから」

「歴史に悪名を残しそうなお言葉ですね」


 腕の傷はもうふさがっている。魔法の温もりが消えてなお、クリステルの温もりが消えることはなかった。



 ◆◇◇ ◇◇◆



 コンコン、コンコン、と扉を四度叩く。


「アドルフォでございます。お耳に入れたいお話がございまして伺いました」


 アドルフォがそう扉の奥の主人に対して言葉を投げかけると、子供がはしゃぐような陽気な声が一言二言聞こえたかと思うと、今度は尊厳ある声音で「入れ」と短く発される。


「失礼致します」


 アドルフォが室内に入ると、チカッと室内の明るさに目が眩んでしまいそうになる。


 天井から吊るされているのはガラス細工が魔灯石によって光輝く小型のシャンデリラ。その下では、降り注ぐ光を無視するように天蓋付きのベッドがあり、アルデュール侯爵と、彼に体を寄せる裸体の女性が二人いた。


 アドルフォはその光景に小さく目を細める。しかし、あまり嫌な顔をしても主人の怒りへと繋がるので、極力無表情を保つ。


「さてアドルフォ、話があるという事だが?」

「はい。フェルマに送り込んだ暗殺者達の事なのですが……」

「ほぉ? それは朗報なのだろう?」

「……」


 アドルフォは言葉が詰まってしまった。

 しかし、事実を伝えなければいけない。それが配下の務めであるから。


「全滅いたしました。死体は我が国の犯行と分からないよう隠蔽を施しつつ、適切に処理いたしました」


 間違いなく正しく事の詳細を伝えるが、その結果に満足しなかったのだろう。突如空気が冷たくなり、アドルフォの表情にも緊張が現れる。


 アルデュールの隣で体を寄せる夜伽をしに来た下女も、アルデュールの表情が徐々に怒りへと変わっていくのを見て、視線を逸らす。だが、その表情はどこか暴力に震えているようにも見えた。


 そして、アルデュール侯爵は手に持つワインをすべて口へと流し込むと、空いたグラスをゆらりゆらりと手の上で回す。


「クソッ!!」


 アルデュール侯爵の怒号が響いた瞬間、アドルフォの左耳近くでパリンッとグラスが爆ぜる音がする。それと同時に左耳を切ったのか、血がゆっくりと垂れる。


「そんな話を私が求めていると思うかッ!! なぜゴブリン一匹殺せないッ!!」


 アドルフォはその質疑に対して何も答えない。


 理由は明白である。あの程度の暗殺者ではフェルマを殺すには至れない。フェルマは仮にもこの世界で最強の一角、第一等級聖騎士なのだ。それを実力でねじ伏せようというのが間違っている。


 フェルマを完全に殺すならば、もっと内側から攻めなければならない。クリステル侯爵の宿のコックを買収し料理に毒を盛ったり、誰か親しい人物に毒を盛らせるのがおそらく一番有力な手段だ。


 アルデュール侯爵ご自慢の暗殺部隊を使うのなら、接近戦ではなく遠距離戦に特化させるべきだった。フェルマは魔法が一切使えず、遠距離武器も疎い傾向がある。であれば、接近戦しかできないフェルマを遠距離から嬲り殺しにするのが正攻法であると言える。


 しかし、アドルフォはそれでもフェルマを殺せないと、不思議と断言できる。


 剣と剣を交えた戦いをしたからこそアドルフォの身に染みている、あの未来予知じみた回避能力。それをもってすれば、もしかすると遠距離からの攻撃もすべて避けてしまう、そんな気さえしてくるのだ。


 正攻法が、一番成功しない。そんな矛盾に囚われてしまうのだ。


 だからこそ、フェルマは暗殺者たちが皆殺しにされたという報告を聞いて、むしろ安堵さえ覚えた。

 彼を倒せるのは自分しかいないのではないか。そんな期待感がアドルフォに満ちたのだ。


「何を……笑っている……?」


 アルデュール侯爵が今度は何処か怯えた表情をしているのに気づくと、アドルフォはコホンと小さく咳をして「なんでもございません」とはぐらかす。


「私はこれで失礼いたします」


 そう言い残し、アドルフォは部屋を跡にする。

 疼く左手を収めながら、近日中にフェルマと再び剣を交える事に対してアドルフォは喜びを感じるのだった。

 


 ◆◇◇ ◇◇◆



 中央聖都市闘技会の会場は、都市の中央にある巨大なコロッセオである。東西南北から巨大な道が伸びており、世界各国から聖騎士たちの戦いを見ようと人があつまる。その規模は周辺諸国から人が消えるといわれるほどであり、まさにビッグイベントである。


 中央聖都市闘技会は一週間開催され、フェルマが登場するのは最終日である。


 各国の聖騎士が集い、その磨き上げられた技をもってして、戦いに挑む。国としては王都からの支援を受けるため、邪神の部位の封印を守るため。その裏には、様々な恨み辛みが孕み、暗躍なども多数あるが、そのようなことはフェルマには関係ない。先日の暗殺者も、フェルマを大会から辞退させるために、どこかの国から送られてきたのは明白である。しかし、手がかりをすべて失ってしまった今、どこの国が送り込んできたかというのを言及することはできない。そのため、今言い出しては下手な言いがかりをつけるだけに終わってしまい、こちらのメリットがほとんどない。


「フェルマって緊張するの?」

「緊張くらいしますよ。この剣に、この国の命運がかかっているのですから」


「いや、第十一級聖騎士でも、別に私たちの国は困らないわよ。食糧事情もちゃんと解決したし、資源採掘も軌道に乗ったし、あとすることなんて無いんじゃない?」


「いえ、維持をするのにも費用はちゃんと掛かります。何もせず優位な状況が続くなんてこと、ありえませんよ」


 どこか他愛もない会話をする。だが、むしろフェルマの緊張がどこか解れた気がする。

 フェルマはそういうと、見上げるようにしてクリステルを見る。


 何年前から、見上げるほど大きくなっただろうか。クリステルが大きく成長してくれていることをうれしく思うとともに、これからも主を守るのだと、一層フェルマの心臓は熱を帯び始める。


「それじゃあ、私は行ってきます」

「フェルマっ?」


 クリステルは、フェルマの名前を呼びつけた。そして、行き場に困ったように手を二度三度迷子になったのち、胸の前で祈るように組む。手同様に彷徨っていた視線をしっかりとフェルマに向ける。

 手を強く握りしめると、迷いを晴らすように言葉をかけた。


「今年の優勝も期待しているからねっ!!」

「ご期待を叶えるのも、配下の務めでございます」


 フェルマはそう言い微笑むと、正面を向く。

 そして、一歩、一歩と歩き出す。

 コロッセオに入場するために、石門の前に立つと、ゴゴゴと重たい音を鳴らしながら扉が開かれる。


 一歩、中へと入った瞬間に伝わるのはその強烈なまでの熱気。周囲に観客がこちらを一点に見つめながら、それぞれが怒号に似た声を上げる。そして、鼻孔をくすぐるのは先ほどの聖騎士が炎魔法によって焼かれた地面の焦げた匂い。


 一度目を瞑る。そして、大きく深く一呼吸をつけて、再び瞼を開く。


 鮮明になった視界に映るのは敵の姿。フードを深く被ったアドルフォの姿であった。


 空高く輝く太陽の影となるようにフードの奥に隠された表情を伺うことはできなかった。

 雰囲気が不気味だと思うが、フェルマはそれ以上に気になる点があった。


 決勝にアドルフォが来ることはある程度予想していた。アドルフォは他を圧倒するようなレイピアの技術を保有し、水魔法に特化した魔術剣士である。接近戦になれば右手のレイピアの鋭い一撃が空間を切り裂くように襲来し、距離を離せば左手から大砲のような高威力の水魔法が飛来する。その剣術と魔術の混合術はまさに洗練された技であると、フェルマは高く評価していた。


 だが、今大会においてアドルフォは一度として水魔法を行使しなかった。前回大会とはくらべものにならないほどに素早く鋭くなったレイピアの剣戟で、すべての敵を倒してきている。それは単にレイピアだけで勝てると思ったから使用しなかったのか、はたまた使わない理由があるのか。


「待ちわびましたよ……この瞬間を……」


 アドルフォが息を多く含んだ声で漏らした。


「それは嬉しい限りですが、少し陰気になりましたね。私は、前回大会のような光の女神の加護を受けたような笑顔を見せるあなたの方が好きでしたよ」


「ふっ。笑みを浮かべる暇があれば、この剣を研ぐさ。そして、いつかこの剣にお前の血を吸わせると懇願するさ」


 負けてなお、勝者の実力を認め「素晴らしい戦いでした」と笑みを浮かべる、太陽のような笑みを浮かべるアドルフォの姿はもはやどこにもなかった。


 太陽が隠れ、夜が現れたかのような、性格が反転したかと思うほど、その姿はフェルマの知るものではなかった。


『さぁ、今大会も最後を迎えますっ!! その栄光は衰え知らず。進むべきは苦難の道。ゴブリンとは思えないその雄姿はまさに種を超えた革新っ!! 第一等級聖騎士小さな戦士ことフェルマ・ズジャルータっ!! 対するは、昨年の後悔を勝利という言葉で塗り替えることができるのかっ? 追いかけるは素早い小さな背中の緑の閃光。清流の剣聖っ?!! アドルフォ・ジャンノットっ?』


 実況がそれぞれの名前を読み上げると、観客はまるで火が付いたように一段と声を投げかける。


 少しずつヒートアップしていくコロッセオ内。それに合わせるようにして、刻一刻と試合の時間が近づいているのだと思うと、フェルマの心拍もゆっくりと早くなる。


 周囲からの視線が集まるのを感じながら、フェルマはゆっくりと腰の剣を引き抜く。鞘から放たれた刃は優しい風を纏う。フェルマの髪をふわりと浮かせ、少し棘があるようにチクリと肌を刺す。そんな、暴風の種のような風を纏う。


 純白の刀身はゴブリンのフェルマとはどうも不釣り合いに映る。だが、何十年と使ってきた愛剣であり、自身の手によく馴染む柄は安心感を与えてくれる。


 ここにきて、もう一度深く深呼吸をする。


 そして、レイピアを抜くアドルフォを睨む。


 互いに剣を構え合う。


 一拍おいて、実況者が声を張り上げるために息を吸う。その呼吸音が聞こえてくるまで、神経を尖らせる。何一つ、勝ちへの情報を逃さないといわんばかりに、意識の糸をピンと張る。


『始めぇぇぇぇぇええええええっ!!』

「ッ!!」


 声が聞こえた瞬間、フェルマは矢の如く駆けた。この世界において、最強の戦闘法は単純明快な魔法である。高火力かつ、広範囲に放たれる魔法は、弓矢や大砲といった遠距離武器の時代を淘汰した。


 その魔法を封じるために、フェルマは全力で疾駆する。


 魔法の発動には、詠唱という過程を要する。正しい文言を間違いなく唱え、魔力を練り上げる。その過程を経て魔法は発動する。文言を唱えつつ、魔力を練り上げる、この二工程が魔法の難易度を跳ね上げている。だからこそ、魔術剣士などという職業につける者は、まさに天賦の才の持ち主である。


 才をくじく為、フェルマは接近戦に持ち込む。遠距離で魔法を打たれては勝ち目が一切ないからだ。


 フェルマの眼がアドルフォの膝関節が曲がるのを捉える。そして、これからフェルマ同様に距離を詰めてくるだろうことを予測。だが、予測は斜め上に外れる。


 頬を擦過するレイピアの刃。


「――――っ!!」


 圧倒的加速をもってして、予想以上の速度で接近してきた。条件反射のように首を曲げた瞬間、レイピアの刃がフェルマの頭部が存在した場所を貫いている。

 人間種とは思えないようなその身体能力にフェルマは目を疑った。


 だが、距離は詰めた。


 右手に握る剣を下段から逆手で切り上げる。それと同時に、アドルフォのレイピアがフェルマの肩を狙い振り下ろされる。


 半身を捻るようにして、レイピアを回避。そのまま剣を切り上げたが、アドルフォは、またしても人間離れした身体能力を見せつけるように回避。


 だが、一撃では終わらない。上段へと切り上げた剣を両手で持つと、素早く左側に位置しているアドルフォに対して斬り下げる。


 フェルマの行動を見切っているといわんばかりに、素早く半身ずらして回避したアドルフォはレイピアの間合いまで距離を取ると、一閃。引き絞られたレイピアの一撃が、フェルマの腕めがけて襲い掛かる。


 なんとか剣の腹を使い、レイピアの軌道を往なすと、素早く懐に滑り込む。そして、足払いをかける。だが、アドルフォは跳躍して回避。


 緑眼がその好機を捉える。

 宙に浮いている今、取れる行動は少ない。

 フェルマはアッパーカットの要領で剣を下段から上段に斬り上げる。付与魔法によって剣がまるで誘導されるかのように、素早さを帯びてアドルフォを襲う。


「はぁッ!!」


 気迫の籠った斬り上げ。だが、フェルマの剣は阻まれてしまう。


「相変わらずの剣術だな」


 アドルフォの笑みと共に視界が捉えたのは、フェルマの剣を弾くほどに圧縮された水だった。

 宙に浮いた水はその圧縮を嫌ったように、自身を襲ったフェルマの剣に仕返しをせんとばかりに、巨大な弾となってフェルマを襲う。


「―――ッ!?」


 詠唱が聞こえなかった。


 その事実に狼狽する暇さえも与えてはくれない。

 なんとか寸でのところで回避するも、アドルフォの姿を視界から外してしまった。


 背後に聞こえる着地音。それと同時に風を切る音。

 咄嗟の判断で首を持ち上げる。

 元を掻っ切るかのように研ぎ澄まされた一撃がフェルマを襲う。


 瞬きさえ許されない、コンマ一秒を争う戦い。一手たりともミスは犯せない。気を緩めてはいけない。常に張り詰めた緊張感の中、フェルマは剣を握る。


 そして、互いに理解している。一手でこの戦いは決着がつく。互いに一手与えた瞬間、決着がつくと。


 だからこそ、互いにその一手を与えるために画策する。狙いを定め、狙いを見極め、一瞬の好機を狙う。秒単位で変わる戦況の中で、勝ちへの一手を見極める。


 アドルフォは強い。単純にレイピアの技術、カバー力に優れた水魔法。攻撃と防御を両立させたその立ち回りは、一対一においては脅威である。


 水による盾を打ち砕く一撃、レイピアの剣戟を往なす守り。その二柱を挫かない限り勝利は得られない。


「小さいですね……フェルマさんッ!!」

「それが私たちの種族の特徴なのねッ!!」


 小回りを利かせて、小さく一撃一撃を確実に回避していく。だが、腕の長さに加え、武器の長さを足しても、フェルマは圧倒的なリーチ不足。それを補うために、猛烈に接近戦へと持ち込む。


 フェルマはアドルフォの左腕、正確に言えば親指と人差し指が歪に曲がったかのように映った。

 だが、その瞬間フェルマの左肩に激痛を覚える。何かと思えば、フェルマの左腕を貫いていたのは、水の剣であった。


「なっ!?」

「攻撃は最大の防御って言いますでしょう?」


 フェルマの視界の遥か外、太陽光を反射する何かをコロッセオの外で確認した。それがアドルフォの操作する水の刃だと気づいたときには、フェルマは踊っていた。


「ッ!!」


 中心からコロッセオの外壁まで約四百メートル。全方向から雨が降る。太陽光によってチカッと光った時にはフェルマの腕を、足を、胴を貫かんと襲い掛かる。


 フェルマは持ち前の戦闘技術によってこれまで勝ち抜いてきた。それは剣術であったり、身のこなしであったり、接近戦においては技術によるアドバンテージを持っていた。


 見えない剣をどう避けるというのだ。


「がっ!!」


 また一撃、また一撃と、フェルマの体を擦過していき、傷が増える。研ぎ澄まされたフェルマの聖騎士としての感覚が、フェルマの命を何とか繋ぎ止めていた。


「はっははははッ!! 滑稽だなフェルマッ!!」


 笑い声がフェルマの耳に入っては溶けていく。

 数は然程多くない。同時に三撃が最大と言ったところだろう。それが連続して何度も何度も襲い掛かる。


「笑う魔術師は転ぶと、ことわざを知らないのですか?」

「あぁ?」


 アドルフォはフェルマの言葉に怒りを示した。


「視界で捉えきれない距離からの水矢だぞ? それもお前でさえ避けるので手一杯の水矢だ。俺が発明した魔法を前にして、踊ることしかできないお前が何を騒ぐ」


 アドルフォの言う通りだ。


 避けるので精一杯のフェルマでは、アドルフォも元まで走ることもできなければ、剣を振るうことすらままならない。であれば、フェルマはこのままジリ貧に踊り、疲れて敗北する未来を見るのは容易い。


 アドルフォはなぜか焦りを感じていた。


 自身が開発した魔法。水を矢の如く細く鋭い形状にし、風魔法によって速度を乗せ飛ばす。ただそれだけの魔法だが、圧倒的なまでの初速度と数によって、爆発的な殺戮性を孕む魔法。二属性を扱うのにはアドルフォ一人の力では成しえなかった。だからこそ、犠牲を払ってまで力を得た。そして完成させた魔法。


 勢いづいた水は鉄板をも切り裂くことはアドルフォが一番理解している。だからこそ、編み出したこの魔法には自信があった。


 なのに、なぜ、フェルマは笑っている?


 なのに、なぜ、フェルマは笑みを浮かべる?


 なぜ?


 そんな疑問がアドルフォに焦りの種を植え付けた。

 アドルフォには剣と魔法の才能があった。だからこそ、第二等級聖騎士の座まで上り詰めることができたのだ。


 フェルマが持っていた才能は、戦闘センスだった。


 突出した戦闘センスは、様々な技術の会得を促した。剣術、体術、武術において会得できない項目はなかった。しかし、フェルマの強みはそこではない。


「やはり、あなたの騎士なのですね」


 フェルマはそう呟くと、体を回転させ、突っ込む。


「ッ!!」


 アドルフォは思わず驚愕してしまう。

 その状態でなぜこちらに突進できるのか。


 フェルマの強みは戦闘センスである。それは、他者が強者であればあるほど、強みとして輝く。


 右足だけで立っていたら狙うべきはどこか。不安定な態勢であれば、その軸を挫くべく右足を狙うもよし。後ろに押し倒すように胴体に力を加えるもよし。常に、最善手というものが状況には存在する。それを常時狙わなければ、強者には勝てない。そう強者はわかっているから最善手を導く。


 そして、フェルマは自身の最善手を読むのと共に、相手の最善手を読むことができる。それがフェルマの卓越した戦闘センスが成せる業である。


 だからこそ、魔法の刃がどこを狙うか、それをほぼ未来予知の形で読み取ることができる。アドルフォが強者であるからこそ、手に取るように分かる。アドルフォが、根っからの聖騎士であるからこそ、真面目な騎士であるからこそ手に取るように分かる。


 だからこそ、フェルマは攻撃へと転換する。

 フェルマとアドルフォの距離は二十メートル。それだけの距離を確保していたというのに、フェルマはその距離を詰めた。


「ふっ!!」


 フェルマの風を纏った剣と、アドルフォのレイピアが邂逅する。届くはずがないと考えていた刃が、今目の前で鋭い光を放つ。


 鍔迫り合いに持ち込んでしまっては、フェルマの筋力ではアドルフォに劣るため、すぐさま膠着状態をほどき、一歩下がって、突っ込む。


 レイピアはその性能から、突きに突出した武器である。本来なら、鍔迫り合いや、打ち合いには、その細さ故に耐久性に難がある。だからこそ、フェルマは尚更接近戦に固執する。


「舐めるなッ!!」


 ふとした瞬間、フェルマの意識外からの攻撃。それがまたしても水の魔法だと気づいた時には、フェルマは驚愕してしまった。


 アドルフォの水魔法は正確無比、というにはまだ到達していない。狙いは少し雑な傾向があった。だからこそ、接近戦に持ち込めば、アドルフォ自身にもあたることが危惧され、魔法は封じ込めると考えていた。


 第一等級聖騎士になるためであったら、怪我の一つや二つは上等。自らリスクを冒せなければ、勝ちは得られない。そんなアドルフォの覚悟を感じ、フェルマの口角は上がってしまう。


 脳がビリッと熱を持つ感覚。それと共に、フェルマは咄嗟に一歩下がる。


「ッ!!」


 先ほどフェルマの居た位置に水矢が飛来。地面に窪地を作る。それと同時に巻き上がる砂埃。


 そして、突進してきたのはアドルフォだった。

 閃光と紛うような神速の一撃。まさに砂埃に隠れた状態からの不意の一撃。アドルフォは勝ちを確信せざるを得なかった。


「やはり、あなたは優秀な騎士ですね」

「ッ!!」


 アドルフォが距離を詰めてきたのに対し、フェルマも同時に距離を詰める。

 フェルマの頬を掠めるレイピアに対して、フェルマの刃はレイピアを捉えていた。


 マッグが鍛え上げた剣は、フェルマに噛みつかんとするレイピアを跳ね上げると同時に、アドルフォの胴の鎧を捉え、抜き去る。


「がはッ!!」


 抜き去ってなお、フェルマは一撃を加える。アドルフォの背中に向かって強烈な蹴りを入れる。鉄板仕込みのブーツが唸り、アドルフォを大きく吹き飛ばす。


「――――ッ!!」


 アドルフォは驚愕と共に、肺からすべての空気が抜ける感覚。それと共に鎧を貫通するような衝撃が加わり、臓器が悲痛さを訴えかけた。


 そして、何度か地面を玉のように跳ねる。すぐさま態勢を立て直そうとしたときには、時はすでに遅かった。


「……」


 眼球に触れんばかりの距離にふわりと風が吹く。それがフェルマの保有する剣だと分かった時には、アドルフォの体は石化してしまったかのように固まっていた。そして、どこかデジャブのように感じた。これで、二回目だ。


「フェルマさんは……お強いですね……」

「あなたも十分お強いですよ」


 フェルマの向ける剣には、尊敬の念も含まれる。

 魔法の習得はゴブリンには不可能だと言われている。それは、ゴブリンには体内の魔力量がゼロに等しいほど少ないためだ。だからこそ、二属性の魔法を行使できるアドルフォはフェルマからしたら尊敬に値するのだ。


 勝敗は決した。


 フェルマはその切っ先を鞘へと納める。そして、手を伸ばす。


「私は背が小さいので、肩を貸してあげられないのが、些か悔やまれます」

「あなたの自虐は、どうにも笑えませんね」


 フェルマはアドルフォに手を貸す。そして、ぐっと引き上げた瞬間、周囲から大きな歓声が巻き起こった。


 これでまたフェルマは貢献する事ができたのかもしれない。


 ゴブリンは、魔術に長けることなく、身体能力にも長けることなく、高度な技術力を保持しない、劣等種。その価値は単純労働のみ。そんな認識を、今回もこの戦いで改善されたかもしれない。ゴブリンという種族の、価値が少しでも上がってくれたのならば、フェルマの戦いに一つの意味が見いだせるはずだ。


 ふと、フェルマは隣で満足のいく敗北に微笑みを浮かべるアドルフォを見て思った。


 最初彼からは何か悪いものが憑りついているかのような印象を受けた。アドルフォの背後にゆっくりと伸びる黒い腕があるような。それがゆっくりとアドルフォの表情を歪めている。そんな幻覚さえみえるほど、何か悪い予感が漂っていた。


 だが、そんなフェルマの考えは、隣で小さく微笑んでいるアドルフォを見れば杞憂であったと思わざるを得ない。


 そこで、フェルマは自身の疑問の種を解決するためにアドルフォに一つ質問を投げかけた。これが杞憂であればよかったと祈るように。


「アドルフォさん。そういえば、あなたの左腕どうし――――」

「アドルフォォォォォォォォッ!!!! 貴様ァァァァァァァァッ!!!!」


 フェルマの声を遮るようにして怒りの咆哮がコロッセオに響き渡る。それが、アルデュール侯爵の声だと分かった時、アドルフォの表情がどこか引き攣った。


「なぜ負けたッ!! あれだけのことをしておきながらなぜ負けたッ!!」


 アルデュール侯爵がアドルフォの元まで、一歩、一歩と地面を踏みしめながら近寄ってくる。そして、一歩、一歩と近づくたびに握られた拳が強く握られ、アドルフォの頬に向かって放たれた。


「がはッ!!」


 アルデュール侯爵の拳がアドルフォの頬に直撃し、アドルフォは地面に倒れこむ。


「なぜ負けたッ!! 言えアドルフォッ!! 貴様この状況が分かっているのかッ!! ゴブリンなどという下等種族に敗北を喫したのだぞッ!! この汚点がッ!! 貴様は私の最大の汚点だッ!! それも二度も私の顔に泥を塗るような真似をしおってッ!! 貴様の家族がどういう目にあっても良いというのだなッ!! そういう事だなアドルフォッ!!」


 嬲り、なじる。


 コロッセオを埋め尽くすような歓声は、いつの間にかアルデュール侯爵の罵詈雑言で埋め尽くされていた。


 言葉だけではない。アルデュール侯爵は地面で蹲るアドルフォに対してひたすらに踏みつける。アルデュール侯爵の行いは名誉と誇りある第二等級聖騎士に向けるものではなく、貴族が持て余す権力を使って弱者を虐める行いだ。


 だが、その行いをだれ一人として止める事はなかった。フェルマでさえ、三歩下がりその光景から背を向けた。


 権力とは、全くもって足枷という言葉が非常によく似合う。


 今権力という障壁さえなければ、フェルマはその腰の剣をアルデュール侯爵に向けているだろう。


 アルデュール侯爵に仲裁を入れる事のできる人物は、国王くらいだが、その国王でさえアルデュール侯爵の蛮行を止めに入って、その怒りの矛先が無駄に自身の国へと及ぶのを危惧しているのだ。無駄な戦争を起こす事はない。後に無駄な血を流す事を未然に防いでいる。だが、目の前の行いを見て見ぬふりをしている。


 この暴力に対して、権力は何もできない。では、何が権力か。力あるものが、その力を正しく行使せず何が権力か。


「――――止めなさいッ!!」


 凛と声が響く。


 誰もがその一喝を期待していた。だからこそ、その人物は誰かと、視線を声の主に向ける。


「邪魔をしないでくれないかな? クリステル侯爵?」

「誇りある行動をとるべき貴族が、勇敢な聖騎士に暴力など、その行為見過ごせません」


「勇敢な聖騎士? ここにいるのはゴブリンなどという劣等種に遅れをとった愚劣な下級市民ですよ? 今地位を落としました。こんな弱者は聖騎士などではないのでね」

「……愚者は落ちるところまで落ちてもやはり愚者なのですね」


 クリステルの目は哀れみだ。救いようのない人間を見る目というのは、こういう瞳をしている。


「私はこの怒りが収まるまでこいつを踏み続けるぞ? さてクリステル侯爵、どう止める? これ以上私を怒らせるのなら無駄な血が流れるぞ?」


 その言葉を聞いてなおクリステルの瞳はまっすぐ向いていた。戦争というワードを掲げられてなお、恐れることなくアルデュール侯爵を憐れむ。


 振るう権力と、振るわれる権力。権力は常に均衡でなければ、常に抑止力として存在しなければ、その権力は権力でなくなってしまう。


 そして、権力は平和を望めば望むほど弱くなる。振るう権力より、振るわれる権力の方が背負うものが多すぎるからだ。


 だからこそ、アルデュール侯爵は権力という刃をクリステルに向けて脅しをかける。守りたいものがあるならば、これ以上私に楯突くんじゃない、そう言いたげにクリステルを脅す。


「さぁ、何か言ってみろよ? 黙っていちゃ何もわからないだろう?」


 アドルフォの狡猾なまでの笑みがクリステルに向けられる。それに対して何も思わないフェルマではない。己の主人が今恥辱を受けている。貴族としての尊厳を傷つけられている。


 その覆ることのない事実が、フェルマの拳を強く握りしめさせる。そして、瞳に少しずつ薪をくべるように、フェルマの怒りが蓄積していく。


「ふっ、何も言えない弱者だなッ!! 貴族たるもの、常に弱者の上に立つ意思を持ち、他者を蹴落とす権力を振りかざさねば――――?」


 アルデュール侯爵は、疑問に思った。


 なぜ、クリステルも、フェルマも過剰に驚愕した表情を浮かべているのか。


 その理由を突き止めたのは、胸に突き刺さる漆黒の触手を見て、すべてを納得した。

 自身の胸に空いた黒い穴を見て悟った。突然の死を。


「…………ぁあああああああああッ!!」


 意識した瞬間に襲い掛かる激痛。


 空気を取り込むことのできなくなった肺が、形なき空気を掴もうと弱弱しく音を立てる。二度、三度動いたかと思うと、穴から触手が抜かれ、穴が空気に触れた瞬間に噴き出す鮮血、唸る咆哮。


 そして、静寂。

 会場がその一瞬に目を奪われた。

 誰もが目の前で一つの命が散る瞬間を目の当たりにした。


 恐怖する。命とはこうも軽い存在なのだと。



 ◆◇◇ ◇◇◆



 グオオオオオオオォォォォォ――――


 会場を埋め尽くす人間とは思えない咆哮。その声はアドルフォの喉から発されるものとは思えないような、野生染みた咆哮。


 身の毛のよだつ咆哮に畏怖する。


 そして、誰もが恐怖した。その禍々しい漆黒の左腕を。否、左腕だったその部位を。黒い触手に刻まれた深紅の紋様。伝説の一説で聞いた。誰もが知っている恐怖の象徴。


 呼吸を忘れるほど、脳が恐怖に震える。

 誰もが、その事実を否定しようとした。


 なぜ、邪神の左腕がここに――――


 その疑問の解が述べられることなく、代わりに会場から巻き起こるのは悲鳴。


 「きゃぁぁぁぁぁあああああああッ!!」


 伸びた触手が観客の命を散らす。先ほどまで生を謳歌していた命を、ものの一瞬で無に帰した。真っ赤に迸る血と、すぐさっきまで人だったものが、彼らと彼女らの生きている証として残す。


 そんな、生の残骸を作る。作っては飽き足らず作る。


 咲いた絶望は枯れる事なく襲い掛かる。

 グシャリ、と襲い掛かる。



 ◆◇◇ ◇◇◆



 かの勇者は邪神を討伐して十一の部位に分けて封印を施した。


 そして、子孫たちに告げた。


 この封印を解いてはならない。

封印を守るために、十一人の聖騎士で、その封印を守れと。


 その禁忌を破ったらどうなるのか。


 一部、また一部と求め合う。


 結合して完成する。


 邪神は、優しく手招く。


 終焉を。



 ◆◇◇ ◇◇◆



「ッ!!」


 フェルマは現実に引き戻されると背後で凍結するクリステルを抱きしめると、すぐさま駆ける。


 劇を眺めているかのように傍観していたクリステルの意識がフェルマに抱きしめられた瞬間戻ると、すぐさまクリステルの視線がフェルマの方へと向く。


「なんで邪神の左手が?」

「簡単でしょう。私に勝つために仕込んでいたのでしょう……。愚かな真似をッ!!」


 突如襲う触手。

 クリステルを抱きかかえたまま、寸での所で回避する。


 触手は地面に埋まったまま、数秒固まったかと思うと、本体であるアドルフォの元へと帰っていく。

 その隙を見逃すことなく、フェルマは加速する。すぐさま、コロッセオの入り口まで非難すると、クリステルを下す。


「お嬢様は避難を。私は行きます」


 それだけ残し再び会場へと歩を踏み出すフェルマの右手をクリステルは掴んだ。


「……」


 俯いていた。フェルマの小さな手を握るその大きな手は震えている。


 そして、向けられた目は訴えかけていた。

 どうして逃げないの? と。


「私が行かねば多くの人が死にます。いえ、あなたを危険な目に合わせてしまう。このままでは……」


 フェルマは駆けだしたいその足を収めると、小さく息を吐き見上げた。


「あなたをお守りするのが、私のお役目でございます。あなたが立派な王妃となる日を迎えるために、この命を賭すのが私の務めでございます。だからこそ、向かわねばなりません」


 フェルマは小さく微笑みかける。


「この誇りある剣を振るわなかったら、処刑されてしまいますからね」


 フェルマの渾身のジョークは、涙を流すクリステルには届かなかった。笑顔になることはなく、その瞳には大粒の涙を溜めては地面に流す。ポタリポタリと落ちる涙。それをフェルマは拭う。


 純白の肌に落ちる幾重もの雫を、緑で歪んだ爪で乾いた肌の指が拭き取る。


「誇りを、貫かせてください」


 フェルマの真剣な目つきを見て、クリステルは震える喉で呼吸を整える。


 ゆっくりとフェルマは投げかけられるであろう言葉を待つ。


 クリステルは優しい人間だ。

 ゴブリンにも人間にも、その種族の差に隔たりなく接してくれる。その温情をフェルマはちゃんと知っている。自分を一人の個として接してくれる。


 それはフェルマが第一等級騎士だから、戦闘に長けたゴブリンだから、そんな理由で接していないのは分かっている。


 フェルマはちゃんと言葉を受け取る。


「絶対……絶対だからね」


 大人になったと思ったが、泣き顔を見ていると、森で転んで膝を擦りむいた時を、母親に怒られた時を、弦楽器にスランプに陥って思い悩んだ時を、フェルマはふと思い出す。やはり、まだ私がそばに居てあげなければ。そう思わせる泣き顔だった。


「ちゃんと、帰ってきてよね……。死んだらダメなんだからねっ!!」

「承知いたしました」


 フェルマは笑顔だった。死地に向かうとは思えないほどの笑顔。人生でこれほどまでに笑みを浮かべた事があるのかと思うほどの笑顔。


 その笑みをもってして、去った。クリステルの元を去った。


 その笑みを最後にちゃんと残して、去った。



 ◆◇◇ ◇◇◆



 数分と経っていないはずのコロッセオの中はまさに地獄絵図だった。コロッセオで守護兵を務めていた騎士たちは、ただの肉塊と化し地面に倒れており、一般市民も恐怖の面を張り付け、臓物を垂らしている。


 鼻をつく血生臭い匂い。死の匂いだ。


「ふッ!!」


 フェルマは強く地面を踏みしめると、その緑眼を見開き、突っ込む。


 狙うはアドルフォ本体。本体は今や左手に埋もれ、人である部位が触手に呑まれ一切見当たらない。だったら、何度でも切り裂いて、その触手を削ぎ落し本体を狙う。


 邪神とは言え、核となる存在がなければ活動はできない。アドルフォは今やエネルギー源として魔力として活動するための資源として左手に喰われているだろう。


 燃料と本体を引き剥がす。

 それが叶えば、左手は低活動状態になり再び封印することが可能となる。


 ――――狙うは、本体ッ!!


 フェルマは触手を潜り抜けると、右手の剣に意識を鋭く集中させると、一閃。


 漆黒の触手を叩き薙ぐ。触手は根本から切断されるが、アドルフォの体が見えない。浅いと思った時にはフェルマは首を傾けていた。


「ッ!!」


 背後からの頭部を狙った一撃。それを寸でのところで回避したものの、触腕がフェルマを貫かんと襲い掛かる。


 フェルマはこの距離ではあまりに不利と悟り、距離を置く。


 左から腹部を貫かんとし、右から頭部を砕こうと襲い、上から叩きつけるように触手が伸び、地面からはフェルマの足を狙って触手が唸る。まさに上下左右から触手が伸びてくる。


 回避をするたびに、触手に空いた小さな穴から生温かな空気がフェルマの肌を撫で、全身に嫌悪感が走る。


 地面から伸びる触腕に対し、地面を強く蹴って空中に退避すると、風を切るようにして触腕がフェルマに襲い掛かる。


 理性がないかと思ったが、空中で方向転換ができないことを知っているのか、それを狙ってか的確に触腕が伸びてくる。


 フェルマは伸びる触腕を双眸で捉えると、右手に力を籠める。


「はぁぁッ!!」


 自身が回転するように剣を振りかぶり、上段斬りを繰り出す。伸びた触腕を真っ二つにして切り払うと、足が地面に届く。大地に足をおろした安心感を得る間もなく、フェルマを左右から追撃するように触手が襲う。


 フェルマは咄嗟に地面に転がるようにして回避。背後で触手と触手が衝突。その勢いからかバチンッという鞭が跳ねる音がすると同時に、地面が抉れ窪地を作る。


 その軟体さからは考えられない強靭さ。まさに人を殺すために強化され、変幻自在に伸びる鞭と比喩できるその触腕は、第一等級聖騎士のフェルマといえど恐怖を覚える。


 一撃でも体に触れれば死。そんな緊張からくる冷や汗と動悸。眩暈さえ覚えてしまうほどの攻撃と回避。


 フェルマの未来予知に近い予測から編み出される回避は、その触腕を掠りながらも的確に避けていく。致命傷は避けているが、その蓄積したダメージがどう響くかわからない。


 それに加えて、幾度となく触腕を斬っても再生し、また増殖するかのように増える触腕を止める術をフェルマは持ちえなかった。


 エルフなら大火力の魔法で塵にできただろうと、魔法という概念をここにきて切望するがない物を懇願したところで、この状況が変わるわけではない。


 だからこそ、切断しても切断しても変わらない状況にフェルマは焦りを募らせていた。


 ムクりポコりと増殖を繰り返す本体は、今や傍から見ればイソギンチャクのような形状をとっており、アドルフォの本体があろうと思われる中心核は分厚い肉壁に覆われている。


 いつかこの剣が届かないほど肉壁が盛り上がってしまった瞬間、フェルマの勝ちは無に等しくなってしまう。だからこそ、早期決着が望まれる。


 フェルマは意を決し、剣を下段に構え疾駆する。

 緑風がコロッセオに吹くように、その距離を一気に詰める。


 イソギンチャクの下部の足盤部分に狙いをつける。

 強く握った剣を離さないよう、渾身の一撃が叩き込められるよう、体幹をしっかりと保ち、迫りくる触手を避ける。


 こちらから接近し、伸びてくる触手、その相対速度は恐ろしく速い。ほぼ条件反射で回避すると、フェルマの腕を頬を脚を擦過し、切傷を作り上げ赤い血を垂らすが、気にしてられない。


 一撃叩き込む。


 それだけを脳内で繰り返し、剣を強く握りしめる。


「はぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


 フェルマは喉が潰れるのではないかと思うほどの咆哮。この一太刀にすべてをかけると言わんばかりに、剣に力を籠めて薙ぐ。


 はずだった。


 コポッという音とともに口を開いたイソギンチャク。その中身は円柱状になっており、中は空洞。フェルマの顔面に突き出た円柱は、中心に穴が開いており、フェルマはその穴の虚空を見つめてしまった。自身の命が吸い取られるような空虚な穴。


 そして、そこから這い上がる腐臭。まるで大砲の砲台を思わせるその形状は、あまりにもフェルマに対して殺意を向けていた。


「―――ぁ」


 フェルマに襲い掛かったのは超圧の加わった水鉄砲であった。水鉄砲なんてかわいい言葉じゃ済まされない。砲撃であった。


 視界いっぱいに映る汚濁した水。それが脳天を貫き脳漿を散らかすことなく頭部を無に帰すと、首から上が無くなったフェルマは地面に倒れこむ。耳も眼もなくなったというのに、邪神の左手が唯一の敵と認めてか、その亡骸を貫く。飛び散る肉片に対して恨みを籠めて貫く。ぐちゃぐちゃに、破片すら残さないという意思すら感じるほどに小さい身体を貫き叩き潰す。


 そんな幻惑を見た。


「ぁぁぁぁぁぁあああああああッ!!」


 フェルマは剣を投げ捨てると、砲撃の出るはずの砲口を掴むと、思いっきり閉じる。行き場を失った高圧の水がそのまま内部で破裂。内部で破裂してくれればよかったものが、外部までその衝撃を伝える。


 破裂した砲口から飛び散った汚濁水はフェルマの腕に掛かるとジュゥと白煙を上げながら蒸発。まさかの酸性液だとは思わなかったフェルマは、両腕が真っ赤に腫れあがり、肌が焼けるような痛みを襲う。そして、それに気づいた時には筋肉が露出するまでに浸食されていた。


 地面に倒れこむようにして、腕と地面を擦り合わせ無理やり腕についた液を拭うと、そのまま剣を握る。握るなんてものじゃない。手のひらに収めるのが手一杯なほどに、腕に損傷を受けてしまっている。満足に剣を振るうことができないのではないか、そう感じさせるほど両腕が酸で焼け爛れている。


 だからなんだッ!!


 指もついて手の平だってある。だったら剣が握れないわけが無いだろう。

 自身の腕から視線を邪神の左手へと向けた瞬間、腹部にかけて猛烈な痛み。


「ぐっ!!」


 それが自身の腹部に衝突した触手だと気づいた時には、フェルマの小さな体は宙を舞っていた。そのまま吹き飛ばされ、地面を二転、三転、と転がった末にコロッセオの闘技場の端まで跳ねると、瓦礫に衝突。打身なんて優しい言葉では済まされない傷がフェルマを襲う。


 口から垂れるのは自身のどす黒く染まった鮮血。温かい血が膝に垂れると熱を失う。まるで、これからのフェルマを暗示しているかの如く。


 ――――寝ている暇があるなら剣を握れッ!!


 己が静止した意識を無理やり引っ張り戻す。

 ここでフェルマが倒れたらどうなるか。まず第一にこの都市は壊滅する。


 今現在、この都市にいる聖騎士はフェルマと、アドルフォだけである。ほかの聖騎士は己の試合が終わったらすぐに自国に向かい帰途へとついている。今から早馬を送っても一日はかかる。それじゃ手遅れである。


 都市が壊滅したのち、近くの都市へと向かい一つ部位を増やし更に強力となって、また都市を壊滅させるだろう。その連鎖は、邪神が復活するまで繰り返され、完成したら誰一人として手には負えなくなる。


 世界が終わりを迎えるのだ。


 だが、フェルマの脳内にこの予測は存在しない。


 フェルマが倒れたらどうなるか。まず第一に、クリステルの命は確実に失われる。それしかない。


 クリステルが死んだ時点でフェルマの戦いの意味はほとんど失われると言っても過言ではない。それが、王家に忠誠を誓った騎士であり、大義名分の救済は二の次と考えるフェルマの堅い誓いだ。


 誓いを守るため、己が主人を守護するため、フェルマは焼け爛れた腕に力を籠める。


「ッ!!」


 襲撃してくる触手を避ける。秒の隙を得る。右手の剣で一閃。叩き切られた触手はドスンをその秘められた質量を物語るように、地面に落ちると切断面から紫色の液体を垂らしながら引っ込む。そして、邪神特有の超回復によって、切断面から伸びる新たな触手。


 その回復速度は、攻撃する意欲を簡単に削ぎ落してくる。


 無理だと絶望しそうになる。

 無理でもやってのけなければならない。


 この敵を倒さない限り、クリステルに襲い掛かる障害は常に存在続ける。未来永劫に平和は訪れない。未来が存在しない。


 だからこそ、フェルマは剣を握る。

 本体から再び砲口が剥き出しになる。


 近距離攻撃しか手段を持たないフェルマにとって、遠距離からの攻撃は一方的に嬲れる最強の手段である。酸性液をただひたすらに回避するしかないフェルマは、近寄るしか手段がないが、触手とは段違いに早い一撃。


 どこを狙う。今の自分はどこが弱点だ。その視点から推測される予知じみた回避。しかし、それでもわかっても体が追い付かない。


 ジュッという肉が溶ける音が耳朶を叩く。まさに生命が削られる音が、感覚に訴えかけてくる。溶けた肉は少しずつフェルマの行動を制限していく。脚に当たれば行動が遅くなり、腕に当たれば剣の所作に影響が出て、胴に当たれば激痛が襲う。


 自身の体の自由がゆっくり削られていく中、フェルマは勝ちを見た。


 敵の肉壁を崩す一手を見た。


 ふらりと自身の体が揺らめいたとともに、緑風が駆ける。


「ぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああッ!!」


 双眸を見開く。


 一撃たりとも攻撃を食らう事の許されない特攻。


 起死回生を狙う一手。


 ブーツの裏で確かに地面を踏みしめながら本体に接近する。攻撃ができる距離まで近づく。

 動けば動くほど破裂しそうなほどに心臓の鼓動が早くなり、乾ききった喉が呼吸を欲すたびに炎を飲み込むような痛みが走り、全身の傷ついた筋肉繊維が動くなと叫び声をあげる。


「がばぁッ!!」


 突然体が軽くなったと思うと、左脚の膝から下が損失している。ドロリと血液を垂らしながら、次の一歩を踏み出そうと動く左足が悲しく空を掻き血が地面へとまき散らされる。


 だが、まだ進まなければならない。

 主を守るために進まねばならない。

 この歩を緩めてはならない。


「ふんッ!!」


 地面に己の剣を突き刺すと、棒高跳びの要領で地面を跳ねる。


 宙に浮いた体では回避はできない。それを理解しての特攻。いや、もう回避なんて必要がない。


「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああッ!!」


 咆哮と同時に、フェルマはその手で再び砲口を塞ぐ。


 既視感にも似た光景が眼前に広がる。想定通りに事が進む。


 酸性液を撒き散らしながら本体が大きく爆発。それと同時にフェルマの体の全面に酸性液が飛び激痛。


 だが、勝機を得た。


 分厚い肉壁を破る内部からの爆発。それによって再び破壊された内部。


 露出した内部は爛れた肉の塊。

 その中心部に見えるアドルフォの右腕。であれば後は躊躇しないだけ。


 良き聖騎士であった。レイピアの名手であり、魔術師として一流であった。

 ここに敬意を捧げる。


 と、共に一閃。


「斬れろぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおッ!!」


 咆哮と共に切断される肉壁。

 しかし、邪神の超回復が阻む。蠢く肉が剣を押し返してくる。


 そこに戦ぐ風の加護。


 剣の刃となった旋風は湧き上がるような肉壁を押し返す。

 邪神の左手の全身が震え、その体から鳴っているかのように錯覚するような痛哭を上げた。

 そして、刃は人ならざる物を断ち、人を断つ。


 アドルフォの右手を切り落とすと、その刃は胴へと滑り込み、上半身と下半身を切断する。

 これで良かったのか。ふと、そんな疑問が頭を過った。


 だが、それを肯定するように崩壊していく邪神の触手、肉壁。その破壊の限りを尽くした肉が崩壊を始める。そして、アドルフォの体が肉壁から出現したとき、フェルマは確かに見た。優しく微笑む、かつての第二等級聖騎士の笑みを。そして、死したはずなのに口が一言を残し、半分融解したような頭部。一番柔らかい眼球は溶け落ちており、その空虚な眼球があった場所から血が垂れている。


 フェルマには、それが懺悔と感謝に見えた。


 だが、後の英雄は悔いる。


 真の英雄ならば、この命さえ救えたのではないかと。



 ◆◇◇ ◇◇◆



 フェルマは遠い空を眺めていた。


 木陰から漏れる太陽の温もりを感じながら空を見た。

 澄み切った青い空は、自分の薄汚れた緑色の肌とは大違いであると思う。


「なんかこのまま昼寝しちゃいたい気分だわ」

「今お昼寝なんてしたら、溜まった書類に誰が印を押すのですか?」


「別に印だけだったら、私じゃなくても良いじゃない?」

「クリステル様が押す印だからこそ意味があるのです。文官が押すにしては責任が重すぎるものもあるでしょうし。その責任をちゃんと背負うのもクリステル様のお仕事でございます」


「……昔みたいにお勉強してるほうがずいぶんと楽ね」

「大人の階段は、面倒事できていますから」

「それガラクタの山じゃない……」

「大人なんてそんなものですよ」

「大人って面倒くさいわ……」


 そんな他愛もない話。その幸せをフェルマは感じる。


「フェルマにどやされるのも嫌だし……ね?」


 そういうとクリステルは立ち上がり、フェルマに手を差し伸べる。


「ほら、行くわよ」

「えぇ」


 フェルマはその大きな手を握ると、立ち上がる。片足では立ちにくいが、きっと優しい彼女がリードしてくれるだろう。それくらい今の彼女は、立派な大人だ。

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