8.
「長海くんは、――姉のほうが美人だって思わないの?」
いつものように夕飯と勉強を終えたあと、私は切り出した。
長海くんはキッチンに立っていて、ミディトマトを切っているところだった。
私は隣でモッツァレラチーズをちぎっている。花占いをするときのように、長海くんがトマトを、私がチーズをと、交互に並べていく。
最後に彼は、オリーブオイルを回しかけて、いつの間にかベランダではじめていた家庭菜園のバジルを摘み取ったものを乗せ、塩と胡椒を振った。
「俺は、――すみれさんだけが好きだよ。今までも、これからも、ずっと」
そう言うと長海くんは、トマトとチーズを重ねてフォークに刺し、私の口に入れた。
「そろそろ桃の時期だよね。次は桃モッツァレラを作ろうよ」
彼は笑った。私はその胸に飛び込んだ。
ランプだけを灯した仄暗い部屋の中で、お酒を飲みながら、私は過去の話をぽつりぽつりと聞かせた。これまでは意図的に伝えるのを避けていた、姉の秋桜とのことだった。
子どものころから、姉とふたりでよく外に出されて遊んでいたこと。たまに置き去りにされていたこと。いつからか容姿をけなされるようになったことーー。
長海くんは真剣に聞いてくれて、私の声が潤むと、その腕の中に私を閉じ込めた。
そこはとても温かくて、とくとくと優しい鼓動が聞こえた。
「ねえ、すみれさん。植物には記憶があるって知ってる?」
長海くんは、私を胸に抱いたままそう切り出した。
「たとえば、たんぽぽだとか、すみれさんの名前になっている花だとか……葉っぱのまま冬越しする植物があるよね。
こう、地面に這うように低く、放射状に葉を伸ばしているのだけれど」
「――うん」
「あれをロゼットというんだ。
でもね、ロゼットの状態から花が咲くためには、冬の寒さを経験しないといけないんだって」
「寒さ?」
「そう。これを『春化』っていうらしい。
逆に寒さを経験させずにロゼットを育ててみたら、花をつけずに、ただ根が成長するだけだったという実験結果もあるそうだ。――ええと、俺が何を言いたいかというとね」
話しているうちに自分でも少し混乱したらしく、長海くんは少し考え込んだ。
「そう、――すみれさんにとっての冬が、お姉さんとの出来事だったんだと思うんだ。
すみれさんが悲しい思いをしたのは俺まで悲しくなるけど、でも、だからこそ、今の美しいすみれさんがあるんだと思うよ。すみれさんは綺麗だ。顔も心も」
そんなことはない。私は卑屈だし、すぐに人のことを嫌いになるし、計算高い部分もある。
何より、決して美人ではない。どう頑張ってみても愛嬌があるほうだとしか言えない。
でも、屈託なく笑って長海くんがそう言ってくれるので、否定する代わりに彼のほうへ向き直って、その胸に顔を埋めた。
長海くんの身体が一瞬強張った。それから私を抱きしめる力がぐっと強くなった。
私は、彼もまた、意外と人とのふれあいに慣れていないのかもしれないと思った。胸の中に昏い喜びが芽生えた。
「――でもね、これからは俺がそばにいるから。心が寒いなんて絶対思わせないよ」
あれから一年が過ぎた。私は名を変え、長海菫になった。
驚くべきことに、長海くんは大学の早期卒業制度を使って三年生で卒業した。そして、その夜には私たちは婚姻届を出していた。
長海くんと出会ってから、私の人生はなにか大きな波に流されているようで、たまに怖くなる。
一方、姉は離婚して、実家に戻った。
子どもたちは旦那さんのほうが引き取ったのだが、それで良かったのではないかと薄情なことを思う。
結婚しても、子どもが生まれても、彼は変わらなかった。
私がなにかをするとさっと頬を赤らめ、いつでも優しくて、いつまでも恋人同士のようだった。
目の前のこの人はどうして自分を好きなのだろう? 不思議に思うこともあったし、たまにこの日々が突然終わってしまうのではないかと怖くもなった。
でも、こうして甘やかされているとどうでもよくなってしまうのだ。
――この人は、私がずっと待ち望んでいた、春だから。
-菫の章・完-




