6.
このひと月は、一瞬だった。それがまた夢のようで、私の不安をかき立てた。
毎朝並んで大学へ向かい、昼には待ち合わせて同じ弁当を食べ、帰りに自転車でスーパーに寄って帰った。
長海くんはプロ並みに料理が上手だ。
私も料理は好きだったので、一緒にキッチンに立つのも楽しかったし、ふたりでいろいろな新しいことに挑戦するのもわくわくした。
それは今までの一人暮らしの生活にはなかったものだった。
たとえば今日はスペイン料理の日にしようとか、この間行ったカフェのパスタを完コピしてみようとか、テレビで有名な映画の再放送があるから作中に出てくるメニューと同じものを作って観ながら食べようとか。
毎日がとにかく楽しい。
それでいて、これまでの自分の暮らしに寄り添ってくれているのもありがたかった。
たとえば時間の使い方。私たちは、この時間にこれをしよう、というような生活リズムがよく似ていた。
帰宅後はすぐにシャワーを浴びて汗を流し、ゆっくりと夕飯を楽しむ。後片づけをした後は2時間ほど勉強し、21時ごろになったら好きなことをする。
また、曜日ごとになんとなく決めたルーティンもある。
月曜日はスーパーで多めに食材を買ってきて、まとめて野菜を切ったり茹でたりして使いやすくしておく日だ。
火曜日はキッチンを徹底的に掃除する日で、水曜日は水まわりの掃除。疲れの出てくる木曜日は銭湯で汗を流し、金曜日はカフェで夕食を取る。
土曜の夜は映画を観に出かけ――お財布事情によってはDVDを借りてくるだけに留めることもある――、日曜日は冷蔵庫の余り物をすべて使い切るというミッションに取り組む。
これは、私がもともと四年間で培ってきた生活のリズムだ。
しかし、長海くんはそこにすんなりと溶け込んだのだった。
背伸びしたり、合わせたりすることなく、かと言って彼自身が無理をしているようにも見えない。
大学では、恋人ができた途端、相手の予定に合わせ過ぎたり、デートにすべてを費やしすぎて、生活が崩れていく子を何人も見てきた。
でも、私の生活は驚くほど変わらなかった。一緒に楽しんでくれる人が増えたというだけだ。
まるで自分自身と暮らしているように楽で、呼吸がしやすかった。
ごくごく自然に、ずっと前から家族だったかのように、私たちは暮らしを重ねていた。
大学四年生になっていた私は、単位もほとんど取り終えていたのだが、逆に年下の長海くんは授業が詰まっている日が多かった。
その日は、長海くんが授業の間、学食の前のベンチで過ごすことにした。
五月の半ばだというのに日差しは暑く、空気は夏独特のにおいになっている。
少し汗ばんできたので、薄手のカーディガンを脱いで肩にかけ、五分袖の黒いティアードワンピだけになった。薄着で過ごすのが心地いい季節になりはじめていた。
木漏れ日の下で文庫本を読みはじめてどれくらいになったのだろう。
長海くんがおすすめだというその小説は、私の好きな、明るくてそれでいてほろりと泣けて、ミステリー要素も少しあるもので、夢中になってしまった。
少し目が疲れてきた私は、本をベンチに置いて肩をぐるりと回した。
ふと足元に枯れた草があることに気がつく。
細い茎の先に、蓮根のような形をした小さくて細長いものがついている。その先端は雪の結晶のような模様がついたスタンプのようになっており、見覚えがあった。
「――それ、ナガミヒナゲシの実でしょう」
聞き覚えのある声にぱっと顔を上げた。そこに立っていたのは千百合さんだった。
千百合さんが着ているのは足首ほどまでの長さがある黒いメッシュワンピースで、その中に白い半袖のTシャツとグレーのワイドパンツが透けて見えた。
いつも通りの手を抜かない装いの彼女だったが、その目元は少し赤く腫れていた。
「どうしてここに?」
私が尋ねると、千百合さんは私に会いたかったのだと言う。話がしたかったと。
「失恋したの。愛が重すぎてびっくりする。――いくら守りたいからって、いろいろ裏から手を回すなんて正気じゃない。そう思わない?」
千百合さんは目を細めた。それだけ愛してくれたら幸せだと思う、――と内心思ったけれど口にしなかった。
長海くんに出会う前の私だったら、少し意地悪な気持ちになって言ってしまっていたかもしれない。
「菫は、私と違って幸せそうだね。――こんなことなら、あの口紅をあげなきゃよかったかなあ」
千百合さんが悔しそうに顔を歪める。
その目に宿る卑屈さが、少し前の自分のようで、見たくないと思った。いくつか話したあと、千百合さんはふう、と大きく息を吐いて立ち上がった。
「もう行くね。聞いてくれてありがとう。――そういえばどうしてバイトをやめたの?」
今の千百合さんには、言えない理由だった。
だが、私の態度で悟ったのだろう。千百合さんは少し意地悪な目をして「彼氏が原因か」と笑った。
「そうそう、ナガミヒナゲシって危険な花だって知ってた?」
千百合さんが振り返った。その目には剣呑な光が宿っていた。
「もともとは日本の花じゃないのよ。それなのに今ではどこにでもある。小さな種がいろいろな場所に運ばれて、気がつくとたくさん生えてるの。
しかも、ほかの植物を枯らす成分を出してるんだって。見た目からはわからないよね。知らないうちにじわじわと侵食されているみたいで怖い花なんだよ」
千百合さんはどこか遠くを見て言った。
長海くんから、今日は一緒に帰れないと連絡があったのはそのすぐ後のことだった。
手持ち無沙汰になった私は、あの古書店に立ち寄った。
はじめて出かけたときは、長海くんとのことでいっぱいいっぱいで結局何も買わなかったのだ。
一つひとつ手に取って眺めていたのだが、やや古そうで、それでいて緻密に描き込まれた植物画の美しい野草図鑑を買った。
その中にはナガミヒナゲシの花も載っており、いつだったかすみれの花と寄り添うようにして咲いていたあのオレンジ色の花だったのだと気がついた。
すみれの花が枯れなかったのは、たまたまだったのか、それとも奇跡的だったのか。
「知らないうちにじわじわと侵食されているみたいで、怖い花なんだよ」
ふと千百合さんの声が蘇る。せっかく気に入っていた花なのに、あんなことは聞きたくなかった。
私はこのとき初めて、本当は千百合さんがきらいだったのだと認めた。
優しくしてくれる彼女を好きでいたかった。でも、私の心をえぐることばかり言う彼女のことを、心のどこかではずっと、嫌だとも思っていた。
そして、私を垢抜けさせてくれたり、誕生日に訪ねてくれたりした彼女の心にも、実は同じような悪感情があったのではないかと考えた。
だって、彼女はときどき昏い目をしていたのだから。




