5.
「すみれさん、今朝はガレットを焼いたよ」
目を覚ますと美しい顔が私を覗き込んでいて、心臓が止まるかと思った。――何度見ても慣れない。
彼と出会って一ヶ月しか経っていない。それなのに気がつくと長海くんと暮らしていた。
長海くんは、寝起きの私をまるでぬいぐるみのようにぎゅっと抱きしめる。
清潔なシャツのにおいにどきりとして、それから現実に戻ってくるというか、寝ぼけていた頭が少しずつ動き出すのを感じた。
長海くんは身体を離すと、私の様子に満足げにほほ笑み、ほかほかの温かいタオルを差し出すと、背を向けた。
家じゅうにいいにおいが広がっていた。差し出された熱い蒸しタオルで顔を拭き、着替えてから彼のいるところへ向かう。
長海くんは、わが家の狭いキッチンで、細切りにしたじゃがいもを平たいお煎餅のように整えて、その間に卵を挟んだものを焼いていた。
彼の作る料理はいつも洒落ている。聞けば、おかあさんに教えてもらったのだと言う。
調理台の狭さを補うために買った、キャスター付きの収納の上には、すでに彩り豊かなサラダが乗っていた。
「サラダはニース風サラダにしたんだ。
じゃがいもが余っていたから少し蒸してのっけて、それからゆでたまご、ツナとオリーブ、あとはいろいろな野菜」
私は長海くんの背中にぴたっとくっついて腕を回す。
彼は一瞬硬直し、それから顔を赤らめて料理の手を止め、私の額にキスを落とした。
私はいつでも不安だった。これは夢なんじゃないか、なにかの間違いなんじゃないか、と。
私の行動を置き去りにして、ものすごいスピードでいろいろなことが変わっていく日々だった。
電車に乗って私の実家へ向かったのは、長海くんと出会ってからわずか三日後のことだった。
その間も、互いの家には帰るものの、私たちは毎日一緒に過ごしていた。驚くべきことに、私たちは同じ高校の出身だったのだ。
それがわかって意気投合したのもあるかもしれない。
長海くんは、久しぶりに里帰りがしたいな、という。ついでに私の地元にも行きたいと。
隣県とは言え、社会情勢がなかなか帰省を許さなかったのだが、幸い今は状況が落ち着いていて、旅行に行く人も多いと聞く。
隣の県に足を伸ばすくらいなら許されるかもしれない。
そう思って承諾すると、彼はすぐにチケットを取り、集合時間を決め、翌朝家まで迎えに来た。
なにもない田舎の駅に降り立つと、周りの人は、まるで芸能人でも目にしたかのような表情でちらちらとこちらを見ていた。
それから彼に肩を抱かれている私に目をやって、微妙な表情になる。
きっと、圧倒的な顔面偏差値の差が理由だろう。さらに、なぜだか長海くんがスーツを着込んできたのもあるかもしれない。
気軽な里帰りだと思っていたのに、なにか用事でもあったのだろうか。
一方の私はというと、全面に幅の広いフリルがついた黒いブラウスに、膝上丈のベージュのバミューダパンツという、ややカジュアルな格好だったので、いろいろなことに差がありすぎて、私たちはとても目立った。
ターミナル駅からバスに揺られ、さらに電車に乗り換えて地元の最寄り駅についたのは、日が傾いたころだった。
途中までは一緒でそれぞれの実家へ帰るのかと思っていたが、なぜだか長海くんは私と一緒にここまでやってきた。
私の地元は本物の田舎だけれど、聞けば長海くんの実家があるのは、かなり栄えている場所だった。
頭のなかにたくさんの疑問符が浮かびながらも、彼と離れがたくて、切り出せなかった。
何も遮るものがない広い空は、薔薇の花のような淡いピンク色をしている。
先に行く長海くんを追って、ホームの古い階段を降り、改札を抜けた。
「――菫、か?」
出口までたどり着きそうだったそのとき、遠慮がちに声をかけられて振り返る。そこに立っていたのは、――光政だった。
日に焼けて真っ黒だった肌は健康的な小麦色に落ち着いていて、きちんと整えられた髪の毛や、流行りの形の服が、彼を素敵に見せていた。
驚くほど垢抜けていた。
私が答えられずにいると、長海くんがそばにやってきた。
「すみれさん、どうしたの?」
私はその笑顔に違和感を覚えた。光政は視線を左に移し、怪訝な顔をした。
「そっちは――?」
そこまで言いかけて、光政は焦ったように視線を落とし、人違いでしたと素っ気なく言って私たちの横をすり抜け、改札のほうへ向かっていった。
「みっちゃん!」
ふと振り返ると、私たちと同じ電車に乗っていたのだろう。ヒールを履いた女の子が降りてきた。
まつげが長くて、人形のように綺麗な子だ。
その子はまるで飛び跳ねるかのように全身で喜びを表し、光政の名前を呼ぶとぱたぱたとヒールを鳴らしながら階段を駆け下りてきて、改札を走り抜け、彼に抱きついた。
私たちはなんとなく気まずさを抱えたまま、川沿いの道を歩いていた。
四月には夢のように美しくなる並木道には今、桜の花びらはない。代わりに青々とした葉が茂っている。
毎日通ったこの道を、違う人と歩いているのは不思議な感覚だった。
道なりにしばらく歩くと、懐かしい真っ赤な壁が見えてきた。ここを左に曲がると隣県との境になる川があり、幼いころよく姉とそのあたりで遊んでいたのをふと思い出した。
シングルマザーの母だけが残っている実家は、古いアパートだ。
実はこの築二十五年のアパート自体が母の持ち物で、実家にいたときは、中学生になったあたりから、母と姉と私とで、それぞれ一室ずつ使っていた。
姉と私の部屋は、家を出た時点でそれぞれ引き払われているので、私たちは、母が昔から使っている一室にいた。
母は家事全般が苦手で、姉や私のいない今、事前に連絡してあったにもかかわらず、部屋にはほとんど足の踏み場もない状態だった。
そこにこの美しい人がきっちりとスーツを着込んで正座しているのは不思議な光景だ。
あまりにも恥ずかしくて、やはり、一人で来るべきだったと私はひどく後悔した。
初めは新手の詐欺じゃないかと長海くんを訝しんでいた母を見て、母親らしいところのないこの人にも、私を心配するような気持ちがあったのかと驚いた。
なんだか目頭が熱くなり、コンビニに飲みものを買いに出て戻ってくると、母はいつのまにか彼を気に入ってしまい、全面的に信頼していた。
母はそのまま泊まっていくように言い、終始機嫌が良かった。
結果的に長海くんの里帰りは叶わず、そのまま転がり込むように長海くんは私のマンションで暮らしはじめたのだった。




