3.
ほくほくした笑顔の女性店員は、店の境界線となる場所まで見送りに出ると、私に小さな紙袋を手渡した。
そして片目を瞑り「いいお誕生日を!」と言う。私は苦笑しながら軽い会釈を返した。
ぐったりと疲れた買いもののあと、そのまま地下でデリ惣菜とワインを買い込み、気になっていたパティスリーに寄り、ザッハトルテを買った。
本当はその隣にあったすみれのケーキがとてもかわいくて目を引いた。さらに子どものころからの好物である、ミルフィーユも捨てがたかった。
一人きりの誕生日パーティーでは、いくつも食べられるわけではない。日持ちもしないし、仕方がないのだ。
そんなふうに言い聞かせて、ケーキを一つだけ買い、電車に乗って帰った。
家に帰ると、すぐにシャワーを浴びてさっぱりとし、一人むなしくパーティーの準備に取りかかった。
パーティーと言っても、いつもの自分の夕食から手作りの食事が消えて、その代わりにデパ地下惣菜とケーキが加わるだけの簡易的なものだ。
部屋の照明を落とす。いくつも並べたランプだけの淡い光の中で過ごすのが好きだ。
音楽を流す。毎週金曜日に通っているカフェで買った、その店のBGMとしても流れているものだ。
デパ地下のお惣菜はとてもおいしい。ザッハトルテの甘さも幸せだ。でも、たまに、ふと不安になる。
これで、二十一歳だ。周りの学生たちは、みんな恋人だったり親しい友だちだったりがいる。そして、いつかはきっと家族を作っていく。
でも、私にはその未来がちっとも見えなかった。
だって、若くて自由で楽しいこの時期に一人きりなのだ。これからはもっとそうなのではないだろうか。
お酒が入ったせいだろうか、考え出すと、鬱々とした気分になった。
インターホンが鳴った。テーブルに突っ伏していた私は驚き、のろのろと体を起こして玄関に向かう。
「菫、ハピバー!!!」
そこに立っていたのは、バイト先の先輩である千百合さんだった。
栗色の髪の毛は肩口までのボブヘアで、無造作に巻かれている。メイクは薄く見えるのにしっかりと目が大きくて、美人だ。
「――千百合さん、どうして……?」
「えへへ、先輩だからね! いろいろ知ってるわけですよ。上がっていい?」
軽い調子で言う彼女の言葉に、内心うれしくなって、私はこくりと頷く。
「これ、誕生日だからケーキ買ってきたよ。ミルフィーユだよ」
千百合さんが差し出したのは、まさに先ほど、私が立ち寄ったパティスリーの紙袋だった。
「――うれしい。自分でもここでケーキを買ったんですけど、ザッハトルテもミルフィーユも食べたくて、最後まで迷っていたんです」
「ふふ、ちゆり様ありがとうございました!って言っていいんだよぉ」
千百合さんは私よりも一つ年上だ。この三月までは服飾学校のファッション科に通っており、今は卒業してアパレルショップで働いている。
将来はスタイリストになりたいと話していて、センスがいいだけではなく、知識量も豊富だった。
正直なところ、私がある程度垢抜けられたのは彼女のお陰だった。
顔の造作や肌の色、骨格などによって似合う服や髪型が変わってくるのだと教えてくれたのだ。
ときには一緒に服を選んでくれることもあった。
「それとね、誕生日プレゼントも買ってきたの。じゃーん、これ!」
デジャヴだろうか。差し出された紙袋は、先ほどの百貨店のコスメ売り場のものだ。
「新しいリップが出ててさ、“運命の恋人たちのリップ”っていうんだって。菫も彼氏がほしいって言ってたでしょ?
そんな菫にぴったりだなあって思って」
私は首をかしげる。そんなことを口にしただろうか。
「覚えてないの? この間酔いつぶれたときだよぅ」
千百合さんの言葉に、私はぼっと顔が熱くなるのを感じた。
誘われて一緒にバーに行ったのだけれど、うわばみの彼女にウォッカを一気飲みさせられて、潰れてしまったのだ。
その後は泣き出したり吐いたりで、店にいた男の人と千百合さんとで送ってくれたのだった。
そういえばあのとき手を貸してくれた男性には名前も聞けなかったし、お礼も言えなかった。
「学生生活で彼氏の存在って大事だよね。心の拠り所っていうか、潤いっていうか」
千百合さんはうっとりと言う。私は胸にぴりっとした痛みが走るのを感じた。卑屈にも、見下されていると思ってしまったのだ。
千百合さんには、彼氏がいる。会ったことはないけれど、SNSのカバー画像が、男性の後ろ姿だからだ。
「私に恋愛はハードルが高すぎます……」
そう言うと、千百合さんはすっと目を細めた。その空気の温度の低さに困惑していると、彼女はいつものようににやりと笑った。
「またまたあ、わかってるくせに」
「――?」
「本当は、よりどりみどりだっていうことだよ?
菫が本気で彼氏がほしいって思ったら、いくらでも選べる環境にある。気づいているはずでしょう?
菫は、そうは見えない、ううん、頑なに見せないようにしてるけど、本当はずるいところがあるもの。気づかないふりしてるだけだよね」
私はどきりとした。一昨日、バイト先の後輩に告白されたのだ。
「それでいて、菫は面食いなところがあるからそのへんの人とは付き合わない。思わせぶりなことをするのにね」
「ーー思わせぶりだなんて」
「えっ、まさか無自覚なの? 怖い怖い」
千百合さんはおどけた調子で言った。それからふう、と息をつく。
「要するに、理想が高いんだよね。
自分の中で王子様像みたいなのが決まっているのかなって。きっと、その王子様がすることだったら何でも許せるんだよ。でも、そうじゃない相手は視界にも入らない」
私はなにも言えなかった。
男の人を顔で見ているのは、本当だったからだ。そして、それは誰にも知られたくない事実だった。
千百合さんはにかっと歯を出して笑い、それまでの冷ややかな空気は、ぱっとかき消えた。
かと思うと、今度はウェットシートを取り出して、私の口元を乱暴にごしごしとぬぐった。
そして、贈ってくれたコスメの包装をびりびり破き、リップを取り出して、私のくちびるに塗っていく。
「それでも彼氏がほしいと思うなら、まずは自分が変わらなくちゃ。――ね?」
そう言って千百合さんはそっと目を伏せ、小さなハンドバッグの中からコンパクトを取り出して、私に手渡した。
小さな鏡の中には、見知らぬ女がいた。
「――深い赤色は私に似合わないって、そう教えてくれたのは千百合さんじゃないですか。肌の色に合わないって」
私は言った。
「似合わないよ? でも、似合うように寄せていくことはできる。
それに、たまには冒険だって楽しいよ」
千百合さんは、なぜだか泣きそうなあるいは怒っているような顔で笑った。
それから一緒にケーキを食べて、しばらくすると千百合さんは好きな人に会いに行くのだと笑って帰っていった。




