5.
私は今、家事代行サービスの仕事をしている。インターネットで予約を受け付けて、家庭に訪問し、料理をつくるのだ。
「今日は午前中が宮村様、午後が田中様よ」
上司は希久美。スケジュール管理やお客様とのやりとりは器用な彼女が担当している。
希久美はそう言いながら、私のデスクにクロワッサンを置いた。私は途中、コンビニで買ってきた紙パックの牛乳を取り出し、クロワッサンを頬張りながらメールの内容に目を通した。
宮村様は、見るからに寝不足だった。
生後二ヵ月の赤ん坊と暮らす、まだ若いお母さんだが、目の下には深い隈があり、ーーどこか危うい感じだった。
「今日来てもらうことは、実はパパには言ってないんです」
彼女はぽつりと漏らした。
「この子、ぜんぜん寝てくれなくて。もうあたし限界で。ーーそれで相談したんだけど取り合ってくれなくて……。今日からパパが3日間の出張だから、その間に食べるものを作っておいてほしいんです」
胸に迫るものがあった。
まずは買ってきた食材のほか、冷蔵庫にあるものや缶詰をずらりと並べさせてもらった。宮村様の家は賃貸マンションで、あまり調理台が広くなかったため、ダイニングテーブルいっぱいに食材、調味料、保存容器を出していく。
次に、フライパンで肉や魚に火を通しつつ、シンクで野菜をすべて開封する。袋をびりびりと破って中身を出す作業をくり返し、一通り終わったら、一気に洗っていく。そして、どんどん切っていく。
こんなふうに同じ動きをくり返すと、いろいろな作業を少しずつすすめるよりずっと早く終わるのだ。
一時間で二十品ほど作った。
長芋のサラダ、大根とベーコンの煮物、ブロッコリーと海苔の胡麻和え。鶏もも肉とれんこんの甘酢炒め、ほうれんそうのナムル。キャロットラペにナスの煮浸し。鶏団子スープに鮭のコーンマヨ焼き、きのこや大葉を添えたタラの酒蒸し……。
それから、サラダの素。きゅうりやコーン、ハム、大根といったものを食べやすく下ごしらえして、そのまま保存容器に入れる。ドレッシングをいくつかつくり、別に添える。
あらかじめドレッシングで和えるよりは長くおいしく楽しめるし、その都度切る手間がないので好評だ。
料理をしている間、ふと見ると、宮村様はダイニングテーブルに突っ伏して眠っていた。娘の千百合よりも若いお母さんだ。私は、すぐそばに置かれていたブランケットを彼女の背中にかけた。
ベビーベッドの上の赤ん坊は眠っておらず、くるくると回るメリーを機嫌良さそうに眺めている。胸がぐっと締め付けられるような、じわりと涙がにじむような、そんな感覚があった。とても可愛いと思った。
それは、千百合にもそんな時期があったから。
私はこの頃、小さな子ども連れのお母さんに声をかけてしまう老人たちの気持ちがよくわかる。彼らの多くは、自分の子どもや孫と重ねて見ているのではないだろうか。
その目に映っているのは、ただの他人の子どもではなくて、まるでそこに重なるようにして、子育てをしていたときの、もう失われてしまった時代のわが子が浮かび上がる。そんなふうに思えてならなかった。
生まれたときは、全然かわいくないと思っていた千百合。
今になって写真を見てみると、そのときでさえ、ものすごくかわいい。ーー私は、こんなにもかわいかったこの子と真剣に向き合うことなく、ここまで来てしまったのか。そんなふうに思うくらい。
事務所に戻ると、希久美は外出中だった。その代わり、息子の優希が書類整理をしていた。
「ああ、お疲れさまでした。お昼休憩の前に報告書をお願いしますね」
優希が顔を上げる。彼もまた中年と呼ばれる年齢になったものの、希久美に似た色気のある面立ちだ。
優希は私のデスクに紅茶のティーバッグを一つ置いた。変なところが母親に似たのか、彼もまた毎日こうして差し入れを寄越すのだ。今日はうさぎのイラストが描かれた可愛らしいものだった。
扉が開いて、千百合が顔を出す。長く伸ばした髪をくるくるとまとめ、隙のないメイクで武装し、そして、背中には赤ん坊を背負っている。
「ああ、ママも戻ってたの。ーーこれ。今日の試作が余ったからよかったら食べてね」
長年、料理研究家のアシスタントとして働いている娘は、毎日生き生きとしている。学生時代は夫にねだってすべて家事代行サービスに依頼していたというのに、今ではかなり凝ったものも作るようになっているから驚きだ。
「千百合ちゃん、いつもありがとう」
優希が頬をゆるめる。千百合はほほ笑みながら手を振って、事務所を出て行った。
「じゃあ、お義母さん。食べましょうか」
「大丈夫。優希はあの人の子どもじゃないもの」
千百合から義兄であるはずの優希と結婚すると聞かされた私は、卒倒しそうになり、久しぶりにぷっつりとなにかが切れ、喚き散らしてしまった。
「あの人と長く恋人関係にあったのは間違いないわ。でも、検査をしたからわかってるの。育てるお金がなかったから愛人になったってわけ」
希久美は悪びれることなく言った。
「愛していたらしんどいじゃない、あんな男。駄目な人だってわかってるから利用できるのよ?」
はくはくと言葉にならない吐息を漏らしている私の鼻をつんとつつき、希久美は微笑む。
「あなたは真面目過ぎたのよ。良くも悪くもね」
物語のようなあの恋の本当のゴールは、たぶん、まだ来ていないのだ。
それはきっと、私の人生が終わるとき、私の生き方によって決まるものなのだと、今はそう思っている。




