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《完結》 ロゼットに落ちる春   作者: 三條 凛花
後日談 花水木の章
26/27

4.

 千百合は都市部に移り住んだ。


 私は広い平屋に一人きりで、ただひたすら掃除や片づけをして過ごしていた。


 夫はもう、まったく家に寄りつかなくなっていた。


 二人分の食事を作って、でも夫は来ないから残りは私の昼食になる。





 千百合が事件に巻き込まれたのは、二十代になってからだった。


 どこかで納得している自分がいた。千百合は、在学中から色々な問題を起こしていたからだ。




 警察から連絡を受けて、私は青ざめた。すぐに保護されたから、何もされていないという。無事だという。


 でも、そのとき頭によぎったのは、心配ではなくて、言いようのない、真っ黒な感情と、恐れだった。こんなときまで、私は夫に責められることを恐れている。


 行かなければいけない。わかっているのに、動けない。


 私は、とことん最低な人間だ。






 玄関先でうずくまっていると、がらりと扉が開いた。


「ちょっとぉ、瑞姫ちゃん。水やり忘れてない? またあいつになにか言われるわよー?」


 希久美がパン屋の袋を下げて入ってきた。


 私はこの二十年、この人を無視してきたけれど、希久美のほうは何が楽しいのか毎日やってきては、私にパンを与えていた。



「ーーどうしたの」


 彼女はいつものおどけた言い方をやめ、こわばった声で訊いた。


 私が答えられずにいると、ふたたび電話が鳴った。思わず肩が震える。希久美は何を思ったのか勝手に電話に出て、なにかを話していた。



 その後のことはよく覚えていない。


 いつもは饒舌な希久美が、別人のように黙り込んでいる。


 それでも動きは素早く、彼女は私を立たせ、口にパンを突っ込んで無理やり食べさせた。


 それからタクシーを呼び、駅に行き、それから千百合が暮らす街まで一緒に向かったのだった。




「まま、だいすき」


 向かい側の席では、幼い子どもが母親にしがみついてそんなふうに声をかけていた。


 ああ、千百合にもあんなころがあった。ふとそう思ったら、ぶわりと目の前が滲んだ。


 横から美しい刺繍の施されたハンカチが差し出された。








 あれから十数年が経った。私も五十歳をすぎた。


 狭い部屋の中は、朝の真っ白な光でいっぱいだった。私はうんと伸びをして、窓を開けた。冬の始まりの冷たい空気が吹き込んできて、鼻がつんと痛くなった。


 ふとんを上げて、簡単に部屋の中を掃き、エプロンをつける。


 土鍋で白米を炊く間に、なめこと豆腐の味噌汁と、卵の炒めものをつくった。まずはしっかり熱したフライパンに溶きたまごを入れ、半熟のまますぐに取り出す。


 斜め薄切りにしたネギときくらげを炒め、酒やオイスターソースで味付けをし、最後に卵を戻して固める。


 名前の無い料理だ。


 食卓には、ベランダで育てた花を一輪摘んで飾り、素朴な朝食を並べていく。ごはんはほんの少しだけ。


 テレビも音楽もない、静かな部屋。大きく息を吸って、吐く。この家に来てから、呼吸が楽になった。




 あの事件のあと、私は夫と離婚して、アパートで暮らすようになった。しばらくは千百合と二人暮らしだったが、数年が経ち、落ち着いてきたところで彼女もまた職を得て、巣立っていった。


 二十年以上住んでいた豪邸とは違う、おんぼろで狭いアパート。でも、ここは私の城だった。


 夫ではなく、自分ですべてを選んだ家具や物。それだけじゃない、過ごし方も、献立も、全部私が決めたって、誰にも文句を言われない。


 一人分の食器をさっと洗い、かんたんに身支度を整え、洗濯ものを干して、私は家を出た。川沿いの桜並木をたどるように五分ほど歩くと、洋風の古いマンションがある。その一室が職場だ。



後日談、あと1話で終わりです。



ーーー


子どもが万が一なにかの形でこの小説を目にすることがあったとき

「自分のことなのかな」と傷つくといけないので書いておこうと思うのですが……




「この子、かわいくないんです。ゴリラみたいな顔してるでしょう? だから女の子の服は着せません。男物を着せてるんです」


子どもが2、3ヵ月くらいのころ、検診に来ていた見知らぬママさんが、いきなりこんなことを話しはじめて驚いた記憶があります。


今考えるとなにか事情があったのかもしれません。でも、子どもはきっと傷つく言葉で……。



このお話は、そのとき聞いた一言から膨らませ、ここまでの物語とかけ合わせて作ったフィクションです。


ーーー

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