3.
「いい? あなたは絶対にパパみたいな人と結婚したらだめよ」
「なんでー?」
「幸せになれないから」
「ちゆは、パパだいすき」
いつからだろう。私は、千百合にくり返しそう言い聞かせるようになっていた。もう、何も考える気力がなかった。
いつの間にか千百合は幼稚園に通うようになり、少し自分の時間ができると気分が明るくなった。
けれども、夫に怒られないように卒なく家事をするためには、やることは山積みで、終わるとぐったりとしていてーー。
それだけでもう、迎えの時間になってしまっていた。
塵も残さず完璧に掃除をして、名前のある料理だけを作り、それ以外の時間はひたすら雑草を抜く。
「また草むしりー?
瑞姫ちゃん、ずいぶん日に焼けたわねぇ。焦げたパンみたい」
希久美は暇なのか、今日もやってきては、大きな日傘の中から嫌味を言う。
相変わらず一分の隙もない化粧をして、年齢不詳の美しさがある人だ。
私はそれには答えず、彼女に背を向けてもくもくと草を抜いた。
彼女はしばらく何か嫌なことを言っていたが、しばらくすると郵便受けにパンを入れて立ち去っていった。
あの人は本当に変わり者で、なぜだかいつも郵便受けにパンを一つ、入れていく。
あんパン、ねじりドーナツ、クリームパン、……今日はピーナッツクリームが入ったコッペパンだ。
日によって違う店のものだったが、あの人を思うと毒が入っていそうな気がして、食べずに捨てている。
夫の女は、希久美だけではなかった。
清楚なお嬢様風の見た目の里音、垢抜けない眼鏡の今日子。この二人は、夫との間にそれぞれ男の子がいる。千百合よりも年上の。
最近は、受付嬢のマミナにご執心らしい。
里音と今日子は、夫の正体に気がつくと、心を病んで実家へと戻っていった。マミナはきっとまだ知らない。
私には戻る実家もなければ、行く宛てもなくて、しかたがないので日々夫の顔色を窺いながら暮らしている。
そういえば、どうして私だけが入籍されているのだろう? お盆や正月には夫の実家へと顔を出すし、会社の人たちもよく家に連れてくる。
私は、特別?
そう思うと、昏い喜びがふつふつと湧き出してきて、でも、次の瞬間には希久美のことが頭にちらつき、ふたたび沈んでいく。
それに、夫は、家に来ると、ほんのわずかな時間でものすごい数の嫌味を言うのだ。日々、否定の言葉を浴びせられていると、自分なんか価値のないものに思えて、そして、ーーああ、この感情には覚えがあるな、と思った。
奇しくも、私が駆け落ち同然に結婚した理由であった。
母は“おばあちゃん”だった。
参観日のときにずらりと並ぶ母親たち。私が子どものころは、高齢出産をする人の少ない時代だった。
四十代で私を生んだ母はひどく目立った。
しかも母は、とても厳格で、いつも疲れていて、いつも怒っていた。つねに私を否定していた。
「どうしてこんなこともできないの? 同じクラスの佳乃子ちゃんはもうできているって聞いたわ」
「おまえのような頭の悪い子どもを生んだ覚えはありません」
「あんな子と付き合うのはやめなさい。あの子は素行が悪いというわ。おまえまで不良だと思われるのよ」
そういうときの、母の目。まるで漫画かなにかのように吊り上がって、さんかくになっていた。
私はずっと、家から逃げ出したかった。だから、夫の甘い言葉に乗ったのだ。おとぎ話では、結婚はゴールだ。だから、その先にはただ優しくきらきらしい日々だけがあると、私はそう信じていた。
「千百合! どうしてあんたはそうやってふざけるの!
ママはいやだって言ったよね? 人がいやがることするなんて最低。ママはそんな子を生んだ覚えはない!」
口にして、はっとした。血の気が引いていく思いだった。
鏡を見なくてもわかる。私の目はきっと今、母と同じだ。さんかくに吊り上がっている。
千百合はぎゅっと眉を寄せ、口をへの字に結んで、耐えるような顔をしている。そして目からぽろぽろと涙をこぼした。
「ママ、ごめんね。千百合、悪いってわかってるの。でも、どうしてだかやっちゃうの」
「そんなことあるわけ無いでしょう!」
そう言いながらも、ーー私も共感していた。こんなこと、言いたくない。それなのに体の内側から怒りがむくむくと湧いてきて、口が止まらない。
夜、子ども部屋で静かな寝息を立てる千百合を見て、目頭が熱くなる。
こんな母親でごめんなさい。私みたいな親のところに生まれるなんて、あんたは不幸だね。
反省して、次の日は言葉を選ぼうと頑張ってみる。それでも、ぷつりと糸が切れる瞬間がやってきて、私は爆発してしまう。千百合の問題行動は、家だけではなかった。
本当は、きっと、それは私のせいだ。でも、ーーどうしていいかわからない。夫にも相談できない。また私が罵倒されるだけだから。この家では、悪いことはすべて、私のせいになる。
どれだけ声をかけても、千百合は片づけない。この年齢になっても。
学校から帰るとランドセルを玄関に放り、服を脱ぎ、脱いだそばから床に捨てながら自室へ戻る。着心地の良い部屋着を着ることはするが、あとはもうなにも片づけない。
まるで幼い子どものように散らかしっぱなしにする千百合の後始末に日々、追われていた。
なんとか片づけさせて、宿題をさせ、習い事の練習に付き合い、夫に怒られないように家事をする。
夫はほとんど帰ってこない。それでも、手を抜いた日に限って帰ってきては、ひどく責められるので、決して手を抜くことはできないのだ。
ーー胸が苦しい。
千百合はどんどん成長していく。近所でも評判の美人だと言われるようになってきた。でも、変わらないこともある。
私は相変わらず怒るのをやめられないし、千百合の問題行動はひどくなっていく。




