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《完結》 ロゼットに落ちる春   作者: 三條 凛花
後日談 花水木の章
24/27

2.

「子供が生まれたら、本当になにもできなくなっちゃうのよ」


 年の離れた従姉が、そう漏らしていたのを思い出す。


 子どものころは憧れのお姉さんだったのに、三十路になった彼女は、手入れのされていないぼさぼさの髪をいつもひっつめて、適当な服に身を包み、化粧っ気のない顔をしていた。




 今までは、その言葉の意味を取り違えていた。


 楽しいことができなくなるのだと思っていたのだ。出かけたり、おしゃれしたり、趣味に時間を使ったりというようなこと。


 けれども、それだけではなかった。

 子どもの世話で、泣き声で、日常のあらゆることが中断されてしまう。



 たとえば料理をしている途中で泣き出して、一度投げ出してそちらにかかりきりになる。


 掃除をしていたら、小さなものを口に入れているのに気がついて慌てて駆け寄る。


 ティッシュがなくなったから交換しようと動き出したところで、テーブルによじ登っているのを見つけて走る。


 私はいつでも疲れていて、ため息ばかりで、日々苛立ち、なにかに追われるように生きていた。毎日、まいにち。








「この家は、いつでもティッシュがないな」


 夫は、テーブルの上の空き箱を見て、不機嫌そうに舌打ちをした。


 その膝の上では、二歳になった千百合がにこにこしながら遊んでいる。私といるときは、いつも不機嫌にぐずぐずと泣いて、何も手に付かないのに。





 この頃になると、私はもう、私ではなくなっていた。


「なんだよこれ。名前のない料理なんか不味くて食えないだろう」


 夫が吐き捨てるように言い、口もつけずに箸を置いて味噌汁だけを啜った。


 それはシンプルな炒め物だった。

 豚バラ肉と白菜とキクラゲを炒めて、オイスターソースと酒と、鶏ガラスープの素で味つけし、とろみをつけたもの。


 中華風のやさしい味で、決して不味いとは思わなかった。


 しかも、この一品を用意するまでに、何度、作業を中断されたと思っているのか。




 テレビが気に入らない、おやつを食べたい、このおもちゃじゃない。


 何もかもを嫌々と駄々をこねる千百合を、なんとかなだめながら作り終えたときには、すっかり疲れ切っていた。




「どうしてそんなこと言うの? どれだけ大変な思いをして作ってると思うの?」


 私はかっとなって言った。夫はじろりとこちらを見据え、「またヒステリックになってるぞ」とため息をついた。


「誰だって当たり前にやってることだろう。これだから女は劣ってるんだ。本当に使えないな、瑞姫は」


 私はぎゃんぎゃん吠えて、夫は五月蝿そうに眉根を寄せ、それを右から左へと流していた。


「これが仕事だったらどうするんだ」


 それから夫は、職場の“使えない人間”について愚痴をこぼしはじめた。


 私は、耳の中に、見えない栓をした。完全に塞ぐことはできないけれど、意識をそらさないと、また怒りが口をついて出てしまう。





 夫は「飯を食ってくる」と出て行き、そのまま帰らなかった。


 山盛りの炒めものはすっかり冷えてしまっていて、私はそれを黙々と口に運んだ。涙がぼろぼろ落ちてきて、もう、味がしなかった。


 その日だけではなく、夫は帰ってこないことがよくあった。


 本当はあのころから、ーー千百合が生まれるよりも前から、違和感を持っていたはずなのだ。



 すべてを捨てて知らない街に来てまで成就させた恋を終わらせたくなくて、見てみぬふりをしていただけで。







 その日は妙に暑かった。


 私は額に落ちる汗を手の甲でぬぐって、日課の水やりをしていた。


 私たちは、千百合が生まれる少し前に建った家に移り住んでいた。近隣の家と比べるとかなり広い敷地に建つ、大きな平屋だ。




 近所の人と仲良くなれたら、と思っていたけれど、皆、私よりも一回り近く年上で、子どもも小学生や中学生ばかり。

 ここでも私は一人のままだった。



 千百合を庭で遊ばせ、その間にこの広大な敷地にたくさん植わった木々の手入れをしていく。


 見栄えが良くなければと、夫は植木屋にたくさんの木を植えさせた。


 一つひとつ手入れの方法も違ったし、爆発的に成長する木は、年に何度か枝を切らなければいけなかった。

 しかも、大嫌いな虫がどこからともなく飛んでくる。


 木々の水やりや点検が終わったら雑草を抜くのだが、抜いても抜いても終わらない。


 けれども、雑草が伸びていると夫に責められるから、疲れてもやるしかなかった。


 一度、業者に頼むことを提案したが、金を無駄にするといって許してはくれなかった。


 除草剤を撒きたいといったら、千百合が庭で遊ぶのだから危険だと取り合ってくれなかった。






「ねえ、奥さま」


 ねっとりと絡みつく、へびのような声だった。それはある日曜日の、朝のこと。


 その人は、小学生くらいに見える子どもを連れた、私よりもかなり年上に見える大人の女性だった。それこそ、夫と同じくらいの年の……。


「あの……?」

「ああ、ごめんなさい。一度ご挨拶をしなければと思って」


 女性はこてりと首をかしげて、勝ち誇ったように笑った。くっきりと縁取られた赤いくちびるが、三日月のように弧を描いた。


「兜希久美と申します。この子は息子の優希よ。今年で八歳になるわ」


 そのとき、これ以上話していてはいけないと、なにかが警鐘を鳴らしていた。それでも私の足は、縫い付けられたように動かなかった。


「その子が千百合ちゃん?」


 希久美の視線が千百合に向き、私は無意識に身構えて、娘を背に隠した。


「あらあら、そんなに怯えなくても」


 希久美は大仰に言った。


「優希はその子の兄なのだから」




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