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2.

 ベッドに腰かけて、思い悩む表情を見せるすみれさんの肩にストールを巻き、俺はホットサングリアを手渡した。


 赤ワインにりんごやオレンジといった果物と、はちみつ、スパイスを入れて煮立てたものだ。



「颯太くんは会ったことがなかったと思うんだけど、お世話になった先輩がね、連絡が取れないの」



 すみれさんはぽつりぽつりと、話しだした。


 夜には寝室で温かくて甘いものを飲むのが俺たちの習慣になっていて、それは日替わりだった。


 ふわふわの泡を立てたホットミルクの日もあれば、ぴりっと胡椒が効いたココアの日もあるが、この日は酒の気分だった。



「最後に会ったときは失恋したって話していて、ーーちょうどあのころはお姉ちゃんが来たりしてバタバタしていたから、すっかり忘れていたんだけどね。

 しばらくしてSNSを見たらアカウントが消えていて、連絡もつかない状態だったんだ」



 すみれさんの手は震えている。



「最後に会ったときの様子から、実は嫌われてるのかなと思って、そのままにしていたんだけど、……この間バイト先の人に会ったでしょう?

 あのときに、先輩が事件に巻き込まれていたって聞いたんだ。その子も噂で聞いたっていうだけで、それ以上の話は知らなくて……」



 俺は身に覚えのある内容にぎくりとした。



「ああーー、それはたぶん、あのころにあった誘拐事件のことじゃないかな」

「誘拐……?」

「女の人が、元恋人の男に監禁されたっていう事件があったと思う。でも、目撃者がすぐに通報したからすぐに救出されたはずだよ」



 俺の言葉に、すみれさんはショックを受けたようだった。



「当時、その女の子の情報がネットに出回っていてね。すみれさんのバイト先に勤めてたっていうことまで晒されてたんだけど、気にするかと思って言えなかったんだ。黙っていてごめん」



 すみれさんは首を振る。



「仲のいい人だったの?」



 すみれさんは、少し考え込んだ。



「わからない。好きでもあり、嫌いでもある人だった。私にいろんなことを教えてくれたんだけど、本当は私のことを嫌っているんじゃないかって思うことがあった。

 私も、親切なその人を好きでいたかったけれど、心をえぐるようなことを言われることがあるから、憎たらしく思ったこともあって……でも、もしかしたら私ができることがあったんじゃないかな」


 落ち込むすみれさんに「事件なんて防ぎようがなかったよ」と、俺は告げた。






 それは真実だった。俺がなにかをする必要はなかった。ただ千百合を守るのをやめればよかっただけだ。


 千百合が連れて行かれてから、すぐに後をつけた。場所を特定した上で通報した。それに、遅かれ早かれああなっていただろう。


 本当は別にあの女がどうなったって構わなかった。通報したのは、すみれさんが万が一知ったときに気に病まないようにするためだけだった。


 他人に関心の薄すぎるこの心は、すみれさんに絶対に知られたくない。





 だがその数日後、義姉から送られてきた雑誌を見て、すみれさんは元気を取り戻すことになる。


 それは義姉の仕事環境と料理にまつわる小ネタを特集したもので、そこにアシスタントの一人として映っていたのが千百合だったのだ。


 彼女は短かった髪を長く伸ばし、それなりに年齢を重ねていて、あの頃のような危うい雰囲気が消えていた。


 そして、義姉のそばで屈託なく笑っているのだった。不思議な縁もあるものだ、と思った。






 すみれさんが眠ったのを確認してから、そっとベッドを抜け出した。


 名残惜しくて振り返ると、あどけない寝顔がそこにあった。目尻に涙の珠が浮いていて、俺はそれを手の甲でそっと拭った。愛おしさがこみ上げてきて、俺は思わずその額にキスを落としていた。




 洗面所へ行き、コンタクトレンズを外す。見慣れた奇怪な目が出てきた。


 結婚して何年も経つけれど、彼女にこの目を見せたことはない。すみれさんが眠ったあとにカラコンを外し、朝は彼女よりも早く起きるようにしていた。


 子どもたちに遺伝しないかどうかだけが不安だったけれど、もともと確率の低いものだ。子どもたちは大丈夫だった。



「颯太くん……? 」



 びくりと振り返ると、すみれさんが眠そうなとろりとした目のまま立っていた。



「目の色……」



 それは絶望だった。










 彼女に乞われるがまま、俺はこれまでのことを打ち明けた。


 聞かれたことに答える形だったが、すみれさんは少しずついろいろな違和感に気がついていたのだ。


 結局、千百合と知り合いであること以外は、すべて洗いざらい話すことになってしまった。



「――すみれさん、ごめん。俺は本当はこんな見た目だし、それに自分でも気持ち悪いことをしてきたって思う。

 でも、――見捨てないでほしい」



 俺は懇願した。すみれさんはきょとんとした顔で「どうして見捨てるの?」と訊いた。


 すみれさんは蜜のように甘いほほ笑みを浮かべ、俺に向かって手を伸ばした。




 その華奢な身体に同じように手を伸ばしながら、昔、蔵の書棚で読んだ植物学の本のことを思い出した。



 すみれの花は、その奥に蜜を隠している。


 横から見ると天狗の花のような形になっており、そこに潜り込まないと蜜を得られない。特定の虫を呼びたいから、ふつうの虫には気づかれないようになっているのだ。


 そして、本当に来てほしい相手だけに伝えるために、ここに蜜があると知らせる線が花びらに線が描かれている。これを蜜標という。




 花というのは葉が進化したものだ。


 はじめからこのような形だったわけじゃない。たとえば、蜜蜂にだけ蜜を運んでもらいたい花は、その蜂だけが蜜を吸いやすいような形に進化する。


 すると、蜜蜂もその花に潜り込みやすいように変わっていく。それを共進化というらしい。



 俺は人間にも、そういう関係性があるのかもしれないとぼんやり思った。


 相手によって、作り変えられていく関係が。



「颯太くん、ーー大好き」


 それは初めて告げられた、しっかりと意思を感じる愛の言葉だった。俺は泣きながらその胸に縋りついた。


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