2.
古書店で出会った美しい男の人は、名前を長海颯太といった。
同じ大学の学生で、私の一つ年下だという。
どうしてだかあの後、一緒に古書店を出て大学に向かい、授業のあとにお昼を食べる約束になっていた。
しかも、気がつくとスマホの中に彼の連絡先が入っていた。
すべてが非現実的で、上の空のまま授業を終えると、学部棟の入り口の前に、とてもきらきらした人が立っている。
同じ学部の女の子たちは、興奮した様子で、遠巻きに彼の様子を眺めていた。
長海くんは、私を見つけるとぱあっと顔を輝かせ、手を大きくぶんぶんと振った。
怜悧な美貌がくしゃりと歪んで、子犬のような可愛らしさに変わり、私はどきっとした。
だれか他の人に向けられたものなのではないか、勘違いしていたら恥ずかしい。そう思った私は周りをきょろきょろと見回したのだが、長海くんは私の名をはっきりと呼んだ。
そんな私の様子がたいそう面白かったらしく、長海くんはしばらく笑い続けていた。
ランチに向かったのは、大学の裏手の山にある小さなカフェだった。
私は新しいことを始めるのが苦手だ。だから、ここにカフェがあることは知っていたし、気になってもいたのだけれど、前を通るだけだった。
長海くんは手慣れた様子で注文をする。女の子とこういうところに来るのに慣れているのだろうか。
私の心に黄色信号がちらついた。彼はそんな私の様子を気にすることなく、他愛のない話を続けている。
やがて目の前に運ばれてきたのは、檸檬の爽やかな香りのする綺麗な色のパスタだった。
「ここのレモンクリームパスタはすごくおいしいんだ。きっと、すみれさんが好きな味だと思う」
彼は私のことを、すみれさん、と呼んだ。その言い方は柔らかくて、そしてどこかくすぐったかった。
ほかほかと湯気を立てるパスタを前に、ふいに緊張して胸が嫌な音を立てた。
マスクをはずさなければいけないと思い至ったのだ。
とりあえず化粧ポーチを片手にお手洗いに立てこもっている。
少し崩れたメイクを直しながら、気持ちを落ち着ける。――マスクを外したくない。顔を見られるのが怖い。
目元はメイクでいくらか誤魔化せるけれど、ほかはそうじゃない。この少し低くて丸い鼻や歯並びの悪い口が見えてしまったら、あの美しい人はどう思うのだろう。
何かが始まりそうな予感があるのに、終わってしまうような気がして足がすくみそうになる。
とはいえ、ずっとこのままでいるわけにもいかない。
私は大きく深呼吸をして、マスクを付け直した。そこには知らない顔の女がいる。いつもの私じゃない、その顔。それが少しだけ、勇気をくれた。
あの人をいつまでも待たせていてもいけない。私は意を決してお手洗いを出た。
長海くんはすでにマスクを外して待っていた。想像していた通りの、いや、それ以上の美貌にはっと息を飲む。
男の人に美貌だなんて変かもしれない。でも、それ以外の表現が思いつかなかった。
マスクに隠されていたのは、形の良い鼻と薄く整った酷薄な印象のくちびる。まるで海外のモデルのような美しい顔立ちだ。
彼に見惚れる一方で、私は身体がこわばるのを感じた。また、顔が嫌いだと言われたら、――と。
その不安は杞憂に終わった。私の素顔を見た彼の頬がみるみる紅潮したのだ。
「マスクを付けているすみれさんも美人だけど、外すと可愛くて好きだ」
長海くんは、恐ろしく整ったその顔に柔らかい表情を浮かべて言った。これは、新手の結婚詐欺ではないだろうか――。それとも、この口紅の、魔法?
そんな馬鹿なことを考えるくらいには、私は動揺していた。
嘘をついているふうではなかったが、どうにも訝しく思って、食事の間中彼の目をじっと見つめ続けてしまった。
目が合うと、ときどきふっと視線を落とすその仕草は、つい数日前に私を好きだと言ってくれたバイト先の後輩と同じものだった。
食事を終え、ふたたび化粧室でメイクを直す。少し色の落ちた口紅を、丁寧に塗り直した。
この口紅を私に勧めたのは、百貨店の店員だった。そのときは買わなかった。けれども、どうしてだか私の手元へやってきた。
まるでなにかの巡り合わせのように。
あれはほんの十日ほど前のことだ。いつも使っているコーラルピンクのリップがなくなった。
どこかに落としてしまったのか、すとんと消えたのだ。
思いつく場所を探したけれど見つからず、バイト帰りに、同じメーカーの同じ型番のものを買いにいくことにした。
ファンデーションもそろそろなくなりそうなのでちょうどいい。
もう少し明るいものを試してみたいと思い、ネットで買うのではなく、店舗まで足を伸ばしていた。
ところが、失念していた。
前に来たのは一年以上前。世界の構造が変わるよりも前のことだった。
あのころは、インフルエンザの時期でもないのにマスクをして歩くと少し悪目立ちしてしまい、こんなふうに行き交う人の誰もが顔を隠しているなんて、当時の自分から考えるとまったくの異世界だ。
この社会情勢の影響がメイクにも出ているのに今さら気がついた。
久しぶりに訪れたコスメ売り場では、タッチアップどころか、手の甲に少し塗って発色を確かめるというようなこともできなくなっていたのだ。
ファンデーションを新調するのは諦めようと、前回と同じ型番のファンデーションと、コーラルピンクの口紅に手を伸ばす。そのとき、横から間延びした声が投げかけられた。
「なにをお探しですかぁー?」
その人は、シックな黒い制服に身をつつみ、明るい茶髪を後ろで複雑な形に結い上げていた。
ふさふさとしたまつ毛に、きりりと跳ね上がった目尻の、迫力のある美人という感じだったので、華やかな見た目にそぐわない舌足らずな話し方に、ちりちりとした違和感を覚えた。
「ええと、口紅と――」
「リップはこれが新作ですよぉ。うん、似合いそう! ほら、深い赤です。綺麗でしょう?
お客様はこういうぱきっとした色が絶対合うはず!」
妙に馴れ馴れしく、また、こちらの言葉を遮るように畳み掛けるように話すその女性に、なんとも言いようのない苦い気持ちになる。
そして、暗にそんな可愛い色は似合わないと言われたような気がして、卑屈にも私は気後れし、勧められた色を手に取った。
でも、彼女の見立ては間違っている。私に濃い色は似合わない。
たとえ地味な顔であろうと、私に似合うのは薄いピンクや淡いオレンジ色なのだと知っていたし、そして幸いそういう色が好きだった。
「どうですか? よく見てみてくださいね! 絶対似合うから。それにね、この新作の口紅はSNSでも話題なんですよ。
新しい自分になれるリップって言われてます! 商品名も素敵なんですよ。“運命の恋人たちのリップ”です!」
店員の女性は目を細めて力説しながら、私の肩に触れた。
そのときだった。私の中で燻っていた悪感情がぶわりと吹き出した。
だが、それは彼女に向けられることはなく、しゅん、としぼんだ。
「やっぱり口紅はやめておきます。ファンデーションのBE007をいただけますか?」
気をつけたつもりだったけれど、声にはやや刺々しい感じが出てしまったように思う。だが、店員の女性は、気にすることなく「わかりましたー」と軽い感じで言うと、一旦奥へ戻っていった。
ややあって女性が戻ってきて、私の手にバインダーを押しつけるようにして渡す。
「今のうちに記入しておいてくださいね!」
前回来たときは作るかどうか聞かれたので断ったのだけれど、こんなふうに押しつけられてしまうと断りづらい。
億劫に感じながらも、彼女にそう告げること自体がさらに面倒に感じて、私は渋々、名前とほとんど使っていないメールアドレスだけを記入した。
「お客様~、ここ抜けてます。ご住所とお誕生日も記入してください」
女性店員は困ったように眉を下げ、口を尖らせながら言う。
連日のバイトの疲れもあり、内心ため息をつきながら住所と誕生日を書いた。後から考えると、なにも本当の日づけを書く必要なんてなかったのだ。
疲れていたのか、――それとも、本当は寂しかったのだろうか。
「――え! ええっ! お客さま、今日お誕生日じゃないですかぁ。おめでとうございます!」
女性が大仰に言うと、店内にいた他の店員さんたちも、口々に「おめでとうございます」と微笑む。
私は苦笑しながらありがとうございます、と告げた。
「そしたら、お誕生日なんでラッピングしておきますね!」
彼女はるんるんと効果音でもつきそうな雰囲気で、店の奥へと消えていった。




