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2.

 小学生になった私は、クラスメートの家に遊びに行って衝撃を受けた。



 そこは三角屋根のかわいい家で、広い庭で犬を放し飼いにしていた。


 招き入れられて驚く。玄関はすっきりとしていて、余計なものが一切ない。テーブルの上もきれいに片づいていたし、もちろん蟻も居ない。



 彼女の母親は私を見ると、上から下まで無遠慮に見定めるような視線を寄越し、顔をしかめていたが、私が見ていることに気がつくと取り繕ったほほ笑みを浮かべた。



 もやもやした気持ちは残ったが、うちにはないたくさんの玩具や本、ゲームで遊ばせてもらうのは楽しかった。


 しかも、おやつだとかぼちゃプリンを出してくれた。手作りのお菓子を食べるのは生まれてはじめてで、しかも甘さが控えめなのにとろけるように柔らかくて美味しくて、ーーみじめになった。




 それから家に帰り、高く積まれたものの間でごろりと横になっている母や妹を見て、涙がぽろぽろとこぼれた。ーーこれはきっと、異常な状態なのだ、と。


 世話好きの叔母が、こまめに片づけに来てくれたり、差し入れを持ってきてくれたりしてはいた。


 でも、それは気休めでしかなかった。だって、きれいになったって、生活していく以上、ほんの一日もあれば元通りになってしまうのだ。




 この家に住む人間が、自分で生活を回していかなければ意味がない。


 そう気がついた私は、家庭科も教えていた担任に頼み込んで、空き時間に家事を教えてもらった。


 本当のことは言えなかった。ただ、病弱な母を支えたいとだけ伝えた。




 担任は四十代のふくよかな女性で、私と同じくらいの子どもがいるという。


 自身の仕事で忙しかっただろうに、担任は時間を見つけては、家庭科室をこっそりと拝借して、いろいろなことを教えてくれた。




 野菜の切り方や下ごしらえといった基本的なことから、使い勝手の良い野菜やその保存法、余ったおかずをリメイクする方法といった、実際に料理をやりくりしていくための知恵も教えてもらえたのは大層ありがたかった。


 いつも優しいほほ笑みを浮かべているその人のそばにいると、とても安心した。




「野菜は使い切れる分だけ買ったほうが、お財布にも優しいわ。

 たとえば、きゅうりは3本まとめて売っていて、そちらのほうが安く見えるでしょう?

 でも使いきれなかったらお金も食べものも捨てているようなものよ。食べきれないとわかっているなら、割高に感じても1本のものを買う。そのほうが結果的には節約になるわ」


 はじめて一人で買いものに行くときは、スーパーで先生と待ち合わせをしたことは、今でも覚えている。


 たぶん、一人の生徒に入れ込むことはだめだったのだと思う。それでも、偶然会ったふうを装って、一緒に回ってくれた。


「それでも余るようだったら、野菜によっては、使いやすく切って、冷凍しておくのがおすすめ。人参や玉ねぎなんかは特にね」

「どんなふうに切るの?」

「ーーそうね……」


 先生は、使用済みのプリントの裏に図を書きながら教えてくれた。





 先生は、あらかじめ買ってきてくれていた人参を取り出した。


 ここで練習したものは、そのまま私たちの夕飯として持たせてくれる。本当はたぶん、いけないことだ。


 でも、先生は周りの様子に気をつけながらも、放課後のこの時間をやめようということはなかった。




「先生は、いちょう切りにすることが多いかしら。かんたんな切り方はね、まず皮をむいたにんじんを横向きで置いて、縦に切ります。そうしたら切り口を下にして置いて、また縦に切るの。もうひとつも同じようにして……ここまでできたら、あとは輪切りにするときと同じように、薄くトントンと切っていってね」


 拙い手つきで包丁を握る私に、先生は「握手をするように持つのよ」と教えた。


「できた!」


 厚さは色々で、不格好だったけれど、きちんと切ることができた。


「こうしていちょう切りにしておくとね、お味噌汁の具材に使えるから便利よ。作れる料理が少なくても、お味噌汁だったらいろいろな工夫ができるわ。ーーあ、根菜は水から入れて煮るのよ」


「根菜って何?」


「根っこの部分を食べる野菜のこと。にんじん、大根、じゃがいも、ごぼう……。

 こういう地面に埋まっている野菜は、沸騰したお湯でゆでるのではなくて、冷たい水の状態で、最初から入れてゆでてね」



 私はうなずいた。メモもたくさん取ったのだけれど、字が汚すぎて、家に帰ったあと読み直しても意味がわからなかった。


 そんな私に、先生は、その日に教えたことをわかりやすくプリントにして毎回渡してくれた。



 こうして放課後にこっそりと付き合ってくれるだけでもありがたいのに、どこまでも優しいその人のことが大好きだった。


 家のことを話すときは、母が責められないように言葉を選んだが、一つだけ告げた本当のことがある。それは、家の汚さだ。なにから手をつけていいかわからなかった。



 担任に教えてもらった通りに、まずは少しずつごみを捨てるところからはじめた。


 生活環境を整えるまでには三年ほどかかり、その春に大好きだった担任が転勤になった。涙が止まらなかった。


 私の中で真に母と言えるのは彼女なのかもしれない。実は、今でも年賀状のやりとりが続いている。


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