4.
ママから電話がかかってきた。
また問題を起こしたのねと問い詰める声から始まり、わたしの言い分は聞いて貰えず、一方的にぎゃんぎゃん喚いて切れてしまった。
街で会った女が、嘘を織り交ぜながらいろいろ言いふらしたのだろう。母は見栄を大切にしていて「友人」が多い。だから、そこから入ってきたらしい。
いろいろなことがありすぎて、ぷちっと、なにかが潰れるような音がした。
わたしは、菫の大学に押しかけた。
失恋したのだと話すと、菫は悲しそうに顔を歪めた。無性に苛立ったから、わたしはあえて遠回しな言い方をした。
愛されているのがわたしではなく菫だなんて、絶対に教えてやらない。いつまでも鈍感でいればいいのだ。
いつかきっと菫は、わたしのカバー画像の意味に気がつくはずだ。そのとき、どう思うだろう?
颯太のことを信じられなくなるのではないか。あの子の絶望する顔を思い浮かべると、わたしは胸がすく思いがした。
わたしはまだ、颯太を諦められずにいたのだ。
一番若くて可愛い時代を四年も費やしたのに、こんなことで諦めるなんて許せなかった。
言葉は滔々と出てきた。
ナガミヒナゲシの花のことを教えてくれたのは颯太だった。菫は、わたしと颯太がどれだけたくさんの時間を重ねてきたのか知らないだろう。
わたしが外来種の花の危険性を告げると、菫はそんなこと知りたくなかったというような表情になり、わたしは満足した。
だが、わたしはふと気がついてしまったのだ。講堂の窓から昏い目をしてこちらを見ている颯太に。――逃げるようにして大学を出たが、すぐに電話がかかってきた。
二度と自分たちに関わるな、と彼は冷たく言い放った。
わたしはもう一度だけ話がしたいと粘った。颯太は答えなかったが、待ち合わせ場所と時間を告げて一方的に電話を切った。
なんだかんだ言っても、あの人はわたしのことが好きなはずだ。きっと、気を引くためにこんなことをしているのだ。そう思わずには居られなかった。
「ちょっと、大丈夫? 顔色が酷いんだけど」
ふと声をかけられ、わたしはぱっと顔を上げた。
声をかけてくれたその人は、猫のようにつり上がった目をした美人だった。
マスクに隠れてはいるが、素材の良さがうかがえる。
わたしとそう年は変わらなく見えた。その人もまた、わたしの心配なんかしている余裕がなさそうなくらい青い顔をしていた。
「--会いたくない奴に会っちゃって、ちょっと精神的に落ち込んでるんですよ」
どうして、話す気になったのだろう。わたしは目の前の豪奢な美女に、成り行きをかいつまんで話していた。
いつの間にか場所をカフェに移して、一緒に甘いものをたくさん食べながら。
「家は近くなの?」
その人は心配そうに訊いた。
「近くだから大丈夫ですよ、ありがとう」
わたしが言うと、その人は視線を泳がせながらも「この辺にいるから、もし途中で具合が悪くなったら電話して」と、紙に携帯番号をさらさらと書きつけ、私に手渡した。
「初対面なのに色々語っちゃってすいません。聞いてくれてありがとうございました」
「--いや、あたしのほうこそ、気が紛れたっていうか.....一人になりたくない気分だったから、助かったよ」
わたしは意外に思った。
「失恋ですか?」
「いや、旦那が浮気相手を連れて帰ってきてさ、追い出された」
美女は、肩をすくめて持っているトランクを指さした。わたしは絶句した。意外とヘビーだった。
「これから、どうするんですか?」
「うーん、頼りにしてた妹には追い返されちゃってね。まあ、あたしがきつく当たってきたから自業自得なんだけど。
とりあえず今日はホテルに泊まって、それから実家に帰るつもり」
それから少し話して、わたしたちは別れた。
ふと思う。こんなふうに、なんの打算も嫉妬もなく誰かと話をしたのって、いつぶりだろう。
わたしは、ホテルに泊まるなら、うちに来て一緒に飲みませんか?と声をかけようと考えたのだが、初対面でそれもどうかと思い直した。それに、颯太との約束もあった。
このとき、勇気をだして声をかけていたら、あるいは、結末は違ったのかもしれない。
彼を呼び出したのは、うちの裏手にある山の廃神社だ。
みっともなくすがりつく姿を誰かに見られるわけにはいかないので、人が来ない場所を選んだ。
その日は夏日で、まだ五月だと言うのにじっとりと暑かったが、鬱蒼と茂る木々に囲まれたそこは、不思議とひんやりとしていた。
わたしは暑さで少しよれたメイクを石段に腰かけて直しながら、頭をフル回転させて言い訳を考えていた。
なんだかんだ言っても颯太は優しい人だ。四年の付き合いもある。泣き落としでなんとか許してもらえるはずだと考えていた。
けれども、いくら待っても颯太は来なかった。憔悴しきっていたわたしは、背後から忍び寄る影に気がつかなかった。
目を覚ますと知らない部屋にいた。そこは半地下になっており、高いところにある窓からは、木の根元が見えた。
動こうとしたら、がちゃりと嫌な音がした。左手が繋がれている。
「ちゆり。久しぶりだね」
そこにいたのは、昔のストーカーだった。
「それにしても今日はついてたな。君にまとわりついてる男には一度返り討ちにされちゃってね、どうしたものかと思ってたんだ。
一人になってくれてよかったよ。やっぱり、君も俺に会いたかったんだね」
男の口がにやりと弧を描いた。
「これからはまた、俺が君を守ってあげるからね」
そのときわたしは、自分が強運だった理由を知った。そして、それが終わったことも。
-鬱金香の章・完-