2.
ところが、そんな日はやってこなかった。それからすぐに母が死んだからだ。
深夜に離れが燃えた。そうして母は逃げ遅れた。それはよりにもよって、僕が六歳になった夜のことだった。
誰が僕を引き取るのか。その話し合いは難航した。
その頃には、大人のような物言いをし、子どもらしくない知識を持つ僕のことを、親戚たちも気味悪がっていた。
しかも、僕は葬儀のときも、骨になった母を見たときも、一切涙をこぼしたり、取り乱したりすることがなかった。
化け物。――という囁きが聞こえていた。
僕は憤った。化け物はどちらなのか。
母が僕を道連れにしようとした。それを知っているのは僕だけだ。
炎にまかれながらも、母は僕の服を握って放さない。僕は暴れに暴れ、力任せにその手を振りほどいた。
すると母は鬼のような形相で僕をどん、と強く突き飛ばした。僕は外へと逃げ出した。振り返ることなく。
離れには放火の痕跡があったという。僕は、それが母の仕業だったのではないかと今も思っている。
それでも、ごくたまに体調が良いときに、縁側で花かんむりを作ってくれたり、絵本を読んでくれた母の顔がちらついて、妙に落ち着かない気分になることがあった。
僕を引き取ってくれたのは、遠縁の裕福な老夫婦だった。
長海家は市の中心部に、邸宅と言ってもいいような広い家を持っていた。
二人には息子が一人いたが、若くして病死しており、僕は実の子どものように可愛がられた。
今でもあの優しさには慣れなくて、気恥ずかしさでなかなか実家には戻れずにいる。
引き取られたばかりの頃は、とりわけ居心地の悪さを感じていた。温かい家庭の雰囲気が重荷だった。
また、川向こうの街で会った少女に会いに行くことができない、子どもという身分が悔しかった。
だが、老夫婦には、十分な教育と美味しい食事を与えてもらった。せめてもの恩返しにと、僕はなるべく養母の手伝いに励んだ。
「颯太ちゃん、卵はね、尖った場所にぶつけて割ってはいけないわ。割れた殻が混ざってしまうことがあるから。平らな場所に軽く打ち付けるようにしてね」
スクランブルエッグを作ろうとする僕に、養母はそう言った。
「牛乳か生クリームを必ず混ぜること。そうすると、卵が固まる温度が上がるの。生クリームを使うとより風味がよくなるわ。――ああ、塩は必ず入れたほうがいいのだけれど、量に気をつけて。
少なすぎるくらいがいいわ」
僕に家庭料理のいろはを仕込んでくれたのは、そろそろ七十代になろうかという年齢の彼女だった。
彼女は昔の人だったが洒落者で、フランスやイタリアといった海外の料理にも精通していたのだ。
長海家のキッチンには、家庭の台所という雰囲気がない。
調理台も部屋自体もとても広くて、さまざまな調味料やスパイス、調理道具がずらりと揃っていた。むしろ厨房といったほうがしっくり来るかもしれない。
ほとんど言葉を発しなかった僕と、朗らかな養母とのコミュニケーションは、料理だった。
料理は意外と性に合っていたようで、やがて、空いた時間は料理の研究に費やすようになっていった。
また、寡黙な養父は将棋が趣味で、食後には必ず僕を呼び、一局指すのが日課だった。
その習慣は、僕が高校に入学するまで続いた。
養父が将棋を指している間に、養母が後片づけを済ませる。僕たちの横には、熱い番茶がいつの間にか置かれている。
将棋が終わると、二人は、庭というには広大な敷地をゆっくりと散歩して、ぬるめの風呂に入ってから眠るのだった。
長海家での生活は、時が止まったように心地が良くて、あの少女への執着は少しずつ薄れていったと思われた。
それから何年かが過ぎ、僕は高校生になった。
相変わらず前髪は伸ばしていたし、野暮ったい格好をしていたが、小学校でも中学校でも、幸いいじめに遭ったりということはなかった。
ただし、根暗な変人という扱いで、遠巻きにされていることが多く、友だちは1人もできなかった。
休み時間は大抵人の来ない場所で本を読んで過ごしていた。
高校に入学してしばらく経ったころ、ーーあれは校庭をぐるりと囲むように躑躅の花が咲き誇っていた時期だった。僕の目は、渡り廊下ですれ違った女生徒に釘付けになった。
優しげに垂れた栗色の瞳、小さくて丸い鼻、ぷっくりとした小さなくちびる。華やかさはないものの、愛嬌があり、どこか目を引くその顔立ち。あれは、コスモスを摘んでいた少女の、妹だ。
成長して大人らしい造作になっているけれど、僕の記憶が間違いないと告げていた。
それからというもの、彼女から目が離せなくなった。
そのまま吸い寄せられるように後をついていき、僕は彼女が一学年上であることや、すみれという名であるということをはじめて知った。そして、そのまま勢い余って彼女を呼び止め、想いを告げてしまった。
僕が「好きです」というと、彼女は驚いたように目を見開き、それから眉根を寄せて少しの間逡巡していた。今思うと、言葉を選んでいたのだろう。
ややあって、勢いよく頭を下げた。
「そう言ってもらえてうれしいのだけれど、お付き合いしている人がいます。――だから、ごめんなさい」
予鈴が鳴っても、僕はその場から動くことができなかった。
間違った。どうして軽はずみなことをしてしまったのだろう。これでもう、永遠に彼女のそばに立つことはできない。
深い喪失感でいっぱいになった僕は、せめて、彼女の恋を応援しようと相手の男を観察することにした。