1.
こっくりと赤いルージュを塗って家を出た。たった一つのいつもと違う行動が、私の運命を変えたのだと思う。
まるで浅瀬に漂っていた硝子の欠片が、強い波に攫われて沖へと押し出されるような、――そういう抗えない力が働いていたようにしか思えない。
あの頃の私は、胸の奥がしんと冷えるような寒さをいつも感じていた。
ふだんなら絶対に選ばない、こっくりとした深い赤色のルージュ。その口紅を手に取ったのは、ほんの気まぐれだった。このご時世だ。誰かに口元を見られるわけでもないのに。
眠らせておくのももったいないから、新しい洋服に合わせてみようと思ったのだ。
とても濃く見えるのに、塗ってみると思いのほか肌に馴染んだ。きっちりとしたほうが似合いそうな気がして、くちびるの輪郭を丁寧に描き込み、最後に指の腹でぬぐってぼかした。くちびるの色を変えただけなのに、どこか勝ち気な、自信のある顔になって驚く。
今度は、ぼんやりとした目元が気になり出した。目尻のラインをいつもより上向きに跳ねさせてみる。それに合わせて眉毛も少しだけ濃く長く、きりりとさせてみる。すると、鏡を見ているのだと忘れるくらい、違う顔の女がそこにいた。
口紅を丁寧にティッシュで押さえて、色を少し落とす。それからマスクに付かないように、粉をはたいた。
口元を隠してしまうと、見知った地味な顔の女は完全に消えてしまった。
私は、自分の顔がきらいだ。
ひどく醜いというわけではない。お世辞でかわいいと言ってもらうことはあるけれど、たいてい小動物のようだと評される。
歯に衣着せぬ性格の姉は、私のことをいつも齧歯類のようだとあげつらっていた。
姉が言うほど歯並びは悪くない。――と、自分では思うのだけれど、彼女の言葉は私の心の深くに沈み込んだのだろう。
いつからか、歯を見せて笑うのがいやになっていた。写真の中の私は、いつもぎこちない表情をしている。
ああ、でも、極めつけの出来事があった。
はじめての恋人に「顔がきらいだから」という理由で振られたことだ。彼と別れてそろそろ五年になるけれど、あれから恋人ができたことはない。
暗いニュースが続くこの世界だが、口元を隠して生活できることだけは、私にとっては僥倖だった。
新しい口紅を塗ったら、少しだけ行動も変えてみたくなった。
家を出る時間を、十分だけ早めてみたのだ。忘れ物がないかざっと部屋を見回して、玄関を出る。
私が暮らしているのは、坂の途中にある、築三十年のマンションだ。とはいえ、外観も居室もリフォームされている。
このマンションはロの字型になっていて、中庭に出るとすべての部屋の玄関がずらりと見渡せるような造りになっていた。
誰も使うことはないけれど、そこにはベンチがあり、外国の風景のように見えることがある。
春空は透けるように明るく晴れていて、やわらかい風が吹くたびに、ベンチのそばに植わった冬青の葉が擦れ、さわさわと心地の良い音が鳴っていた。
ここに引っ越してきたのは今から四年前。大学生になったときだ。
私の住む部屋は、そのときリフォームを終えたばかりで、新築のにおいがしていた。
見知らぬ土地で新しい生活をすることにわくわくした。心の拠り所が見つかると、そう信じていた。
マンションの一階には、喫茶店がある。
少しレトロな看板があり、窓硝子はぼんやりと曇っていて中が見えにくく、一見さんお断りというような雰囲気だ。
気になりながらも、私は一度も入ったことがない。でも、店の前にある看板のフルーツサンドの写真がおいしそうで、ずっと気になっている。
大学へ向かおうとして、ふと、喫茶店の前のコンクリートの割れ目から、二輪の花が立ち上がっているのに気がついた。
一つは私の名と同じ、紫色の花。
そしてもう一つは、そこかしこでよく見かける花だ。
その花は、中心にぽちりとある黄緑色のめしべが目立つ。
よく見ると、先端に雪の結晶のような模様がついており、めしべの周りには、黒っぽく細かい雄しべだろうか、糸状のものがある。
そしてさらに外側に広がるのは、四枚の花びらだ。薄い橙色のそれは、ドレスの裾がふわりと広がっている様子に似ていた。
さほど環境の変わらぬ隣県とはいえ、あれが山奥の街だったからだろうか。
ふるさとでは見たことがないこの花の名前が気になって、調べようと思いながらもう四年目だ。
ふと思い立って寄り道をすることにした。
そのときは名前を知らなかった薄橙色の花と、すみれの花は、絡み合うようにして、風にしなやかに揺れていた。
長海くんに出会ったのは古書店だった。
大学の近くに、植物に関する本を専門とした古本屋があるのは前から知っていた。私の通学ルートからは外れていたから、立ち寄ったことはない。
古書店というと、いかめしい顔の頑固なおじいさんや、線が細くて気難しい眼鏡のおじさんがやっていそうな先入観があったのだが、店主は意外にも若い女性だった。
二十代後半か三十代前半くらいだろうか。ウェーブがかった髪の毛を後ろでゆるくまとめ、やる気がなさそうにあくびをしている。
基本的に話しかけてくるつもりはないらしく、彼女はこちらを一瞥することもなかった。
知らない人と話すのが苦手な私にとってはありがたい環境だ。
初めて入るその店の様子にわくわくし、棚に並ぶたくさんの本の書名を、一行一行静かに眺めた。
授業が始まるまでにはまだたっぷり時間がある。たまに手に取っては、どの本を買うか悩んでいた。
「もしかして、植物図鑑を探しているんですか」
ふと降ってきた声に驚いて顔を上げる。信じられないくらい美しい男の人が、私の顔を覗き込んでいた。
口元はグレーのマスクで覆われているのだが、鼻筋がすっと通り、くっきりと二重を描く瞳は色素が薄く、グレーにもブルーにも見える。
もしかすると、日本の人ではないのかもしれない。近寄りがたい、氷のような高貴な美しさとでも言えばいいのだろうか。
その人は灰色のゆるりとしたシャツの上に、オーバーサイズの黒いジャケットを重ね、黒のスキニーパンツに黒いスニーカーを履いていた。
見上げるほど背が高く、引き締まった身体をしていて、下げている鞄は高価に見えた。
「――ええ」
しばらく見とれていた私は、ようやくそれだけ絞り出して、ふと気後れし、いつものようにうつむいた。
「差し支えなければ、どんな内容か伺っても?」
そのまま話しかけられたことに驚いて、ぱっと顔を上げる。
馬鹿にしているような感じも、不快感も見当たらない、どこまでも純粋な目に思えた。
「--雑草の本です」
私はおずおずと切り出す。そして、道端で見かける花で、名前が気になるものがあるのだと告げた。
こんなことを言うと、スマホで調べればいいと返されるだろうか。ドキドキしていると、彼は目を細めて笑った。そして、信じられないような言葉を放ったのだ。
「野の花ですね。美しいあなたによく似合う」




