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風のアレフ  作者: ハシバミの花
5/13

≪プレデ爺さん≫

村の芸術家のプレデ爺さん。

キリエに次ぐ有名人でありますが、どうにも文句が止まらない人でもあります。

さてさて今回はアレフが活躍を始めます。

≪プレデ爺さん≫


 大人は子供の話を聞かないもんさ。

 みんな自分が子供だったことを忘れて、子供は何も知らないって思ってしまうんだ。



 川下のプレデ爺さんが、またぞろ文句を言いだした。

 プレデ爺さんは絵描きで、それもなかなか有名な作家らしい。この地方の風光明媚を絵に閉じこめて、そいつを町で売って生計を立てているそうだ。

 芸術家、という人種なんだそうだが、どうやらこの芸術家という奴には、変人が多いとか。自分の創りだすものはこの世のなによりも重要で、ほかの全てはそれに従うものなのだと思いがちになるという。そういうような話を、アレフは母・キリエや、村の大人たちから色々と聞いていた。だから、プレデ爺さんが家の近くの川に藁やもみ殻や流れてくるとか、水が濁っていて困るとか、そういうどうしようもない事でいつも怒っているのはいわゆる“芸術家”という奴だから、仕方がないのだろうと考えていた。

 アレフにとってはどうでもいい爺さんだった。興味がないのさ。だって、家に閉じこもってずっと絵を描いている人間なんて、面白くも何ともないじゃないか。

 話を戻そう、そのプレデ爺さんが、またぞろ文句を言いだしたわけなのだが、これがまた、どうしようもない理由で腹を立てていた。

「雨が降りつづきで、川の水が濁っていかん! 何とかしてくれ!」

 馬鹿馬鹿しい、とアレフは思う。

 火中月、夏の真っ盛りは雨が多いものと昔から決まっているし、村の誰かが雨を降らせているわけじゃないので、そんな文句を村長さんに持ってっても仕方がない。

 しかし、それを仕方がないで済ませられないのが、村長という立場だ。なんでもこのプレデ爺さん、これでも村で有数なお金持ちらしく、そういう人の話は、他の人にもましてしっかりと聞いてやらなければならないのだそうだ。しっかり聞いたところで、雨が止むとは思えないけど。

「そういう訳なんじゃよ。済まないがキリエ、手を貸してくれないか?」

 で、困り果てた村長さんは、アレフの母を訪ねた。“緑の魔女”の異名をとる彼女ならば、なにか知恵でもあるんじゃないだろうか、というわけだ。

 じっさい問題、そんな上手い話があるはずも無いのだが、そこは人づき合いの良いキリエのこと、無ければ無いで、そう言ってやらなければプレデ爺さんも納得すまいと、拭き掃除の手を止めて、ポンチョを引っぱりだして着こみはじめた。

「村長さんのところに行くの?」

「ええ。夕方までには帰ってこれると思うけど、遅くなりそうだったら適当にご飯を食べておきなさいな」

「俺も行っていい? もう、家にいるのに飽きたんだ」

 長雨は、子供たちの足も止める。水かさが増した川では大人だって溺れるかもしれないし、そんな中、子供を表に出す親なんていやしない。だから学校も休み。

 そんなわけで、アレフは一週間ばかり、母親以外の誰とも話をせずにいた。そりゃあうんざりもするだろう。よりにもよってアレフみたいな悪童が、五日間も家にこもりっぱなしだなんて!

 キリエは少し考え、村長さんに視線で許しを求め、

「そ、良いけど? 雨具は自分で出しなさいな」

「すぐ着てくる!」

 アレフは大急ぎで自分の部屋にとって返し、すでに用意してあった、母とそろいのポンチョを頭から引っかぶる。

「さあ! いこうよ!」

 最初っからそのつもりだったのだ。手際の良さに村長さんは目を細めて笑い、

「まったく!」

 キリエも、苦笑を禁じえなかった。

 三人は連れだって雨の中へとびだした。ざあざあと猛烈な雨が、肩や背に重たいほど降りかかる。雨具から雫がこぼれ、ズボンの膝をあっというまにずぶ濡れにした。足下はいつも通りの裸足なので、どうと言うことはない。地面が煙るほどひどい雨の中なのに、アレフは上機嫌さ。だって村長さんのうちには、

「そんなにライラに会いたいの?」

 キリエが小声でいじわるを言ったから、アレフは赤くなって母親を睨みつけた。



「まあおじい様、素敵! アレフまで連れて来てくれたの?」

 道を進んで村長さん橋をわたり、村長さんの家に入ると、ライラが輝くような笑顔を見せた。雨粒滴る三人のポンチョを受けとり、一つ一つ広げて壁にかける。

「キリエ、座っていてくれ。プレデを呼んでくる。ライラ、アレフにお前の部屋を見せてやっておあげ」

「はい、おじい様。ねえ来てアレフ! すてきな絵本があるの!」

 かわいいライラに手を引かれ、アレフは

「うん」

 といつもより素直に従う。まわりに他の男の子がいないのに、格好つけて見せる必要はないだろ? 二人っきりなら、男の子は女の子に優しくあるべきと、古の詩人も唄ったものさ。

「さあどうぞ!」

 ライラが上機嫌で見せた部屋は、かわいい人形や、きれいな絵や、変わった刺繍でいっぱいだった。村長さんの家だけあって、さすがに裕福だ。だからライラはこんなにかわいいんだなと、アレフはずれたことを考えている。

「この本を一緒に読みましょう! すてきなすてきな物語なの!」

 ライラがかざして見せたのは、“ジャッキー・ジャック物語”の第三巻、“ジャッキー・ジャックと幻城のお姫様”だった。

 ジャッキー・ジャックは白馬に乗った騎士だ。王様から授かった魔法の鎧を着こみ、愛馬リュッフェンを駆って、世界のあらゆる土地へ旅をする。ゆく先々で、世界の邪悪と戦い、打ち倒し、そしてそこに住む人々に平和と幸せを贈り物にする。勇敢なジャッキー・ジャック。彼はいまも、どこかで人々を救っているのかもしれない。

 さて、第三巻“幻城のお姫様”だが、この本でジャッキー・ジャックは呪われた城に住む美しい姫と、悲しい恋をする。宿敵たる邪悪な魔法使い、グレンダルに呪われたとある地方の王族、その最後の生き残りが、この幻城のお姫様である。領民誰もがこの姫を恋い慕うのだが、姫はかけられた呪いで日ごと病魔に蝕まれる。

 そこで立ち上がったのが、偶然通りかかった我らがジャッキー・ジャックだ。

 ジャッキー・ジャックは姫の勇敢な親衛隊とともに、悪の魔法使いグレンダルの住む悪魔の谷へと赴く。死者を操り、ジャッキー・ジャックを亡き者にせんとするグレンダル。

 さあこいグレンダル、貴様のよこしまな望みを打ち砕いてやる! 何をこしゃくなジャックー・ジャックめ、お前など王の威光をはぎ取ればただの若造よ! 

 激しい戦いの末に、ついにグレンダルはその野望を打ち砕かれる。だが、邪悪な魔法使いは巨大な黒コウモリ竜の背に乗り、あわやの所で逃げてしまう。復讐を誓うグレンダル、白馬リュッフェンにまたがり宿敵をにらみつけるジャッキー・ジャック。

 呪いが解け、本来の美しさを取りもどす幻城の姫。

 儀式を経て女王の座につき、愛しきジャッキー・ジャックを親衛隊長に、やがては王座へと迎え入れたいと望む。ジャッキー・ジャックも、彼女を愛してしまっていたが、自分にはすでに忠誠を誓う王がいると、彼は悲しみながらその栄誉を辞する。

 やがて国を去るジャッキー・ジャックを、悲しげに見送る若く美しき女王。

 リュッフェンにまたがるジャッキー・ジャックも、離れゆく魂の恋人の姿にこっそりとため息をつく。

 ……という物語なのであるが、邪悪な魔法使いグレンダルが出てきたあたりで、アレフは退屈しはじめた。大体この騎士とお姫様の会話が、愛だの恋だのとやたらに甘ったるく、そのうえ魔法使いが悪役なんである。

 本当の魔法使いは、こんな奴じゃないや。

 キリエという類まれな人物を母に持ったアレフには、そういう思いがある。魔法使いが悪役として描かれることに、強い抵抗があるのだ。優しく厳しく、美しい母を、アレフは心のどこかで誇りに思っている。子供が自分の親を、誇りに思う。それは幸せな事なのだ。

「こんなの、嘘っぱちさ!」

 だからアレフがそうやって文句をつけると、ライラが悲しそうにした。

「だって、これは物語だもの……」

「そうじゃなくてさ、こんなに悪い魔法使いは、本当にはいないって言いたかったんだ」

 アレフがへどもどになって取りつくろうと、ライラもほっとして、

「そうよね、先生はこんな魔法使いじゃないもんね。きれいだし、優しいもの」

 と言ってくれたのでアレフも安心した。

「シャルとも一緒に読んだの。シャルったらおかしいの、『どうして男の子ばかり冒険して、女の子はお城で待っていなきゃならないの?』だって言って、本気で怒るのよ」

「シャルは、男の子になるべきだ。そのほうが絶対にいい」

 時々そのことを、アレフは本気で考えている。だってシャルなら駆けっこも早いし、賢くて口喧嘩も強いし、友達になれたら、どんなに心強いだろう。

「それは困るわ。だってシャルがいなくなったら、誰が男の子のスカートめくりをやめさせてくれるの?」

「もう、しない、しないさ」

 急にスカートめくりの話なんてされたので、アレフはさっきよりもうろたえた。シャルも言ってから気がついたようで、しばらく二人は目を合わせたり外したりしている。

「馬鹿な事を言うんじゃない!」

 一階から、怒鳴り声だ。プレデ爺さんの、しゃがれて甲高い声。アレフは部屋をとび出て、階段の下を覗きこむ。

「どうしてわしが居を移さねばならんのじゃ! この村に、あそこよりもましな場所なぞ無いのだぞ!」

 ライラがアレフの背中にはりつき、

「またプレデさんが怒っているのね? どうしてあんなに大きな声を出すのかしら。どれだけ怒っても、雨が止む訳でも川の水が澄みわたる訳でもないのに」

「さあ」

 世の中をよく知らない子供たちにとって、プレデ爺さんという人は、全く理解に苦しむ存在だった。だって、そんなにきれいな水が欲しいんだったら、桶に水を汲み置くなり何なり、ちょっと手をかければ済むのに、それもせずに、駄々っ子みたいにわめくばっかりだ。

「だから何故わしが引っ越さねばならんのじゃ! わしゃあ村にたんと金を出しておるんじゃぞ! 引っ越すのなら、川の方じゃろう!」

 まだ怒鳴っている。

「川が引っ越すわけないじゃんか。プレデ爺さん、頭に血がのぼりすぎておかしくなったんじゃないのか?」

「でも、いつもあんな感じなの。本気で言っているのかしら?」

 はあ、なるほど。自らの創りだす物がこの世でなにより重要で、他の全ての物はそれに従うべきだと思いがちになるのが芸術家だそうな。変人の多い人種と聞いてはいたが、

「いつも? 川を引っ越させろって?」

「ううーん、あと、紅葉の山を描きたかったのに葉が散ってしまったから戻せとか、山に霞がかかってじゃまだから、雲をおいちらせだとか」

 これは重症である。皇都を囲うストッグ運河じゃあるまいし、そんな大きな治水工事が出来るはずがない。アレフのような子供にだってわかる話だ。

 やがて言いたい事すべてを吐き散らし、プレデ爺さんは帰っていった。

「全く、はあ。あの人にも困ったものじゃな」

 ため息をつく村長さんだが、プレデ爺さんとは子供の時分からのなじみだそうな。あの二人に、自分とレニやクランバルたちのような子供時代があったなんて話を、アレフはどうも上手く思い浮かべられない。

「あらあら、ああいう生まれながらの文句屋には言いたい事を全部吐き出させてやるものだ、私は昔誰かさんからそう聞いた覚えがあるわ」

「おいおいキリエ、老い先短い年寄りから愚痴まで奪おうというのかね? 魔法使いこそ、誰より賢くあらねばならない存在じゃろうて」

 お互い無理してからかうような口調でやりあい、そのおかげでこわばった空気が徐々にほぐれる。

「もう終わったの?」

 階段を降りてくるアレフたちに、

「聞いていたのね。いけない子供たちだわ!」

 キリエが先生の顔で二人の額を人さし指で突っつき、子供たちはくすぐったそうに笑う。

「さあ、帰りましょうか」

「もうかね? アレフもいる事だし、夕食ぐらい食べてゆけばよかろう。なんなら、お茶だけでも飲んでゆけばいい」

 裕福な村長さんちの食卓には、どんな食べ物が並ぶのだろう。好奇心の旺盛なアレフは是非ともその申し出に甘えたかったのだが、

「カビの生えそうな物がたくさんあるの。この長い雨には、参っちゃうわ」

 ポンチョを着込みながら、やんわりと断るキリエに、ガックリと肩を落とす。

 猛烈な雨の中に二人で戻り、暖かでしっかりした立て付けの村長さんちにさよならをする。

「先生、それじゃあまた、アレフもさようなら」

 ライラが村長さんと並んで手を振るのを、アレフはなごりおしげに見つめていた。豪雨の中、村長さん橋まで戻ると、ごうごうと唸る濁流を覗きこむ。

「どうかした?」

 中々顔をあげないアレフに、キリエがうしろから声をかける。アレフはそれに答えず、やにわ橋を渡り、川沿いをさかのぼりだす。

「こら! どうしたの!」

「ちょっと! 気になることがあるんだ!」

 言い捨てて、どんどんと足を早めるアレフ。流れを見たときに湧きおこったこの胸騒ぎはなんだろう。巻き上げられた泥と、折れた枝が渦巻きながら流されてゆく。おかしい。普通じゃない。何かよくない事が、起こり始めている。川は遡るにつれて木々の多いところに入りこみ、そして険しい谷に達する。

 異臭がした。腐らせた卵みたいないやな臭いだ。下ばえや雑草が多いはずの足元が、やけにぬかるんでいるのもおかしい。よく目をこらして見ると、斜面のそちこちから水が吹きだしている。

「何だろうこれ、ぅわあ!」

 悪路に踏みだした足をとられて、アレフは頭から転ぶ。

「いてて」

 ずぶ濡れになってしまった体を起こそうとして手をついたとき、激しい雨が地を揺るがす中で、不気味な音に気がついた。

 ぶつり。

 ぶつりぶつり。

「なんだろう、この音」

 地の底から、わきあがるような低い音だ。まるで、地下に閉じ込められた伝説の悪鬼が、地上にその姿を現さんとしているかのよう。その正体を見極めんとアレフが首をめぐらせたその瞬間、目の前の風景が、丸ごとずるんと横滑りする。

「危ない!」

 ポンチョの背中をつかまれ、引っぱり戻される。目の前の地面が、割れて砕けながら生えていた木々ごと谷底に滑り落ち、濁流に飲み込まれていった。

「地滑りよ。危なかったわ」

 キリエだった。木の枝をつかみ、反対の手でポンチョを握りしめていた。先ほどまでアレフが立っていた地面も、ごっそりともっていかれていた。

「馬鹿……駄目でしょう。こんなに危ない事をして」

 アレフを引き寄せ、力いっぱいかき抱く。声には強い慈愛がにじんでいる。

「川の色が変だったんだ。だから、確かめようと思って」

 キリエは川を見る。泥流と化した川には、言われてようやく気づくほどの緑灰色が混じっている。

「地下水が噴き出て粘土層が崩れ始めているんだわ。危険ね。今崩れた土砂がダムになって、村に鉄砲水が襲いかかるかもしれない」

「どうしよう」

「村の人たちを避難させなきゃね。ついてらっしゃいアレフ。――それと」

「なに?」

「母さんが止めるのも聞かずにこんなに危ない場所にはいって、いけない子」

 頭をグーでゴツンとやられ、アレフは口をとんがらせた。けれどキリエがあんまり厳しい顔をしているので、何も言い返さなかった。村一番のいたずら小僧だって、時には素直になるものさ――特にこんな嵐の夜には。

 むっつりと黙りこむ息子をもう一度胸に抱きよせ、したたり落ちるしずくを払い落としてやりながら、キリエは笑った。

「さあ大仕事よアレフ。自慢の駆け足、たっぷりと見せてちょうだい」


 まず村長さんに知らせてくるわ。キリエはそう言って木々の中に滑りこんでいった。アレフも言いつけどおりに森から離れた家に住む人たちの戸を、乱暴に叩いて回る。もちろん言いつけどおり、なるたけ川には近寄らないようにして。

「誰か! 出てきてよ! 誰か!」

「おやおやアレフじゃないかい。いったいどうしたって言うのさ、こんな雨の中こんな時間に」

「上流で土砂崩れがあって、流れがせき止められているんだ。もうすぐ川が氾濫するかもしれない。だからみんな早く逃げなきゃ!」

 音に聞こえたいたずら坊主のアレフの言うことだから、はじめは誰もが半信半疑だったが、川のどこそこが崩れてる、地面が全部風に飛ばされたシーツみたいに流れ落ちて、いま川の水が半分ぐらいになっている、なんていう具体的な話を聞くと、

「こりゃあ一大事だ」

 さすがに青ざめて、家族を起こしにゆく。

「大切な物だけを持って教会に行って! あそこなら高台だから流れはこないから!」

 キリエに教えられた通りの説明をして、アレフは次の家に向かう。

 レニやクランバルたちの家でも彼らに挨拶するまもなく、次から次へ、急ぎ足に用件だけを伝えてゆく。

 シャルはどうしただろう。

 アレフの胸に、真夜中の狼星みたいにそんな心配がひらめいた。

 ライラは村長さんと一緒にいるはずだから大丈夫、もう安全なところに非難したはずだ。ほかの学校の子たちのところも、あらかた回り終えた。

 だけど、シャルの家は?

 シャルは村のはずれに、老いた祖父母と住んでいた。前の冬にゾーイ祖父さんが死んでしまっているので、いまは祖母との二人暮らしだ。キリエが村長さん家から順繰りに回るとして、だからシャルのところに行くのは、一番最後になるはずだ。

 母さんは、いまどこらへんを回っているのだろうか。緑の魔女と呼ばれたライラである、大きな木がある所へは、魔法の靴で飛びはねるみたいにすいすい行ってしまうが、原っぱや何もないところには、自前の靴で歩かなければならない。魔法使いだからって、何でもできる訳じゃないのさ。

 むずむずと、アレフの中の虫が騒ぎだした。シャルの家は川向こうで、キリエはアレフに川には絶対に近寄るなと言いつけた。

「ちょっとだけなら、かまわないさ」

 そうさ、ほんのちょっとだけ。ぱっと川を渡るだけ。川のこっちの家は全部回ったから、ちょっと母さんの手伝いをするだけさ。

 村長さん橋からずっと下流にある木の橋のほうへ、アレフは風のようにかけだした。



 下流にある木の橋は、木造りだが大きくしっかりとした橋で、馬車が二台並んで渡っても、びくともしないような橋だった。

 だがその木の橋はこの豪雨の中、今まさに押し流されそうになっていた。何という事だろう、いったんは下がった川かさが、今またその勢いを盛り返し、泥まみれの激流となって、どこからか根っこからひっこ抜いた巨木を橋げたに引っかけて揉みくちゃにしている。そのままにしておけば、やがて橋の骨組みをねじり折ってしまうだろう。

 ――このままだと、橋が折れてしまう。誰か大人を呼ばないと。

 ――いやそんなにのんびりしている暇はない。今は一刻も早くシャルの元に行かないと。

 頭に浮かぶのは、いつだかに泣かせてしまったシャルの顔だった。つかの間迷ったアレフだが、考えていても埒があかないと意を決し、

「ええい!」

 掛け声とともに、吹きつける雨と風を掻き分けつっきる。いつもは頼り甲斐を感じていた板張りの足元が不気味にゆれ、時折大きくたわむ。ミシリ、ミシリと骨格のきしむ音に肝を冷やしながら、アレフは必死で足を前に出す。中ほどを越えたあたりで

「あっ」

 濡れて滑りやすくなった地面に足をとられ、しぶきをまき散らしながら転ぶ。横なぐりの風に流され、あわや橋下に転落というところで板の継ぎ目に指をひっかけてとまる。

「あぶなかったあ」

 胸の中ではねまわる心臓。本当に死ぬかと思った。アレフが立ち上がり、また駆けだそうとしたその時、背後で木々がねじ折られる耳ざわりな音がした。

 ふり返って仰天したのも無理はない、橋が、真中から流されようとしていたのだから。

「やっばい、やばいやばいやばい!」

 考えるよりも早く足が動いたのはさすがだ。柱が流され、横木がへし折られる間一髪のところで、アレフは橋を渡り終えた。

 荒い息で呆然と、完全に倒壊してしまった木の橋を眺める。

 ――水かさが、また増してる。

 轟々と渦巻く川の流れを後にして、アレフは猛然と走り始めた。



 アレフが我が家に飛び込んできて、シャルは驚いた。だって外はこんなにすごい嵐で、もう一週間も家から出られず、祖母と二人っきりで心細く、だけどそんな事よりも困ったのは、シャルがちょうどアレフのことを考えていたからだ。

「シャル! シャルはいる?」

 ドアが壊れんばかりに叩かれ、頭からつま先までずぶ濡れで泥まみれの足元で転がりこんだアレフを見て、だけれどシャルが一番にやったのは、アレフを怒鳴りつけることだった。

「何よアレフその格好! いやだ、家の中を汚さないで!」

 相変わらずの金切り声を聞いて、アレフも内心ほっとした。が、時は一刻を争う。滴を絨毯に落とすのも気にせず、アレフはまくしたてる。

「川が氾濫している! 上流で土砂くずれがあって、もうじき鉄砲水が来るかもしれない! 服を着ろ! 雨具も!」

「冷たいったらアレフ! 鉄砲水? うそ! ……本当?」

「本当さ! もうすぐ母さんだって来る! だから早く支度して! ここは下流でも川の側だから、鉄砲水が来たらひとたまりもないよ!」

 勢いに納得させられたシャルが、青い顔できびすを返す。

「おばあちゃん! ジョウニーおばあちゃん!」

 自室の暖炉でうつらうつらとしていた祖母を騒々しく起こし、せかして服を次々とかぶせる。

「早く逃げなきゃ!もう水はすぐそこまで来てるかもしれない!」

「お待ちよ、年寄りはそんなに早く歩けないのさ」

「きゃあ!」

「おや」

 ドアをあけて、三人は立ち尽くした。川はすでに氾濫し、水が本当にすぐそこまで来ていた。ほんの十歩先の地面を、小さなうねりを作って、下流へ下流へと流れてゆく。ひと波ごとに水位は増し、シャルたちの家に迫っている。

「やばい。もうすぐここも水に飲まれる」

 言っている間にも、水は迫ってきている。まさに時間の問題だろう。

「あんたたちだけでもお行き。わたしゃここに残るよ」

「おばあちゃん!」

「年寄りは死ぬものさ。この年で、あの人との思い出の詰まった家を失うのは死ぬよりもつらいさね。だからさあ、早くお行き」

「どうしてそんな事言うの?おばあちゃんが死んだら、私一人ぼっちになっちゃう!」

 涙声で訴えるシャルを、ジョウニーばあさんは悲しそうに見た。

「そうだねえ、可愛いシャル。あんただけが心残りさ。だけど心配はいらないよ、いざとなったら隣村の従弟に、あんたの事は全部頼んである」

「そんな……」

 愕然とするシャル。アレフはなんだかムカムカしてきた。

「なに馬鹿なこと言ってんだよばあちゃん! シャルが一人になったら可哀想だってんなら、さっさと逃げなきゃ! そんだけ口が動くんだから、足だって動くさ!」

「だけどねえ」

「もういいよ!」

 叫ぶやいなや、アレフは無理やりジョウニー婆さんを背負いあげた。細く見えて背も低いアレフだが、いたずらをする分だけ力も有り余っている。

「いくぞシャル!」

「……うん!」

 家を飛び出すころには、もう水かさはアレフたちの足首まで来ていた。

「やれやれ、まったく若い者ときたら、無茶をするんだから」

 のんびりと言うジョウニー婆さん。水しぶきをはねあげながら避難場所の木こりの山小屋に向かう。その途中で、村長さんとばったり出くわした。

「おやもう逃げてきていたのか。よかったよかった。川向こうの者たちは、すでに避難を終えたのかね?」

「家は全部回った。シャルたちで最後?」

「それがのう」

 村長さんは難しい顔をし、

「プレデの奴が、またきかん事を言いだしおってな。今キリエが説き伏せているところなんじゃが……。知らせが遅れてはいかんと思って、わしだけはジョウニー、あんたん所に来た訳じゃよ」

 ため息をつく。またあのじいさんか。アレフはうんざりした。どれだけ嵐に文句をつけても、川の氾濫が止むわけない。

「わたしをつれてお行き」

 話を聞いたジョウニー婆さんが断固として言い、三人はぽかんと彼女の顔を見つめた。



「どこにも行かんと言ったら、どこにも行かん! キリエ、おまえさんは魔法使いなのじゃろう! 雨など、止まさせるがいい!」

「無茶を言わないでプレデさん。魔法は万能じゃないの。料理道具と同じ。できる事と、できない事があるんだから」

「そんなもの知ったことか! ともかく、わしゃ出てゆかん!」

 相変わらずがなりたてるばかりのプレデに、さすがのキリエもぐったりしてきた。これまでどれほどの時間、こうやってプレデじいさんの家で不毛なやり取りを続けているのだろう。教会の鐘が聞こえたなら、キリエはいくつ鐘の音を聞いたのだろうか。

「やれやれ、相変わらず弱い者の前でだけは威勢がいいじゃないか、鼻垂れプレデ」

 ドアが開いて、嵐のけたたましさとずぶ濡れの雨にまみれ、アレフの背に乗って現れたのは、シャルの祖母、ジョウニー婆さんだった。

「ジョ、ジョ、ジョウニー……」

「まったく、相手を選んで偉そうにするんだから質が悪いんだよこの男は。キリエ、こんなのに道理を説き伏せても駄目さ。いっそ放り出して、川に流しちまいな」

「おばあちゃんったら……!」

 シャルが恥ずかしそうにしたが、アレフはまったくもってこの意見に大賛成だった。

「な、な、な、な、何じゃとジョウニー、わしはもう、お前にいじめられていた頃のわしじゃない、都に出て、有名な画家になったんだ、金だって、村にたんと払っておる、いわば名士だ! お前なんぞに」

「やかましいんだよ! この鼻垂れプレデ! 昔の言葉を忘れたのかい! 私にそんな台詞を吐くなんて、百年早いんだよ!」

 村長さんどころかキリエまで言葉をなくすほどの、吹き荒れる嵐にも負けないものすごい雷だった。

「お前がいくら金持ちになった所で、このわたしに逆らえるなんて思わないことだね! さっさとこの家引きはらって、絵の道具でもなんでも後生大事に抱えて山小屋までお行き!」

 プレデ爺さんピョコンと立ち上がり、さっきまでのえらぶった姿はどこへやら、わたわたと絵の道具をかき集め、大慌てで走っていった。

「あらまあ、雨具を忘れて言ったわ、あの人」

「持っていっておあげ。まったく、昔っからああさ。怒られると、すぐに泣いて逃げ出す」

 それから全員で家を出て、山道に入り山小屋を目指す。

「ねえ、ジョウニー婆さんって、いじめっ子だったの?」

 キリエの背で丸くなっているジョウニーを指さし、アレフが村長さんにこっそりと聞いた。

「わしらより五つ年上でな、美しかったが、怖い姉様だったよ。プレデは特に目をつけられていてな、年中怒鳴られとった」

 アレフは傍らを歩くシャルをじっくりと眺め、

「似てるな」

「……馬鹿!」

 思いっきり尻をどやされる。一方ジョウニー婆さんはキリエの背に頬を埋め、

「まったく、久しぶりに大きな声を出しちまったから、疲れたよ。おおキリエ、あんたの背中は気持ちがいいねえ。ちょっとの間だけ寝かせとくれ」

 すうすうと、寝息を立て始めた。



 轟々と、眼下で氾濫する川を、アレフたちは高台から見下ろしている。

「よく見ておきなさい。自然のうねりは、人がどんな城を建てたって魔法を駆使したって操る事なんてできないものなのよ」

 キリエの言葉と、目の前で繰り広げられるすさまじい光景を、アレフは頭の中で重ね合わせている。黒々とのしかかる雲からは、いまだ叩きつけるような雨が降りしきり、遠くの景色をけぶらせている。

「その言葉、プレデ爺さんに行った方がいいよ」

 アレフはしごくもっともなことを言ったが、

「大人をそんな風に茶化してはいけません」

キリエに一蹴されてしまった。

 この氾濫で、シャルの家を含む村のいくつかの家屋が流されたが、幸いにも死者はなかった。

「いたずらアレフも、たまには良い事をする」

 大人たちは口々に言って、アレフを誉めた。たまにとは何だたまにとは、アレフはそう憤慨したが、大人たちの言うことは、そんなに間違っていないのだから仕方がないさ。

 だろ?



次回第六話、アレフが憧れる山岳師ウイージェの登場です。

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