≪一角馬と隣村の男の子たち≫
伝説の霊獣が棲むといわれる一角馬山、そこから流れ落ちる滝つぼにゆうゆうと泳ぐヌシ。
さて勝負の行方はいかに?
≪一角馬と隣村の男の子たち≫
男の子に生まれたなら、絶対に負けちゃいけない場面があるのさ。
女の子には、判らないだろうけどね。
隣村のカリガルといえば、音に聞こえたガキ大将だ。体がでかく、声もでかく、なんてったって遊びが上手い。隣村、三つ国峠村はツェルテ湖に面していて漁師がおおく、だからそこに住む子供たちはみんな釣り上手に育つ。その中でも、カリガルは特に釣りが上手いのだ。緑風村で最も釣り上手なのはアレフだ。アレフなら、三つ国峠村の者にも負けないぐらいに魚を釣るだろう。だが、そのアレフでもカリガルにはかなわない。
普段はそれでもなんの問題もないのだ。上手い奴はたくさん魚を釣ればいいし、下手な奴でも、糸を垂らせばそれなりに釣れるだろう。水辺にいけば、魚はいくらだっているんだから。だったらなぜこんな話を長々とするのかというと、つまり狙う魚が一匹しかいないとき、二人の間に重大な問題が生ずるんである。
そう、例の黒斑鱒だ。
黒斑鱒のいる滝壺は小さな湖沼になっている。
流れおちる滝のある岩山は伝説の霊獣一角馬の棲み処とされており、勇気と強さの象徴とされている。
とはいえ男子たちには見たこともない霊獣よりも、釣りあげられる黒斑鱒だ。
「カリガルだ、やっぱり来てやがった」
一角馬山のふもと、奥の滝の滝つぼがつくる小さな湖沼のほとりで、アレフは誰よりも先にその大きな体を見つけた。アレフたちの対岸だ。他にも二三人の姿が見える。
「やばいぞ、あいつらもヌシを見つけたのかな」
「ああ、他の奴らならともかく、カリガルが見逃すはずがない」
弱気な顔を見せるレニを叱りとばすように、
「おい、不安そうにするな! 隣村の奴らがつけあがるだけだぞ! しゃんと背中伸ばして、あいつらをにらみ返すんだ!」
対岸の彼らもアレフたちに気づいたようだ。動きがあわただしくなり、こちらを指差して、何か喋っている。カリガルだけは動じた様子もなく、腕を組んでアレフたちを睨んでいる。アレフも、カリガルの視線をうけとめ、弾き返さんばかりに睨みつける。二人は長すぎるぐらい見つめ合い、それから同時に動きだす。
「用意しろ、あいつらに負けるな!」
男の子たちは上着を剥ぎとり裾をまくりあげ、おのおの竿をつなぎ糸に仕掛けを作りだした。シギシギ鳥がぎゃあと鳴いて羽ばたき、白銀狼山のほうに飛んでいった。
「やっほ、遊びに来てあげたよ――調子はどうなのかしら?」
網カゴを持ったシャルたち女の子がアレフたち男の子の元に顔をだしたのは、村に流陽の五つ鐘が響きわたった頃だ。アレフたちが、奥の滝に棲むヌシを釣り上げんとしているという話をぬすみ聞いて、ちょっと様子を見に来たのである。もちろん、釣果がそれなりならばおこぼれに与ろうという下心もあるのだが。
なぜって? 男の子の手に入れたものは、そのだいたいが女の子のものになる。どの家でも夫婦というのはそんな感じだし、歴史だってそれを証明している。わらべ歌も詠ってるだろう?
夫が射落とす山鳥を
妻が取り上げ竈で煮込み
お腹がぽっこり膨らめば
ころり赤子が転がり出るさ
「わわわー、こんな所があったんだ。水がきれいねー」
「見てよエプロン、かぎ裂きがこんなにできちゃった。いやだわ。どうして男の子ってこんな所で遊びたがるのかしら」
「やだやだ、木の実みたいのがいっぱいくっついちゃった。取ってよ取ってよ」
やかましく現れて勝手な事をわめきたてる女の子たちに、竿を出したまま男の子たちは返事もしやしない。そんな余裕はないのだ。
「――釣れてないの?」
手近な子にライラがたずねると、年少の男の子たちは首をふってばらばらに言う。
「釣れてるんだけど……」
「だめなんだ」
「あいつら、ずるいんだよ」
指差した方を見ると、腰まで水につかったアレフが、エサを付けかえているところだった。乱暴に竿をふりまわし、仕掛けを投げる。背を向けたままでも、不機嫌さが伝わってくる。
「どういうこと?」
シャルが問うと、男の子はモゴモゴと口を動かし、アレフの方をさし、
「三つ国村のやつら」
よく目をこらして見るとアレフの後姿の向こう、滝つぼからすこし離れた湖沼の中ほどに、小さな舟が浮いていた。三人からの少年が乗っていて、そこで竿を振っている。そのもっと向こう、対岸にも何人かの人影が見える。
なあるほど。合点がいったという顔で、シャルがライラに話をふる。
「カリガルがいるわ。それでアレフ、あんなにぷりぷりしてるのね」
二人がたがいに張り合っているのを、二つの村で知らない子はいない。どっちも負けず嫌いなガキ大将だ。衝突しないわけがない。
「おーい! スコーンを焼いてきたよ! 休憩にしたら?」
シャルが呼びかけると、わあいと歓声が上がって、幼い子から順に竿をほうり出す。
「おいアレフ、俺たちも休もうぜ」
「スコーンか。鉤ブドウのジャムがあればいいけどな」
ざぶざぶと水から上がるレニとクランバルだが、アレフはふてくされたまま竿を握りつづけている。魚信に合わせて竿を上げると、山女が釣れていた。無言でそいつを魚篭に入れ、エサをつけなおし、仕掛けを投げる。
二人は呆れたように肩をすくめ、岸に上がってスコーンにありつく。
「アレフは?」
シャルとライラに一緒に問いかけられ、クランバルは胸をたたいてスコーンを飲み下した。
「カリガルがいるんで、むきになってる。呼んでもきやしないよ」
「今日は山女ばっかりかかって、鱒なんて一匹も釣れないんだ。俺だけは釣ったけど」
この日一番魚信のきているレニは、一人だけ満更でもなさそうだ。中ぐらいの紅鱒を腰の魚篭から取りだして見せる。
「凄い! レニが釣ったの?」
女の子たちからキラキラした目を向けられ、レニはいっそう鼻高々だ。
「鱒は魚信があっても、すぐに竿をあげちゃいけないんだ。賢いから、用心深い。最初に小さく魚信が来て――それから大きいのが来る。その時に――ぱっ――あわせるんだ」
わっと歓声が上がるが、アレフはむっつりとしたまま、ふりかえろうともしない。レニが女の子たちにちやほやされるのも悔しいが、カリガルたちにあの黒斑を釣り上げられるのはもっと悔しい。
魚信に竿を合わせたが、エサのヤゴをかじり盗られていた。むすっとこちらに背を向けたままエサを取りかえるアレフに、たかが魚釣りに何をそんなにむきになってるんだろうとシャルは首をかしげる。
「おおーい、一緒に食べないのー?」
呼んでみてもアレフは答えず、魚影のありそうなポイントめがけて仕掛けを投じる。
「ほんっと強情なんだから。なんだろうね」
ばっかじゃないの? とライラを見ると、
「男の子って、かわいいね」
意外や好意的な言葉が返ってきて、なぜか胸の高鳴るシャルであった。
陽が、傾きつつあった。
カリガルの乗る小船を先頭に、三つ国村の連中は着々と釣果を上げ、対して緑風村の面々は、時とともに魚信が遠のいていた。黒斑が棲むのは、泉の一番深いところだ、滝つぼ近くや湖沼の中央部、自在にねらい場所を移せる小船での釣りの方が、だんぜん有利に決まっている。しだいに勝負の趨勢は三つ国村の側にかたむき、それにつれて緑風村の者たちも苛立ちを隠せなくなっていった。
「おーい、お前ら何匹釣ったんだよー!」
カリガルと舟に乗っている取り巻きの一人が、中腰になって声をはりあげる。その顔には、勝者の笑み。
「俺たちはあ、もう鱒を十匹も釣り上げたんだぜー!」
笑い声まであがる。これで穏やかにいられるはずがない。
「そんなの、舟があるからだろー! 腕前じゃないさ!」
クランバルがやり返すが、
「じゃあ貸してやろうかー? お前らも釣ってみろよー!」
また笑い声。アレフが何も言わないことで、余計に緊張感が増す。ライラが助けを求めるようにシャルを見、シャルは大きく息をすいこむ。
「怒っちゃだめよアレフ、あんなの放っときなさい!」
「女なんかに助けられてやがらあ! 緑風村のアレフってのも、大したことないぜ!」
「なによ女なんかって! 女がいなかったら、男だっていないのよ! あんた! 今とおんなじこと、自分のお母さんにも言えるんでしょうね! どうなのよ! 答えなさいよ!」
調子に乗ってからかったら、手ひどくやり返されてしまい、男の子は舟の上でぐっと口をつぐむ。神様は女の子を男の子よりも口達者に作られた。その女の子の中でも、シャルはとびっきり気が強い。
やりこめられ、戸惑って立ちつくす男の子に、
「気にすんな、座れ。俺たちの方が釣れてるんで、気にいらないのさ」
大人びた慰めをかけるカリガルの声は、アレフたちには届かなかったが、強い存在感だけはこんなに離れていても感じられた。
結果は圧倒的なのに、三つ国村の連中が有利を誇示せねばならないのは、いまだかの大黒斑という決定的な釣果を得られないからである。それ以外の魚をいくら釣りあげても、しょせん雑魚にすぎない。
澱んだ沈黙がしばらく流れ、誰もが次の動きを計りかねていたその時だ。カリガルの浮きが水面をふらふらとゆれ、ぴゅん! 水の中に吸いこまれた。
あわせるのが一瞬遅ければ、エサを取られていただろう。が、竿を握るのは、三つ国村のカリガルだ。鱒を釣らせれば、大人の猟師たちも舌をまくほどの手錬である。素早く竿をもちあげたが、先端はぐんぐんと下に引きこまれる。その引きが、いつもとは比べものにならないほど強い事に気づいた時には、カリガルはもう竿ごと水の中に引きこまれかけていた。とっさに竿を放したが、舟は勢いよくロールし、中腰のままだったやつがたまらず転落する。
悲鳴と水柱。
「ジメル!」
泡立つ波紋をのぞきこむが、落ちた子が浮上する気配はない。目をもどすと鱒をかけた竿は水しぶきを上げて水面を走り、やがてとぷりと水中に吸いこまれた。
「くそ! ついてねえ!」
親父ゆずりの汚い悪態をついて、カリガルは胸いっぱいに空気を吸い、水に跳びこむ。
「持っておいてくれ!」
アレフも竿と魚篭を放りだし、ジメルと呼ばれた子が落ちたほうに泳ぎだす。わずかに残る泡のそばまでゆくと泳法を変え、鼻をつまんで水にもぐる。
そこは、別世界だった。
頭の上には彼方までつづく、ゆらめく銀色の水面。
水の動きに合わせて踊る沈蓮の葉。
水は深さを増すごとに青から緑へと色を変え、細かい塵を漂わせながら、湖底に悠久の静けさを満たしている。
どうどうと波立つ天井をかき混ぜているのは、奥の滝を流れ落ちる水流だ。
小さな魚が群れを作ってアレフから遠ざかる。
幾多の魚影が見せる滑らかなうごきに、つかのま時を忘れた。
アレフの目の前を、小さな泡が列を作ってたちのぼり、舟底にぶつかって割れた。泡のたつ方を確かめると、カリガルとジメルが絡みあいながら沈んでゆくところだった。アレフは腕をのばし、水をかき分けながら猛烈に潜りはじめた。水を飲んでパニックになったジメルが,助けにきたカリガルにしがみついて、動きを取れなくしているようだ。カリガルはまだ水を飲んでいないようだったが、それも時間の問題だろう。
さあ、どうする?
ゆるやかに沈んでゆく二人に追いつき、アレフは少し考える。それから、カリガルの背中からわき腹に腕をまわして体をつかみ、片手と足だけで上へ上へと水をかく。必死に水面を目指す、が、いくらもがけど三人分の体は一向に浮かび上がらない。それどころか、徐々に沈んでゆくような気さえする。
やばい。アレフに焦りがではじめる。やばい、このままじゃ、自分まで溺れてしまう。今時分この辺りに大人が通りかかる事はなく、溺れる子供たちを助けてくれそうな人間はいない。
俺、死ぬのかな。ぞくりと、諦めと恐怖が背中をはいのぼる。
死ぬ?
うそだろ?
さっきにもまして、水をこぐ手をつよめる。だけれど慌てれば慌てるほど水はあばれる魚のように手をすり抜け、アレフたちを暗い水の底に引きずりこむ。ついにカリガルが大きな泡を吐き、程なくアレフも息苦しさに耐えかね、泡を吐いて水を飲む。苦し紛れにさんざんもがいたが、やがて力尽き、互いをつかんだまま沈みゆく三人の少年。
俺、死ぬんだ。
感情が麻痺し、しだいに霞んでゆく視界を何かがぬうっと横ぎる。
黒い斑もようを体中に散らした大鱒。いましがた彼らをこの冷たい水に引きずりこんだ、この小さな湖のヌシだ。大きく不機嫌そうな口元は悠々水を飲みこんでは吐いている。針をどこで外したのか、引っぱっていたはずの糸も竿も、見当たらなかった。
でっかいなあ、立たせたらレニぐらいあるなあ、こいつ俺たちが死んだら、食う気かなあ。真っ黒に落っこちそうになる意識の中で、とりとめのない事を考える。
(風の少年よ)
目の前に雷でも落ちたかのような衝撃を受けた。だれだ? 今の声、どっから?
(風の少年よ。上を見よ)
アレフが見あげると、水面を刺しつらぬいて、すぐそこに尖った棒が垂らされていた。夢中でしがみつくと、ものすごい勢いで引っぱりあげられ、あっというまに水面を割って、アレフ、カリガル、ジメルの順に水中から顔を出す。咳きこみながらもがくと、足が立った。背を震わせながら水を吐き、それからまだ溺れているジメルを、カリガルと二人で引きずりあげて「落ちつけ! 足がつく!」どやしつけた。
髪の毛をうしろにまとめて水を切り、顔をぬぐって息を荒くしながらまわりを確かめる。そこは、さっきまでアレフがいた浅瀬だった。おかしい、自分たちはもっと池の中央で溺れていたはずだ。
すぐそこに、レニやクランバル、シャルやライラたちがいた。みなアレフの方を向いてるのに、目はアレフを見ておらず、毒気を抜かれた顔でずっと遠くを見ている。後ろ? アレフがふり返る。
水面に、一角馬が立っていた。
らせんの角を額に輝かせ、スリムな白い馬体に、面長の顔、星空のように美しい黒の瞳をアレフに向けている。
その美しい御姿が、水面に、立っている。
脚どころか、蹄すら沈めることなく、水の上に、立っているのである。
カポリ。
前脚を一歩ふみだし、カポリ、カポリ、カツ。一歩ごとに足下で生まれた波紋が重なりあい、複雑な漣をえがく。そしてアレフの眼前で足を止め、ブルッと首をふる。
(風の少年よ、命を粗末にするものではない)
音にならない声が、直に心へと伝わってくる。
(お前には、天より与えられし使命がある。その様に生き急いでは、使命を果たせず終わってしまうぞ)
くるりと馬体を返し、
(さあ、今日は帰るがいい。お前の母も、暖かな家で待っておろう)
そして、漣を作りながら滝つぼに向かい、一足で滝の上に飛び乗った。
(緑の魔女に伝えるがいい。これは、貸しになるとな)
そして、伝説の霊獣は風にごとく去った。鏡のような静けさだけを残して。
ヌシが水面に跳びあがり、夕暮れの光を魚体に弾かせたが、もはやだれも驚かなかった。
カリガルたちと森を出て、無言のうちに別れ、アレフは緑風村の子等を引きつれて川沿いのゆるい斜面を下ってゆく。そのうち張りつめていた気持ちもすいと力が抜けて、後ろのほうからぱらぱらとどうでもいい事を話しだした。
あれは、一角馬のあの声は、なんだったのだろう。
聖獣は言った。アレフには、与えられた使命があると。
だが周りの者に確かめると、誰もその様な声は聞いていないという。ともに溺れたカリガルやジメルならばもしやと思ったものの、やはりその様な声を聞いたものはいないと答える。ただどこからか現れ、らせんの角を水に沈めたかと思うと、アレフたちを釣り上げるように救い出したのだ、と、みな口をそろえて言った。
アレフは、黙り込んでいる。後ろを歩く少年少女たちがその背に気遣わしげに見るが、気づくそぶりすらない。
彼らが下りゆく谷に、七つの鐘が響きわたる。
初夏・火前月の緑風村に隠陽、日暮れがおとずれた。
次回第五話。
火中月の雨の中、文句やのプレデ爺さんと鉄砲水のお話です。