≪猫人族≫
三話目になります。
猫人族のお祭りに呼ばれたアレフは、そこで一つの出会いを経験します。
≪猫人族≫
猫人族には、生まれた時にはもう死ぬ時までの記憶が備わっているの、とキリエは言った。
何度聞いても、それがどういうことなのかアレフにはよく解らなかったが、学校で勉強をしなくてもいいというのは、楽ちんだよなあ、とうらやましく思っている。
猫人族は、森の奥にある奥の滝のもっと奥にある奥の奥の滝の、さらに向こうに住んでいる。
猫人族が大人と話をすることはあまりない。猫人たちはそろって気まぐれで、人には理解できない事を言うので、話が通じない相手を嫌う大人たちからは敬遠されている。
子供たちには、人気がある。
猫人族は誰も陽気だし,男も女も,子供も大人も年よりも,背が低くふわふわした毛皮でつつまれていて、かわいいからだ。
「かあさ、せんせ、ええと母さん? 今日は猫人族のところに遊びにいくから」
学校のあるときは先生、それ以外はキリエの事を母さん呼びなさいと、アレフは言い聞かせられているのだが、時々こんな風にこんがらがってしまう。
「晩ご飯はどうするの?」
「向こうで食べてくるよ。そのまま泊まってくるから、朝ごはんもいらない」
もぞもぞと、むず痒そうにするアレフに、キリエは何か言いたげにしていたけれど、
「そう」
簡単にすませて、アレフをのこして家をでる。
家の外では、風終月の風がうなっていた。
魔法使いといっても、キリエは風説にあるように、こもりがちだったり偏屈だったりしない。散歩したり、皆にあいさつしたり、年寄りに呼ばれたり、毎日のように表を出歩く。今日もまた村長さんあたりに会いにゆくんだろう。そうだ、川下のブレデ爺さんが、またぞろ文句を言いだしたとかいっていたっけ。
追及を受けなかったことにほっとして、アレフも食べ物をかき集めて家をでる。キリエには内緒にしていたが、今晩は猫人族の集落でお祭りがあるのだ。猫人たちにお祭りがあることを知る者は少ないし、それに呼ばれる者はもっと少ない。
いっぱいに膨らんだ袋をかついで、アレフが坂道をかけおりてゆく。はるか下方、村落の中心にたつ教会の時計塔から五つの鐘が、緑風村に流陽の刻をつげる。日の入りまであと鐘二つ、猫人の集落まではけっこう距離がある。急がないと、祭りに間に合わないかもしれない。
「風の人だ!」「風の人よ!」「おい、風の人!」
女王松おいしげる森の奥から、息をはずませながらアレフが姿を見せると、猫人たちはいっせいに声をあげる。にゃあにゃあとまとわりつく小さな彼らに混ざり、揉みくちゃにしつつされつつ、アレフは顔なじみの一人一人とあいさつを交わす。
「チェル久しぶり、あいかわらず最高の毛並みだな。やあロンロン元気かい? マタタビの食べ過ぎには気をつけろよ。あれ、クーカ・シーラってブチだっけ? え、若い娘の尻をなでて奥さんになぐられた? そりゃあ、大変だ」
アレフと比べてもまだ頭一つ小さな彼ら。わらわらと集い、ふわふわの毛並みが一面埋め尽くすさまはまるで、綿畑に迷い込んだかのようだ。
「よく来てくれたな風の人。待っておったぞい。このめでたい風期の終わりを、ともに祝おうではないか。わしも一段ときばりたい所じゃが、今夜は婆さんの尻でがまんしとくよ」
村長の、白長ヒゲのクーカ・シーラが陽気に笑う。それから長年の伴侶の怖いまなざしに気づいて「にゃあ」と身をちぢめる。
どうしてだか猫人たちはアレフを「風の人」と呼ぶが、その理由はよくわからない。
「猫人は過去も未来も見通すわ。きっと意味があることなのよ、私が子供のころから森の女王と呼ばれていたように。いつの日かそれが判る時が来るわ」
とキリエが言うので、はあ、なるほど、そんな物かとアレフも言われるままに丸呑みにしている。
「さあさあ風の人も来た! 飲んで食べて踊って騒いで、大いなる月夜を存分に盛り上げようではないか! さあ、風の塚をとりかこめ!」
クーカ・シーラが音頭を取ると、猫人たちはにゃあにゃあと鳴き声を上げ、草原の中央にそそり立つ石板の周りに集い、木の枝やら踏み鳴らす足音でリズムをとりだした。残照は西に追いやられ、空には星が見えはじめている。緑風村の教会から隠陽を告げる七つの鐘がかすかに届いたが、うっそうと茂る森にぽっかりと開けた猫人の広場は、そこだけ眩しいぐらいの活気にあふれていて、だから鐘の音に気づく者はいなかった。いたとしても気にもしないだろう。だって猫人は、どんな生き物よりも自由な心を持っているんだ。人間が刻む時の音なんて、誰が気にするものか。
エスト蛍の大群がぱっぱと明滅し、石板と、そのまわりを踊り歌う猫人たちを照らしている。猫人は火をきらうので、灯りが必要なときにはこの虫を大量に捕まえてきては、ひとところに集めるのである。
エスト蛍はカゲロウの仲間だ。ゆるゆると空を飛び、尻の先で強い光を放つ。三匹も集めて虫かごに入れれば、新月でも本が読めるほど明るく輝く。そんな点滅が高く低く、猫人たちの間をぬいながら飛び、歌にあわせて風に舞う。
アレフもその中で、持って来た燻製をかじり、くすねてきた酒を飲み、時々クーカ・シーラにマタタビの煙管を貰いながら、次から次へととっかえひっかえ、猫人娘たち相手に踊っている。中には娘という年でないものもいたが、そんなのはささいな事だ。猫人は赤子からおばあちゃんまでみんな小さくてかわいい。シャルも猫人に生まれればよかったのに。そしたらあんな仏頂面ばかりせずとも、楽しく遊んで暮らせるのにな。ライラが猫人だったら、きっともっとかわいいだろうなあ。俺も猫人に生まれればよかった。
「風の人、風の人」
群集がさっと割れ、赤子を抱えた猫人の母親が、アレフの前にすすみでた。
「この仔の名はルト。やがてあなたの友となる仔です」
きょとんとするアレフに、クーカ・シーラが木の杖で尻をつつき、
「抱いてやってくれ。この仔は、風の人とともに生きるのだから」
そんなのいきなり言われても、意味が判らない。
猫人たちはみな騒ぎをやめていた。
神妙な雰囲気に呑まれ、アレフは、母親からそっと赤子を受けとって、両手のひらにすっぽりと収めた。ルトというその猫人の仔は、こんなに小さいのに随分あったかく、細かく震えていて、今にも壊れそうだった。
その目が、そっと開く。宝石みたいにきらきらした目でアレフを見つけ、
「かじぇのひと」
と、か細く鳴いた。
「ほほほ、もうお前の事が判るようじゃ。さあさ、その仔の名を呼んでやっとくれ」
目が開いたばかり、というくらいに小さな猫人。本当にこんな仔の中に、一生分の記憶なんてややこしいものがぎっしりと詰まっているのだろうか。アレフはしばし迷い、しばし考え、
「やあ、ルト」
そう呼んでやると、その仔はにっと笑う。笑顔がうれしくて、アレフも笑い、
「ほうれ! まだまだ祭りはこれからじゃ! 踊れ歌え!」
再び広場は喧騒を取りもどす。おのおのの笑顔と歓声を、風終の満月があったかく見下ろしている。
「いや全く全く、ちょっといたずら心を出しただけでこれじゃ。うちの奥方は、冗談というものが判っておらん」
さんざんにつねりあげられた手の甲を吹いて冷ましながら、クーカ・シーラがアレフの横に座る。月は天頂を越え、祭りは下火になりつつあった。丁度いい機会だ、アレフは前々から不思議に思っていたことについて訊いてみた。
「猫人は、一生の記憶があるんじゃないの? つねられるって判ってて、何で若い娘の尻を触るのさ」
ちなみに猫人の記憶に関して、母キリエはアレフにきつく口止めをしている。もしもこの事が広まれば、未来を知りたがる者たちが彼らをほしいままにして、猫人と人との幸せな時間は終わりを告げるだろうからと言いふくめて。
だが老いた猫人は、そんな懸念などなんのその、
「そんなに些細な事は、一々憶えておらんよ。猫人の一生は、お気に入りの物語を何度も読み返すようなものじゃ。だいたいおぬしも、一年前の今日の昼飯なぞ憶えておるかね?」肩をすくめて見せ、「年をとって、わしもずいぶんと落ち着いたもんなのじゃがな。尻の一つ二つ、けちけちせんでもええじゃろうに」反省の色なく、片眉をあげて見せる。
「ボケちゃってるんじゃなくて?」
「何をいう風の人! こう見えてもわしゃまだまだ現役じゃぞい!」
何をいわんとしているのかはさておき、全くもって元気きわまりない。
ふうむ、一生の記憶があるとは言っても、生まれてから死ぬまでの出来事を系統だてて憶えている訳ではないのか。その辺の事情を、アレフは大まかに理解した。
「なあクーカ・シーラ、あの石板には、なんて書いてあるんだ?」
猫人たちが「風の塚」と呼んでいる、人間の大人の背丈二人分以上もある、そそり立つ巨大な石板をさすアレフ。こっちに向いた平たい面の上のほうに、小さい文字が一つ、記されている。
「うむ、“旋風”、じゃ」
「つむじ風? そんだけ?」
「うむ、そんだけじゃ」
アレフは、その文字をじっと見る。彫りこんであるでもないのに、これだけ風雨にさらされて、文字は流れもかすれもしていない。どこの誰が、どんなインクでこれを書いたのだろう。ひょっとして、ただの染みだったりして。
そういえば、母さんの足にある精霊文字ってやつに、ちょっと似ているかもしれない。あれよりも、随分簡単ではあるが。
まあいいや、そのうち訊こう。
「はああ、もう眠たいや」
アレフがおっきいあくびをし、手足をほうりだして横になる。かついできた袋を折りたたんで枕代わりにし、草原のじゅうたんを背中に感じながらかゆい目蓋をこすっている。
「風の人が寝ている!」「風の人!」「もっと遊んで!」
まだ元気を残している仔らが、アレフの周りに群がり、跳びついて丸くなる。無数の毛皮にうもれながら、アレフはぬくぬくと満たされた眠りに落ちてゆく。胸の上をてとてと歩く小さい気配。
「かじぇのひと」
ざらざらした舌が、鼻の頭をなめる。そして襟首からふところに入って、服のおなかの辺りで丸くなる。ピーピーとせわしない寝息がたつ頃には、アレフのおなかも規則的に上下していた。
りいりいと、夏虫がひっそり鳴く。寝静まった猫人の集落の向こうに、月光に照らされた白銀山脈が鎮座している。星々が月をとりかこんで瞬き、風が一陣、石板から吹きおりて、アレフの前髪をゆらした。
遠くで来陽をつげる鐘一つ。朝陽が目蓋ごしに飛びこんできて、アレフはむっくりと体を起こした。草原は緑に輝き、蝶が舞い飛んでいる。その中央で、風の塚が音なくたたずみ、アレフを柔らかく見守る。寝ぼけまなこで辺りを見まわすが、猫人の姿は一つもない。
「はーあ、よく寝た」
うーんと思いっきり伸びをすると、ぽっこりと膨らんだ服のおなかから、ルトがころりと転がりでた。暫くアレフと同じように寝ぼけていたが、ごろごろと喉を鳴らしてアレフの足に体をこすりつけ、
「んばいばい、かじぇのひと」
アレフの目を真っ直ぐに見つめ、四本足で、どこかにぴゅっと走っていった。
「くあーあ……」
もう一度伸びをしてから起き上がり、枕にしていた袋を広げて空の酒袋と食べのこしをつめこみ、うっそりと木々からこぼれた朝陽を受けとめる草原を後にする。今日は一週間の始まり、水曜日だ。学校が始まる見陽の鐘までには、家に帰り着いてないと。
正午をつげる四つの鐘が鳴り、アレフが悪ガキたちの先頭を切って学校を跳びだそうとしたところで、
「お待ちなさい、アレフ」
先生に呼び止められた。
「ねえアレフ? 私が楽しみにしていた野いちご酒、いつの間にかなくなっているんだけど、何か知らないかしら?」
まずい、まさか、もうばれたなんて。アレフはそんな大変なニュースは今初めて知ったという顔をつくり、
「さあ、先生が酔っ払って飲んじゃったんじゃないの?」
「まだ封を開けてなかったはずよ。だって、昨日確かめたもの」
さらにまずい。敵は手ごわい。
「それじゃきっと、誰かがこっそりと飲んじゃったんだよ」
「あら、誰が?」
教室の出口でアレフを待つ男の子たちが、はらはらしながらやり取りを見ている。アレフはせわしなく鼻の頭をこすりながら、言った。
「つむじ風、じゃないかな」
その日アレフは居残りで、学校の拭き掃除をさせられた。
もちろん、夕食も抜きさ。
四話目は、第一話に出てきた隣村の少年たちとの、黒斑鱒釣り勝負です。