ノリロー氏との対談 その2
引揚前後の話です
喜利 それで大きくなったら当地の学校へ。
ノリ そうね。馬山国民学校という日本人学校に入学したよ。分校だけどね。日本人学校だから日本人ばかりだったけど、同級生に一人だけ当地の子がいたよ。「孫」っていう名前をよく覚えている。多分お金持ちの子か何かじゃなかったのかな。
喜利 なるほど。二人のお兄さん達も同じ感じで。
ノリ そうそう。兄貴たちも同じだね。特に直とは、学歴は高校まで殆ど一緒。
喜利 その後の進学は?
ノリ うん。二人共、馬山中学校っていう学校に進学したね。それで一番上の兄貴はそこを卒業して間もなく将校見習いとして出兵したんだよ。その時、皷家の刀を研ぎ直して、軍刀として指していったのは覚えている。直さんは在学中に敗戦だったから……。
喜利 お兄さんは出征して、どちらの方へ飛ばされましたか。
ノリ 呉。広島の呉の軍港でね、将校見習いとしてアレコレしている内に終戦さ。だから兄貴は得をしたんだ。引揚げの苦労をしなくて済んだんだからねえ。
喜利 戦時中、空襲とかありましたか?
ノリ まあ、威嚇射撃みたいなのをやられて、何回か逃げた経験はあるけども、大空襲みたいに火の海を彷徨ったという経験はないね。そういう点では、まだ平和だったかもしれない。
喜利 その後、終戦で引揚げと……大変だったとご推察致しますが。
ノリ 大変なんてもんじゃなかった。俺でさえあんな苦労はないと思った事はない。ましてや兄貴なんかもっと大変だったろうね。思えば直さんは一番の苦労人だよ。
喜利 失礼ではありますが、その頃の話を少しでもしていただけると……。
ノリ そうねえ。あんまり思い出したくはないけども……。ジープで市場に来たアメリカ人を見た時は物凄く驚いたねえ。なんせ鼻が高くて目が大きい。鬼のような存在さあね。それで、敗戦直前に、親父は清水財閥の資産を日本に移送する役目を任されて、一度日本へ帰ってまたコチラを迎えるという約束になっていたんだが、もうそれどころじゃなかったね。まだ朝鮮半島の南だったからよかったけど、本当にあの引揚げの頃は混乱と無秩序の塊だった。そうとしか言いようがないね。
喜利 命からがら……。
ノリ 命からがらさ。それでお金を払ってさ、なんとか石炭船に乗せてもらったのよ。無論、いい船なんかじゃない、輸送船以下のものさ。そこでシケにあったり、浸水があったりで、爺さんと妹の遺骨を海の中に落としちゃった。まあ、とにかく、引揚げは大変だったよ……(感慨深そうな表情を浮かべる)。そのせいか、俺は引揚げ以来、韓国へ行ったことがないよ。兄貴もそうじゃないかな。いくら故郷とはいえね、なんかあの時の苦労が思い出されるようで、尻込みするよ。今でも行きたいとは思わないね。
喜利 ……こういう事聞くのなんですけども、妹さんは何というお名前で。
ノリ 良子。この子はなぜか山崎良子といったね。すぐ下の妹だから、市場なんかに行くとこれをけしかけてね、おふくろにあれをねだるように言え、これをねだれ、と言ったもんだ……それである日、スモモとじゃがいもの天ぷらを食べたら、食い合わせが悪くて赤痢に罹っちゃって、その日の内に死んじゃった……。五歳だったから可哀想なことをしたものだよ…………でも、妹は引揚げを見ずに死んで、逆によかったかもしれない。あんなに大変なものにぶつかったら、さらに悲惨な死を遂げたかもしれない。逃げに逃げて、それで、まあなんとか下関に辿り着いたわけだ。
喜利 その後はどうなさいました。