弟と兄・鼓直氏の事
マルケス『百年の孤独』を邦訳し、ラテンアメリカ文学ブームを生み出した功労者の一人に鼓直氏がいる。
格調高い文体で難渋なラテンアメリカ文学に立ち向かった日本を代表する翻訳家である。
先述の『百年の孤独』が代表作であるが、それ以外にも沢山邦訳を試みており、ラテンアメリカ文学やマジックリアリズムと呼ばれる作風が好きな人ならば、氏の名前を知らない人はいない筈である。
また、昭和末から平成初期にかけて、文學界のコラムを担当していたのも有名な話である。その頃の文學界を読むと必ず引っかかるのがこの人である。ラテンアメリカ文学を中心に、多くの海外文学を紹介してみせた功績は、決して小さくない。
そのように、ラテンアメリカ文学に大いに貢献した鼓氏であるが、Wikipediaなどの記事の扱いはヒジョーに小さく、かつて一世風靡した作品の翻訳者とは思えぬほどである。
幸いにして彼の身内と邂逅するチャンスがあったので、鼓直氏の知られざる過去に触れることにしよう。もっとも鼓氏からすれば、余計な迷惑かもしれない。かの緑雨醒客ではないが、
「全体翻訳家といふは昔から性の知れぬ者なり彼の森鷗外を看玉へ村上春樹を看玉へ今以て性の知れぬにあらずや山とも海とも性の知れぬ点に於ては僕も慥かに翻訳家なり名刺の肩に日本代表翻訳家と書入れても諸君は決して之れを拒むの権利を有せざるべしザマ見やがれと当人記す」
などとお怒りになるかもしれない。それでもまあ知りたいのが人間の性である。ざまあみやがれと言われない程度に書くことにする。
結論から先にいうが、鼓直氏の実弟は漫才師の新山ノリローである。今では一線を退いた事もあって、公には顔を出さないが、それでもかつては立川談志やビートたけしといった面々と共演、交際し、特に談志家元と仲の良かった数少ない漫才師としても有名だった。Wikipediaにも記事があるが、やや薄い感もある。もっと取り上げられるべき人だ。なお、略歴は以下の通り。
新山ノリロー 1936年1月1日生まれ。本名・石川徳夫(後年、渡部姓となる)。朝鮮で生まれ育つが、敗戦と共に埼玉県川越市に引き揚げ。家業は国家公務員で裕福な家庭だった。一九五四年に川越高校を卒業し、虎ノ門音楽舞踊教室に入学して舞踊家を志すが挫折(真山恵介や山下武は「ガニマタが原因で舞踊を辞めた」と面白おかしく書いている)、むかし家今松(古今亭圓菊)の紹介で新山悦朗・春木艶子の門下に入り、漫才師に転向。
1958年、横澤彪の演劇学校に通っていた横沢 栄司(1934年6月5日 東京生まれ)を誘い、漫才コンビを結成。
早くから佐藤芸能事務所に所属をし、マスコミの出演も多かった。デカ縁眼鏡をかけたノリローのイカサマ英語やダンサーに役者と前歴をフルに活用したスポーツ漫才で頭角を現し、一九六五年、第十三回漫才コンクールを「おてもやん」というネタで優勝。テレビ世代の漫才師として注目を集めた。
一九七二年、千夜一夜に続き、漫才協団の真打として認められ、幹部に昇進。この時は師匠の悦朗もお披露目に出席をした(その一年足らずで悦朗は急死を遂げる)。
一九七八年頃より立川談志の仲介で、落語協会にも所属するようになり、寄席にも進出を果たした。その後は東京漫才の幹部として、寄席に、漫才大会に、相応の活躍をしていたが、徐々にネタのマンネリ化やコンビ関係に行き詰まるようになり、1984年コンビ解消。
かつては若手の登竜門と呼ばれた漫才コンクールにも優勝をしているし、映画や日劇などにも出ていた事がある。漫才の歴史を考える上では欠かせない人材であるのは言うまでもない。
今でこそ知られていないから、忘却していい存在とは全くの暴論でかつての人気者がいたからこそ、今の人気者が存在する。そういう事は、ちょっと古い資料を探れば判る事である。
その新山ノリロー氏が、実兄鼓直の事をアレコレ思い出し、語ってくれたのをざまあみやがれにならないように編纂したのが、この稿だと思っていただければ有難い。ノリロー氏の漫才実績に関しては、私のサイト「東京漫才のすべて」(https://tokyomanzai0408.com/)に載せるつもりでいる。