4.ねえお兄ちゃん、その女の子、誰?
お風呂上がりに居間で牛乳を飲みながら虎とドラゴンを読んでいると、脱衣場のドアが勢いよく開く音が響いて、次いでバタバタという元気な足音が近付いてきた。
そして、勢いよくふすまをスライドさせる結乃。
ピシャン! という軽快な音が鳴り響いたかと思えば、いつの間にかふすまは閉まっていて、結乃が隣に座っていた。
まだ髪を乾かしていないのか頭にはタオルを巻いていて、すぐ隣からわずかな熱気とシャンプーの匂いが漂ってくる。
「お兄ちゃんお兄ちゃん、妹にも牛乳入れてっ!」
「あ、うん」
冷蔵庫から牛乳を取り出し、結乃のコップに白濁液を注ぐ。その白濁液を結乃は一口で飲みきり、巻いていたタオルを取り払った。
セミロングの髪が解き放たれて、一緒に持ってきたピンク色のドライヤーで乾かし始める。
脱衣場で乾かせばいいのに、結乃は毎日毎日僕の隣で髪を乾かすのを日課にしていた。
「お兄ちゃん珍しいね。それなんだっけ、虎とドラゴンだっけ?」
「よく覚えてるね」
「妹、お兄ちゃんの読んでる小説は全部覚えてるよー」
ブオーンという音を鳴り響かせながら、結乃は髪の毛を乾かす。結乃に生返事をすると露骨に不機嫌になるから、隣にいるときは本を読まない。
「その小説、妹も大好きだよ。六巻だったっけ? あのラストはすっごく泣けたっ」
「大切な人を傷つけた相手を、ヒロインが殴りにいくところだよね。僕もあのシーンはすごくいいと思う」
当時アニメでもそのシーンを見たけど、原作と同じぐらい涙を流した。あのヒロインのまっすぐな姿勢が、僕の心に突き刺さったのかもしれない。
僕は今も昔も、まっすぐ前を見ているとは言えないから。
「でも、どうして今更それを読んでるの? ずっと昔に完結したよね?」
「クラスメイトの女の子がね、えっと柳ヶ瀬有栖さんって言うんだけど……」
「ねえお兄ちゃん、その女の子、誰?」
いつの間にかドライヤーの駆動音が消えていて、居間の中に静寂が満ち満ちていた。結乃の声音は想像を絶するほど低くて、お風呂上がりだというのに冷や汗が溢れてくる。
これは本当に失言だった。
「あ、うん。やっぱりなんでもないかな」
「ねえお兄ちゃん、柳ヶ瀬有栖さんって、だれ?」
「えっと……」
「そんな名前の人、お兄ちゃんの中学の頃の卒業アルバムに居なかったから、たぶん高校生になってからのクラスメイトだよね?」
「う、うん……今年から同じクラスになった女の子、かな」
僕の妹である結乃は、女の子の話になると過剰なまでに敏感に反応を示す。そもそも女の子と関わりが少ない僕だったから、そういうことをすっかり忘れていた。
「その柳ヶ瀬って人、妹は信用していいの? お兄ちゃん、その女の子のこと信頼してる?」
「信頼してるっていうか、昨日知り合ったばかりだし……でも、すっごく優しい人だよ」
「へぇ、どんな人?」
未だすごく声が低いけど、僕はそれに負けず声を絞り出す。本当に、柳ヶ瀬さんには感謝をしてるんだから。
「え、えっとね。なくした本を見つけて、わざわざ届けてくれたんだよ。それからライトノベルの話になったんだけど、僕が虎とドラゴンをオススメしたら、その日のうちに買ってきたの。それで今日の話になるんだけど、困ってる時に助けてくれたり、僕だけに秘密を教えてくれたり、いろいろと親切にしてくれるんだ」
やっぱり柳ヶ瀬さんは素敵な人だ。
うん。この説明なら、きっと結乃もわかってくれるはず。
結乃はとても優しく、僕の肩に手のひらを置いた。
「それ、お兄ちゃんに近付くためにわざと本を盗って、あたかも自分が見つけましたっていう程を装ったんじゃないの?お兄ちゃん、そんな女の人に騙されちゃダメだよ?」
「ち、違うよ?! 柳ヶ瀬さんはそんなことする人じゃないから!」
根拠はないけど。
「証拠は? ねえ証拠はある?」
「証拠は、ないけど……でも、本当に信頼できる人だと思うよ。結乃にも会ってみたいって言ってたし」
「妹は会いたくない。お兄ちゃんに近付くなって言っておいて」
聞く耳持たずだった。
ぷいっと視線を向こうに投げて、ドライヤーで再び髪の毛を乾かし始める。ブオーンという駆動音が鳴り響いて、ちょっとだけ重たい空気が緩和された。
結乃が頑なに信用しない理由をちゃんと知っているから、僕は妹に対して機嫌を損ねたりはしない。
結乃は兄思いの大切な妹なんだ。自分で言うのもアレだけど。
「結乃、ありがとね」
「むっ、妹、お礼を言われるようなことは何もしてない」
「それでも、ありがとね」
身体ごとそっぽを向いてしまった結乃は、ドライヤーの駆動音にかき消されそうなほど小さな声で呟いた。
「信じてあげられなくて、ごめんなさい……」
つまり妹は、とっても優しい妹なのだ。




