終.彼ら彼女らのこれから
「あの、柳ヶ瀬さん」
未だ寝転がって顔を隠している私に、和泉くんは遠慮がちに聞いてきた。私はややぶっきらぼうに、「なに」と聞き返す。
「そんな大事なこと、教えてくれてありがとう」
「ほんとに。両親が離婚したのを知ってるの、まゆだけだから。そのほかのことを話したのは、和泉くんが初めて」
「僕が初めてなんだ」
「うん。和泉くん、私の一番の友達だから」
そんな恥ずかしいセリフを吐くと、ちゃぶ台に足をぶつける音が響いた。きっと驚いて、足をぶつけたのだろう。これも有栖さんを辱めた罰だ。
私は小さく笑った後に、表情をいつものものへと戻した。そして起き上がり和泉くんを見ると、やっぱり顔が真っ赤になって俯いている。
ういやつめ。
だけど私がその名前を口にすると、そんな表情は初めからなかったかのようにサッと青くなってしまう。しかしこれは、和泉くんが乗り越えなきゃいけない壁だ。
「久留島胡桃さんのことなんだけど」
「やっぱりそれも、聞いてたんだ……」
「結乃ちゃんの口が軽いわけじゃないよ。私がどうしてもって言ったから、教えてくれたの」
「別に、隠してたわけじゃないから……」
再び顔をうつむせてしまった和泉くんを見て、やっぱり久留島胡桃という女の子のことが大事だったんだということを思い知らされる。少し、羨ましい。そこまで和泉くんに思われているということが、私は羨ましかった。正直言うと、憎いぐらい。
だからといって、和泉くんの過去を悲しいものにするわけにはいかない。彼にかける言葉は、過去を忘れて未来に生きようなんていう逃避的なものじゃなく、前向きなものじゃなければダメだ。
たとえ和泉くんがこちらを向いてくれなくなる可能性があるとしても、嘘だけはつけない。私は、私の考えを伝えてあげた。
「久留島さん、別に和泉くんのことを嫌いになったから、何も言わずに引っ越したんじゃないと思うよ」
「ち、違うよ。僕のことが嫌いになったから……」
「だから、違くて」
私は言った。そんな当たり前のことを。
和泉くんは、とても単純なことを何年も悩み続けるぐらい、純粋な男の子なのだ。
「きっと、和泉くんのことが大切だったから、伝えられなかったんだよ」
「そんな、そんなこと……」
「そんなこと、あるんだよ。だからもう、自分はダメな人だって思うのは、やめにしよう」
ちゃぶ台越しに手を握ってあげた。そうしてあげると、悲しみに彩られていた瞳がゆらゆらと揺れて、そこから次々と涙が溢れてくる。
私は今までより強く手を握って、大丈夫だよと伝えてあげた。これからは、自分を嫌いになってしまった分だけ、自分のことを好きになってあげてほしい。
そう祈りながら、私は和泉くんに寄り添い続けた。
※※※※
和泉くんが泣き止んだ頃にはもう、お母さんが帰ってくるような時間だった。私は慌てて立ち上がり、和泉くんの手を引いてあげる。
「ごめん! ほんとにごめん! もうそろそろお母さん帰ってくるの!」
「あ、そんな時間なんだ……ごめん、取り乱しちゃって……」
「いや、和泉くんが取り乱すのはいつものことだから全然気にしてないんだけどね。でもこんな時間に男の子を連れ込んでるって知られたら、お母さんが取り乱しちゃうかもしれないんだ」
「うん。僕もそろそろ帰らないと、結乃が心配してるかも」
二人の意見が一致したところで、私たちは外へ出た。やはり春の夜風は少し肌寒く、私の身体をぶるりと震えさせた。
その姿を見ていた和泉くんは「大丈夫?」と私の身体を案じてくれる。私は「大丈夫じゃないかも」と返した。
それからちょっと待っててと言い残して、もう一度部屋の中へと入る。もう季節的に使わないだろうと思っていた白いモコモコのパーカーを衣装棚から引っ張り出し、何もおかしなところがないかを確認してから、和泉くんの場所へと戻った。
彼は玄関から出てきた私を見た途端、寒さで組んでいた両腕を急いで解いた。つまり、やせ我慢というやつだ。
「あれ、どうしたの柳ヶ瀬さん。柳ヶ瀬さんも、どこか行くの?」
「ん、そうじゃなくて」
初めから返答を聞かずに、和泉くんに近寄った。両腕を彼の首の後ろへ回すと、いつもより目の腫れたスッキリした顔が私の視界の半分以上を占めてしまう。
ニヤリと笑うと、いつものように顔を真っ赤にさせた。
「や、柳ヶ瀬さん?!」
「ん、寒いから貸してあげる。サイズはたぶん一緒ぐらいなんじゃないかな」
パーカーを肩にかけてあげたところで、両腕を元に戻して少し離れる。なんでもない風を装っているけれど、実は少しドキドキしたのだ。
真近で見た彼の顔は、思っていた以上に男の子だったから。
「そ、そんな、悪いよ……お茶までご馳走になったのに……」
「悪いと思うなら、罰ゲームとして家までそれを着て行きなさい。有栖さんに抱きしめられているみたいで、ちょっと気持ちくて暖かいでしょ?」
耳まで真っ赤になっているから、私のおかげでよっぽど身体が暖かくなったんだろう。これなら風邪の心配もなさそうだ。
私はいつも通り右手を上げて、その指を開いたり閉じたりした。
「じゃあ、また……」
「あの、ちょっと待って」
突然和泉くんに遮られて言葉を止めた。
私は首をかしげる。
「どうしたの?」
「あ、うん。答えにくかったらいいんだけど、ちょっと聞きたいことがあって……」
そう前置きしてから、和泉くんは私に問いかけた。
「なんで、テニス辞めちゃったのかなって思って……」
「あぁ、そんなことね。実は、元はお父さんに薦められて小学生の頃に始めたの。だけどもう見に来てくれないだろうから、いっそのこと辞めちゃおうって思って」
別に後悔はなかった。
お父さんが喜んでくれればと思い続けていただけで、競技自体にはそれほど熱心に取り組んではいなかったのだ。だから周りとの温度差も感じていたし、良い機会だったのだと思う。
まゆは、私が辞めたことを怒ってるみたいだけど。
彼はまたいつものように私を心配してくれるのかと思ったけど、今日は違った。なぜか安心したような表情を浮かべている。
私はまた、首をかしげた。
「どうしたの?」
「あ、うん」
そして、和泉くんは言ったのだ。
「お父さんのこと、好きだったんだね」
その言葉は私の心の内側にストンと落ちて、綺麗にはまり込んでくれた。答えは、驚くほどに単純なことだったのだ。
※※※※
五月。
新しい学年、新しいクラスにようやく馴染めてきた生徒たちは、明日の休日はどこへ遊びに行こうかという話などで盛り上がっていた。
柳ヶ瀬有栖はクラスの輪の中心でいつものように、積極的に消極的な態度を貫き続け、チラリと友人である和泉結弦のことを見守っている。当の結弦は、今日もいつもと同じくライトノベルを読んでいた。
それは昨日、同じ文芸部員である桜庭紗凪に薦められた恋愛小説である。読み終わったら是非感想を教えてくださいと言われた結弦は、あまり饒舌に話さないように気をつけようと考えていた。つまり、それほどその恋愛小説は面白いということだ。
ちょうど開いていた窓から風が吹き込み、結弦の読んでいた小説がパラパラとめくれていく。それを慌てて元に戻した後、集中力が切れたため時計を見るべく顔を上げた。
朝礼の時間まで後五分。
ちょうど有栖と目が合った結弦は、ぎこちないながらもにこりと微笑み小さく手を振る。最近は目が合ったときになんらかの反応をしないと、後から無視をしたなと怒られてしまうのだ。もちろん有栖なりの冗談だと結弦は分かっているけど、怒られるのは怖いからいつも反応を示す。
有栖はいつものように、手のひらを開いたり閉じたりした。
集中力の途切れた結弦の耳に、クラスメイトの会話が届く。普段はあまり興味がないため聞き流してしまうが、今日の会話はいつもより多く耳に届いた。聞こえてくる会話的に、有栖の混じっている集団でも、今は同じ話題に花を咲かせている。
「今日、うちのクラスに転校生来るんだって」
「え、ほんと? 男子? イケメンだった?」
「や、男じゃねーし。ナルコ何期待してんの。チョーウケる」
「というより、ナルコ彼氏いなかった?」
「あぁ、別れた。なんか価値観の違いっていうか? とにかく一緒にいると疲れんだよね」
「あ、わかる。一緒にいると疲れるやつっているよね」
また違う集団から声が届く。
「女の子だって。職員室で先生と話してるとこ、真島が見たって」
「マジ? 女の子? 可愛かった?」
「真島が言うには可愛かったらしいけど、アイツ女見る目ねーからなぁ」
そういう話に耳を傾けていると、いつの間にか朝礼が始まる時間となっていた。数秒ほど遅れて、結弦の担任である望月明里が廊下から姿をあらわす。
しかし今日はそのまま教卓へは行かず、ドアの前で一度止まった。
「今日はみんなに、新しいクラスメイトを紹介します」
その明里の言葉によって、クラス中がザワザワと色めき立つ。もう転校生がやって来ることは周知の事実であるが、有栖はそれほど興味を示していないように見えた。
生徒の視線が教室の入り口へ注がれる。
その女の子は軽やかな足取りで教室の中へ入り、明里を追い越して堂々と教卓の前へ立った。立ち止まった瞬間に大きなポニーテールが反対方向へ揺れて、みんなの注意がそちらへと向けられる。
もちろん結弦の視線も彼女へ釘付けになる。しかしそれは、数多いるクラスメイトのどの視線とも似つかない、驚愕という色に染まっていた。
教卓の前に立ち止まった彼女は、満面の笑みで自己紹介を始める。
春はまだまだ、始まったばかりだった。
「田舎の方から引っ越してきました! 今日からお世話になる久留島胡桃です! 気軽にくるみんって呼んでください!」
第2部の始まりです。
よろしくお願いします。




