18.風邪、早く治った方がいいから
もう帰った先生も多いのか、それとも部活動に出払っている先生が多いのかは分からないけど、職員室にいたのはもっちー先生だけだった。もっちー先生は椅子に座りやや下を向きながらコソコソ何かをやっている。
柳ヶ瀬さんは唇に指を当てて、声をひそめるように指示をする。僕はこくこく頷いた。
「何やってるんだろね。気にならない?」
「どっちかといえば、気になるかな……」
「じゃあ驚かせてみよっか」
「や、やめようよ。怒られるよ?」
僕の言葉が耳に入らなかったのか、柳ヶ瀬さんは音を立てずにドアを開ける。やめようよと提案したけど、やっぱり気になるから好奇心を止めることができない。
そろそろと、忍び足で職員室へ侵入する。
バレたりしないように屈みながら中を歩き、そして先生に見つからないように机の角から様子を伺った。
もっちー先生は、コソコソとシュークリームを食べている。うん、あまりに普通すぎて拍子抜けした。
別に、職員室でシュークリームぐらい食べていいと思うのに。
柳ヶ瀬さんはそれを見て興味を失ったのか、呆れた顔をした後、普通に立ち上がって普通にもっちー先生に近づいていった。
「せんせー、聞きたいことがあるんですけど」
「ひやぁっ?!」
突然話しかけられたことにびっくりしたのか、もっちー先生は机の引き出しに太ももをガツンとぶつけてしまった。そして痛みからか涙目になって、スリスリとさすっている。
「ななななな、なんですか?! シュークリームなんて食べてません!」
「いやいや、食べてますよね?」
「食べてないったら、食べてないんです!!」
「もういいですから、話聞いてください望月せんせ」
「えっ、柳ヶ瀬さん……?」
ようやく目の前にいるのが僕らだと分かったのか、もっちー先生はほっと胸を撫で下ろした。
「ご、ごめんなさい。取り乱したりして……」
「私は気にしてませんけど。というか、シュークリーム食べてたところを見つかったって、別に怒られたりはしないと思いますよ?」
「いえ、怒られるんです……」
「いつも昼休みは、コーヒー飲んでたりお茶菓子摘んでたりしますよね?」
「いつもなら、大丈夫なんです……だけど今は、今日中に提出しなきゃいけない資料に追われていて……」
そういうことなら、シュークリーム食べてサボらずに早く資料を作成してください。僕は心の中でそう呟いた。
きっと柳ヶ瀬さんも同じことを思っていて、もっちー先生へ呆れた視線を向けている。
泣きそうな顔をしているのは、嶋田先生に怒られるからなのかもしれない。
「じゃあ時間は取らせませんので、手早く済ませますね。文芸部って、今部員がいるんですか?」
「文芸部、ですか? は! もしかして、部活に入ってくれるんですか?!」
「それはまだ決めてませんけど」
しょぼんと肩を落とすもっちー先生。しかし可愛い教え子の頼みだから、すぐに引き出しから何かのファイルを取り出してくれた。おそらく全部活の部員名簿が入ってるんだと思う。
それを開いて、パラパラとめくり始める。迷いがないその動作は、やっぱり先生なんだなと感じた。
「文芸部、ですか。ええと……あー、今は部員一人だけだね。三年生が何人かいたんだけど、もう卒業しちゃったみたいで、現部員は一年生の女の子だけです」
「さっき見学に行ったら誰もいなかったんですけど、今も活動してるんですか?」
「してるんじゃないかな。先生、そこまでは認知してないからわかんないですけど……あ、そういえば」
何かを思い出したように、先生はまた別のファイルを引き出しから取り出した。そのファイルの表紙には、『出席名簿』と書かれている。
「あー、文芸部の一年生の子、桜庭紗凪さんって言うんですけど、今お休みしてるみたいですね。一週間ほど」
「えっ、一週間ですか?」
驚いた僕は、ようやく初めて声を出す。
二、三日ならまだしも、一週間も休んでるなんて。季節外れのインフルエンザだろうか。それとも、何か重い病気にかかっちゃったとか?
「親御さんから聞いた話によると、風邪が長引いてるらしいんですけど」
なんか、心配だな。
たぶん一度も話したことはないけど、そういう話を聞いてしまうと不安になる。こういうの、偽善って言うのかな。
「その桜庭さんって人、どういう子なんですか? 真面目な子ですかね?」柳ヶ瀬さんは、なぜかそんな質問を投げる。
「それはもう、ほんとに真面目な子ですよ。礼儀も正しいですし、今まで無遅刻無欠席だったんですから」
学年の違うもっちー先生にまで桜庭さんの話が伝わっているということは、本当に真面目な生徒なんだろう。
柳ヶ瀬さんはもっちー先生の話を聞いた後、ふむふむと何度か頷いて、それからとんでもないことを言ってしまった。
「じゃあ、私たち文芸部に入りますね」
「えぇ?!」
僕は三人だけの職員室で、思わず叫んでしまう。それほど柳ヶ瀬さんの言葉は衝撃的で、驚かざるを得なかったからだ。
「どしたの和泉くん?」
「え、え、文芸部入るの……?」
「うん、結構楽そうだし。人も少ないからのびのびできるんじゃないかな」
たしかにそうだけど。
でも桜庭さんが、まだ具体的にどういった人なのかを僕は知らない。だからこそ、柳ヶ瀬さんが確認を取ってくれたのかもしれないけど。
「え、え、柳ヶ瀬さんと和泉くん、部活に入ってくれるんですか!」
「入りますよ、だから安心してください。せんせが恐れることは、もう何もないんです」
もっちー先生は、何かの教祖を讃えるような目で、柳ヶ瀬さんのことを見ていた。ある意味、先生にとって柳ヶ瀬さんは救世主なのかも知れない。
「じゃあそういうわけなので、桜庭さんのお家を教えていただけませんか? 部員として挨拶したり、お見舞いに行かなきゃいけないと思うので」
するともっちー先生は、少し気まずい表情を浮かべた。
「桜庭さんのお家ですか。いえ、私も気になってますし、とっても心配なんですけど、やっぱり個人情報なので住所を教えるわけにはいかないんです……」
昨今は個人情報の取り扱いに厳しくなっているから、たとえお見舞いでも教えたらダメという決まりになっているんだろう。
というか、え、お見舞いに行くんですか……?
そりゃあ僕も心配ですけど、見知らぬ女の子の家に行くのはちょっと……
「えー、じゃあ桜庭さんと仲の良い友達を教えてくれませんか? その人に聞いてみますので」
「それなら、まあ……いいのかな……?」
「いいと思いますよ。だって大切な部員の友達とも、お友達になりたいですから!」
柳ヶ瀬さんはクラスメイトに見せる笑みを張り付けた。人当たりの良い笑み、僕はその裏側を知っているから、隣で微妙な苦笑いを浮かべる。
彼女はなるべく他人と関わり合いになりたくないから、わざわざこちらからお友達になろうとはしないだろう。
それならなぜ、桜庭紗凪という女の子の家へお見舞いに行こうとするのかが、よく分からない。
やがて、折れてくれたもっちー先生から、その友達の名前とクラスを教えてもらった。
友達の名前は美咲亜衣瑠。
一年B組の女の子で、演劇部に所属しているらしい。
もしかすると、演劇部の見学の時に会ったのかもしれない。
美咲さんと言う人がどんな人なのか分からないから、確証はないんだけど。
僕らはその友達の名前を聞いた後、もっちー先生にお礼を言って職員室を出た。もう日が暮れていて、廊下は蛍光灯の明かりだけでほんのり薄暗い。
こんな時間まで学校に残っていたのは、この学校へ入学してから初めてのことだ。だから完全下校時刻になると、有名な映画のゆったりとした挿入歌が流れ始めることも初めて知った。
きっと部活動をしている人たちは、この音を合図にして片付けを始めるんだろう。
僕たちはその音楽を聴きながら、昇降口で靴を履き替える。
柳ヶ瀬さんと僕の家は反対方向。
だから聞いておくなら、今このタイミングしかないなと思った。
「どうして、文芸部に入る気になったの?」
「ほら、人が少ないとのびのびやれるでしょ? っていうか、さっきも言ったよねコレ」
柳ヶ瀬さんは笑っていたけど、僕はややムッとした表情を向けた。そうすると僕の言いたいことが伝わったのか、「ていうのは冗談で〜」と訂正をする。
しかし言葉をまとめているのか、数秒ほど腕を組みながらタメを作る。辛抱強く待っていると、柳ヶ瀬さんはやがてそれを解いた。
「うん、これだ。和泉くんと同じで、私も成長しなきゃなって思ったの」
「成長?」
「そう成長。いろんな人と関わらなきゃね」
それなら別に文芸部じゃなくてもいいじゃんと思ったけど、柳ヶ瀬さんが珍しく悩んで出した結論だから、口は挟まなかった。
きっと柳ヶ瀬さんにも思うところはあるんだと思う。
「明日は昼に美咲ちゃんに会いに行って、放課後は桜庭ちゃんの家ね」
「あ、うん。でも、桜庭さんが明日に復帰する可能性もあるよね。そっちの方が、嬉しいかも」
「女の子の家にお邪魔しなくて済むから?」
僕は首を振る。
柳ヶ瀬さんは首をかしげた。
「風邪、早く治った方がいいから」
柳ヶ瀬さんは「へー」と言いながら、感心したように頷く。別に感心されるようなことでもないと思う。
それから僕らは短い会話をした後、全く別の方向へと歩き出す。
なし崩し的に決まった入部だけど、桜庭紗凪という女の子が柳ヶ瀬さんみたいな人だったらなと、僕は思った。
……いや、もう少し穏やかな人の方がいいかもしれない。柳ヶ瀬さんが二人いたら、それはそれで大変そうだ……




