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「菜摘、ちょっと」

 朝食の準備をしていると庭から佳之の呼ぶ声がした。

「このネギ、祖母ちゃんの味噌汁に入れといて……ああ、もちろん俺達のも入れていい」

「何、特別なネギなの」

「まあな、ここに効くらしい」

 佳之は自分の頭をポンポンと叩いて見せた。

「お前も頭良くなるかもな」

「ちょっ、何よ、ちょっと人より頭いいからって!」

 ベーッと舌を出しながら台所に戻ると「過去の日」のお祖母ちゃんが冷蔵庫から納豆を出している所だった。

「……ナナコさん、あの人は……?」

 うわー、「あの人」がどっちなのかわからないな。私がナナコさんなら、佳之はお祖父ちゃんかもしれない。

「庭にいるよ。まだちょっとかかるみたいだから先に食べよう?」

「あらそう」

 味噌汁にさっきのネギを刻んで入れる。少し余ったので納豆にも入れてみた。最近もう「私が私でない」状態が続いているので少しでも……もう、ずっとは無理でもいい、贅沢は言わない、もう一日でいいから「私を私として」認識してもらってお祖母ちゃんと話をしておきたい。

 佳之と結婚してちゃんとこの家で家庭を築くことを、今まで本当にお世話になった事を、そしてお祖母ちゃんの事が大好きだと言う事を、「今の私」としてちゃんと伝えたい。



「あら、どうしたの菜摘ちゃん、ぼんやりして」

「ううん、何でも……え? ええっ?!」

「あら、今度はびっくりして。どうしたの、忙しいわね。お仕事、時間大丈夫なの?」

「えっ、えっ……あのっ、お祖母ちゃん? 私、は、誰?」

 自分でも至極マヌケな質問をしていることはわかっているけれど、聞かずにはいられなかった。

「いやだ、何を言ってるの! ちょっと、佳之、佳之?! 菜摘ちゃんがおかしいの、ちょっと来て!」


 さっきまで弱々しかったお祖母ちゃんが、庭に向かって大きな声で佳之を呼んでいる。佳之も驚いた顔で急いで上がって来た。

「えっ、祖母ちゃん……どうしたって?」

「菜摘ちゃんがね、『私は誰』なんて聞くもんだからびっくりして」

「佳之、お祖母ちゃんが……お祖母ちゃんが、戻った、戻ったの! ネギ食べた途端に!」

「ええっ」

 いつも冷静な佳之も、さすがにこれには驚いたようだった。

「ちょっ、怖い、このネギ……大丈夫なの? お祖母ちゃんを実験に使わないでよ!」

「まさか、こんな即効性があるとは一言も……」


「ちょっと、あなた達何の話をしているの。ネギがどうしたの? 実験って何?」

 佳之は、そのお祖母ちゃんの質問もそっちのけで、ペラペラと喋るその口調に釘付けになっていた。先日のバラの苗と一緒に教授から送られてきた荷物の中に、このネギの苗と説明も入っていて食べられる状態になったので切ってきたのだと言う。説明には、血液に影響を及ぼすことなく脳の活性化を促し、痴呆症や記憶力の低下などに効果がある、と書かれていただけだったようだ。血液に影響があると、血栓などが流れてしまい心筋梗塞や脳梗塞などを引き起こしかねないのでその点でも安心というわけだ。


「あら、それなら私、毎日でも食べるわ」

「ちょっと、怖いって! お祖母ちゃんが実験台になることなんてないじゃない」

「だって最近頭がぼんやりして一日が終わるのよ。もったいないじゃない」

「じゃ、じゃあ、お祖母ちゃん、一日1本分位にしとこうよ。そんな張り切っていっぺんに色々しようとしちゃダメだって」

「……あらそう? じゃあそうするわ。佳之、レポート書くんでしょう?」

「あっ、うん……ま、別に強要されてるわけじゃないけど祖母ちゃんがいいのなら」

「いいわ、じゃあそうして頂戴。さ、佳之も朝食食べなさいね」


 着席する前にテーブルの上に出された「あの人」の分の納豆を見て、あら、佳之は食べないのにね、とまた冷蔵庫へしまった。気のせいか動きまで少し早くなった気がする。

 ナナコさんが来たので、簡単に経緯を説明すると驚いていた。実際その目で見て会話をして、すごいですね、信じられない、と感心する事しきりだ。



 夕方帰宅すると、効果があったのは昼過ぎ位までであとは少しぼんやりしていつものように昼寝をした、とのことだった。ただ、私とナナコさんが一緒に話している姿を見ても混乱はしなかったようで「私は大人の私」だった。


 ふと頭を過る。こんなことなら、結婚式中止しなければよかった……私だって、そりゃあ女だもの、一生に一度はドレスを着てみたかった。庭のアーチには、まだ寒い時期だというのに青々とした枝が誘引され、少しずつその枝を伸ばしていた。せめてアーチに花が咲く頃、病院の人やお世話になっている方をお招きしてパーティでもしよう。お祖母ちゃんご自慢の紅茶と、私がスコーンを作って佳之のあのネギを……いやいや、色気ないし他人にあのネギを供するのはちょっと怖い。

 あんなに効果があるのにまだ世に出ていないということは、まだ治験(っていうのか?)途中に違いないんだから。


 夜寝る前に佳之にまた「背中を貸して」と言われ、いつものように腹這いになった。

「今日のは何?」

「フッ、あのネギ、それと蔓バラから抽出。ネギは茶色になったからまあそれはそれで良し」

「……今日も痛くない。フィルム貼る奴?」

「ああ、もう全部あれにする。特許も申請した」

「さすがやること速いね……あ、ねえ、佳之」

「ん」

「あのバラが咲く頃さあ……友達とか呼んでパーティしていい?」

「ああ、いいよ。ま、元々の予定通り位には咲くようにしてあるから4月末な」

「あのチューリップは……遅らせられないよねえ」

 お祖父ちゃんからずっと受け継いでいる真っ赤なチューリップ「ALLEGROSSO」は私と佳之にとっては大切な花だ。

「できるよ」

「えっ、えっ? 1カ月以上あるよ?」

「俺を誰だと思ってる」

 フンッと笑いながら得意気に言う佳之が、実はちょっと好きだったりする。そんな時は妙に子供っぽいのだ。球根に負担がかかるから半分だけしかできないが「秘伝の薬」があるらしい。半分でも充分だ、あの時期は庭の花壇の半分以上をあのチューリップが占めるのだから。


「へえ……嬉しい、じゃあ計画するね!」

「あっ、バカ、動くなって」

「へへっ、ごめーん」

「ったく……ほら、終わった。じゃあ俺の方も何人か呼ぶから。元々の結婚式用のリストに印つけておく」

琴音ことねちゃんとお義母さん、ウィーンから帰って来れるかなあ?」

 妹の琴音ちゃんは、ピアニストとして主にヨーロッパで活躍中、お義母さんは琴音ちゃんの為に大学の准教授だったのを辞めてついて行ったのだ。

「別に向こうはゴールデンウィークでもないしな。元々の結婚式の日程は空けてたはずだけど」

「お義父さんは?」

「ああ、あれは普通に来るだろ、東京だし」

「ヒデノリは?」

「ああ、あいつはゴールデンウィークは必ずこっち帰って来るから大丈夫」


 ヒデノリは中学の時、あまりに無愛想ですぎ人を寄せ付けず友達のいなかった佳之の、唯一無二の親友だ。もちろん私も良く知っている。今はサラリーマンとして大阪にいるが、こちらの方でマラソン大会などがあると出場がてら帰って来て必ず顔をのぞかせてくれる。

 他にも叔父さんや従兄弟も来てくれるはず。早目に案内を出そう!


 そうだね、皆と会って話できるだけでも嬉しい。特に家族は……お祖母ちゃんにネギの効果が現れていたとしても、そう何度も会えるわけじゃないけれどきっともう残り少ない機会だと思う。皆、お祖母ちゃんが大好きだもの。


   *


 ネギの効果は、徐々に1日中持続するようになっていた。若干夜寝る前や張り切りすぎて疲れたりすると効果が薄れてしまうようだ。私も料理には普通にネギとして使うようになり、何となく身体が疲れにくくなった気がする。その効果は佳之にも現れているようで……その、夜の方に。

 毎日のように求められるようになり、ネギを食べ始めて2か月目、私はめでたく懐妊した。


 その事を佳之に告げた時、あの佳之が、泣いた。ふふっ、あの佳之が。

 私にとっては初めて見る佳之の涙が、私達に赤ちゃんができた事がわかった時というのが本当に、本当に、宝物になった。えっ、と驚いた後しばらく固まったかと思ったら、ツーッと目から涙が溢れてきて顔を真っ赤にして歪め、その場にしゃがみ込んだ。うわー、意外な反応だなあ、としげしげと見つめているとガバッと立ち上がりギュッと抱きしめてくれ、耳元で小さい声で「ありがとう」と一言だけ言うと、暫くの間そのまま泣き続けた。


「パパ、だね」

「……ああ」

「嬉しいね」

「ああ」

「頑張ろうね」

「ああ」

「ああしか言わないの?」

「……ああ」

「ふふっ、佳之……ありがとう、大好き」

 返事の代わりに、更にギュッと力を込め抱き締めてくれた。

 

 夜の静かな月明かりが、海に反射してキラキラと輝き、すっかり春めいた庭には、例年より半分少ないALLEGROSSOの真っ赤なチューリップが満開に咲き、風に揺られ静かに眠っていた。


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