(7)
「もう、限界かな」
「なにが」
「施設に入れた方が」
「ちょっと、佳之本気で言ってるの? やめてよね」
唯一「本人」と認識された佳之がお祖母ちゃんを落ち着かせ、ナナコさんが来たので私は出勤させてもらった。ナナコさんが来るとそれはナナコさんだと認識したようだ。……私って、一体。
忘れられたわけではない、菜摘ちゃんは、と口に出すからには存在している。うーん……あらゆる症状が出るのは覚悟していたけれど、自分が自分と認識してもらえないのは結構辛い。
初めてお祖母ちゃんに出会った中3の頃は、まだシャンとしていて流暢な発音で英語を教えてくれた。紅茶が好きで、いつも私の好きなキャラメルやストロベリーのフレーバーティーを淹れてくれた。
毎日のように手作りのおやつを、放課後この家に集まる近所の小学生の為に作って……結構体力を使うスコーンを作らなくなったのは何歳位の時だったかな。お祖父ちゃんが脳梗塞で2回倒れて、もう塾をやめよう、ということになって。それからは二人で穏やかにのんびり暮らしていたけれど、多分その頃から少しずつ物忘れが多くなったりしてたっけなあ……
施設に入った方が刺激があっていいのかな。でも、この家にお祖母ちゃんがいないなんて信じられない。冬は暖炉の前に、夏は外の風通しのいいテラスに座って、本を読んだりして幸せそうに過ごすお祖母ちゃんは、まるで絵画の中の人のようなのだ。
お祖父ちゃんが亡くなって、色んなものが少しずつ色褪せてきている気がする。それはきっと、お祖母ちゃんの心も……あんなに仲良かったんだもの、当たり前だよね。信じたくない、という気持ちもまだあるのかもしれない。
私と佳之もいつかはそうなってしまうんだろうか。
夜も佳之とその事で話し合ったが、施設に入れた方がいいと言う佳之と入れたくない、と言う私の意見は変わらなかった。ただ、佳之も来年度から週2日、隣県の大学に講師として行く事が決まっていて、日帰りではあるものの今ほど家にはいられない、と聞いて少し揺らいだ。ナナコさんも今はいいけれど、ヘルパーという仕事上いつ交代になるかわからない。世間ではロボットヘルパーが主流になってきているが、お祖母ちゃんはそれを受け容れたくないようだった。この家にも似合わない。
仕事辞めようかな、と呟くと佳之は何も言わずラボに籠ってしまった。いつもそう、嫌な事があったりケンカするとこうやって籠ってしまうから、結局有耶無耶になっている案件も多いのだ。そして、いくつかは佳之が勝手に決めて来る。夫婦になるのに相談されないって結構辛い。
ああ、そう言えばまた色素の実験体になるんじゃなかったっけ……どうしようかな、機嫌損ねたみたいだし今日はもうナシかな。もう寝ちゃおう、知らない。
寝る前にお祖母ちゃんの部屋を覗くと、安定した寝息が聞こえホッとする。どうか、明日は私が私でありますように。
やっぱり佳之が隣にいないのが落ち着かなかったのか、しばらく寝られなかった。ようやく眠れそうだな、という時に佳之が寝室に入ってきてまた目が覚めてしまった事に少しムッとする。
「菜摘、なあ、おい……今日貼るって言っただろ」
「う……ん、もう勝手に貼ってよ。眠いし」
「電気付けるぞ」
私が腹這いになると、遠慮なしにパジャマをめくる。そしてまた、ペタリ、ペタリと貼っていく。あれ、今日は痛くない……
「今日の……痛く、ないね」
「ああ、新素材。上から浸透用のフィルム貼ってそのまま寝られる。一晩置いたら定着してる、はず。でもこれ剥がれたら終わりなんだよな、そこがネック。あと、どうしても6時間は……」
なんか佳之が延々と新発明だかなんだかの苦労話をし始めたけれど、いつの間にか眠ってしまっていた。普段無口なくせに研究の事となるとお構いなしにしゃべる。その半分でいいから、普段もしゃべってくれたらいいのに。
写真を撮られたのもパジャマを元通りにされたのも覚えていないけれど、おでこにキスをされたあれは夢ではなかったかも。なんだ、怒ってるわけじゃないのかあ……
それからしばらく、お祖母ちゃんは普通だった。一応病院にも行って見てもらったが、普通の時に行ってもまともに受け答えするので、調子の悪い時に来て下さい、それを診察してからでないと薬は出せないと言われた。
一応医療従事者の端くれとして、その手の薬が結構劇薬なのは知っている、麻薬のようなものだ。お祖母ちゃんには飲んでほしくないけれど、仕方のないことなのかなあ……
「菜摘ちゃん、今日宿題は?」
ある日の夜、お祖母ちゃんに聞かれて一瞬固まった。
「えっ、しゅ、宿題? そんなのないよ?」
「あら、毎日出てるでしょう……まあ、菜摘ちゃん! あなたどうしてお化粧なんてしてるの? だめよ、まだ中学生なのに!」
うわあ……そういうことかあ……この前私を私と認識できなかったのも、お祖母ちゃんの中で私が中学生に戻っていたからなんだ。
「ああ、これね、日焼け止め! 落としてくるね」
お祖母ちゃんが納得したかどうかは知らないが、こういう時は否定してはいけないのだそうだ。洗面所で顔を洗いながら、さて、宿題はどうしよう、と悩む。もうあの頃のテキストなんて持ってないしなあ。
「さ、宿題持ってらっしゃい、見てあげるから」
顔を洗ってリビングに戻るとお祖母ちゃんがダイニングテーブルで待ち構えていた。困ったな、そろそろ夕飯の用意しなきゃならないのに。……あ、そうだ。
「お祖母ちゃん、今日の宿題は英語の歌を歌ってお家の人に聴いてもらう宿題なの。だから、そこで聴いててね」
「そう、最近はそんな宿題が出るのね、おもしろいわね」
そして私は夕食の準備をしている間中、知っている限りの英語の歌を歌っては、時々間違いを指摘される、という宿題をこなしたのだった。ふふっ、私も楽しいしお祖母ちゃんも楽しそう! お祖母ちゃんが歌詞を思い出すのも刺激になるかな。相変わらず綺麗な発音だなあ。これから宿題って言われたらこれにしよう。
それにしても、私は中学生なのかあ……じゃあ佳之はどうなんだろう。
「ね、お祖母ちゃん、今日佳之遅いね」
「あら、もうこんな時間なの。部活かしら」
あらー、やっぱり。佳之も中学生なんだあ……あんまり顔変わってないしね。
「じゃあ佳之も同じ宿題なのかしら?」
「あはっ、そうそう、そうじゃない? きっとそうだよ!」
これは楽しい! 頭脳明晰、ピアノもヴァイオリンも弾けるんだけど、実は歌だけは音痴なんだよね! そこしか勝てるとこないけどね! 楽しみだなあ、早く帰って来ないかな。
ところが、佳之はお祖母ちゃんが寝る時間になっても帰って来なかった。まあ研究に没頭すると他の事が見えなくなる人なので、連絡なしに遅くなることはそう珍しい事ではなく、案の定日付が変わる頃に帰って来たし、理由も予想通りだった。
今日のお祖母ちゃんとの事を話すと、早く帰らなくて良かった、と少し笑った。聴きたかったな、佳之の歌!
「悪いな、遅くなったけど今日レポートの日だから」
1週間前に貼った色素の結果を見る日だ。自分では見えない所に貼ってあるので今まで大して気にも留めなかったが、これは自信作のようだったので私もちょっと楽しみだった。もう眠かったので寝室のベッドの上で見てもらう。
「おっ……いいな」
なかなかの出来だったのかとても嬉しそうだ。専用の液体を付けて拭き取っても色素が剥がれる様子もない、という。
「km9が……6、bbw12が8、vq8……12、っと。うん、いいな。あー、でもちょっとこれ……」
また独り言が始まった。どうせ聞いてもわからないのでそのままウトウトする。時々色素を撫でつける佳之の指先に、意識が薄れながらも身体が勝手に反応してビクッとなる。
眠りに堕ちそうになった時、露わになった背中に佳之の舌が這う。
「ひゃっ、ちょ、……ねえもう、寝ようよぉ……」
「駄目。最近してなかっただろ」
「や、あ」
首筋まで這い上がって来たかと思うと、チュッと音を立て跳ねる。シーツと私の身体の間に手が差し込まれ、やわやわとさほど大きくもない乳房を揉む。先程まで鈍かった感覚が、とたんに目覚める。
「そろそろ、子供作ろうか」
「えっ」
「いいだろ、もう。20代のうちに」
「あ、う……ん、やっ」
「嫌なのか」
「いやっ、その、や、じゃなくて、うん、あっ」
「……いいんだな?」
「う……は、はい」
その夜、佳之は今までにないくらい情熱的に、でも甘く、優しく愛してくれた。歓びと感動で、私の身体の中は打ち震えた。佳之との赤ちゃん……来てくれるかな。神様……
その日の夢には、小さな赤ちゃんを胸に抱いて、それを皆で……佳之も母も、お義母さんお義父さん、お祖母ちゃんも、そしてお祖父ちゃんも一緒に覗き込んで笑顔で喜んでいる場面だった。私ってすごく単純だな。
そう言えばもう一人、男の人がいたような……背が高くてがっちりとして……髭をたくわえ、優しそうな眼差しで少し離れた所から見ていた人。誰だろう。きっと、その子供の誕生を喜んでくれる人だろうな。