(5)
「被験者」になって1週間が経った。そう、あの背中に施術した緑の色素がどのようになったか写真を撮りレポートを作る日だ。
「菜摘、今日寝る前にレポート作るから」
「あー、はい」
不愛想に返事をしても全く気にも留めていない。あれから数日間、こんな調子だけれど多分佳之はそんなことよりも「お忙しく」て私の機嫌などどうでもいいことなのだろう。
慣れてる。昔っからそう。
今日は芝を掘り返した部分の土を入れ替える作業をしていた。いつもなら私はそれを眺めながらハーブティーを飲み寛ぐところなのだが、もう見る気もない。そうしているうちにいつのまにか佳之はその作業を終え、ラボに籠ってしまった。
「あそこに何を植えるつもりなのかしらね、あの子」
「さあ、何でしょうねえ。何も聞いてないからわからない」
お祖母ちゃんも気になるようだが、総ては佳之の頭の中、だ。芝の土とは違う、黒々とした土。私達の結婚記念に植える樹なのに新婦が知らないなんて。そりゃあ、何がいいかって聞かれてもよくわからない、綺麗な花が咲いてくれればいいけど……段々「知らせられない事」に拘ってイライラするのが馬鹿らしくなってきた。もういい、もういい。いつものこと。
大体いつも決まってから報告するじゃない。大学受験の時だってこの家に戻る時の事だって。「相談」なんてしてくれたことないもの、私の意見なんて聞く必要はないと思ってるんだ。
それに更に腹立たしいのは、それらが全て上手くいっているということ。いつだって正しいのだ、佳之の行動は。挫折の一つや二つくらい味わってみろってんだ、バーカ!
あーあ、完全にやさぐれてる。
こんな私なんかを嫁にするのは、間違ってるかもしれないよ? 子供が私に似て頭悪かったらどーするの。うわあ、そう考えたら逆に佳之みたいな超頭いい子が生まれたら、私ちゃんと育てられるんだろうか……その方が恐い。
夜、ラボから上がって来る佳之を待ちながら、ソファでグルメ情報誌をめくっていた。もうあれからウェディング雑誌は見ていない。式場へのキャンセル料はギリギリ発生しなかった。
ドレスも、試着で何着か着たからもういいや。ああ、あのオレンジのドレス、素敵だったなあ……薄い生地をこれでもかというほど重ねて、ハイウエストでちょっと幅広目のサテンのリボンを締めて……顔周りもすごい繊細なレースがブワッと……
いやいや、そんな繊細なドレスが似合うようなキャラじゃないもの。肌だって白くはないし、仕事柄もあって髪もショートだしメイクもあまりしないから最近はそばかすみたいなシミができてきて、本当に皮膚科の看護師かよ、って……
式をしない、って決めたのもそもそも私なんだし。未練がましい、ドレス着れないくらい仕方ない。
そんな事を悶々と考えていたからか佳之が家の中に入ってきた事には気付かなかった。いきなり後ろから冷え切った手で頬を挟まれ、ギャッ、と悲鳴をあげてしまった。
「ははっ、気付かなかったのか。ボーッとして、何考えてた」
「もう、冷たい! 心臓止まるかと思った」
「婆さんか」
笑いながら暖炉の前で手を温める佳之の態度をみれば、私が機嫌を悪くしていることなど微塵も気に留めていないのがよくわかる。私を驚かせるのに成功した事をほくそえんでいる横顔だ。不愛想でクールなくせして時折こんなやんちゃ坊主のような事をするから、結局許してしまいそうになる自分をどうにかしたい。
写真を撮るので煌々と電気を点け腹這いになったが、カメラの影が映り込む為、立って少し前屈みになり服をめくって壁に手をつく。しかしそれだとどうしても服が滑り落ちる。
「めんどくさいな」
佳之は私の後ろから手を回して、パジャマのボタンを一つずつ外していく。
「い、いやいや、ちょっと……私が押さえてれば済む話じゃないの?!」
「ああ、……まあ、そうだけど」
そう言いつつもあっという間にパジャマをはぎ取ると、色気のない長袖の肌着もすっぽりと私の身体から抜き取り、寝る時はノーブラの私は上半身裸になってしまった。
「ちょっ、寒い、やだ」
「心配しなくてもその程度の胸は写らない」
「バカ、ほんと失礼」
カシュッ、カシュッとカメラのシャッター音が数回したかと思うと、まだ暖まりきれていない指先が色素を貼った部分をなぞり、思わずひゃっ、と声を上げ身を捩る。
「ああ……まあ、まずまずだよな。1週間でこれくらいの退色なら3日分、ってところか。今回もダメでした、っと……n12が7、sh5が6……」
よくわからないのだが、数枚貼りつけてあるのは別々の種類らしい。ブツブツ言いながらメモを取っている。
「今作ってるのが多分明日できるから、また明日からよろしく」
「ああ、う……」
返事をし終わる前に、佳之の腕が私を後ろから包み込み、首筋に唇が触れる。一瞬膝が崩れ落ちそうになるのを耐えて、振り向きもせずその腕をゆっくりはらいのけ肌着に手をかける。
「わ、わかった。じゃあ、お休み」
「……え、何、さっきの気に障ったのか」
「別に」
さっきの、というのは多分貧乳扱いした事を言っているのだろう。そんなのは今に始まった事じゃないからどうでもいい。スタスタと洗面所に向かう私を追いかけて来る。
「何怒ってんだよ」
「別に、いいから。もう寝るし」
ベッドに潜り込み、佳之に背を向けるように寝た。しばらくして寝室に入って来た佳之は、いつもなら枕元のライトを点け文庫本を読むのだが、今日はすぐにライトを消し何かもの言いたげにこちらを向いている気配は感じる。
もぞもぞと身体を寄せて来て、私の首と枕の間にできたわずかなスペースに右腕を滑り込ませてくる。髪に、息がかかるのをくすぐったく感じる。左腕を少し遠慮気味に私の腰にまわしてきた。
「菜摘、……なあ、どうした?」
冷たい目つきなのに少し幼くも見える顔に似合わない低い声で、囁くように言われると弱いのを知ってか知らずか。ずるい。
「いい、もう寝かせて」
私、何意地になってるんだろう、言えばいいじゃん。いつもそうやって勝手に色んな事決めて、って。少しは相談してよ、って。冷たくあしらっても尚も腕を抜こうとしないどころか、ますます身体を寄せてきて両腕で包み込む。
「何、怒ってる」
「……」
「俺……はっきり言われないとわからないからなあ……気付かないうちにそうやって、いつも菜摘を傷つけてるんだろな」
珍しく素直な言葉に少しびっくりした。以前なら、勝手に怒ってろ、と言って背を向けるのはいつも佳之の方だったのに。30近くにもなると人間が丸くなってくるのかな。もういいか、許しちゃおうか……そう思った時、ほんのわずかにギュッと抱きしめたかと思うとするりと腕を抜き、さっと身体を離すと私に背を向けて寝てしまった。
私は声に出そうとした言葉の行き場所を失った。何というか……そうだよ、この男せっかちなんだよね……こういう、男と女のまんじりとした駆け引きっていうか、言葉にできないなんたら、とか無言のまま見つめ合ってわかり合う、とか一切できない人。
ストレートで分かりやすいけど、私にもそれを求めるからさあ……言わなくてもわかってよ! そんなこと自分で気付いてよ!っていうのが通じない。はあ……ああもう、イライラして寝られやしない。
佳之が寝息を立てはじめたのを確認してそっとベッドを抜け出す。リビングのカーテンを開けると、遠くに見える海に満月に近い月が光を落としていた。その月に照らされ静かに揺れる木々の影が、庭を覆う。蒼い世界……綺麗。
お祖母ちゃんは私と同じで、昼間の明るい太陽と海が好きだけど、お祖父ちゃんはこの夜の風景が好きで時々こうして夜遅く、一人で海を眺めているのを何度か見た事がある。
優しかったなあ、お祖父ちゃん。初恋の人であるお祖母ちゃんの好きな花を一生懸命大事に育てて、それを見て喜ぶお祖母ちゃんの事をまるで少年のような目で嬉しそうに、愛おしそうに見つめてたっけ。私の理想の夫婦像。私と佳之もこんな風になれるだろうか、いやならない。ふふっ、あの人が私の事を愛おしそうに見つめたりなんてするわけがない。別にいいんだけど。
ねえ、佳之。私、今自分がこうやって佳之と一緒にいて、結婚するってまだ信じられないよ。