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 冬の朝の、ゆっくりとした柔らかい朝陽の中で白い吐息に包まれながら、ゆったりとした歩幅で一つ一つ植物を見て回る。今は寒いから窓は開けないけれど、部屋の中からそんな彼の様子を眺めるのも結構好き。

 植物が、彼を待っているような気がする、というかその気持ちがわかる。早く触れてほしい、と思っているに違いない。今まで随分と、この庭の植物も色素を取るために、それこそ咲く前の花なんかも切り取ったりもするのだけどそれさえも彼に「喜んで差し出している」のではないか、と勝手に想像する。


 彼は研究に使った植物も粗末にはしない。薬品が付いていないものは、必ず土に還す。昔からの方法で生野菜の切れ端などと一緒にボカシで肥料にし、また庭にまく。これはお祖父ちゃんに習って、高校の時からの彼の仕事だ。私はお祖母ちゃんから、どこまでが肥料にまわせるのか料理しながら仕分けの仕方を習った。


 私には祖父母がいない。私が小学校の時に両親が離婚し母に育てられた。母方の祖父母は遠い所にいて、祖父は私が小2の時、そして祖母も中学の時に亡くなった。生活の為に一生懸命働く母はほとんど家にいなくて、いつも一人寂しい夕食だったが中学の時この家に来るようになってからは時々一緒に食べさせてもらっているから、ここのお祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、本当の祖父母のようだった。


 ああ、そろそろお祖母ちゃんを起こす時間。部屋へ行くと、もう目は覚めていたようだった。

「おはようございます」

「おはよう、寒いわね」

「もうストーブついてるから、リビング行こっか」

「ねえ、あの人を呼んできて」


 ああ……今日は「過去の日」だ。お祖母ちゃんはこうして時々、彼の事を「あの人」と呼ぶ日がある……おじいちゃんだと思っている。私が同居を決めたのも、この為だった。彼一人では、対応ができそうになかったからだ。

「ちょっと待っててね」

 

 リビングの掃き出し窓を少し開け、彼に「呼んでるよ」と伝えると、かがめていた腰をグーッと伸ばして深呼吸をした。

「今日は『過去の日』か。最近調子良かったのにな」

 ため息交じりに家の中に入り、洗面所に向かう。

「でも今日は穏やかみたい。いい夢でも見たんじゃない、この色男」

「バカ、俺じゃないだろ」

 タオルで念入りに手を拭くと軽く私の頬をつまみ、お祖母ちゃんの部屋へ向かった。



「おはよう」

「おはよう、あなた。庭にいたの」

「ああ、うん。さ、起きて」

「……ねえ、あれは夢だったのかしら……あなたとドライブに行ったの」

「夢だよ」

「そう……楽しかったわね、ほら、トロッコに乗って」

「……そう」


 私は彼に支えられ起き上がるお祖母ちゃんの肩に、薄いピンクのウールのストールをかけた。


 お祖母ちゃんが思い出話をしている時、彼は否定も肯定もしない。ただ「過去の日」は「あなた」と呼ばれたら自分の事なのだという自覚はしているようだ。ちなみに私は実際のヘルパー「ナナコさん」と混同されている。


 お祖母ちゃんは、彼の腕に頼りリビングまでゆっくりと歩いて行った。薪ストーブに置かれたヤカンから湯気が昇り、室内は夜中の乾燥した冷たい空気から、快適な環境に変わりつつあった。窓際に置かれた元気がなかったはずの鉢植えはやや生気を取り戻し、丁度昨日開いたカトレアも朝日に照らされ、ビロードのような高貴な艶をより一層輝かせている。


 私が朝食を用意している間も、お祖母ちゃんは彼を「あなた」と呼び、ニコニコしながら話をしている。彼もまた、時折笑顔を浮かべながら相槌を打っている。滅多に笑わない彼なのにお祖父ちゃんを演じているつもりなのだろうか、ちょっと妬ける。


 1年前お祖父ちゃんが亡くなって一カ月位経った頃から「過去の日」は始まった。最初彼は戸惑い、呼ばれる度に「違うよ」と訂正していたが、悲しそうな顔をするお祖母ちゃんを不憫に思ったのか、いつからか受け容れられるようになった。

無理もない、お祖父ちゃんと彼は瓜二つだった。私も中学の時、お祖父ちゃんの中学校の卒業アルバムを見せてもらった時には驚いた。そこに写っていたのは誰がどう見ても紛うことなき彼そのものの姿だったから。

 

「ナナコさん、今日は納豆あるかしら。この人、朝納豆食べないとダメだから」

「ありますよぉ、お祖母ちゃんはどうします?」

「私はいいわ。さ、じゃあ頂きましょうか」


「過去の日」は、彼も律儀に胸の前で十字を切る、お祖父ちゃんがしていたように。最初の頃は気にせず食べはじめていたのだが、お祖母ちゃんが大騒ぎしたからだ。

 とにかく、お祖父ちゃんのように振舞わないと混乱して大騒ぎする。面倒な事が嫌いな彼は、だったらもう最初からお祖父ちゃんになり切ればいいんだと開き直った。ただ、お祖父ちゃんに比べても圧倒的に口数は少ないのだが。


 朝食が終わると、お祖母ちゃんは暖炉の前に座りしばらく身体を温める。彼はもうラボに籠ってしまった。私は自家製のハーブティーを淹れ、お祖母ちゃんと飲むのが日課だ。あと30分もすれば本当のヘルパーさんの「ナナコ」さんが来るので、そうしたら彼女とチェンジして私は寝室で身支度をしそのまま仕事に行くのだった。



 仕事が終わった足で買い物をして帰るのは18時頃。朝は「過去の日」でも、夕方には元に戻っている時もあるが、この日は戻っていなかった。帰り着いた時ナナコさんの車があるのはその証拠だった。

 私がそっと玄関から入りそのまま寝室に行くと、その気配を察して大体15分以内にはナナコさんがそっと帰って行く。そして私が代わりにナナコさんになってリビングに戻る、というわけだ。


 お祖母ちゃんはなぜか機嫌が悪かった、というか泣いた跡があった。少し離れた所まで彼を引っ張って行き問い詰めると、うっかり結婚式の話をしてしまったという。

「なんで『過去の日』にそんな話を!」

「お前があの、マーカーしてる所見とけって言ったからだろ。お祖母ちゃん着物なのか洋装なのか、ってつい」

「もう……もう少し考えてよ!」


 彼は明らかにムッとし、黙ってまたラボに行ってしまった。リビングに戻り、肩を落としているお祖母ちゃんの手をそっと取る。

「ねえ、ナナコさん、ひどいわよね。他の人と結婚するなんて言うのよ、あの人……そりゃあ、私も他の人と結婚してたけど……やっと一緒になれたのに……」

 お祖母ちゃんの目からハラハラと涙が頬を伝って落ちる。ちょっとその辺り色々と事情があるのだがそれはさておき、なんとか泣き止ませないと。

「ねえ、きっと冗談でしょう。ずっと一緒にいるって、大丈夫よ」

「本当に……?」

 私が大きく頷くと、ちょっとホッとしたような顔になり手に持っていたタオルで涙を拭った。

「あの人の冗談ってね、わかりにくいのよね」

「そうだろうねえ、ほんとそう思う」

 実際も彼の冗談はわかりにくかった。せっかく彼が冗談を言っても私が反応できなかったり笑うポイントがわからない事も多々あり、そんな時だけ「ホンマにもう」と関西弁で呆れた顔をする。



 いつもの「過去の日」なら、お祖母ちゃんが眠る時大体は彼が付き添うのだが、そんな話をしたからかお祖母ちゃんは少し拗ねているようで彼とあまり口を聞かず「ナナコさん、もう寝るわ」と言うので手を取って寝室へ連れて行った。

 ベッドに入ってからも少し落ち着かない様子だ。

「不安なのよ……また、どっか行っちゃうんじゃないか、消えてしまうんじゃないかって……」

「大丈夫、ずっとこの家にいるよ。お仕事以外はどこにも行かないからね」


 実際お祖父ちゃんとお祖母ちゃんがこの家に一緒に住み始めた頃はもう、お祖父ちゃんはあまり仕事には行くことはなかったが、彼が仕事や出張に行くことについてはなぜか納得しているようだった。

 よく事情は知らないけれど、お祖父ちゃんは学生の頃、お祖母ちゃんの前から忽然と姿を消したことがありその時の不安がいまだに残っているらしい。

「もうあの人がいなくなっても……私は探せないわ……こんなに歳をとって、ねえ」

「大丈夫だよ。さあ、もう寝ましょう」

 そっと手を取ると、ゆっくりと握り返し目を閉じる。加湿器の音とお祖母ちゃんの寝息が重なり、薄暗い部屋に一定のリズムを刻む頃、そっと部屋を出てリビングに戻った。


「寝たの」

一仕事終えラボから戻った彼が、コーヒーを飲みながら結婚式の資料をチェックしていた。

「うん、結婚式の話しちゃってちょっと不安になったみたい。他の人と結婚するのか、って」

 彼は黙ったままコーヒーを啜った。今日感じた事を、思い切って彼にぶつけてみる。


「ねえ、私、思うんだけどさ」

「なに」

「結婚式、やめようか」


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