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本文中の入試制度の設定や名称、研究内容などにつきましては作者の創作です。
特に研究内容に関しましては、既に完成されている研究等あるかもしれませんが、調査において限界があることから、あくまでも創作である事をお断りさせて頂きます。
「ねえ、ちょっとこの鉢、元気ないんだけど」
「ああ……水やりすぎだろ。これは乾燥気味にしとかないと」
彼はその鉢植えに敷いてある受け皿の水をザッと窓の外に捨て、陽の当たる窓辺のラックに置いた。ついでにもう一鉢気になったようで、同じく水を捨て先ほどの鉢植えの隣に置いた。
海の見えるこの小高い丘の家に彼が帰って来たのは、大学院を卒業して約4年、今から1年前の28歳の秋の事だった。彼の祖父が亡くなり、祖母が独りになるのが心配だったようだ。広い庭の一角にラボを作り、研究を続けている。
「なあ、手、貸して」
「またあ? 何日で消える?」
「さあなあ、とりあえず一週間位」
「え、じゃあ見えない所にしてよ。この前みたいに痛かったら怒るからね」
「わかったから早く」
彼の言う所の「手を貸す」というのは、手伝うという意味ではない。
幸い今は長袖だけれど、仕事上割と腕をまくる機会があるので、やはり背中にしてもらうことにした。人に見られたらちょっと体裁も悪いし。
え? 違う違う、怪しいプレイでもない。真面目な研究。
「乙女の柔肌なんだから大事に扱ってよね」
「……誰が乙女だ、もう30だろ」
「まだ29! 同じ歳なんだから間違えないでよ!」
「男は早く30代になりたいんだよ、29も30もたいして変わらねえよ。いいだろ、どうせ他の男と結婚するわけでもなし」
そう、春になったら私達は結婚する。良かった、30になる前にウェディングドレス着れて。まあ、なかば私が強引に決めたんだけどね。
「……や、痛っ」
「あ、悪ぃ。間違えた」
「もうっ……あっ、やっ」
「変な声出すなよ、バカ」
「……今のはそっちが悪いんじゃない、そんな所触るから」
文句を言いながらも、実はこの時間が結構好き。彼の手の温もりが伝わる。私の背中をスッと滑ったり押さえたり、脂肪を摘まんだり、……そう、彼のやり方は摘まんで表面積を広げて、そこに入れる。そうすると元に戻した時にグッと縮まって綺麗に見える。
え? 何の話かって?
彼の研究は簡単に言うと、植物の色素から人体に安全なものを抽出する、というもので、それを色斑などの痣やいわゆる「白抜け」などを目立たなくする為に使うものを作っている。彼の妹に白抜けがあり、中学の頃からずっとこの研究をすると決めていたらしい。
だから、東大や京大などに行ける頭脳を持っていたにも関わらず、その研究の第一人者であるY大農学部の仙崎教授のもとへ行ったのだ。先生達も最初は説得したものの、あまりに彼が頑として志望をかえなかったので諦めた。
私も先生達と同じく、昔からてっきり彼は医者になるのだと思っていた。色素の研究の話を聞いても、勝手に「皮膚科の医師になるんだろう」と思い込んでいた。だから、看護師になったのに……いずれは彼と結婚して病院をやっていくのが夢だったのに。
Y大と聞いた時だって当然医学部だと勝手に思っていた。全国大学セントラル試験の後に聞かされたこっちの身にもなって欲しいものだ。自分の事話さないにも程がある。
けれど、彼の研究は結果的に多くの功績をもたらした。
元々タトゥー(刺青)は金属系の色素を使うことが多く、その影響から温泉に入れない、一生消えない、消すのが大変、というような問題があったのだが、安全な植物色素を使うことによって危険性をなくし、また定着成分の調整によって年数をある程度選べるようになり、また消すのも簡単になった。もちろん彼もタトゥーの研究をしたかったわけではなく、それはあくまでも仙崎教授の研究なのだが、彼の発見に依る所も大きかった。ただ、これができた事により結果的に安易なタトゥーをする人が多くなり、社会的にバッシングを受けることもあった。
しかしながら本来は皮膚疾患の為の研究をしているということがより注目されることにもなり、その問い合わせも殺到した。ただ、皮肉な事にこの研究は彼の納得いくレベルまで達しておらず、現在もこうして自宅で研究を続けながらたまに大学に出向いている。
その他にも色々と問題のあったカラーコンタクトをこの安全な色素に変え、そして更にうるおい成分などの機能も高めた。もっとすごいのは、偶然だったが癌細胞に反応し尚且つある一定の条件で癌細胞を数%死滅させる植物色素を発見し、表立って有名になったのは仙崎教授だったが、卒業後だったので共同研究者として名前を連ねた。
元々ヘナなどが有名な植物性染料だが、色の展開に限界がある。この研究の色素は、絵の具のように簡単に調整ができ、表現できない色はない、という優れものだ。
皮膚の痣に悩んでいる方は、今私が勤めている皮膚科にも多くやってくる。彼の妹の白斑は通常見えない部位にあるのでそう問題はないが、顔や、普段見える所にあるものへ対する世間の偏見や差別などはいつまでたってもなくならない。
今まではメイクで目立たなくすることはできたが、かなり高度なテクニックが必要であり、毎日専用のクレンジングで落とし、そしてまた翌日色調整し何時間かかけて塗る、という途方もないものだった。しかし、彼の研究で好きな期間その部位を目立たなくすることができるようになったので、夏の間だけ、とか就職活動の間や結婚式前後3日間、もちろん一生、などという事も可能になった。
また色の調合や部位の形もコンピューターが自動的にしてくれるので、一度登録すれば次からはネット注文でシート状になったものが送られてきて自分や家族が簡単にできるようになった。
彼は、この研究において次第に「救世主」と呼ばれるようになりつつあった。
難しい話はこの辺にしておき、今私は彼の「人体実験」に付き合っているというわけだ。今回は大きなシート状のものではなく、5㎜角の小さな正方形状のシートを一枚一枚固定させていくもので、0.0002ミリの針がびっしり板状になっている物を使い固定していく際、ほんの少しだけピリッとくる、というはずの所を何をどうしたのか「間違えた」らしい。
彼はこういう細かい事も平気で集中力がよく続く。私はもう痛くなくなっていたので、途中ついウトウトしてしまった。
「終わったぞ。あと定着よろしく。よだれ」
背中をバシッと叩かれ飛び起きた。
「……へっ、あっ、やだ! ……お、終わったの、はいはい、朝晩の定着ね。今日は何色?」
「緑」
「え、緑斑…なわけないか」
「緑に緑重ねてどうすんだよ。赤痣に重ねる調整用」
「ああ、なるほどね」
「タトゥー用は緑、簡単だったんだけどなあ……なんでメディカルはできねえんだよ、クソッ」
ちょっと今日は苛立ってるようなので、夕飯は彼の好きな「お祖母ちゃんレシピのカレー」にしてやるか。