〝万〟有引力
万引きをしよう。
行き着けの本屋の奥まったスペースに立った瞬間、唐突に思い立った。
理由――ない。ストレス発散とか興味本位とか思いつきはするのだけれど、どれも決定的な動機じゃない。
私は児童書のコーナーから、いかにも少女向けの表紙の漫画を棚から抜いて、すばやく学校指定の鞄のサイドポケットに隠した。
自分の心臓の音だけを聞きながら、足早に店の出口を目指した。
万引きは店を出てから成立する。店を出てからが勝負だ。幸い私は足の速さに自信がある。
出口まで3メートル。スタートダッシュをかけようとした時。
自動ドアにぶつかる勢いで入店した男にぶつかって、その漫画を落としてしまった。
私は真っ青になった。鞄に隠すなんて買う客ならしないことを、店員にも客にも見られた。どうしていいか分からなくて頭が真っ白になった。
「あああああああああ!」
叫んだのは男のほう。私が万引きしようとした漫画を指さして。
「なあアンタ、この本買うのか?」
買うのか、なんて。今まさに万引き犯になろうとした私が答えられるわけない。
「じゃあ頼む! 買ったあとでいい、オレにも読ませてくれ!」
声が、出なかった。あらゆる意味で男が意味不明だった。
「ずっと探してたんだよこの本。半金持ってもいい。アンタが読み終わったあとでいいから、オレにも読まして!」
ようやくショックから立ち直った私は、本を拾って男に押し付けて、店を飛び出した。
街を走って、デートスポットで有名な公園に着いて、さっきの自分のしたことがようやく恐ろしくなってきた。
あの人がいなければ、私は万引き犯になって、親にも学校にも連絡が行って、クラスで噂になって部活も停止になって……私は夏にも関わらず寒気を感じた。
あの人が、いなければ。
本当にどんなに感謝しても足りない。
「おーい!」
あの男の人だった。
まさか私のやろうとしたことに気づいて何か言いに来た?
すーっと消える感謝の気持ち、どっと湧いてくる恐怖。
「足速いのなー。陸上やってるだろ、絶対。ああ、そうじゃなくて! ホイ」
その人が差し出したのはあの漫画が入った、書店のマークのプリントされた袋。
「なんか横取りしたみたいで悪いし。よかったら先に読んで、オレはそのあとで……」
私は漫画を受け取る。巻数は5巻で、タイトルだって聞いたこともない。背表紙のあらすじから、どうも推理物らしいことしか分からない。
それでも私はその漫画をその場で読むことにした。
あの男と一緒に木陰のベンチに座って、直射日光に当たらないようにページをめくる。
オムニバス形式なのと、分かりやすいトリックばかりだったのが幸いして、最後は知らない作品に引き込まれて心から楽しんでいた。
読み終わって隣のその人に渡すと、その人も真剣に読み始めた。私はどうしてかその人の表情から目が離せなかった。
「はあーっ。さっすがH先生、ほのぼのなのに奥が深いぜ」
読み終わっちゃった。
この人は帰ってしまうんだろうか。
いやだな。
もっと話したいな。
もっと、この人と一緒にいたいな。
私は自分から内容について話題を振った。その人は私と同じところに関心を持ったみたいで、今まで話したどんな友達よりも、この人と話すほうが楽しかった。
もっとこの人と関わっていたくて、私は実はこの巻は表紙買いで、他の巻は持ってないから読みたいと口実をつけて、その人とまた会う約束をした。
今から思えば。
私はこの時、この不思議な出会いをくれた男に絡めとられたのだ。