第九話「弟子」
翌日の朝、私はオフシェの化合弓を背負い、出発の準備を終えた。執事も荷物を背負いながら、茶の補充は充分と報告してくる。紅茶があればそれでいいのだろうか?
「少し距離はありますが、よろしくお願いします」
「任せて。帰ったら、また組手お願いね?」
「楽しみに、しています」
穏やかに微笑むオフシェが、私と執事を見送ってくれた。目指すは鍛冶屋、それだけのお使い。心地良い風が私達の背を押し出し、急かされているような錯覚を覚えてしまう。
「貴方の師匠、凄いわ」
「それを聞いたら、きっと喜びますよ」
「喜ぶ前に否定しそうだけどね」
私の言葉に、執事は笑いながら同意する。大草原の中、振り返ればぽつりと立つオフシェ宅。視線を戻せば、遠くに点々と見える一軒家、それは片田舎を描いた絵画のようだ。
「執事は北の区域出身なの?」
「......いいえ。都心にある孤児院にいたので、厳密には違います。オフシェが、私を孤児院から連れ出してくれましたので」
「あら、失礼」
「気にしてませんので。それにしても、組手の最中に弓が壊れるとは。オフシェが弓を使ったんですか?」
「使ってないわ。ただ、急に煙をあげたのよ。その後に軽く動かしてたけど、弓の形にならなかったわ」
「そうですか。長年使っていて、更にピーキーな性能の弓です。負荷が強い場所の部品がどこか、寿命なのかも知れませんね」
私の背にある化合弓をちらりと見て、呟くように言葉にする。どこか懐かしむようなその視線は寂しさが感じ取れて、執事のらしくなさに私は居心地が悪くなっていく。そんな彼を慰めるように、強風が吹いて気を紛らわそうとしてくれた。
どれほど歩いただろうか。日はもう沈みかけて、明かりが欲しくなる様な暗がりになり始めたころだ。前を歩いていた執事が急に立ち止まり、片手で私の行く手を阻む。
私が見上げると、彼は目を細めて遠くを見つめており、唐突に深い溜息を吐く。何かあったのだろうか?私が聞き出す前に、何かを指差す。瓦礫の山みたいな大きさの物体が近づいて来ている事は間違いないようだ。
「あれがなんだか解りますか?」
「なにって……。暗いし、遠すぎて判断出来ないわ。ただ、こっちに近づいている気がするけど」
「……月猪という太古の生物に似ています。過去に読んだ書物の通りでしたら、既に絶滅しているはずなんですが。どことなく、何か違う気もします」
「そんな事はどうでもいいの。ただ、そいつが私達の進む道の邪魔になっている事でしょう? だったら、やる事は決まっているわ」
「はい」
執事が足首のストレッチを始めたのを見て、私の唇が無意識に弧を描いてるような気がした。なんだかんだで、紅茶好きも一戦したいのだろう。今回は譲ってやろうなんて気楽に考えていたら、世にも珍しい事が起きた。
「ティーセットを持っていてくれませんか?」
「……え?」
「ナイフ、お借りします」
「あ、ちょっと!」
驚きのあまり呆けている私に、ティーセットを無理やり押し付けて、私の相棒を両方引き抜いて行ってしまった。もしかしたら、思った以上にまずい相手なのかもしれない。私が執事に追いつく頃には、既に月猪と戦闘をはじめていた。
月猪は全身を茶色い毛並みで覆われており、二本のねじれた巨大な牙を生やし、黄色い瞳が鋭く光る。
興奮しているのか鼻息が荒く、巨大な牙が今にも執事を襲いかかろうとしていた。それを彼は、右手のブッシュナイフと左手のサバイバルナイフで受け止めて、更に左足で月猪の鼻面を踏みつけ、正面からぶつかり合っている。
先に動いたのは、執事。左足に力を込めたのか、強引に月猪を大地とキスさせる。続けざまに頭部にブッシュナイフを突き刺そうとするけども、月猪は首を左右に振って牙で防ぐ。振り上げられた牙を避けるために、一度距離を取って様子を見る執事。
何かを探すように月猪は鼻を鳴らし、周囲を見渡す。探しものはどうやら月だったらしく、空に浮かんだ満月に向かって月猪は唸り声をあげた。月猪の目は、私と同じ真紅に染まっていく。
「おや、書物通りの月猪の力を持っているようで。どうやら本物みたいですね」
私は助けに行くか悩んだけれど、どこか嬉しそうに語る彼の邪魔をしないで置こうと決めた。私だって、強敵との戦いに水を差されたくない。そして何よりも、執事のナイフさばきに興味がある。
月猪が動き出すよりより速く、草原に吹く風の様に走り抜けて、執事は月猪の横から仕掛けるようだ。私の場所からは判断は出来ないけれども、合間を置いてから鈍い音と同時に月猪が暴れだす。それを嘲笑うように、執事は暴れだした巨体を踏み台にして宙を舞う。
彼の手元にあるのはサバイバルナイフ、ただ一つ。月に照らされ、刀身が不気味に輝いているそれを月猪の頭部に寸分の狂いもなく、投影して刺してみせた。そこから更に、落下速度も加えた踵落としで衝撃を与える。
「困りましたね。思った以上に手強いようで」
驚くべきことに、致命傷とならなかったのか先ほど以上に暴れだして執事を振り払った。頭部にはまだナイフが刺さっている。月猪の真紅の眼光は執事から決して外れる事はなく、蹄をかいて標的を見据えている。
頭部から血が出ることも構わず、月猪は吠える様に唸り声をあげた。それはまるで、強敵に出会えた事を喜ぶように。振り払われ、受け身を取っていた執事目掛けて、月猪は駈け出した。