第二話「ファントム」
空が泣き出す前に、雨宿りになりそうな場所に気付いた。紅茶好きの彼にも、その居場所を知らせる。私が指差したのは、半壊したマンションから見える扉だ。その扉に近づき、少し開けて中を覗く。部屋の天井に付いている蛍光灯が、不規則に点滅して目が痛い。内部は損傷が少なく、雨漏れの心配もないだろう。
念の為にブッシュナイフを鞘から抜いて、足音を立てないように中へ入り込む。更に奥への扉があるが、そちらは鍵がかかっているようだ。ひとまずここで雨宿りをしよう。
「うーん、ここでいいかしら」
「そうですね。他に手頃な場所は見当たりませんでしたし」
「奥の扉が少し気になるけどね」
私はナイフ片手に、部屋の中を物色する。部屋にはテーブルとソファーが置かれており、他には木製の棚が部屋に鎮座していた。そこを丁寧に調べてみるが、割れた写真立てに、観葉植物のミニサボテンくらいしかない。
そんな事をしていると、物音が聞こえた。咄嗟にそちらへと視線を移すと、鍵がかかっている扉から音がしている。ブッシュナイフを持ち直して、いつでも斬りかかれる体勢のまま、様子を見る。扉がゆっくりと開いて、ある人物が姿を現した。
その者は黒いコートを羽織っている男性だ。ただ、大きく欠伸をしている男に何故か、隙を見せてはいけないと思ってしまう。
「ねえ、何か用?」
「……雨が降り出しそうでしたので、雨宿りに来ただけですよ」
私の代わりに紅茶好きが返事をする。声が普段より少し硬い辺り、彼も目の前の男が油断ならないと判断したのかもしれない。彼は出来るだけ穏便に済ませるよう、慎重に言葉を選ぶ。
そんな事に全く興味がないのか、目の前の男は一室に備え付けられた窓から、空の様子を窺う。広がる厚い雲が見えたのか、一度舌打ちして視線を戻した男が語りだす。
「雨が上がるまでは面倒を見てやる。ただ、俺は仕事の途中でな。雨宿りが済んだらでいいから、礼として少しくらい手伝ってくれよ?」
「……わかりました。しばしの間ですがよろしくお願い致します。ところで、お仕事とは一体」
「基本的にはなんでもやる傭兵みたいなもんだな。おっと、そういやあんた達の名前はなんて言うんだい? 俺はファントムって呼ばれている、雇われの人間さ」
ショートウルフカットの黒髪を揺らして、ファントムと名乗る男が微笑んだ。彼の敵意ない声に、私はブッシュナイフをしまう。つまらない事で険悪になったら、面倒極まりない。私達もファントムを真似るように、名乗り始めた。
「見た目の通りですが、私は執事と呼ばれています。ただの紅茶好きです」
「……私は名前なんて捨てたわ。好きに呼んで」
軽く会釈する執事を横目に、私は視線を伏せて呟く。私の家系は古くから国の軍に所属しており、武に長けた一族の人間として有名だった。けれど、荒廃してからは富も名声も失い、今あるのは己の力だけ。それを機に私は名前すら捨て、この世界で生きてやると誓ったのだ。名前なんてなくても困らない。
「名前がないって……? おいおい、そんなんでいいのかよ執事さん。こいつの従者か彼氏なんだろう?」
「まって、違うから。訳あって一緒に行動するようになっただけだから、変な勘違いしないで」
「はいはい、そういう事にしておくよ。なんて呼ぶかな……」
ファントムが末恐ろしい事を言い出したので、私は声を荒げる。けれども彼に軽く流されてしまい、どこか納得がいかない。執事を見ればどこか困ったような、けれど楽しそうな笑みを浮かべている。
視線をファントムに戻すと、何故か私の髪を見つめていた。なにかついているのだろうかと思って、問いかける前に彼が満足そうに頷く。
「よし、なら俺は白狼って呼ばせてもらう。白い髪に狼みたいな性格だからな」
「……銀髪なんだけど」
「銀だったのかそれ。見間違えてた」
「別にいいわ、以前からよく言われてたし。よろしくね」
髪の色を間違えて詫びるファントムだが、呼び方を変える気は一切ないようだ。私は仕方ないなと思いつつも、差し出してきたファントムの手を握り、可能な限り笑みを浮かべる。さきほど建物で戦った連中みたいに、虫唾が走る視線も行動もしない。それだけでも好感が持てる。彼が今度は執事と握手を交わしていると、奥の方から動物の鳴き声が聞こえてきた。それは扉の隙間から現れ、こちらに歩み寄ってくる。
一匹は全体的に白く、体格が大きいブルーアイが印象的な猫。もう一匹は全体的に茶色と黒のカラーリングで、ブラウンの瞳を持ったスレンダーな猫だ。二匹とも興味深そうに、私に歩み寄ってきて可愛らしく鳴くではないか。しゃがんで交互に撫でてやると、嬉しそうに声をあげて、二匹とも遊んで欲しそうに甘えてくる。
「白いデブがチロで、茶色と黒の痩せた方がナッツだ。仕事の手伝いの時にはチロに案内させるから、ちゃんとついて行けよ?」
「賢い猫なんですね」
「執事さん、解ってくれるか! 頼れる相棒達だ。正直、俺がいなくても生きていけるんじゃないのかってくらいだぞ」
本当に嬉しそうに、ファントムは二匹の猫の自慢話を始めた。それが一段落つくころには、本格的に空が泣き出して暫く止みそうにない気がする。
時間的に夕飯時になり、奥の部屋にキッチンがあるとファントムが教えてくれた。けれども私は料理が出来ない。ファントムと執事が作る料理を待ちわびながら、チロとナッツの遊び相手になる事にした。