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学んだ事全て、其れはあなたの血肉となるでしょう。

 やっぱり。

 春香は思う。

 やっぱり、目の前に在ったら食べたくなるよね。

 うんうんと頷きながら、出来上がった物に手を伸ばす。

 白くて、丸くて、柔らかくて。

 ほんのり冷たい、其の触感は至高。

 満足げに微笑んで、春香は徐に口を開いた。


 すぱーん!


「なああああああああああんでそんなもン喰おうとしてんだよお前は!?」

「いったああああああああああああああああああああああああいい!!!!!」


 派手な炸裂音と大声の二重奏。

 閑静な四阿は一瞬にして小学校低学年の自習時間と化した。

「痛いじゃないですか! 何するんですか!!!」

 此の不法住居侵入者!と云い放ち、春香はきりと現れた男を睨みつけた。

 派手派手しい顔立ちに手足のすらりとした長躯。全体的に華美な雰囲気に全く引けを取らない華美にして上質な衣類。

 西洲において棟梁を自称する男は、忌々しげに春香を睨み、其の手から転げ落ちで床に鎮座する其れを指さして怒鳴りつける。

「莫迦じゃねえのか?! 莫迦なのか! 莫迦だったな!!! なんであれだけの事柄(もの)を見たっつーのにアレを喰おうと思うんだよ! 其れ以前に作るなよ!!!」

「良いじゃありませんか! 麗らかな陽気の中で食べるアイスは格別な上に、御抹茶にも良く合うんですよ! 此れは!!!」

 片手で後頭部を摩りつつ、春香はがっと転がる其れを掴んで突き出した。

「世界に誇るべき銘菓ですよ!? 雪見大○は!!!」

「知るかあああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」

 声も枯れよとばかりに叫ぶ美丈夫を、責められる者は此の場にはいなかった。

 結局の処、春香は未だ異界の四阿に落ち着いていた。

 其の噂を聞き、醇乎(ますみ)は本気かとまさかと疑って……だが、何処かでいると確信して、此の四阿にやってきた。

 やってきた途端、其の目に映ったのは、春香が忌まわしき思い出の掌版を今まさに頬張ろうとしている光景だった訳だ。

 思わず手を上げた己に非は無いと、醇乎(ますみ)は一片の迷いも無く確信している。

 勿論、いきなり後頭部を思い切り叩き倒された春香にとってみれば、其れは言いがかり以上の何物でもない。質の良い求肥があって、美味しいバニラアイスがある現状で、何を作るかなど自明の理だ。春香は、あのアイスが好きだった。バニラのアイスクリームの中に色のついた氷の粒が入っていた宝石箱とか云う名前の付いたアイスやメロンの形の入れ物に入っているシャーベットなど、春香は其の手の食べ物が好きだった。だから、作ってみたし、上手く行ったから食べようとした。ただ其れだけの事なのに、害される謂れは無いと思っている。

 其処に、あの食べ物がどの様な力を以て何を成したのかと云う点は、全く考慮されていないのだが。

 そして其れこそが決定的な認識の際に繋がるのだと云う事に、春香は不思議と云おうか残念と云おうか、全く気が付いていなかった。……ある意味。方向が捻じ曲がった個人主義が横行する現代日本の典型的な性格であるのかもしれない。

 とりあえず場を整え、春香は突如現れた貴種に対して席を拵える。当たり前の様に其の座に落ち着き、醇乎(ますみ)は派手派手しい顔立ちに呆れを盛大に乗せて言葉を吐いた。

「お前、何で未だ此処に居るんだ」

 其の声は意外にも低く落ち着いていて。

 春香は存外真剣な表情の端整な顔を珍しい物を見る様な目で見遣りながらはあと呟いて小首を傾げた。

「俺は、お前はてっきり帰ると思ったんだがな?」

 軽い苛立ちを乗せて紡がれた言葉に、春香はもう一度はあと呟き、今度は逆側に軽く小首を傾ける。

「帰って、来ましたが?」

 此処に。

 そう云って床を指さす春香へ、醇乎(ますみ)は盛大に顔をしかめて見せた。

「お前の世界(くに)は此処じゃないだろ」

「まあ、そうなんですが」

 さらりと頷いて、春香はでもと言葉を繋いだ。

「正直、此方から如何やって帰ればいいんでしょうね? たま様の旦那様の親御さんと会う術は私にはありませんし」

「中のに云えば良いじゃねえか」

「あれだけ親子仲が悪くてらっしゃるのに、其れを頼めと云うんですか? 私に?」

 春香は心底嫌そうに眉を顰めながら乾いた笑いを浮かべて首を振る。

「私、命は惜しいです」

 おどける様な春香の様子に、醇乎(ますみ)の目がふと細められた。

「あいつは其処迄愚かじゃねえぞ」

 真剣な、声音。

 揺らぐ事を許さない貴種の声音に、春香は引きつった笑顔を収め、嘆息して両手を上げる。

「正直ですね。此方の方が面白くはあるんです」

 そう、面白いのだ。

 油断していると、そこいらの草木が全て食べ物と云う此の世界の方が、春香にとっては元の世界より面白かった。そして何より、と春香は続ける。

「此の世界では、私の時間は動いていないみたいですし」

 そして、今回一時とは云え帰ってみて、其れは確信に変わった。

 あちらでは、居なくなっただろう頃と何か月も此方で過ごした自分との間に、時間が流れた形跡がなかった。今回帰った事によりもしかしたら時間が流れたかもしれないが、だがと春香は訝しむ。あの時間の流れ……と感じた黄昏や夜闇も、もしかしたら違う世界へ入ったが為の空間の変異ではなかったのかと。でなければ、あの美しくも大きな城は自分が住んでいた世界にある事になってしまうのだから。

 徒然と言葉を綴る春香へ、醇乎(ますみ)は感心した様に軽く目を見開いた。此の、状況に流されやすい事に特化して居る様にすら感じる眼前の生き物が、其処迄考えているとは思わなかったので。感心しきりの醇乎(ますみ)へ、春香はそれにと再度言葉を継いだ。

「一度もトイレに行かなかったのも、おかしいとは思ったんですよね」

 排泄せずに何か月も生活とかありえませんよねえ。

 朗らかに軽やかに云い放たれた其の内容に、醇乎(ますみ)の怒号が響いたのは仕方が無い事だろう。振るわれた鉄拳制裁に、痛い、と頭頂部辺りを撫でながら憮然と座る女を睥睨して、醇乎(ますみ)は憤然と拳を握り締めた。

「おっまえはなあああああ! そう云う処がおかしいっつんだよ! 知れ!!!」

「いやだって、思い返せば此れ程異常な事ってないじゃあないですか! 其れを今の今迄全く問題視していなかったってもの凄い事だよなあと! 気が付いた時点でなんて云うんですか? アハ体験的な?」

「知らねえよ!!!」

 ああ、嫌だこいつ。

 醇乎(ますみ)は僅かに痛む頭を宥める様に、がしがしと頭を掻いた。長い髪が僅かに乱れるが、ふるりと首を振れば最良の形に収まる髪の毛なので、崩れ等全く気にしない。

「思えば此の家を戴いた当初から、お風呂と云うか行水する場所は在ったんですが、トイレは全くなかったんですよね! ついでに云うとお風呂も入ってないんですよ! さっき其処に気が付いて愕然とした私の驚き加減が解ります?!?!」

 “風呂に入っていない”と云う事実に対して、力一杯ありえないと息巻く姿はある意味正しい日本人と云えるだろう。…………だが、しかし。風呂に対する情熱は決して万民に共通する認識(もの)では無いのも又事実で。

「……とりあえず、お前が取り乱してるのは良く分かった」

 理解はできないがな、と嫌そうに云い足し、醇乎(ますみ)はちろりと春香を眇め見る。

「で。で、だ。お前、此れからも此処に住むのか?」

「はい」

 さくっと頷き、春香はきょとんとした表情で醇乎(ますみ)を見上げた。

「だって、未だたま様に帰れって云われていませんし。其れなら、多分、未だ私は此処に居て良いのかなと」

 駄目でしょうかね? と腕組みする春香へ、醇乎(ますみ)は一気にげんなりとした表情を浮かべて力無く手を振った。其の動きは、見様によってはこっちに来いと見れるし、あっちに行けともとれる。余りにも投げやりな其の仕草に、春香は僅かにむっとした表情を浮かべなんですか其れと美丈夫へ咬みついた。其の声音にも瞳にも、操られている様子は微塵も無い。ならば、此の生き物は自分の意志で自らの属する存在(もの)を定め、此の森に居たいと云っている訳か。―――――――自分の故郷すら、躊躇いなく捨てて。派手派手しい顔立ちに何とも言えない感情(いろ)を浮かべ、醇乎(ますみ)はぱちりと瞬きをした後、一転して愉しげな光を浮かべた目を春香へと向けた。

「お前、中のに殺されないと良いなあ?」

 あの奥方莫迦、お前が心底鬱陶しいだろうに。

 愉しげに告げられた途端、春香の顔からざっと色が無くなり、代わりにだらだらと冷や汗が垂れてくる。

「ま……まさか、ですよねえ?」

 引き攣った笑みを浮かべ、春香は干からびた口内で何とか舌を動かし問うた。

「さあて、なあ?」

 対するのは、正しく獲物を甚振って遊ぶ肉食獣の笑み。

 派手派手しくも整った顔立ちに、そう云う表情(かお)は良く似合っていたが、観賞する余裕なぞ春香にあろう筈も無く。途端に眼前に押し当てられた生命の危機の可能性に関して、春香は大急ぎで今迄蓄積されただろう様々な情報(データ)を引出し検証を始める。たっぷり、二呼吸分も固まっていただろうか。春香はふうと拳で顔の汗を拭き、徐に背筋を伸ばした。お、復帰しやがった。と醇乎(ますみ)が面白がる其の目の前で、春香はふふんと些か引きつってはいるものの余裕の笑みを浮かべる。

「大丈夫です。私がたま様に帰属している限り、私が害される事は無いと思います」

「おお、正解に行きつきやがった」

 面白くねえなあ、と舌を出す醇乎(ますみ)の派手派手しい美形顔に、春香は僅かに怒りを刷いた笑みで対峙した。

「性格の悪い男は権力が無くなると途端にもてなくなるのが定石ですよ?」

「俺の権力が無くなる時は、此の身が滅んだ時だぜ」

 ありえねえだろうと繋げる男の言葉に、春香はそうだったと顔をしかめた。森の外は、決して安全な世界ではないのだ。

「……森の外は、治安が良くないんですよね。そう云えば」

「治安は良いだろ。別に殺し合いが日常じゃあねえよ」

 さらりと告げられた言葉に、春香は吃驚して目を丸める。

「そうなんですか?!」

「当たり前だろ。そりゃあ場所によっては賊は居るがな。概ね何処も平穏だぞ?」

 じゃねえと商売も出来ないだろうが。

 繋げられた言葉に、春香は其れもそうかと頷く。隔絶されているらしい此の土地で、海の外の土地(くに)と物品のやり取りをするには、やはり平和でなければ駄目なんだろうなと頷きつつ、春香はならと口を開いた。

「北で、つい最近まで戦があったのが珍しいんですか?」

 何気ない、問いだった。

 本当に何気ない問いだ。

 だが、しかし。

「は? 戦なんか何時でもあるだろうが」

 訝しげに返され、春香は一瞬にしてぴきりと固まる。何莫迦な事云ってるんだこいつは、と云う様な醇乎(ますみ)の表情に、春香はああそうかと内心で頷いた。

 此の世界では、戦と云う環境自体が日常な訳ですね?

 春香は、己の予測が恐らく正しいだろう事を確信し、二色の瞳持つ小柄な貴種を思い浮かべる。

 戦が普通の環境を『平穏』と云う様な輩が横行する世界で戦を無くしたんだ……

 春香は、以前愛らしい姿が必死になって云い放った言葉を述懐した。

 そりゃあ…………頑張ったって、言い張りたくもなるよねえ。

 そして、己の認識の無さから来た失言に気づき、春香は瞼の裏に浮かんだ愛らしい顔立ちに心底からごめんと詫びる。

「何にしても、一応根性決めた、って事だよなあ?」

 何処かに向かって何やら謝っている春香の様子に訝しげな視線を投げ、醇乎(ますみ)は何処となく愉しげな声音で軽やかに問うた。知り合いに、明日の天気を聞く様な……そんな軽やかさだ。春香はそんな声音に訝しげに眉根を寄せ、何がですかと問い返せば、醇乎(ますみ)は派手な貌に大仰な表情を浮かべ、おやおやと明らかに莫迦にした口調で言葉を吐く。苛とした春香が思い切り派手な容貌を睨みつけるが、其の視線を然程の痛痒も感じぬ風情で軽く受け切り、醇乎(ますみ)は徐に口を開いた。

「お前、此の土地(くに)の最有力者に目をつけられてたの、忘れた訳じゃあないんだろう?」

 途端に。

 途端に、ぴしり、と凍りついた春香の顔を見て、醇乎(ますみ)はこいつぁ大莫迦だと心中深く納得する。繰り返し繰り返し、堂々巡りと云って良い程に同じ様に質問し、其の気持ちを確かめていた事に全く察する考え(もの)が無かったのかと。竜女が興味を持ち、己が出てきた事で己が身の機密は崩れたのだと云う事に、何故に気が付かないのか。そう思い、だが、醇乎(ますみ)は諦観の息を吐く。そんな事で此の存在の徹底した排他性は薄れる訳がないのだ。そう、思う。

 ―――――――じゃなけりゃあ、面白いなんて云う理由だけで帰って来るものかよ。

 徹底した排他性と、完結した親和性。此の相反する性質を融合させた女は、なんで一時とは云え此の森から逃げ出さなくてはならなかったのか等、思考の果てに捨て去っていたのだろう。そう考える醇乎(ますみ)の観察眼は、なかなかに鋭く正確に春香の心情を射ていた。

「……そ、其のネタ。未だ有効なんですか……ねえ?」

「有効だろ。アイツの執念深さは折り紙つきだぜ?」

 俺が熨斗も付けてやろうかと笑う派手派手しい美貌に思い切り眉を顰め、春香は引きつった表情で天を仰ぐ。

「たま様の旦那様の親御さんが連れ戻して下さいましたので、普通に終わった話だとばかり……」

「そりゃあ無理だろ」

 さらりと云って、己を訝しげに見遣る春香へ醇乎(ますみ)は嫌な笑顔を向けた。

至高(きわみ)殿の現主(おもや)は、此の国の最有力者だからな。しかも中のよりがっつり主君の為に動く性質(タチ)だぞ?」

「ナンデスッテ……!」

 発音を忘れた機械の様な口調で愕然と呟き、春香はばったりと床に突っ伏す。其の儘微動だにしない様子に醇乎(ますみ)が片眉引き上げた瞬間、何とも表現できないうめき声を漏らし、春香は其の姿勢の儘にぶつぶつと言葉を吐きだし始めた。小声で早口なので良くは聞き取れないが、如何やらなんで珍しくも無い一般市民をと恨み言を云っているらしい。其の内容に、醇乎(ますみ)は呆れた様に鼻で笑う。如何考えても、此の竜女が一般市民だ等とは思えない彼にしてみれば、当然の態度だろう。だが、其の態度に、春香はぎっと視線をきつくしてがバリと起き上った。

「あのですね! 私は本当に普通の取り柄らしい取柄は無い女ですよ! 其れがたまたま図太く森で生きてるってだけでなんでそんな危険な情勢の国の中に在って最有力者とか云われる人に興味持たれないといけないんですか! 罠ですか! 死亡フラグですか! そんなに私が憎いですか―――――――!!!!!!!」

「憎かったら即潰してるっつーの」

 さらりと返された言葉のあまりといえばあまりの内容に、春香は一瞬表情を無くし、再びがっくりと突っ伏した。今迄だったら気にしなかっただろう其の手の表現だが、今の春香は多分文字通りの意味であろうと察する事が出来る。

 ―――――――多分、今迄流してきた軽い会話の中でも、そう云う意味だったことがあるんだろうなあ……

 遮られた視界の中で遠い目をして、春香は過去を思い返した。

「たま様と百科と専科だけだったらこんな事にならなかったのに……」

 腕の隙間から恨みがましくちらりと醇乎(ますみ)を覗き、春香はぶちと低い声で呟く。

「誰かさんが来たせいでこんな目に」

「お前、竜女抑えてやらねえぞ」

 ひきり、と怒りを目元に現して醇乎(ますみ)が呟いた刹那。


「何、森の竜女は、竜女が嫌いなの」


 高く、通る声が響いた。


 突然の第三者の声に、春香は限られた視界の中から出る事が出来ずに固まってしまう。今迄の春香の経験から云えば、此の状況(パターン)は、如何にも最悪の環境(ケース)しか思い浮かばない。固まって動けない春香へ、高い声は愉しげに言葉を紡ぐ。

「じゃあ、殺す? でも、選別するから待ってもらってもいい? 必要な線は切りたくないからねえ」

 弾む様な声音で紡がれるには物騒な内容だった。邪気も悪意も無いのに、其の声音に撫でられた耳が、恐怖で粟立っている。春香の眼前で、男はつまらなそうに鼻を鳴らし、だが、何処か緊張した面持ちで春香の背後に横柄な視線を投げた。

「勝手に決めるな。俺の繋がりもあるんだよ」

「勿論だよ? 西洲の雄。貴方の不利益になる様な事、する訳がない」

 素直な声音だ。

 きょとんとしている様子さえ伺える。

 でも、なんでだろう。

 春香は、顔を上げる事が出来ない。

 振り返る事が、出来ない。

 ……こいつの勘は野生動物かよ。

 固まりきった春香の様子を目の端で捉え、醇乎(ますみ)は仕方が無いと前に出る。とりあえず庇ってやろうと思う程には、付き合いは長くなっていた。

「こいつは弱い上に頭悪ィから、お前の相手は出来ねえよ」

 庇っているのか貶しているのか今一つ判断突きかねる言葉の羅列に、春香が目元に僅かに険を刷く。勿論、背後の存在が怖くて起き上がれないのは変わらないのだが、もう少し云い様と云う物があろうと不満を持つ事は止められない。そんな様子を察し、醇乎(ますみ)は呆れた様な一瞥を与える。そんな風に中途半端に根性を見せるから、此の世界の厄介な奴らに目をつけられたと云うのに、其れを解ってさえいないのか、と。そして、勿論。春香はそんな事解っていなかった。ある意味脊髄反射とも云うべき春香の反応に、背後の軽やかな声がころころと涼やかな笑い声を奏でる。男声であるのに高めの声音は、屈託なく笑えばまるで幼子の様に澄んだ響きを持った。

 随分と可愛らしいと春香が気を緩めた刹那。

 春香の眼前一杯に、白皙の美しい容貌が広がった。

 切れ長の目。

 鳶色の瞳。

 低い鼻梁は上品で、小さな口と相俟って人形の様だ。

 赤い唇に彩られた其れに笑みを刻み、美しい顔持つ其の存在は、春香の目をじいと覗き込み、満足げに笑った。

「森の竜女は、私達に似ているね? 竜女の様に喧しい容姿ではないのだね」

 ふふふ、と満足げに笑う様子を、春香は唖然として見つめていた。春香は、床にほぼ寝転がる様に突っ伏していたのだ。其の春香の顔を覗き込むと云う事は、此の綺麗な顔の持ち主も又、床に寝転がっている事になる。

 そんな事が出来る、権力者が居るのか?

 殊の外ゆっくりとしか動かない思考能力を駆使して、春香はよくよく考えた。考えて考えて考えて、考え切ってはたと気が付く。此の儘の姿で、良い訳が無い。がばりとやおら身を起こし、春香はきょとんと見上げる綺麗な存在へ唐突に頭を下げた。

「ししししつれいしました!」

 突然の謝罪に、貴種であろう美男はにこりと笑みを向けて云う。

「別に失礼じゃないよ? 此の家は森の竜女の家だ。そしてワタシは侵入者だ」

 ふふふ、と小首を傾げると、癖の無いまっすぐ中身がまるでさらさらと音を奏でるかの様な滑らかさで頬を流れて落ちた。耳の前迄は肩の線で切りそろえられ、後ろは多分長いのだろう、綺麗に結い上げられている。尤も、華の様に整えられた後に流された先は揃っておらず、解けば斬ばら髪になるのだろうと予想される。

 纏う衣は、美しい、白。

 其れは何処までも白く、肌の色と相俟って、一切の温度を感じさせなかった。

 醇乎(ますみ)に比べれば小柄だが、決して小さい訳では無い。繊細に整えられた人形の様な体躯は、何処迄も細く嫋やかだった。

 どうみても、男だが。

「寝ていても良いのに。其れが森の竜女に必要なら」

 何気ない言葉に、ぞくりと背が粟立つ。

 必要ならば、と、彼の存在は云うのだ。鷹揚に、下々の様を全て許す様に。

 だが、しかし――――――必要じゃなければ、如何なるのだろう。

 そんな事を考え、春香は口の中が干からびて行く事を感じた。

 如何にも、此の眼前の綺麗な存在は、春香の恐怖を煽る。潔斎(いつき)の怖さとはまるで違う。竜女が来た時の焦燥感とも違う。

 いっそ、友好的で、きっと、繊細なのに。

 春香は思う。

 絶対、気が抜けない。

 隣に立つ派手派手しい男の存在が、此れ程に頼りになろうとはと、春香は焦る脳内で一人ごちた。

「……てめぇ、失礼なこと考えやがっただろう」

 口内で噛み潰す様に唸る醇乎(ますみ)の低い恫喝は、いっそ潔ささえ感じられる勢いで無視し、春香は眼前の綺麗な顔を失礼にならない程度に視界に入れる。

「緊張しているね。正しい事だよ、其れは」

 切れ長の目が笑みの形に細められ、口唇からふわふわと言葉が紡がれた。

「ワタシはね、此の土地(くに)でそれなりの力を有している。一番の有力者と云われていてもね、実際はそうでもないんだよ」

 ふふふ、愉しげに笑う相手の真意が掴めず、春香は無言で言葉を待つ。春香の返しを期待していなかったのだろう。相手は気にした様子も無く再度口を開いた。

「次のに、森の竜女と会いたいとお願いしたら、影まで連れて行く大事になるのだもの。いや、あれは参ったよ。面白かったけどね?」

 浮かぶ表情はまるで悪戯っ子だ。春香としてはあわや拉致監禁もあり得るのかと胆を冷やした事柄は、どうやら当の本人にとってはさしたる意味は無かったらしい。

 だとすれば。

 春香は思う。

 次の……次代の人、可哀そうに。

 きっと現当主の命だ。失敗は出来ないと意気込んだに違いないのに。

 森の中に居る限り、春香の身は保障されたも同然だ。其れは今迄の生活と瑠璃の一対や其の主の言葉の端々から感じ取れていた。なのに、其の場所から連れ出せと云われるのは、きっと大層な難題に違いなかったのに。

 春香は何とはなしにまだ見ぬ次代と云う存在に同情した。―――――――そんな春香を、周りが面白そうに呆れた様に見ている事にも気が付かずに。

「でも結局、ひいなが森の竜女を隠してしまって、至高(きわみ)が持ち去ってしまった。ワタシは会えないまま。其れは、とてもツマラナイ」

 ひいな、とはなんだろう? 内心首を傾げた春香の表情に、醇乎(ますみ)が中の二人の事だよと呟いた。そんなやり取りを聞いているだろうに全く無視して、白衣(しらぎぬ)を纏う美男は愉しげな声音で言葉を紡ぐ。

「だから、会いに来たんだけど。森の竜女は、ワタシを歓迎しないかな?」

 それならカナシイね。

 そんな事を云う癖に、綺麗な鳶色の瞳は好奇で輝いている。きっと、断ろうが招こうが、此の存在にとってはオモシロイだけなのだろう。そう正確に感じ取り、春香はなんとか微笑んで見せた。からからに干からびた口内で口蓋に貼り付く舌を動かし、言葉を紡ぐ。

潔斎(いつき)様の奥方様でらっしゃいます恩恵(たまふ)様にお世話になっております、瀬野尾春香と申します」

 御挨拶が遅れまして、申し訳ありません。

 そう云って頭を下げた瞬間、派手派手しい顔が焦りと怒りに染まった事など、春香は全く気が付いていなかった。勿論、眼前の綺麗な顔に在する鳶色の瞳が刹那とは云え残酷な光を浮かべた事も。白衣纏う綺麗な綺麗な貴種は何食わぬ顔で愉しげに、はるかはるかと飴玉を転がす様に幾度も名を呟いた。

「良いね、ハルカ。森の竜女の名前は、カミゴタエがある」

 はるか、はるか。

 更に呟いて、相手は笑う。

「ああ、本当に。コワレナイなあ。凄いね、素敵だ」

 ふふふふ。

 無邪気に喜んでいるのに、何処か、怖い。そんな相手の様子にさり気無く怯える春香の隣で、醇乎(ますみ)が不機嫌に鼻を鳴らす。

「戯れてんじゃねえよ。こいつは俺に貸しがある。幾ら央たる存在(もの)でも、やらねえぞ」

「大丈夫だよ、西洲の雄。森の竜女は、如何にも噛み砕けないみたいだ。不思議だねえ」

 会話にさらりと怖い単語が混ざっていたが、春香は意図的に其処を流した。

「へえ? (くに)をタイラゲルお前が喰えないってのか?」

「全ての女色を喰らうキミだって、歯が立たないみたいじゃないか」

 タイラゲルって何?!

 喰らうってどっちの意味で!?

 さらりと混ぜられた空恐ろしい単語を、春香は今度は意図的に無視(なかったことに)した。

「あの! 失礼でなければ御聞きしても宜しいでしょうか?」

 此れ以上不穏な単語を耳にする事を阻止すべく、春香は怖ず怖ずと、だがはっきりと、問いかける。何かな、と許しを与える相手に謝意の目礼をして、春香は何とか言葉を紡いだ。

「此方には、何か御用が?」

 こんな辺鄙な処ですけれど、と問う声に、相手はそうだったと瞬きし、笑う。

「ねえ、森の竜女」

 にこにこと。

 無邪気に笑って、言葉を紡ぐ。

「命を食べさせてくれる?」

 声音に邪気は、無かった。

 にこやかに。

 にこやかに、顔を見合わせて、春香の周囲の時間は凍結した。

 なにしろ、此の世界の人間の危険性をやっと肌身で感じたばかりなのだ。

 繊細だが、神経質ともとれる綺麗な顔立ちをじいとみて、春香はそろりと、探る様に言葉を紡いだ。

「……命の属性、ですよね?」

 此れで違うとか云われたら全力で逃げてやる、と、逃げられないだろう事を承知した上で決心する春香の目は悲壮な色に染まっていた。

「うん、そう」

 だがしかし。

 予想外にあっさりと相手は頷き、ワタシは(あれ)が大好きなんだよと笑った。

 其の時の安堵感と云ったら! と、後に春香は誰かに語ったが、今は関係が無い。

 ふう、と内心一息ついた後、春香は脳内の引き出しを勢いよく開け始めた。

 何しろ此処最近森に出向いていないのだ。手元に在る食材は極限られた物になっている。そして、眼前の存在の特性。

 ……とてもじゃないが、のんびりさんにはミエマセン。

 春香の短いとは言えない社会人生活で培った本能が、味方なら心強いが敵に回ったら確実に潰しに来るタイプだと眼前の相手を認識していた。

 待たせる事は、己の死期を早めるに違いない。

 ぞくりと背を這う冷たい感覚に抗う様に微笑みを浮かべ、春香は少々お待ち下さいと呟いて見苦しくない程度ではあるが慌てた様子で室内を辞した。

 間を置いて、かららん、と、厨房で音が響き、室内に残った貴種である彼は愉しげにくつりと喉を鳴らす。

「カワイラシイ。森の竜女はとてもオイシソウなのに、如何してキミは食べていないのかな?」

「あれを喰えってか?」

 派手派手しい顔に如何にも嫌そうな表情を浮かべ、醇乎(ますみ)は吐き捨てた。

「大体、森の中で森の気に入りを害する程、俺は莫迦じゃねえ」

「そうなんだよね。西洲の雄は、馬鹿じゃないんだよね」

 ザンネンダ、と呟いて、諦観の溜息を吐く相手に、醇乎(ますみ)は苛立ちを露わにしつつも、視線を外さずどっかりと座りこんだ。

 此処から動く気は無い。

 態度でそう示す男へ、綺麗な男は愉しげにくつりと笑い同じ様にどかりと腰を下ろした。容姿に似合わぬ粗雑な振る舞いは、だが、此の存在にとってはいつもの事だ。

 土間の方からは、相変わらずかちゃかちゃと音がしている。

 其れを煩わしいと取るか楽しい音と取るかは受けて次第だが、此の場に居る存在(もの)にとってその音は決して不快ではなかった。

「……中のだったら、きっと嫌がるだろうがなあ」

 不意に整った顔立ちの(ガキ)を思い出し、醇乎(ますみ)は悪い笑みを口の端に浮かべ呟く。と、其の呟きに相手もまたくつりと笑った。

「そうだねえ。黒のひいなは真面目だから。其れが又カワイラシイのだけど」

 キミ、そう思わない?と問われ、派手な顔立ちが思い切り崩れる。

「あれが! 可愛い!」

 はん、と投げ捨て、可愛いと云うのはなあと云う言葉を封切に、長い腕が華美に振られ華やかな声音が語りを始めた。

「可愛いと云うのはな? 柔らかく、嫋やかで、白く、儚く、其の纏う物を剥げばまろく甘やかな存在(もの)に使うべき形容だろうが!」

 べろり、と己が口の端を舐める仕草は本来野卑である筈の行動なのに、無駄に華やかな顔立ちは其れすら魅力的なものに変えてしまう。多分に、此の場に此の男の捕食対象者が居れば間違いなくその毒牙にかかったろう…………だが、しかし。

「……あいっかわらずですね」

 此の場に居る唯一の捕食対象者となる可能性を秘めた存在から発せられた声音は、非常に、非常に冷めたモノだった。

「気を付けてくださいね。綺麗な方には危険な男ですから」

 春香の視線が云っていた。

 此の、色情魔、と。

「俺にも選ぶ権利があるっつってんだろうがああああああああああああああ!!!」

 絶叫に、快闥な笑い声が重なって森に響いた。

「そうですか」

 麗しい容貌に似合いの派手な絶叫も、綺麗な綺麗な笑顔と笑い声もさらりと流して、春香は白の貴種の前に瑠璃色の器を配した膳を置く。

 春香が持って来たのは、アイスクリームに、以前作っておいた飴の糸を乗せたモノだった。

 糸の色は、黄色。

 瑠璃の一対が云っていた事を思い出し、春香は一番色が強いだろう其れを出した。

 勿論、スパゲティの取り置きもあるが、茹でる時間も味をつける手間も今は無いと思ったのだ。

 瑠璃の器に盛られた其れは、相俟って黄色が引き立っていた。

 其れを見て心底嫌そうにげえと呟く醇乎(ますみ)の事は最早気にもしない春香だったが、相対する綺麗な顔が不満そうに眉根を寄せた事に命の危険を感じつつ乾いた口内で何とか舌を操る。

「な、にか、不備でも御座いましたでしょうか?」

「うん、あのね」

 何気ない言葉を紡ぎつつ、有力者の綺麗な目が春香を捕らえた……刹那。

「やめろっつってんだろう」

 不機嫌な声音が響き、醇乎(ますみ)ががんと拳で床を殴りつける。

 音も無く、構築され始めていた不可視の何かが無音で破砕した様な……そんな、雰囲気が生じ、切れ長の目の中にある綺麗な瞳がきろと派手派手しい男を見た。

「コワイなあ」

 ふふふ、と笑う。

 其の声。

 無邪気であっても害意を隠そうともしない其の声音は、春香に対して何らかの事を成そうとしていた事すらあっさりと肯定し、其の上で邪魔をされた事に対する不快を露わにしていた。

 不穏極まりない空気の中、春香は知らず止めていた息と思考を再動させ、必死に思考を辿る。

 何が、不満なのか。

 如何して、満足しないのか。

 仕事をしていれば、こんな事良くある事なのだ。聞く前に考えろと春香は己を叱責する。

 時間を作ってくれた派手な貌に感謝しつつ必死に頭の中のファイルを洗い出し……春香は一つの事柄に思い至った。

「……スパゲティは、時間がかかりますから止めたのですが、其方を御所望でしたか?」

 確か、と、春香は思い出す。

 スパゲティを作った日、アレを森の外に持ち出したから有力者に目をつけられたと、聞いた覚えがある。

 朧げな記憶ではあったが、其れは正解だったらしく、綺麗な顔に浮かんでいた表情がくるりと変わって本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。

「ひいなにはあげたよね? ワタシにはくれないの?」

「少しお時間戴く事になりますが、宜しいでしょうか? 茹で上げと味付けで、十分はかかりますので」

「じゅっぷん」

 ふふふと笑って呟くと、綺麗な顔が其れでも良いと告げる。

「タノシミ」

 愉しげな声に、春香は深く一礼して再び土間へと戻った。

 きっかり十分後にやってきた春香は、恭しく手にしたものを差し出す。

 麺の黄色を際立たせるのは唐辛子の赤。

 仄かに漂うにんにくの香りが何とも心地良い。

 ……本当の処は、解らないケドねー。

 すりおろされた状態のにんにくが水の中でわかめの様にそよいでいた時の驚愕は久しぶりだったよなあと述懐しつつ、春香は素知らぬ顔で膳乗せた皿を此の家で一番の恐怖の対象へと饗する。

 添えられた三又(フォーク)を使い、此の土地(くに)一番の有力者は優美に音も無く其れを口にした。

 ぱくり、と開けられた口に品だのなんだのと考える素振りは無く、潔さを感じさせるものの、其の口内の毒々しい迄の赤さに、春香は恐怖で背筋を粟立たせる。

 咀嚼。

 音も無く飲み込まれ、綺麗な顔が愉しそうに笑みを刻んだ。

「ああ、オイシイ。此れはイイねえ。何とも云えないマンゾクを感じるよ」

 ふふふ。

 愉しげに、愉しげに。

 稀有な有力者はゆっくりと口内の其れを咀嚼して、まるで上等の生肉を喰らった獣の様に目を細めた。

 三叉に撒きつかれた、スパゲティ。

 其の絵が無ければ、毛皮のついた肉に牙を埋める姿さえ想像させる……そんな、声音だった。

「お気に召して戴き、光栄です」

 背筋を行ったり来たりする恐怖をなんとか顔には出さずに笑顔を浮かべ、春香は震えそうになる声音を社会人の見栄で抑え込む。隣ではスパゲティを食べる姿を嫌そうに見遣る派手な貌があるが、いつも通りのんべんだらりと投げ出す様に座す姿に縋る程、春香の現況は危機的ではなかった。

 スパゲティを食べ終えたら、次は、アイスクリームへ。

 飴の雲を匙で器用に千切り、バニラアイスと一緒に口内へ運びながら、綺麗な男は赤い唇を開いた。

「此れも、オイシイ。真玉を糸にする……話には聞いていたけれど、成程、此れならオイシイね」

 真玉は、歯がたたないから。

 そう呟く美男へ、春香は曖昧に笑って見せる。

 気に入って貰えたなら、良かった。

 此処で機嫌を損ねられ、何らかの事が巻き起これば……其れは間違いなく、春香の命を散らす事柄になるだろう。そう正しく把握しているが故に、春香は眼前の男がただただ気分良く舌鼓をうって帰ってくれないかと心の底から願っていた。

 最後の一欠片迄美しく食べ終え、綺麗な顔が満足げな笑みを浮かべる。

 ああ、何とかやり遂げたかな、と春香が気を抜いた刹那。

「此れならば、ワタシがついて行く理由が出来るね」

 ああ、良かった。

 そう云って笑う綺麗な顔に、派手派手しい端正な顔立ちが苛立ちも露わに凶眼を向ける。

「何考えてやがる!?」

「イヤだなあ。今回の件は、ワタシの思い付きではないよ」

 ワタシも存外、頸木が多いからね。

 飄々と、苛立たしげに云い放ち、綺麗な男はきろと春香を見据えたのだった。






「結局の処、目立ち過ぎたのですね」

 瑠璃の空間で、美女が呟く。

「結局の処、目立ち過ぎたんだよ」

 玻璃の空間で、美男が囁く。

「酷い」

「惨い」

 呟いて、囁いて。

 綺麗な男女の一対は、美しい瑠璃と黒の色彩を纏う。

 強い力有している男女だ。

 此の世界で有数の血統である。

 力が在るから、隠してこれた。

 力が在るから、明らかになった。

 其れ故に。

 其れ故だ。

 綺麗な綺麗な顔は、まるで人形の様。

 美麗で美麗な貌は、まるで細工の様。

 丹精込めて磨き上げられた玉の様な。

 精魂込めて描かれた錦絵の様な。

 そんな二人は、向かい合う様に背を向けて、忌々しげな言葉を紡ぐ。

「目立ち過ぎた」

「目立ち過ぎだ」

 はふう、と、吐息。

「ねえ、貴方様」

「なに? 桔梗」

 綺麗な美麗な二対の黒瞳が、感慨無く合わせられる。

「壊してしまいましょうか」

 だって、私の春香を奪った。

「壊してしまおうかな」

 だって、桔梗のモノを奪った。

 感情など何もない声音。

 其れが空間に満ち響き、其れこそが正しい唯一の道とお互いが納得しそうになった刹那。


 音をたてて、其の空間が砕け散った。


「やめなさい、莫迦息子」

「正気に戻れ、頼むから」

 現れたのは、藤の似合う品の良い男と、秀でた額の目立つ聡明そうな男。

 闖入者に自分達が構築した内緒話用の空間を打ち砕かれ、美男美女は心底嫌そうに其の姿を見た。

「滅びろくそ爺」

「裏切る手筈、終えてる癖に」

 罵倒に優美な笑顔を浮かべる片割れとは違い、美女に貶された男は見るも無残な程に狼狽して声を荒げる。

「そそそう云う事は云わないのだよ! ヒメ!!!」

「裏切る癖に」

 再度云い捨て、美女は不満を美貌に浮かべる。

(わたくし)は裏切らない。壊すだけ」

「なんて可愛いんだろう! ボクの桔梗!!!」

 感極まって美男が抱きしめるが、美女の表情は変わらない。感情(ねつ)の無い目で、じいと狼狽する男を睨めつけるだけだ。

 其の視線を受け、男は狼狽しながらも視線を外さず、裏切らないよと告げる。

「まだ、機は熟していないからね? ちゃんと考えているのだよ、私も!」

「結局裏切ると云う事ではありませんか」

 貴方、莫迦ですか。と呆れた様に藤の貴種が呟き、はんなりと上品な笑みで云い放つ。

「因みに、ワタクシは貴方の味方にはなりませんからね? ええ、決してなりませんとも」

 無様に野垂れ死んで下さいねえ、となんとも物騒な言葉を贈られて、男は何とも云えない情けない表情を浮かべた。

「トモダチじゃないか。多少は此方に助成してくれても!」

「イヤですよ。我が(あるじ)を裏切って得も無いのに」

至高(きわみ)殿おおおおお」

「なんですか?」

 用事があったから名を呼んだ訳では無いと知っているだろうに、藤の貴種はさらりと綺麗な笑顔で返事をして、相手をばっさりと切り捨てる。最早二の句の告げなくなった男を捨て置いて、綺麗な一対と上品の具現体である存在は再び視線を交えた。

「仕方が無いでしょう。今回の事は幾ら(あるじ)殿でも無理ですよ」

 と、云うより、と藤の貴種は憂いた顔で続ける。

「ワタクシ達の(あるじ)は慣例を重んじ、大義を重視しますからねえ。尊き御方からの頼みでは、断れないでしょうねえ」

「だから」

 美男の腕の中で、美女が口惜しそうに呟いた。

「森に、閉じ込めましたのに」

 出会った時から、尋常では無い物を持ちながら、常態であった(いきもの)

 恩恵(たまふ)にとって、此れ以上無かった、玩具(いやし)

 普通であれば泣き喚くだろう環境で、他の生き物との接触も帰る為の依存懇願(わるあがき)もせず、ただ、森で暮らしたいと願った稀有な存在(もの)

「真球に、命の属性。……其れだけ手にしてしまえば、届いてしまうものだからねえ」

「握りつぶせよ、爺」

 藤の貴種の諦観の言葉に、潔斎(いつき)が忌々しげに暴言を吐く。だがしかし、其の事を気にしない様子で、藤の貴種は又困った様に答えた。

「幾らワタクシの弟子と云うべき位置に在るとしても、矢張り其処は無理だねえ」

 はふう、と息を吐き、藤の貴種は如何にも厄介だと云う様に呟いた。

天子(みかど)(こえ)には、逆らえまいねえ」






天子(てんし)、様」

「うんそう」

 綺麗な顔が愉しげにあっさりと頷く。

 刹那。

 春香は自分の体積がぶわりと倍になった様な心持になった。

 恐怖で毛が太る、と云う感覚を、此処まで明確に感じたのは生まれて初めてかもしれないと冷静に判じる己がいる反面、益体も無い単音の羅列が頭の中を埋め尽くしているのもまた事実で。

 とどのつまりは、凍った(フリーズ)訳だ。

 まるで石の様に固まった春香を見て、派手な顔立ちが僅かに同情の表情(いろ)を浮かべる。

 あれだけ権力者に会いたくないと云い続けていた女が、此の国の最高位に居る存在に会う羽目になったのだから、其れは凍るだろう。そんな風に思いながら、僅かに口の端が緩むのもまた真実で。

「……何面白がってんですか」

 親の仇を見るような目で傍らの派手派手しい顔を睨みつつ、春香は地獄の底から響く様な声音で糾弾する。

「なんだ、もう立ち直ったのかよ」

 つまらないと言外に云い放ち、派手派手しい顔は明確に鼻先で笑った。

 其処に喰い付いて怒鳴り散らすのも手ではあったが、春香は大きく深呼吸して表情を改めると、眼前の……綺麗な綺麗な顔を、失礼にならない程度の視線で見遣る。

「天子様とは」

 傍に居る派手派手しい男。

 此の貴種に見えない貴種が此処に居る限り、一撃で首を刎ねられる事は無い筈と己の心を落ち着かせ、春香は以前、瑠璃の一対から聞かされた此の世界の知識を引き摺り出して問う。

「天子様とは、此の国の一番尊い方と御聞きしております」

 意外と静かな春香の語り口に、綺麗な顔に配された美しい瞳が、興味深そうにきらりと輝いた。

「私は、異分子です。此の森から出ればすぐに死んでしまうでしょう。そんな脆弱な下衆に、天子様の御前を汚す様な事が出来ますでしょうか」

 下衆とは本来の意味合いを考えれば、単なる一般庶民を指し示す言葉だ。殿上人以外の存在は、全て下衆だった筈…………と、春香は以前此の世界の貴種と交わした言葉やら、元居た世界の古典の知識を引っ張り出して言葉を紡ぐ。

「余りにも、恐れ多いかと……」

「其の天子が、ノゾマレタんだよ? そして、アいたいと云ったんだ。此の、ワタシにね」

 ふふふ。

 愉しげな声音が、面白そうに言葉を紡いだ。

「森の民ですら滅多に見つけられない真玉を面白いくらいに容易く集め、命の属性を何の苦労も無く手にする(いきもの)。……此れは、とてもとてもオカシイ事だと、気が付いていなかった?」

 白面が、愉悦に歪む。

「森の竜女が思ってイルよりもね? 事は重大なんだよ。何しろ真玉は、天子の御業の根源だからね。天子が天子たる為の、最終手段に必要な存在(もの)。故に、天子の勅無しには、森の民とは云え見つけられない存在(もの)なんだよ」

 なのに、と笑う。

 愉しげに、笑う。

「森の竜女は、いとも簡単に手にしてしまったからね! しかも其れを糸にしてシマッタ! なんてオモシロイんだろう! なんてユカイ!!!」

 ふはははは。

 ぱくりと開かれた口の中は、血色の赤。

 ぬめりと蠢く舌が、何とも恐ろしく気味が悪いのに、何処迄も何処迄も美しい。

「貴族やら宮家の慌て様は本当にオモシロカッタ。表情(いろ)の無い能面が気色ばむのはタイソウ見物だったよ」

 ふふふふふ。

 哄笑を収めた貴種は、美貌に悪戯っ子の様な表情を薄く刷き、春香を見遣る。

「ダイジョウブ。ダイジョウブだよ? 森の竜女。まさか森の竜女を容易く森の外なぞには出す気は無いさ。ただね、森の竜女は、天子にはアわなくてはならないんだよ」

 それに、と貴種は紅い口の端をくいと引き上げた。

「そうすれば、今後、森の竜女はヤスク此の地に居られるようになるだろうね?」

 ヤスク、居られる。

 ヤスクは、易くか、安くか。

 それとも、其の両方か。

 願わくば両方であってほしいなあ。

 春香は漫然と心中で呟き、美貌の貴種に宜しくお願いしますと深々と頭を下げた。

 頭を下げていたから、春香は知らない。

 宜しくお願いしますと頭を下げた瞬間、美貌の貴種が何やら噛み砕こうとして砕けず、些か憮然とした事に。

 宜しくお願いしますと頭を下げた瞬間、派手派手しい顔立ちが苛立ちに塗れた事に。

 春香は、気が付いていなかった。






 金色の霞が棚引く、広い広い敷地。

 其の中に在る、広い広い建物。

 其の一角に在る、広い広い、板敷の間。

 其の上座は段高く作られ、奥が見えない様に瀟洒な御簾が下がっている。

 間の周囲に壁は無く、やはり瀟洒な御簾で区切られていた。

 其の御簾の向こうからは、蠢く何者かの気配が伺われ、さわりさわりと、興味や害意等の(こころ)が生じては漏れ消える。

 まるで珍獣を囲むかの様な雰囲気の中、美しい髪を豪奢に結い上げた力在る存在は、傍らに一片の人型を従えて座して居た。

 真白な、紙。

 其れを人の形に切り取ったモノは、ふらりゆらりと座した男の顔の横辺りの高さで揺らめいている。

 音も無く寄ってきた女官の感情(いろ)の無い気配に男が頭を上げれば、其の美しい顔が露わになり、周囲の御簾から漏れ出でる力がやや強くなった。

 能面の様な顔の女官が捧げ持つ三方へ、男の繊手がついと動き、人型は其の動きに誘われる様に其の身を横たえる。

 其れを見届け、女官が三方を上座へと向かうと、白く綺麗な面が、では、と呟く様に奏上した。

「森の竜女の件、其の様に」

 遜っているものの酷く尊大な物言いに、周りを囲む御簾の向こうから濃密な殺気が生じる。

 余りにも敵意に満ちた其れ等に、実力者がにいと口の端を引き上げれば、其れ等は一転して恐怖に揺れ―――――――其処に、最も尊い上段からは穏やかな肯定の気配が流れた。

 弄ぶでないよ、と云う様な其の気配に実力者が無邪気な微笑みを見せ…………其の場は、治まり、実力者は己が所領へと戻ったのだった。






「私、本当に行かなくて良かったのかなあ?」

 いつもの様に。

 瑠璃の一対に伴われ、蔵の中で本を読んでいた春香はそうぽつりと呟いた。

 春香の手にしていた本は絵巻であり、何やら高貴な女性の絵姿が記されている。

 なるほど。

 瑠璃の一対は得心する。

 此の絵に感化され、春香は随分前に丸投げした事案を思い出したのかと。

「主様より発言を許されております百科が申し上げます。お話は主様の主様より齎された(こと)ですので、春香様が思い煩われる事ではないかと」

「嫌ならやらない」

 冗長ながらきっぱりと否定してくれる百科の言葉と、ぽそりと付け足された専科の断定の言葉に、春香はならいいかと笑った。

 此処最近、春香は非常にのんびりと過ごせていた。まるで、森に来たばかりの頃の様、と内心狂喜しているのだ。

 怖い恩恵たまふ(つま)の来訪も無く、派手派手しい騒音も起こらず。

 のんびりと本を読んで、のんびりと森を探索して。

 只管に好きな事しかしないゆっくりした時間を満喫している。

 唯一気がかりと云えば、恩恵(たまふ)眺望(みはる)の来訪すらぱたりと止んでいる事ぐらいだった。それにしても、地位のある存在である事は窺い知れるので、何かしらの公務に就ききりなのだろうと思えば、春香が違和感を感じる事も恐怖を覚える事も無い。

 瑠璃の一対は、以前と同じ程の頻度で来ているのだから。

 春香は、其れで十分満足だった。

 愉しげに絵巻を眺める春香の姿に、瑠璃の一対もまた嬉しげに目を向けている。

 瑠璃の一対の背後に在る蔵の扉は、固く固く閉ざされていた。

 蔵の扉は一番外側の扉と内側の扉、そして、引き戸と三段構えになっているのだが、其れ等全てをぴったりと閉ざしている。

 厳命したのは、瑠璃達の主。

 ひたりと静かな()を向け、命じたのは絶対の安全。

 勿論、瑠璃の一対に否やは無かった。寧ろ、喜んで、だ。

 ただ、此処は森ではない。故に、此の土地(いえ)の主の力を最大限に借りなくてはならなかった。

 扉と云う存在(もの)は、固く閉ざせば、其れだけで強固な小世界(かべ)を成す。そうなれば内側から開けない限り、そう易々破られる事はないのだから。

 瑠璃の一対は、其の事をよおく知っていた。

 そして、忌々しげに思う。

 以前、春香の守護(いえ)である四阿の戸を無理にこじ開けた、派手派手しい存在を。

 結界を破ったと誇らしげに嘯く其の声音は、瑠璃の一対にはしっかりと聞こえていたのだ。同じ主に依る創造物である水龍は、あの忌々しい闖入者の一部始終を伝えていた。

 間に合って、然るべきだったのだ。あの程度の事柄ならば。

 瑠璃の一対は、僅かに顰めた眉を戻しもせずに心中で呟く。

 ですが―――――――(あるじ)様は、無理。

 至高(きわみ)も、抑えきれはしまい。瑠璃の一対はそう判じていた。そして其れは、正鵠を射ている。

 故の、此の対応だった。

 森が己の(からだ)を与える程の情を見せた今、春香が森で害されたり拘束される事は無い。最早それは確定。

 だが、しかし。

 安全と思われていた此の蔵が、今は一番の危険地帯になろうとは……。瑠璃の一対も、瑠璃の主も、そんな事、予想できてはいなかった。

「百科、専科」

 春香が笑っている。

 楽しげに。

「此の本、昔のモノなの?」

 好奇心に、目をキラキラさせて。

 そんな無邪気な様に、瑠璃の一対は同じ様にあどけなく笑って其の近くに寄って行くのだった。

 ああ、楽しかった。

 春香は満足しきりだった。満たされた気分が、己の身を温めてくれているかの様な……そんな、心持さえしていた。

 存分に本を読み漁った春香は、お礼を云って蔵を辞した。

 外は、些か日が傾いたとは云え、まだまだ明るい。日の色は、僅かも色付いてさえおらず、十分、外出可能な状態だった。

 肩には、愛用の(かばん)

 此方の世界に来てからと云うもの、多種多様な物を入れて運んでいると云うのに、一向に草臥れる様子も汚れる気配も無い。

 此れって、現状に関係あるのかな。

 つい最近、己の世界に帰った時に判明した、時間の流れの違い。此方の世界に居る限り、春香の身に流れる時間は、止まった儘であるらしい……と云う事柄は、如何やら持ち込んだ事物にも関係するらしかった。

 ……まあ、らっきぃ。

 感慨無く口中で呟いて、春香は愛用の履物に足を通す。起こった事柄に対し、決して大げさに騒がないのが春香と云う人物の持ち味だとでも云う様に、春香は当たり前の様に楽しげに森へと足を向けた。

「今日は、ご飯が食べたいから……」

 呟きながら、湖に足を向ける。

 其の畔の砂浜らしき一角は、実はコメの散乱地であると云う事を以前知ってから、春香は其処を度々訪れていた。

 相変わらず、透明な水の中で涼しげに鎮座する精米を慣れた手つきで掬い上げ様とした、其の刹那。

 ざわり、と木々が不自然にざわめき、春香は立ち上がって周囲を伺った。

 未だ木々は不機嫌そうな音をたて続けており、春香は訝しげに眉根を寄せ油断なく辺りを見回す。

 ……何か、居るの?

 春香が頻繁に訪れる場所だから、誰かが待っていたのだろうか?

 そう思うものの、其れは無いと確信する。

 以前は交流の在った森の民とも、昨今は全くの疎遠になってしまっているのだ。必要な調味料は、瑠璃の一対が持って来てくれるようになり、不用意に色々な存在と遭わない様にと、瑠璃の一対が言い含めて行ったのは、随分前…………綺麗で怖い御仁が来た直ぐ後だった気がする。微妙に会わないと云う言葉の部分の意味合いが違う気がしたのだが、春香はとりあえず頷いていた。

 そう云う事は、此の世界ではよくある事だと勝手に納得して。

 そんな風に細い付き合いを断じられれば、春香を知る存在は顔見知り以外居なくなる。

 竜女がまた来たのかとも思ったが、脳裏に浮かんだ派手派手しい端整な顔が其れを否定した。

 一度口にした事を翻す様には、思えないのだ。

 ならば、と春香は懊悩する。

 何が、居るの?

 怖い存在(もの)だったらやだなあ、と、ひとりごち、春香は手早く適量掬い取った米を持って来ていた小袋にしまいこんで(かばん)の中に放り入れた。

 何かが来たら……何か見えたら、すぐに走り出すつもりだった。

 じりじりと、春香は慎重な足運びながら油断なく辺りを見回して湖畔から離れて行く。

 ざわり、ざわり。

 木々は、治まらない。

 其の様に、春香は嫌がおうにも緊張を高めていた。

 ざわり、ざわり。

 あと半歩下がれば、砂浜?から出ると云う刹那。



「ばあ」


「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」



 突如頭上から逆さまに降って沸いた白皙の美貌に、春香は体中の何かを吐き出すかの勢いで絶叫したのだった。

 ……まあ、当たり前の反応だろう。

 腰を抜かした様にへたり込んだ春香の頭上で一瞬影が過ぎり、音も無く奇異ながらも真白な衣に包まれた瀟洒な体躯が春香の眼前に現れた。

 花の様に結い上げた、独特な形の髪型。

 真白な肌に、美しい容姿。そして―――――――何より目を惹く、真っ赤な唇。

 大きな鳶色の瞳が、愉しげな笑みに歪んでいる。

 へたり込んでいるが故に見上げる春香の視界で、綺麗な男は快闥に笑い声を上げていた。

 愉快、愉快。

 そう、態度が叫んでいる。

 本来であれば此れは明らかにむっとするだろう状況なのだが、不可思議な事に、春香は全く腹が立たなかった。其の楽しげな様子に、いっそ、楽しんで戴けたならいいか、とすら思ってしまった。

 と、不意にがさりと音がして、すぐ近くの叢が割れた。

 ひょこり、と顔を出したのは、愛らしい顔つきに配された白黒瞳。

 其れは春香を視界に入れた途端に、あどけなくも無邪気な笑みを顔一杯に広げて笑った。

「森の竜女! 久しいのう!」

 春香が声を上げる前に、小柄な体が春香の上半身を嬉しげに抱きかかえてしまう。

 半ば呆然としながらも、何とか久しぶりと返し、春香は漸く笑顔を浮かべた。

「ホントに、久しぶり。元気だったね?」

「当たり前だ! 己が身を損ねる事なぞあるものか!」

 にこにこと言葉を返し、闖入者は笑みを其の儘に春香の前に立つ男へと視線を移す。

「央の君にも、久しゅう」

 にまり、と先程迄の笑みとは全く異質な喰えぬ笑みを浮かべ、北の主を名乗る年若い男は鳶色の瞳をまっすぐに射た。

 対して。

 其れを受けた方は不快を全く現さず、寧ろ好意的にすら見える微笑みを口の端に浮かべて、こくりと小首を傾げて目を細めた。

「北の小鷹(ひな)、久しいねえ」

 なんとも楽しげな声音に、毒は無く。

 だが其れ故に、(みはる)を心底からそう思っているのだと云う事が知れ。

「ど、如何したの?」

 抱えられた頭では状況が解らない春香に心配そうに軽く揺すられ、北の棟梁を名乗る貴種は己の体がショックのあまり固まっている事に気が付いた。

 春香を抱きしめていた事に漸う気が付いた眺望(みはる)は、忘れていたとでも云う様に小さく目を見開いた後、春香の頭を解放し、さり気無く手を引いて立たせてやる。

「央の君とは、己の(さき)の代から繋がりがあっての」

 以前より面識があるのだと云われ、春香は小さくおうのきみと呟いた。

 立たせて貰った礼を云い、春香は、じゃあ知り合いなんだ、と笑った。


 知り合い。


 そんな単語で表していい関係(もの)か……と眺望(みはる)は一瞬考える。

 此の存在は、此の国一番の有力者で、自分の父親が遜って同盟を結んでいた存在だった。関係で云えば、あちらの方が上位も上位。北の(くに)を平らげた今であっても、此の御仁は眺望(みはる)の手には負えないだろう事は確定の存在だった。

 だが、眺望(みはる)は問題無かろうと気軽に決を下す。

 逡巡を相手に感じさせない声音で是と頷いた儘に目を遣れば、()の御仁の目もまた其れで良いと云っていた。

 相変わらずの奔放さ加減だが、其れもまた詮無き事と眺望(みはる)は内心で呆れた様に吐息する。

 小鷹(ひな)、と呼び掛けられた衝撃は、諦めと共に既に眺望(みはる)の中からは駆逐済みだった。第一、此の御仁に何を云っても始まらないのだ。其れは眺望(みはる)だけではなく、此の世界(くに)に住んでいる有力者達の間では共通の諦観(にんしき)だ。

 奔放で。

 儀礼に煩く。

 賢いが故に、突飛な行動の多い―――――――力持つ存在(もの)

 とてもとても、複雑な御仁なのだと微笑む母上は、だが同じ口でとてもとても幼い御仁なのだと笑う。

 嘘か、真か。

 其の境がとても解り難い御仁だと、眺望(みはる)は思っている。

 其れは、生きる様に欺く性質であると云う訳では無く、賢いが故の回転の速さで先程迄の真実を逆手にとって踏み台にして、相手をいなし組し蹂躙する手管にする可能性があるが故。

 だからこそ、眺望(みはる)は此の忙しい時期に無理を云って森に来たのだ。

 眺望(みはる)が深く深く探れば、森の力の動き位は探る事が出来る。

 嫌な予感に急かされてやってきたやってきた森で、彼の御仁の力を感じた時の眺望(みはる)の焦燥は、筆舌に尽くしがたい。

 急ぎ急ぎ来た眺望(みはる)の目の前で哄笑する綺麗な姿と其れを茫然と見る春香の姿を見て、ある意味眺望(みはる)は諦観したのだが。

 そうだよな、そうだよな。

 そんな心持だったが、其れを面に出さず対すれば、帰って来たのは昔と変わらぬ子供(ひな)扱い。

 先代から家督を譲り受け戦乱に身を投じ、自他共に北の長を名乗る眺望(みはる)にとっては、消化済みとは云えやはりなかなかに衝撃的な事柄だ。

「どうしたの?」

 春香の声に、眺望(みはる)ははたと思考を止めた。

 きょとんと己を見る春香へ、眺望(みはる)はにこりと笑って何でもないと告げる。

「央の君。此の後は如何される」

 流れる様にさらりと問えば、眼前の綺麗な顔は楽しげに笑って森の竜女の家に行くと告げた。

「事の顛末をオシエようと思ってね。丁度良いから、北の小鷹(ひな)もキくかい?」

 勿論。

 誘いを断る理由が無い。

「是非に」

 にこりと愛らしく笑いつつ、何やら嫌な予感がする眺望(みはる)だった。……其の予感が的中するだろう事なぞ、最早諦めの向こう側で肯定している事なのだが。

 三つの影がゆるりと向かった先。

 春香の住処である四阿の前に、派手派手しい影が降臨していた。

 思わず無かった事にしようかとも思った春香だが、残念な事に戸口に立っていた派手な男が麗しい容貌に不平と不満をこれでもかと云う程に載せて森から帰って来た一団の中でも一番地味な家主(はるか)の双眸をしっかり捕らえ嗤う姿を目にしては……流石に無視しきれるものでは無かった。

「お前、又なんか失礼な事考えてやがったな?」

 ぐるる、と猛獣が唸る様に不穏な響きを混ぜ込んで醇乎(ますみ)が問えば、春香は空々しい笑顔でナンノコトデショウカと言葉を返す。

「何だ其の妙な発音の羅列は!」

「知りませんよ。さ、其処退いて下さい」

 さくさくと派手派手しい美貌と装いの主を端に追いやり、春香は閂を外すと真っ先に綺麗な綺麗な貴種を招き入れ、次いで眺望(みはる)を笑顔で迎える。

「―――――――おい、締め出そうとしてんじゃねえよ」

 ガッ、と足で戸の根元を抑えられ、春香は小さく嘆息してからまさかと笑顔で派手派手しい美貌を振り仰いだ。

「被害妄想甚だしいですよ? もし万が一入るおつもりがおありでしたらどうぞ?」

「大在りだよ」

 へ、と甚だ野卑に鼻で笑い、醇乎(ますみ)は春香を押しのける様に中に入るとさっさと居間に上がり定位置の辺りにごろりと寝そべる。

「……仰臥位って……平安貴族の姫ですか」

「嫌な呟き入れてんじゃねえ!!!」

 何とも云えない口調で呟いた春香に上半身だけは肘で持ち上げた姿の醇乎(ますみ)が雷を落とした。……尤も、其れで怯えを見せる程春香は弱くはないのだが。以前の様な闖入者としてではなく招き入れた立場として、春香は白の貴種に上座に勧めた。いつもなら恩恵(たまふ)夫妻が据わるだろう上座だが、多分に、今後は恩恵(たまふ)が居てもこうなるのだろうな、と考え、春香は一抹の寂しさを覚える。大事な大事な貴種の為の席は、本来であれば他者に座らせたくはない。

「何か、問題があるの? 森の竜女?」

 楽しげに……まるで猫が遊びで爪を出す様に、上座の貴種がやんわりと問う。其れに対して間髪入れず否と答えて首を振り、春香は眺望(みはる)にも席を勧めるとお茶をお持ちしましょうと云って土間へと姿を消した。

 居間に残るは、貴種達のみ。

 ……あの場所に帰らないって云う選択肢は無いんだよね……。

 此の四阿の主は己であった筈なのに、決定権と云うか主導権と云うか……主としての基本的な権限ですら根こそぎ己の手に無いと云う現状に、春香は些か引きつった笑いを浮かべた。

 台所で抹茶の茶入れを取りかけ、以前眺望(みはる)が散々騒いだ事を思い出し、春香は其の隣の煎茶が入っている茶筒に手を伸ばした。スパゲティを収穫した時に生じた木の皮で造った其れは、なかなかに味のある仕上がりだと春香が自画自賛している物だ。

 さっさと湯を沸かし、つい最近、帰還祝いだと云って瑠璃の一対が持って来てくれた瑠璃色の煎茶用茶器で器用に茶を淹れ、春香は煎茶用の小さな茶碗を盆に載せるとはあと一つ溜息を吐く。

 あの魔窟に、入らなくてはならないのか。

 あうう……と内心で呻き声をあげ、とぼりと春香が踏み出した様をまるで見ているかの様に、居間に座す貴種は愉しげにふふと呟きの様な笑い声を上げる。

「……機嫌が良いな」

「森の竜女は、アイらしいねえ」

 とてもタノシイ。

 噛合っている様で噛合っていない言葉を交わし、綺麗な貴種はついと派手な容貌を流し見る。

「もうすぐ、ひいなも来るよ。そうしたら、キカセよう」

 白の貴種の言葉に、派手な貌を愛らしい顔がすっと引き締まった。

「天子の決が降りやがったのか」

「央の君」

 真剣な声音に、綺麗な顔が仄かに笑う。

「ひいなが来てから、だよ」

 囁く様な声音は、几帳の影から現れた春香には届いていない様子で、お待たせしましたと云いながら居間に上がる様子に不安の影は無かった。

 相変わらず、上手い事鈍い奴め。

 醇乎(ますみ)が心中で呟くが、春香は其れこそ何も気が付かない様子で盆の上の茶碗を配っていく。

 何の変哲もない、煎茶だ。

 だが、其の中身を見て、醇乎(ますみ)はぎょっとし、眺望(みはる)は好奇で目を綺羅綺羅させる。

 そんな様子を春香はいつもの事で流し切り、上座へ座布団付の茶碗を置き礼をとった……刹那、白の貴種はやおら茶碗を手に取り、かぱり、と云う擬音が似合う様な勢いで中身を口の中に注ぎ込んだ。

「あ、熱くないですか!?」

 其の勢いの良さに春香は慌てるが、慌てるところは其処じゃないだろうと醇乎(ますみ)は苦々しく思う。

「西洲の雄」

 綺麗な顔をゆるりと向けて、此の場で最も力在る存在(もの)は言葉を紡いだ。

「イラナイなら、貰うよ?」

 言葉が指し示すのは、手も付けられていない、茶碗。

 小首を傾げて、言葉を促す綺麗な顔に小さな吐息を返し、醇乎(ますみ)が己の前に置かれた茶碗をずいと相手の前に押しやれば、綺麗な綺麗な貴種は遠慮等欠片も無い所作で茶碗を掴み、機嫌良く中身を呷る。其の様子を茫然と見ていた春香の左右に、いつの間にか瑠璃の一対が現れた。

 驚く春香へニコリと笑い、瑠璃の一対は恭しく先触れを告げる。

 鈴を振るうかのような愛らしい声音が消えるか如何かと云う刹那、几帳から瑠璃の輝きが溢れ、室内に、黒と瑠璃の美麗な影が現れ出でた。

我が君(あるじ)様」

 美麗な黒影が恭しく礼を取る。

以心同身(わたくしども)、御召に由り御前に参上仕りまして御座います」

 隣の(たまう)も、すいと顔を伏せる。

 何処迄も何処迄も上品な一対の姿に、上座に在る彼等の主は、形の良い口唇を笑みの形に象り、何とも云えぬ無邪気な笑みを向け、言葉をかけた。

「久しぶりだね、ひいな。コワイコワイ目をしているよ?」

 ふふふふふ、と笑い声を上げる其の姿は、無邪気であって殺意の塊でもあった。

 一気に凝り固まった室内の空気にあてられ、春香の体がふらりと倒れかけるが、既に春香の左右に座して居た瑠璃がさり気無く支えた事により、事なきを得る。

(あるじ)様」

 恩恵(たまふ)の形の良い小さな口が、そっと言葉を紡いだ。

「其の様な事をなさいますと、春香が絶えます」

「そうなの?」

 きょとんとした表情(かお)をして、白の貴種は其の儘春香の方を見遣る。……と、其処に在るのは、顔色を無くして瑠璃の一対に介抱されている春香の姿。

「豈図らんや。其処迄弱いとは」

 驚き過ぎて、いっそ楽しげな表情にすら見える綺麗な綺麗な顔は、一転して真面目な表情(いろ)に染まった。

「ひいな」

「は」

 改まった場の雰囲気の中、二人の応えが重なり響く。

「此れは、お前達の小細工?」

(いいえ)

 応えたのは、瑠璃の影。

「此れは、お前達の仕業?」

(いいえ)

 応えたのは、黒の影。

 白皙の顔を僅かに伏せて恭しく上品に座す一対へ軽い頷きを与え、白の貴種は其の美しい顔に存在する綺麗な鳶色の目を部屋に在する貴種へと移した。

「元からだと」

 揶揄する様に声を紡げば、派手派手しい顔が忌々しげに是と頷く。

「最初に云ったろうが。こいつは弱いと」

 聴いてねえのかと悪態を続ける醇乎(ますみ)の様子に眉を軽く引き上げ笑みを零し、綺麗な顔は黒白(にしょく)の瞳持つ知己へと向かった。

真逆(まさか)?」

(たま)さかに御座りまする」

 いっそ仰々しく礼をとりつつ返された声音は酷く楽しそうで。

 白の貴種は、ほう、と呟いた。

 ほう、と、愉しげに、訝しげに、呆れた様に、面白そうに、呟いた。

「此れしきの事で絶える様な(もの)なのに、ワタシがノメナイと?」

 未だ朦朧としている様子の春香に、其の不穏極まりない声音は聞こえない。

 周囲の貴種が、一人残らず……心深くか表立っての差はあるものの、明らかに警戒を向けているにも関わらない状況で、春香は瑠璃の一対の腕の中、彼我に揺らぐ自我を掴まんと其れなりに必死になっている。

 脆弱な姿だった。

 故に、白の貴種は何とも云えぬ不快感を其の美麗なる貌に刷く。

「春香」

 名を呟くが、具合が悪そうに上体を僅かに傾げる春香の姿に、変わりはない。

「……コワレナカッタ、ねえ……」

 それなのに、と呟いた後も口の中で飴を転がす様に何度も何度も春香の名を呟く白の貴種の姿にどんと床を拳で殴る事で苛立ちを露わにした醇乎(ますみ)が、いい加減にしろと荒々しく吐き捨てる。

「天子の事は如何なったんだ! さっさと吐きやがれ!!!」

 殺気すら放つ其の視線を真っ向から見返す鳶色の瞳も又、何とも云えない覇気に揺らいでいた。

「西洲の雄。ワタシはね、今、とてもとてもヒドイ気分なんだ」

 口の端が引き上がり、ぬめりとした紅い紅い口内が見える。

「それとも。西洲の雄が、ワタシの気分を晴らしてくれるのかな?」

 明らかに害意に満ちた其の声音に、派手派手しい容貌に獰猛な笑みをのせ、醇乎(ますみ)は上等だと挑発的に嘲笑った。

「喰らってやるよ! 普通なら男なんざ喰えたもんじゃねえが其の綺麗な顔だけで喰える気がするぜえ?!」

「よく云ったぁああああ!!!!!!!!」

 白の貴種の怒号と共に、双方からぐわりと何かが膨れ上がり、室内を軋ませた其の刹那。


「駄目です!!!!!!!!!!!!!!」


 声も枯れよとばかりの叫び声と、白の貴種を抱き締める卑小な影。

 目だけはぎらぎらさせながらも、きょとんとした表情の綺麗な顔を覗き込み、春香は必死の形相で言い募る。

「いけません! ご自身は大事になさらないと!!! こーんな色情魔の手にかかる事はないんですよ!!!」

「おいこら」

 完全に毒気を抜かれた状態で忌々しげに突っ込む醇乎(ますみ)の声に、春香は紙の様な顔色だと云うのに強気な表情(いろ)を瞳に刷いて、蔑む様に振り返った。

「何ですか? 他所の家で事に及ぼうとするのは止めてくださいね!?」

「そりゃあ確かに事には及ぼうとしたがなあ!」

 事と云う言葉が指し示す内容が根本から違うと醇乎(ますみ)が訴えんとした其の刹那。

「……そうか」

 ぽつりと、綺麗な綺麗な顔に配された美しい紅唇から、震える様な声音が漏れる。

「ワタシは……貞操の危機だったんだね」

 さらり、と漏れ出でた言葉はやけに頼りなげで。

「ちょっとまてええええええええええええええええええええええええええええええええええ!?」

 絶叫は、誰からとは云うまい。

 そして。

「そうですよ!? 此の方は高位かもしれませんけれど手当たり次第なんですから! 多分!!!」

 其の言葉に春香が思い切り頷いて、本当に御無事で良かったと涙ぐみさえして見せれば、最早醇乎(ますみ)の立つ瀬等。

「ああ……森の竜女は優しいね?」

 綺麗な綺麗な顔が本当に嬉しそうに笑みを浮かべれば、春香は思い切り首を振ってそんな事は無いと云う。

「人として、当たり前の事をしたまでです!!!」

 人、と云う言葉に周囲が僅かな……本当に僅かな反応を見せるが、感極まっている春香は其れに気が付かない。

 そして。

「……ありがとう……」

 綺麗な綺麗な顔に映える儚げな笑みで礼を云って見せる貴種の鳶色の瞳が大爆笑している事にも気が付く筈も無く。

 延々と続く心温まる会話の傍で、多分って云うなら否定しろよ!?と響き渡る怒鳴り声。其の直ぐ傍で沸き立ち湧き起こる様に声も無く爆笑する小柄な影。そして、実に醒めた視線で顛末見守る瑠璃を、其の視線が可愛らしいと満足げに抱きしめ愛でる黒影の姿。

 何とも混沌とした場が暫く続き、漸う落ち着いた頃合いに、一番の被害者となった派手派手しいが麗しい貴種が憮然と口を開いた。

「で、如何なったんだよ」

 不機嫌極まりない其の声に、やけに艶々した顔色の綺麗で綺麗な容貌が愉しげにすいと目を細めた。

「ああ、キゾク達はもう関与しては来ない」

 其の言葉に、派手派手しい顔が驚きの表情を形作る。拍子抜け、と云っても良いのかもしれない其の表情は現す程度の差は在れど、其の場に居た存在(もの)達に共通する。……尤も、恩恵(たまふ)は無表情を貫いているのだが。

 流石はたま様!

 何処か頓珍漢な感想を抱きつつ、春香は己の事でありながら、何処か他人事の様に事の流れを見ていた。

「選民意識の塊共だ。如何に力が強くても、お前なんぞの言葉に従う様な存在(もの)じゃあねえだろう」

 喉の奥で笑いながら、醇乎(ますみ)は眼前の綺麗な顔を眇め見る。

 選民意識。

 春香が口中で呟き、嫌そうに眉を顰める。

 無意識に体を強張らせた春香の背を、紅葉の手が左右から宥める様に摩った。

「有象無象はね。天子(みかど)はカシコいから」

 綺麗な目を細め、無邪気に笑う綺麗な顔。

人形(ひとがた)を渡したら、満足していたよ」

 さらりと。

 あどけないとさえ表現できるだろう声音が、さらりと言葉を紡いだ。

 其の瞬間、今迄の喧騒が嘘の様に消え失せ、耳が痛い程の静寂が場に満ち満ちた。

 ……あれ?

 唐突に室内を支配した静寂の不穏さに、春香は引きつった笑顔を浮かべ、目立たぬ様に視線で辺りを伺う。

 派手派手しい顔が先程とは違った驚愕を露わにし、愛らしい容貌が似つかわしくない険しさを見せ、潔斎(いつき)恩恵(たまふ)は…………と視線を向けかけて、刹那背筋に奔った悪寒に、春香は其れを取り止めた。

 ふるりと震えた体に、紅葉が再度慰撫の手を差し伸べる。

 大丈夫、と無言で伝えて来る其の掌の温かさに、春香が僅かに表情を緩ませた其の刹那。

「ばっかじゃねええのかてめええええええええええええええええええええええええええ!?」

 派手派手しい美貌が吐き出す怒号が、其の場に満ちた。

「あいつ等にそんなもん渡しやがったのか!? こいつの生殺与奪の全権を与えたようなもんじゃねえか!!!」

「莫迦キゾクに渡してはいないよ」

天子(てんし)に渡した時点で同義だろうが!!!!!!」

 雷鳴の如く響く怒声に驚く春香は、だが常と違う気配に困惑を浮かべる。

 周囲の反応が、ない。

 いつもであれば、美味しい餌をみつけたとばかりに白黒の瞳を輝かせる愛らしい姿も、うっすらと微笑みお前莫迦だろうと言外に云い放ちつつ上品に言葉を紡ぐ玲瓏たる声音も、何も、無い。

 潔斎(いつき)は品よく微笑を浮かべつつ座し。

 恩恵(たまふ)は表情無く静謐に座し。

 眺望(みはる)は無垢な表情で座す。

 そして何れの目にも納得の光は無く。

 常の雰囲気の代わりに存在するのは、何処迄も張りつめた気配。

 厳然と存在するのは、恐ろしい程の沈黙。

 其れ程の物を、此の綺麗な存在は、相手方に渡した、と云う事らしい。春香はそう考え、うーんと内心腕を組む。

 何とも云えない違和感が、春香の脳を掴んで掻き回していた。

「ねえ」

 熱立つ派手派手しい容姿を目の端に留めつつ、春香は傍らの瑠璃の一対へ小さな声を送る。

「ひとがたって、何?」

「……主様の命を受け春香様の御傍に侍ります百科がお答え致します。人形(ひとがた)と申します道具(もの)は、(うつつ)(もの)を象り其の存在を掌中に収める為用いられる道具(もの)に御座います」

 ひそりと告げられた言葉に、春香はふむと頷き、藁人形の様な存在(もの)ねと口中で呟いた。

「其れを壊すと、私も死ぬ?」

「是」

 専科が端的に答えた。

 普通であれば取り乱すだろう其の言葉に、だが春香はそうと呟くに留めて、すっとまっすぐ手を上げた。


「申し訳ありません、発言をお許しいただけますか?」


 場違いな程にまっすぐな声音と迷い無く平常運行な春香の姿に、たった今迄射殺さんばかりの殺気立った視線で相手を睨みつけていた派手派手しい容貌が、一瞬で嫌そうに歪む。

 こいつ、何やらかす気だ。

 表情が雄弁にそう云っていた。

「何かな?」

 何処迄も綺麗な顔が、無邪気な笑顔を浮かべる。

 小柄な影も又、何やらわくわくした様子で春香を見遣っていた。

 何やら興味津々な気配にやや気圧されつつ、春香は思っていた事を述べる。


「渡された人形(ひとがた)と云う道具(もの)は、本当に機能しているのでしょうか?」


 其れは、ある意味爆弾だった。

「……何故、そんな疑問を?」

 楽しげに言葉を促す綺麗な綺麗な貴種に、春香は僅かに目を伏せながら乾いた口内を何とか動かして答える。

「失礼ながら、申し上げます。たま様の旦那様の主様が、簡単に面白い物の絶対的所有権を他者にお渡しする様な方とは思えません」

 気後れする様子を見せながら、だがしかし自分の意見をはっきり云う春香のアンバランスさは、現代日本人特有の資質かもしれないが、此の場で此の発言が出来るのは春香特有の資質と云えるだろう。だからこそ面白いと恩恵(たまふ)が仄かに笑い、其の姿に潔斎(いつき)が可愛いとしみじみ呟きながら抱きしめる。

 呆れた様に其の場全てを視野に入れていた貴種は、派手派手しい顔立ちに似合いの大げさな所作で此れ見よがしに溜息を吐いた。

 思わず其方を見た春香の目の前で、長く美しい衣の裾が舞い上がり、はらりと床に落ち着く。派手派手しくも美しい衣は、持ち主の全てを体現していると云っても過言ではないだろう。

「無駄に綺羅綺羅しい……」

「手前ェ、本気で縊るぞ」

 春香が何処となく遠い目で毒を吐けば、間髪入れずに派手な美貌の口元がひくつきながら笑みを作り脅しを返す。尤も、直ぐに愛らしい顔立ちに存在する黒白の瞳が向ける笑みを湛えつつも射す様な視線に因って、其方との睨み合いに入るのだが。

 一寸素直に口に出し過ぎたかと、平素に無い相手の迫力に弾む心臓を己の胸を撫でる事で何とか宥め、春香はもう一度此の場での最高位に居る貴種へと向き直り頭を下げた。

 向き直り、殊勝に頭を下げる矮小な存在に、貴種はふふと面白そうに笑みを漏らした。

 白皙の(かんばせ)の、紅い唇が愉しそうな笑みを形作る。

 鳶色の瞳は笑みに滲んでいるのに、其れが何処となく酷薄な彩りを成した。

「春香」

 ころりと、飴を転がす様に。

 名を紡いだ美声に、春香ははいと事も無げに応えを返し、僅かに視線を上げる。

 小さな小さな存在。

 貴種は愉しげに忌々しげに微笑みを浮かべる。

 ああ、コレは。

 ふふふ、と声を漏らす。

 ああ、コレは。

 ああ、コレは。

 訝しげな感情(いろ)を浮かべ始めた春香から目を離さず、貴種は美しい稜線を描く頬に、白魚の指を当て、僅かに目を細めた。

 ああ、コレならば。

「うん」

 鳳仙花の実が弾ける風情で頬から指を離し、綺麗な綺麗な顔が僅かに傾く。(かんばせ)の横を流れる髪がさらさらと指の代わりとでも云う様に頬を撫ぜた。

「勿論、効力など無いよ。そして其れは、天子(みかど)も承知してる」

 キゾク共は知らないけどね。

 そう云い、貴種はふふふふと笑い声を零した。

 其の悪戯な様子に、派手派手しい顔が睨み合いを止めて即座に咬みつく。

「其れを早く云えよ!」

「キかなかったじゃないか」

 さらり、と悪戯な表情の儘言い返され、派手派手しい顔が大げさに顰められる。なんとも、芝居がかった表情だが、此れが此の御仁の素なのだよなあと春香は横目でちらりと見て僅かに目を伏せた。

「央の君。では、森の竜女はミヤコの手を逃れたと云う事か?」

 猫の子が大きな物を伺う様に身を乗り出し問う声に、綺麗な綺麗な顔が愛らしい顔立ちをまっすぐに捉え、けぶる様に目を細めて笑う。

「嬉しい?」

「是!」

 ぶん、と大きく頷く姿は如何にも愛らしく、春香はほうと感嘆の溜息を吐いて両の頬に手を添えた。悩殺、と云う奴だ。

 己の身の生殺与奪に関する話が展開されている事は最早春香の中から抜け落ちていた。現状在るのは、可愛らしい生き物が嬉しそうと云う事だけ。

 ああ、至福。

 うっとりと目を閉じる春香を、其れでこそと満足げに見遣る瑠璃の主従。此れでこそと呆れた表情を目に滲ませながらも納得の顔を見せる黒の貴種。

 常識あんのは俺だけかと、派手派手しくも綺羅綺羅しい貴種はあからさまに頬を歪めた。

「結論を云えばね。春香に限って、人形(ひとがた)は、機能しないんだよ」

 当たり前だよねと、美麗な貴種は笑う。

「総てを喰らう此のボクが喰らえなかったモノを、あんな小さな器に一部とは云え封じる事等出来る訳がナイ」

 ぱかりと口を開け嗤う、其の赤がぬめぬめと昏い。

「体面上、森の竜女は奴等の掌中に在らねばならない。だけど、其れを行える力はキゾクには無い」

 何故だ。

 (おと)無き問いかけに、恩恵(たまふ)の美声がひそりと呟いた。

「森に背けよう筈が、ありませんもの」

 道理、と愛らしい顔が頷き、可愛い、と端整な顔が腕の中の伴侶に頬擦りする。

 派手派手しい顔が最早定石となった呆れ顔で無造作に話を促した。

「んで、此の莫迦女は此の儘此処に今迄通り、って奴なんだな? 勿体ぶりやがって」

 根性悪ィと吐き捨てる相手へ、綺麗な綺麗な顔は感情(いろ)の無い瞳を向けて美しく微笑む。

「そう云う性質(たち)なんだよ。知らなかった?」

 マンガで云うならきゃるーん♪と云う擬音が背景に入りそうな笑顔だった。綺麗だが、可愛らしい。其れが内面知る存在(もの)にとっては、吐気を催す程の精神的な衝撃になる。

 ぐはあ、と床に突っ伏した綺羅綺羅しい貴種を、春香は酷く冷たい目で眇め見た。

「此の、色欲魔神」

 見下げ果てた響きの呟きに勘違いも甚だしいわと怒鳴りつけてやりたいが、ダメージが思いの外大きく動けぬ儘に悔しがる醇乎(ますみ)を鼻先三寸で嘲笑うのは、小柄な影。

「森の竜女は、まだまだ此の森に住むのだろう?」

 一転、にこりと笑って春香の隣に座る小柄な影に、春香ははいと頷いた。

「問題が無ければ。追い出される迄、此処に居ます」

 さらりと言った言葉の重みに、春香が気付く事は無い。

 小柄な影は言質を取った。

 誰に云った詞では無い。

 だがしかし。

 問われ、返した。

 其れは誓約と同じ意味を生む。

 春香は、此の地に住まう事を、選んだのだ。

「そう」

 ひっそりと。

 ひっそりと恩恵(たまふ)が笑う。

「良かった事」

 瑠璃の貴種の言葉に、其の場に居た存在(もの)が全て頷いた。

 どんな表情を浮かべていようが、どんな思いを抱えていようが。

 貴種達は、此の生き物が住まう事を望んでいるのだから。


























 或る日。

 新聞の片隅に小さな小さな記事が載る。

 変死体が、とあるマンションの一室に在ったと云う記事が。

 まるで、外傷も無く、年齢通りの容姿である若い女性の死体。

 一人暮らしの突然死は、珍しいとは云えない事では無かったが、変死体故の検死が行われ、其の特異性に気づかれた。

 検死官曰く。

 内臓、骨、筋に至る迄。

 全て――――――――――――――何十年も生きた、年寄りの様だったと。

 死因は、老衰だった。


 女性の顔は、酷く楽しそうな笑みを浮かべていたと云う。


本編、終了です。

お付き合い頂きましてありがとうございました。


今後は、答え合せ編と云いますか、齟齬の部分の解き明かしだったり、本編後のまったり生活を描いて行こうと思います。

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