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「なんですって……?」
酷く珍しい事に、恩恵は言葉を聞き返した。
聞き返さざる、終えなかった。
眼前には、瑠璃の一対。
小さな姿が、主の勘気を受けながらも、健気に同じ言葉を紡ぐ。
「隠居の身が……」
場所を違えて。
消えた気配を訝しみ蔵にやってきた黒衣の美丈夫が、殺気に塗れた呟きを漏らす。
「行き先を探せ。己の地ならば迎えにも行けよう」
主の消えた四阿から己が所領に立ち戻った小さな影は、白眼黒瞳を怒りに煌めかせ幼さ残る顔に苛立ち含んだ笑みを乗せ命じる。
「貸し付けを払わねえうちに居なくなるたぁ感心しねえぞ……!」
生活の気配が其処彼処から消え失せつつある春香の居室を睥睨し、華のある声音が怨嗟の響きで凄む。
そして。
「ずるい」
遠くで呟いたのは、強大な存在。
無垢故に恐ろしい御仁。
時と場所を選ばずに齎された報曰く。
―――――――森の竜女が、姿を消したと。
森から忽然と消え失せた一人の女の為に、各地の有力者達が其の力を存分に振るおうとしていた。
決して、離さないで下さいねえ。
そう云って、貴種は白の繊手で春香の手を掬い取った。
突然蔵から連れ出され、何でもない事の様に敷地内を歩き、藤の色纏う貴種は其れはもう上機嫌で春香の手を引いて歩いて行く。
いいのかな。いいのかな!?
内心でびくびくしつつも此の流れに逆らえよう筈もない春香はそっと恩恵の顔を思い描き心底からごめんなさいと詫びていた。
手を引かれ。
敷地内であろうが外に出て。
庭を行き。
蔵が立ち並ぶ場所へと誘われ。
手を引かれて歩くなぞ一昔前の少女漫画だと思わず乾いた笑みを浮かべる己に、春香は僅かに呆れを感じた。意外と早い貴種の足取りに合わせ歩を進める。春香の不安を感じ取るかの様に、貴種は時折振り向くと安心なさいと云う様に雅やかな微笑みを向けた。
そして……貴種が春香を誘ったのは、奥まった場所に在る一つの小さな鶯色の蔵。
周りの蔵に比べたら、本当に小さな蔵だった。瓦も土壁も美しい鶯色なので、まるで低木の様にすら見える。其れが蔵と解るのは、土壁に規則正しく縦の線が黒々と刻まれているからだ。刻み込まれていると見えた線は金属性の格子らしく、鶯色した土壁に埋め込まれている。
何とも云えぬ愛らしい造りの蔵に思わず目を惹かれた春香は、だが、小柄な貴種が柔らかに引く力に従ってゆっくりと歩を進めた。
扉の前。
幾分か濃い鶯色の其れを押し開く貴種は確かに両の手を使っていると云うのに、春香の手を掴む白い繊手は其の瞬間も確りと握られている。とても不可思議であり怪しい事柄なのに、不思議な事に春香の心には訝しむ気持ちや考えは全く湧き起こらなかった。ただ、目の前の貴種の誘いに唯々諾々とついて行く。
春香の様子は、おかしかった。
いつの間にか表情から意思が抜け落ち、意識を感じさせる瞳は僅かに霞がかかった様にも見える。
今現在、春香は本の蔵から此処に至る迄ただ単に手を引かれて歩いていると云う認識しかない。―――――――だから、疑問は、生じない。
引き開けられた扉の先は、霞が満ちた様な白い闇が広がっている。貴種が事も無げに仕切りを跨ぎ入口を潜るのに合わせ、春香も其処を潜り蔵の中に入る……と、其の時。
ほけきょ
唐突に、白の闇の向こうから鶯の一声が微かに響き、春香の耳を過ぎった。
刹那。
春香の意識は唐突に澄み渡り、意思のある瞳が明確な意図を以て周囲を見渡し首を巡らす。明瞭な意識が捉えた現状に、春香は言葉を無くして愕然とした。無言で佇みながら慌ただしい立ち居振る舞いを見せる春香へ、貴種は雅やかにはんなりと微笑んだ。
「此方で、間違いはないですね」
貴種が歌う様に告げる言葉は、疑問であって断定。間違い等あろう筈がないと確信している其の声色は、傲岸でありながら何処迄も柔らかで雅やかだ。
春香は頷く。
茫然と。
春香は、今、元の世界の己が住処に帰ってきていたのだった。
一足飛びに己の住居に飛ばされて、茫然としつつどうしてと呟く様に問う春香へ、貴種は雅やかに微笑む。
明らかに見覚えのある家具やベランダ越しに見える風景に春香が混乱しているのをまるで意に介さず、貴種はでは行きましょうねと鷹揚に云い、再び手を引いた。
春香の格好は森の装いの儘で、貴種も又此方では雅やかではあるが奇異な装いではあったが、貴種は春香に其れを考えさせる隙を与えず当然の様に道を行き歩いた。
「さて、お勧めは何処でしょう?」
雅やかな声音に問われ、春香はお気に入りだったカフェの名を挙げる。と、貴種はまるで猫が獲物を屠った後の様に満足げに笑い、ついと歩む速度を上げた。春香の家の近くに在り、豆乳を使ったラテが充実している其処は、繁華街に近いのにやけに静かで居心地がいい。御洒落な内装と云って良いだろう店内なのに、何処か時間経過的な古びた加減も又、春香の好みだった。
店に入り注文をして。程なくテーブルに届けられたのは焙じ茶ラテ。其れは春香オススメの豆乳で仕立てたラテだ。こう云う飲み方もあるのですねと貴種が微笑むのに春香は失礼にならない様に相槌を返し、久々の味を堪能した。其れ等を飲み終った頃合いで貴種に促され、春香は貴種と共に席を立った。
其の時、ふと違和感を感じたが、春香は其れを深く掘り下げる暇もなく扉を潜り外に連れ出される。
其の後も如何やって知ったのか春香お勧めの飲食店を転々と巡り行く事と相成り……春香は、漸う元の世界に帰って来た事をしみじみ実感した。
余裕が出来れば周囲にも目が行く。店に入り店内に間々あるカレンダーやら時計やらを見ると、春香が森へ行ってからまるで時間が経っていないらしい事が解った。
白い繊手が春香の手を握り、藤の衣が春香の先を行く。嫋やかと云って良い手は、春香の手をしっかり握っていた。だがしかし、春香の手は自由で貴種との間も十分な距離がある。
手を、繋いでいない。
だけれど、其の手は堅く繋がれて。
不可思議な感覚の中、貴種は春香を伴い行く。
春香の持ち弾が殆ど尽きた頃、貴種は一軒の古いが美しい佇まいの喫茶店に春香共々其の身を滑り込ませた。歴史を感じるクラシカルな造りの薄暗い店内で驚く程にフカフカなソファに身を沈ませた春香は対面の……優雅に座る藤の貴種へと視線を向けた。
古めかしい作りのメニューを開き、貴種は楽しそうに其れを見る。
明らかに現代日本にそぐわない様相と風体だが、周囲の人間は全く貴種に……否、春香をも気にかけていない。不可思議だが、応対はしていると云うのに店の人間は春香と貴種を此の場に居る客として扱う事は無かった。まるで、路傍の石の様だと春香は心中で呟く。他の店でもそうだった。受け入れ、注文を受け、料理を出すと云うのに、支払いを請求されない。
不可思議だと腹の内で心底驚く春香へ、貴種ははんなりと笑って云った。
「此方側の存在は、あちら側には認識できないのですよ」
昔は時折、気づかれましたがねぇ。
そう云って、貴種は雅やかに素晴らしい器で饗された素晴らしい珈琲を楽しみ満足げに頷くと、静かにカップをソーサーに戻し春香の手を引いて立ち上がる。柔らかなソファに別れを告げ、春香は再び道に出た。
古式ゆかしき喫茶室から、貴種は如何やって見つけ出すのか、イマドキなカフェ形式の小さな店へと場を移した。あなやと楽しげに声音を漏らし貴種は楽しげにメニューを見始めた。
「どれが良いのでしょうねえ?」
まるで歌う様に問いかける貴種へ、春香はそうですねとメニューの一角を指さす。
「此れはきなことお餅……と云っても求肥ですが、其れと黒蜜がかかったパフェです。バニラアイスと今云った物だけで出来てるんですけど、シンプルで美味しいですよ」
新作、オススメ、と云ったマークがついているメニューの解説をすれば、貴種は嬉しそうに其れを注文した。
出て来るモノを見て嬉しそうな貴種へ、春香はやはり不思議そうに問いかける。
「食べる、んですよね?」
スプーンで掬った黒蜜塗れのバニラアイスを優美に口に運び、貴種は機嫌良く言葉を返した。
「食べる、と云う行為は、私と友が此方を知った時に体得した特技です。ですから、此の行為を行う存在は、非常に少ないでしょうね」
春香がぱちりと瞬きして見せると、貴種は求肥を口に運び、優雅に咀嚼するとこくりと飲み込む。
「食み、味わい……そうして、ワタクシの料理は出来上がるのですよ」
「吟味、なさってるんですね」
ぽつりと呟かれた言葉は正鵠。
はんなりと、貴種が笑う。
「……でも」
其の笑顔へ、春香は怖ず怖ずと……だが心配げな表情を刷いた瞳を向けて言を継ぐ。
「おなか、大丈夫ですか?」
食べ過ぎではと心配そうに問う春香へ、貴種はきょとんとしてみせた後、はんなりと微笑んで答える。
曰く。
「貴女方の様な消化器官は無いのですよ」
さらりと返された言葉に、春香は一瞬口ごもり、そうなんですかと微笑んで其の事実を丸ごと飲み込んだ。……専門用語では、流した、と云う。此処は突っ込んだら負けと囁きまくる本能に、春香は抵抗せず即座に従ったのだ。
曖昧な笑顔で事実を流すと云う、何ともオトナな対応をしつつも、眼前の存在に対して欠片も敬意を損なわない春香の様子に、貴種は楽しそうに眼を細める。
此の絶妙な距離感が、何はともあれ心地好い。
楽しげに愉しげに最後の一匙を口に運び、貴種は春香の手を引いた。
パフェを食べている間も、離されなかった手。
パフェを食べている間は、離されてしかるべき手。
つられて立ち上がり、春香は貴種の瞳に捉えられる。
「時を経ても、此の国は、ほんに面白い。貴女と会えた事、僥倖でしたねえ」
ほほ、と声をたてながらも、口元は袖で隠し……貴種は品良く軽やかに店を後にした。
春香は機嫌よく手を引く貴種の後ろ姿を見ながら、まるで学校帰りだなあと思う。まだ十代の頃。学校から帰る途中に、友人と駅までの道の途中に在る飲食店に入り長々居座っておしゃべりしていた楽しい記憶。
まあ尤も。
春香は述懐する。
私は其の集団の隅っこで好きな本読んで、飲食系のみきっちり仲間に入れて貰っていただけなんだけど。
身勝手だなお前、とか、しゃべってねえじゃねえか、等々の適切な突っ込みは残念ながら此の場面では望めない。
春香は僅かに蘇った思い出を懐かしみつつ、あのうと貴種へ声をかけた。
「此れから如何なさるんですか?」
怖ず怖ずと発せられた問いかけに、貴種はやおら立ち止まり、僅かに上に在る春香の目線に黒瞳をひたりと据えて微笑む。
真白なタイルが敷き詰められた、広い道。御洒落でちょっとお高い店が片側に並び、反対側は車が行き交う大通りである此処は人で賑わう道である。唐突に立ち止まれば道行く人の流れに棹差す事になろうが、二つの影は全く認識されていない様で、周囲の人間は一人として視線を投げる事すらせずに其の傍を通り過ぎて行く。
向けられた貴種の笑みに春香は知らず後ずさるが、繋がれた手が其れを阻む。恐怖を感じたと明言する己の挙動に気づき、春香はすみませんと頭を下げた。謝罪へ、貴種ははんなりと微笑んで何をと問う様に小首を傾げる。解ってるだろうに敢て問う貴種へなんとも返答し難く春香が窮すると、貴種は小さく声を上げて笑った。
其の響きは、予想外に晴れ晴れしく。
貴種の機嫌が良い事を悟った春香は、困惑しきりの態でそっと視線を上げた。漸く己を見た春香の視線に、興が乗った様子の貴種が視線を合わせる。すうと筆で引かれた様な目を占める美しい黒瞳が春香を映し、楽しげに輝いていた。
「そうですね。十分楽しみましたから、戻りましょうか」
さらり、と返された言葉に、春香はなんだと思いつつ、安堵の息をそっと吐く。戻る、と云う明確な言葉が出たのだから、貴種はあの世界に帰るのだろう。そう思い、春香ははてと内心首を傾げた。ならば、己は如何なろうかと。其の困惑を乗せた瞳でそっと貴種を見遣れば、貴種はきらきらした綺麗な瞳でまっすぐに春香を見て、美しくはんなりと微笑んで見せた。
「さて、行きましょうか」
何の迷いも無く、手を引く。
其れは、春香の追従を命じる行為。
まだまだ付き合わなくてはならないんだなあと、春香は些かの諦めと幾何かの楽しみを心に載せて、引かれる手の行き先の儘に貴種の背を追う。
人混みをすり抜け、御洒落気な店舗を通り過ぎ。段々と暮れ行く空の色と気配に春香ははてと首を傾げた。此の御仁は、一体何処に帰る気なのだろう、と。帰るとさらりと告げられた時は、其の口調から当たり前の様に元の世に帰るものと思ったが、周囲は一向に其れらしい景色にはならない。
むしろ。
春香は思う。
なんか、段々……都心から離れてないかな……?
春香の家から出て食べ歩きを始めた時、交通機関を一切使用せず、春香達は其れなりに広範囲に点在している店舗を巡っていた。貴種に手を引かれ、角を曲がると、不意に景色が変わるのだ。ビルの隙間の小路から出ると、先程迄スカイツリーが見えていた川沿いから不意に銀座の通りに出ていたり、東京のビルの間を通ったかと思えば、其の先は天神様の近くだったり。歩いているのに不意に景色が変わる事は春香にとって新鮮で不可思議で、何とも云えぬ高揚を覚える……が、其れを楽しめたのは、所詮己のホームベースである地域だったからだ。
今は違う。
辻を曲がる度に、細道を通る度に。
周囲からはビルと云うモノがどんどん高さを失い数を減らし、変わって何とも云えぬ独特の冷えた空気が漂い始めた。幾度か角を曲がった先で、道路の向こうに山の連なりが見えた時には驚きの余り小さく叫んだ程だ。
森に帰る訳でも無く。
しかし、春香の家に向かう風も無い。
貴種は走らず、ゆるりと歩いているのに、景色はまるで飛ぶ様に後ろへと過ぎ去り、くるくると目まぐるしく変わっていく。己の速さと周囲の速さがまるで合わず、春香が些か酔い始めた時―――――――不意に、貴種が立ち止った。次の瞬間、春香は思わずへたり込み、腹から喉元に駆け上がってくるモノをなんとか抑え込もうと空いている片手で口を覆い顔を下へと向ける。暫く腹を抱える様に蹲れば、なんとか気持ち悪さも消え春香は漸く己の手を辿って、前に立っているであろう貴種を見上げた。
と、其の貴種の背後に聳える影に気づき、愕然と春香は目を見開いた。
「此処、ですか?」
「そうですよ」
奮える声音で、問えば、貴種が楽しげに頷く。
「此処は、知り合いが居りましてね」
良く拠るのですよと笑う貴種の背後――――――其処に聳えるは、闇夜に猶黒々と威容を誇り美しい白肌を篝火に照らす、堂々たる城の姿。
貴種は満足げに其の威容を仰ぎ見た。
城から溢れる力は衰えず、眩しい程に闇を放つ。篝火は、謂わば警告の灯。迷い込んだ存在に、此の場より立ち去れと……それでも近づく愚か者を炙り尽す役目も負う。
傍らからは呆気に取られた様な気配しかしない。其れが又、貴種には好ましい。そろそろ、彼方も手を出し始める頃合いですしねと心の内で小さく哂い、貴種は力無い春香の手を一瞬意思を籠めて握った。其の感触にはっと視線を向けた春香へ、貴種は何とも闇に映える雅やかな微笑みを与えてはんなりと言葉を紡ぐ。
「さて、参りますよ」
問いかける様な、断定。
変わらぬ調子で何でもない様に貴種が告げれば、春香ははあと気の抜けた様な気後れした様な呟きを返して手を引かれる儘に歩みを進めた。
何とも、と、貴種はそっと笑う。
何とも、頑是ない事。
そんな貴種の呟きを知る術も無い春香は、眼前の城の迫力に飲まれていた。暗闇に聳える城はいっそ高貴ですらあり、春香が今まで見てきた建造物の何よりも迫力があった。流れ的に考えれば此処に一晩の宿を借りるのだ。其れを察せば萎縮するなと云う方が無理だろう。春香の脳内ではギャーだのわーだの言葉にならない叫びがひっきりなしに上がり視界さえ僅かに揺れているのだが、年の功と云おうか社会人の面目躍如と云おうか、其れ等を一切表に出さずに済んでいる。
輝く様な闇の中。
手を引き、手を引かれ。
二つの影は広い堀に渡された白石の橋を渡った。……此の時、春香が後ろを振り向けば、其の後を追う様に闇に溶けて消える橋を見られたのだろうが、眼前の己より僅かに小さな背を追うのに必死な春香にそんな事が出来様筈もない。堀を渡り、暫く歩くと眼前に門が現れる。大人の倍以上はあろうかと云う大きな門は、年経た事を感じさせる艶やかな飴色の木肌に白銀で作られた金具を配している。己が堅固する城に似合いの荘厳と云っても良い造りの其れは、門前に貴種が立つや否や音も無く滑らかな動きで大きく開き恭しく城内へ招き入れた。
其の動きに、静寂に。
春香が驚きの表情を浮かべた目を思わず辺りへ向けるが、夜闇に沈んだ道と闇にも明るい白の城壁が在るばかりで、門番も居らず、案内の者も現れない。こんなに大きな城なのにと春香が眉根を寄せて訝しめば、貴種が小さくほほと笑い声を上げた。
「此処は不攻無落と名高い堅城。目につく様な警戒は必要ないのですよ」
はあ、と頷く春香へ、貴種は筆で描いたような目を更に細めてそれにと言を継ぐ。
「ワタクシは案内無用と、むかぁしから決まっているのですよ」
其の楽しげな様子に、春香は再びはあと返した。どうやら此の城の主と眼前の貴種は仲が良いらしい。其れだけを確信し、春香はそろりと真白な城を見上げる。
壁の向こう。
葛折りの道が続くのだろう壁の僅かに遠く、闇を従え聳え立つ城は見事な天守を備えている。真白な大鳥を思わせる優美な其の姿に、春香はん?と首を傾げた。
既視感。
其れはまるで彼の世界を思索した時の様な”知っている”と云う確信。だがしかし、確信を持ちながらも其の確信の中核を捉える事が出来ず、靄の中にある針に糸を通そうとするかの様な鈍い苛立ちも感じていた。
「おいでなさい」
不意に声が響き、手を引かれる。
はっとして春香が見れば、貴種がはんなりとした笑顔を向けていた。
躊躇わずに城内へ共に来なさいと云ったのか。
終わりの見えない思考から出なさいと云ったのか。
貴種の言葉の真意はどちらとも知れないが、春香は其の言葉に導かれる様に、知らず一歩踏み出した。
まるで靄の中を行くような……。
春香はぼんやりとする思考の片隅で呟く。
両端を白壁に覆われ玉砂利が敷き詰められた道を手を引かれながら春香が歩けば、其の度に玉砂利はじゃりりじゃりりと大声で喚きたてた。不思議な事に直ぐ前を行く貴種の足下からは玉砂利の音は聞こえないのだが春香の霞がかった頭では気付く筈も無く、何時しか春香の世界は白壁と夜闇と玉砂利の声音のみで構成されてしまう。
目を開いているのに、何も見えていない。
其の顔に、意思はない。
異界に在ってすら己という存在を貫き通した女の姿は、最早跡形も無かった。
ぼんやりと、ぼんやりと。
茫洋とした世界に一人行く春香は、意思無くただただ足を動かしていた。
白と黒の世界に、混ざる藤。
連れて行く白い手。
貴種が導くのは城の奥深く、高く高く。
金と銀の煌めき眩い城の中を廊下を行き過ぎ行き過ぎ、貴種は城の中核へと向かう。濃密は力は、弱い存在には過ぎた毒だ。猛毒だ。意思があれば、其れに逆らう術は弱きには無い。故の手段だったが、虚ろに歩く連れをちらりと流し見た貴種はまるで木偶の様な春香の姿に僅かに柳眉を顰め、すいませんねえと心の中で呟いた。心の内とは云え己が行動に関して他者に詫びる等、貴種を知る者であるならば驚天動地だろう。
……そう。
「珍しい事よのお」
此の城の主にとっても―――――――其れは、とても珍しく、興を引く行動だった。
荘厳な城の最も奥深く最も高くに存在する大広間。入口等解らぬ不可思議な其処は、此の城の中核。畳敷きでありながら、四方には深く深い闇が蟠り先が見えない。そんな広間の上座に、城長は座していた。闇を従え、月白の打掛を纏い、傲然と優美に座する白皙の美女。己が御する闇よりなお深き黒髪と黒瞳は僅かな光すら感じさせず、何もかもを呑み込むかの様な不可思議な感覚を与える。其れは、強き存在には心地好い安らぎを、弱き存在には恐怖を感じさせよう。
能面の如き美しい切れ長の目。
珊瑚の如き赤い唇。
小さい口の端は僅かに持ち上がり、絶妙な微笑みを模っている。
そう、模って、居る。
何故、模るなのか。
答えは簡単にして明瞭。―――――――此の存在に、微笑むと云う感情の発露は本来必要が無かった為だ。だが、彼女は感情と云う存在を覚え、彼女の様な存在としては非常に特異ながら感情を行使する術を得ていた。彼女は強大な力を持ち、此の四方を闇に沈ませた城の天守閣の内に在る城長の部屋に座して居る事が常だった。城長に会う為には基本的に此の部屋に参るしかないが、此の部屋に入れる存在は、非常に少なく稀有だった。
そして。
藤の貴種は、其の希少な存在だった。
「やれ、珍しい。楽しやのう。愉しやのう」
くくく、と喉を震わせ、美しき城長は嫋やかに其の口元を袖で覆った。其の仕草の、艶やかな事。だが、残念ながら美しい彼女のそんな仕草に心を震わせる存在は此の場に居らず。
「久しぶりですねえ、天守の姫」
上座に対峙する様に立ち、藤の貴種は気安げに近づくと節度ある位置ながら親しさを感じさせる位置まで近寄りゆるりと礼をとった。
「此度も少々、場をお借りしますよ」
はんなりと微笑んで告げる藤の貴種へ、城長は良い良いと鷹揚に頤を引いてみせる。
「主が此の世の居城に参るは嵐の予兆よ。愉しぅ見るとしようのお」
くくくふふふと嫋やかにして艶やかな含み笑いを漏らし、美しき貴種はちらと視線を投げた。視線の先には、ぼおと立つ、春香。
「して。其処な人の子は如何する」
ひやり、とした声音に、だが藤の貴種は飄々と雅やかに云った。
「天守の姫の御膝元でお預かり戴こうかと」
はんなりとした微笑みを伴った即答を受け、城長は含み笑いで肩を震わせる。
「良い良い良い。気に入ったものよのお」
ほんに、おかしう。
心底愉しげに呟いて城長は口を覆う手を外し、指先だけを合わせ打った。
刹那。
「はい!?」
びくんと春香の体が震え、きょろきょろと辺りを忙し無く見回し始める。
ここここここここ此処、何処!?
気が付いたら、上等そうな大広間にいました。そんな状況の春香は、きょろきょろするうちに上座に座る白衣の美女に気が付き、より一層混乱を始めた。振り向けば、雅やかに微笑む薄墨の衣纏う男。此処迄手を引いて来ただろう元凶の貴種へ縋り付く様な視線を送れば、対峙した上品な顔立ちは笑みを向けた儘うんうんと無為に頷いている。明らかに、其の場のノリで動いているだけだと解る仕草に、春香はいっそ絶望した様に目に涙を浮かべた。春香の取り乱し様に満足した貴種が、ゆるりと口を開こうとした、刹那。
空間が、揺らいだ。
大地の揺れとは明らかに異なる其の振動に、大広間の上質な木材に因り成された屋根や天井・広間の壁が掻き消え、最早古典とも云うべき某ロボットアニメで御馴染みのオールスクリーン・コックピットの様に周囲に風景を映し出す。唯一存在を顕示する畳に春香は足を踏ん張り、未だに不気味な音をたてる方向へ視線を投げた。
貴種達も楽しげに目を向けた其の先。
其処には、春香も以前一度だけ見た事のある真っ赤な亀裂が天に生じていた。
徐々に押し開かれゆく天の裂け目を囲む様に不穏極まりない黒雲が渦を巻き、何処からか、ずるり、ずるりと、何やら大きく重い存在が這う様な音が響き漏れる。
ひいいいいい!
其の情景に春香が思わず己を掻き抱き背を震わせた。
春香の記憶が確かならば、次に出て来るのは―――――――巨大にして強大な、蛇神なのだ。
ずるうり。ずるうり。
音に、裂け目に、其処から漏れ出でる力の波動に。貴種達は其々に相応しい……だが、共通して愉しげな表情を浮かべて上を見上げた。
裂け目から現れ出でたのは、八つの頭持つ太古の蛇神。
春香の予想通り……以前春香が作り出した料理に因って呼び出された事のある、力ある太古神の姿だった。八つの蛇の頭が、亀裂を押し広げる様に現れ出て、ずるうりずるうりと渦巻く雲間を這うように僅かずつでは在るものの、顕現していく。……尤も、天を突く巨体で在るが故に、多少現れ異出た処で其の身全てが出る事は無いが。一見すれば、八匹の蛇が這いだそうとしているかのようにしか見えない其の光景に、畏怖を感じながらも春香は微かな違和感を覚えた。僅かに眉根を寄せる春香の様子を目に留めた城長は、興味深げな感情を黒瞳に浮かべつつ視線を頭上へと向け、笑う。
「久しぅ、蛇の神。珍しい事もあるものよのお」
決して大きな声ではないのに、周囲に響き渡る玲瓏たる響きに、亀裂より生じた八つの蛇の頭はぐるりと首を巡らせて、八対の赤い瞳を城長と貴種……そして、がくぶると震えつつも硬直する春香へと据える。
「「「「「「「「おう、真、久しいの」」」」」」」」
天を震わせる轟音の様な、地を靡かせる豪風の様な。不可思議な声音は八つの重なりを伴い、天から広間に在する存在へと降り注ぐ。
「何故顕現せぬのかや? 此の世の居城は狭くとも、主を受け止められぬ存在ではあるまいよ」
そろり、と白刃抜く様な声音で城長が問えば、蛇は其々の頭で笑みを形作り咽喉を震わせた。
「「いや、恐ろしや」」
「「怖や怖や」」
「「勇ましやのう」」
楽しげな三対の声音の最後に、二つの首が締めを紡ぐ。
「此度の我等は橋であるが故」
「目指す存在は捕らえた」
橋。
そう己の存在を位置づけた古代よりの強大な神は、ちろりと春香を見た様だった。びくりと春香が畏怖を露わにすれば、巨大な蛇の頭は器用に莞爾と笑って見せ、ずるうりと其の身を亀裂に引き戻し始める。蛇神から視線を外す事無く藤の貴種は呆れた様に嘆息すると、春香の背にそっと手を当てて城長の傍へと誘い連れた。其の様子に古代神が楽しげにくぱりと口を開けば、漏れ出でた呼気が黒雲となって渦を巻く。
わ、私、何すれば!?
唐突に手を引かれ、上座へと近寄る現状に、春香がおろおろと戸惑って見せれば、貴種は何でもないと云う様にはんなりと笑みを浮かべて見せた。根拠無く安心を促す其の行動に、春香は更に不安を募らせる。賢い事は問題になりうるのですねえと貴種は心の内でくつりと笑い、春香を伴って城長の傍ら……手を伸ばせば、容易に城長が春香を捕捉できる様な位置に立たせた。
「天守の姫」
「なんぞ」
瑯たけた仕草で、酷く楽しそうに声を返す城長へ、藤の貴種は何とも品の良い笑みを返す。
「此の度は面白いと思いますよ」
主語の無い確定に城長が僅かに目を細めた刹那、春香は唐突に背を押され―――――――城長の傍らに侍る様に座らされていた。
「!?」
声なき悲鳴を上げ驚愕する春香を全く意に介さず、城長は当たり前の様に春香の頭に繊手を乗せ、藤の貴種へと笑みを送る。
「其れは、楽しみ」
にいと口の端に刻まれる笑みの、美しさ。
「存分に力を奮うが良かろう……至高」
主の本気が、見てみたい。
笑みの奥で紡がれた声なき声に、藤の貴種ははんなりと微笑んだ。
訳が分からぬと視線を彷徨わせていた春香の視界から、ゆるりと蛇の頭が消える。其れに追随する様に黒雲も亀裂へと流れ込み、常であろう夜空が見え始めた。
刹那。
亀裂ががらんと音を立てる様に大きく砕け、真円を形作る。
円を成した其処は闇より深い黒に彩られ、その奥は全く見えない。天に在する黒円は見る見るうちに十分の一程の大きさに縮むと、ぐるりぐるりと縦に回転しながら天から落ち、藤の貴種を睨む様に空中でぴたりと止まった。はんなりとした白い貌に、何とも云えない笑みが刻まれた刹那。
黒円から何かが吐き出された。
其れは仄かに青く煌めく糸。己の色を闇に投じて揺らめきながら、獲物を求める様に藤の貴種へどうと押し寄せる。貴種は音も無く畳を蹴り、己を害さんとする糸の群から身を逃すと、大きく高く後ろへと跳び上がった。其れを追って、糸の群も又不規則な動きで宙に舞う。貴種はただ後ろへ跳んだだけ。だが、巧みな体術を以て降下する軌道を変え執拗に絡め捕らんとする追撃を雅やかにかわしていく姿は、長い裾裳が動きと風に靡く事もあり、何とも優雅な風情を醸していた。黒円から伸びる肉食獣の如き動きを見せる糸の煌めきさえ、貴種の優美さを強調する存在に過ぎない。糸の動きは、ある程度の太さがあれば触手と云って良い程の滑らかな動きで、空を舞う貴種を執拗に追いかけていた。時折揺らめく様は美しいが、動きが余りにも恐ろしく、怖い。本来ならば目に見えないような細さであろう其れ等を春香が視認できるのは、其の煌めきあるが故だ。蜘蛛の糸みたいだ、と呟く春香の頭の上に何かがそっと乗せられた。袖の動きと位置から鑑みれば、其れは明らかに城長の手だろう。春香が恐る恐る視線を向ければ、果たして、城長の黒瞳は春香を捕らえてじいと視線を向けていた。
なんだろう……失礼な事したかな!?
内心半恐慌状態で己の行動を思い返す春香を捕らえた儘、城長たる美女は玲瓏な声音で呟く。
「覚えがないのかえ」
其の声音は、全く呆れた様で。
きょとんとする春香へ、城長は僅かに眉を持ち上げると、小さく口元に笑みを刷いた。
「彼の術からは女の香が漂うておるに」
「……は?」
城長から放たれた何気ない言葉は、春香の思考を吹き飛ばす。
春香の虚を突く様に、雅やかな声音が空間にやんわりと響いた。
「随分、面白い使い方ですねえ」
空中での追撃をかわしきり、貴種はふうわりと広間……今は畳しか存在しない基盤の中央に降り立つ。
ぐるりと周囲を見回して、はんなりと笑う姿の雅やかさ。
「糸を成すとは、真、興味深い…………此の量ならば、真玉一つは使っていましょうねえ。なんとも、剛毅な事をしますねえ」
感心した様に呟く姿からは、焦りは一切感じられない。
糸に囲まれ決して有利な状況では無かろうに、優美にはんなりと微笑む姿はまるで盛りの藤花の様だ。
「アレは、主上がお使いになる存在。……真玉見出すは個の裁量ですが、使うは些か荷が勝ち過ぎる」
闇に立つ其の痩身を、何時の間にやら無数に増えた光の糸が十重二十重に取り囲む。
「ですが、成程。此の様に運用すれば、あの手の付けられぬ全くの暴力であろう力の奔流も、我らが御する隙が生まれると云う訳ですねえ」
糸共は、ぐるうりぐるうりと貴種を中心に渦を巻き、集まった其れの輝きは今や美しい青を発して周囲を冷然と照らし出した。
「細く、長く。力は絶えず緩まず、己が身が其の場に辿り着く迄、命じた存在の言を忠実に守ると」
成程、成程。
楽しげに、愉しげに貴種は呟いて、堪能するかの様に闇を舞い飛ぶ細く重なり合う流れをじいと眺める。
其の様は、決して獲物を逃すまいと牙を剥く猛獣に近似していた。
「だと云うのに」
危機感を、焦りを、全く感じさせない口調でふうわりと呟き、白魚の指を頬に当てると貴種はこれ見よがしにほうと溜息を吐く。
目蓋が伏せられ、物憂げな表情を浮かべた貴種は、だがたっぷりと間を取った後、ゆるりと目蓋を引き上げながらはんなりと……嫌味に微笑った。
「なんと面白味の無い、単調な攻めでしょうねえ」
そう貴種が品良く明確に嘲笑った、刹那。ごうんと黒円が鈍く震え、一つの美影を吐き出した。あ、と春香が目を見張る。放たれた矢の如く貴種に迫る影は、僅かに黄に輝く細かな光の粒子の残滓を闇に散らした。
影が伴うは、抜身の白刃。
突然現れた存在に、貴種は酷く面白いと云う様に上品な顔立ちを笑みに歪ませる。眼前に迫る凶刃など、まるで気にならないとでも云う様に。迫る黒影は、長身の男だった。美しい黒衣に身を包む痩躯の美丈夫。白皙の端正な容貌持つ男は殺気に満ち満ち無言で哂い、眼前の貴種目掛けて白刃を振り抜く。
不可避の一撃―――――――――――だが、しかし。
貴種は尋常では無い動きで素早く後方に下がり、間合いギリギリの距離で難無く其の一撃を避けきった。とんと羽の様に軽く高く跳んで見せた貴種の周囲はあっという間に追い縋る糸の渦に因り取り囲まれてしまう。だと云うのに、貴種は全く意に介した様子無く、雅やかな笑い声と嘲りを紡ぐ。
「未熟ですよ、潔斎」
「黙れ、爺」
にいと口の端引き上げ吐き捨てられた黒衣の男言葉に呼応する様に、糸は瞬時に激しさを増し渦を巻いた。糸であった存在は、身を寄せ合い重なり合い、今や面と化している。密集し面を成した其れは、重なり合い身を寄せ合う程に輝きを増していった。そして―――――――
「あつ、い?」
春香は顔に、皮膚に感じる熱に、訝しげに眉を寄せた。呆けた状態から戻った春香を見遣り、城長は美しい顔をゆうるりと春香へと向ける。
「然り、然り。あれは火の性ゆえのお」
ほむらの、しょう。
其れが何を指し示すのかと春香が悟る間も無く、今や貴種を取り巻く厚い壁と化した其れは青く眩く発光し、藤の貴種を呑み込まんとしていた。離れた位置に居る春香の頬すら炙る強大な熱量が、死角無く全方向から一気に貴種へと襲い掛かる。逃れようの無い、怒涛の攻め。光に呑み込まれた貴種を嘲る様に、白刃を手にした黒衣の美丈夫が呵呵と哂う。其の白皙に青い光が映え、美貌に相俟ってまるで冥府の神の様な畏怖を纏っていた。音も無く空間を押しつぶした面は、今や膨大な熱量有する球と化し、貴種を圧し包み込む。圧倒的な力の凝縮を目の前にし、春香は恐怖に思わず息を呑んだ。其の喉奥で殺した悲鳴が引きつった様な響きを発する。
恐怖に強張った春香の肩を、城長が何の感情も感じさせぬ仕草で撫でた。感触に春香が視線を上げれば、城長は仄かな笑みを口の端に浮かべている。余りにも動じていない其の様子に、春香が小首を傾げた刹那。
哄笑が、止んだ。
忌々しげに黒衣の貴種が睨みつける其の眼前で、光は急激に輝きを失い、急速に収束し消え失せる。
驚く春香の顔を闇が照らし。
怨嗟に歪む白皙の美貌が闇に沈み。
輝きが失せた其の場に佇むのは、藤の影。
ぶより、ぶよりとした何かの塊を周囲に漂わせている以外、先程との差異は無い。ほほ、と笑う声の雅やかさ。先程と寸分違わぬ立ち姿。
「ほんに」
雅やかな風情の其の男は、優美に視線を黒衣の男へと向けると、にい、と口の端引き上げる。
「単調な攻め、ですねえ」
発想は特異であるのに、何たる未熟。
ほほ、と笑う其の姿は常に無く好戦的で。
短いとは云え行動を共にしてきた春香は、僅かな違和感と多大な納得を感じた。
ああ―――――――ああ、此のヒトは、本当にたま様の旦那様の親御さんだ。
ぶより、ぶより。
貴種の周囲を浮きながら沈む様に巡る半透明の其れは春香の思考の片隅で何処かしら既視感を持たせるのだが、其の思考が具体的な形を成す前に、未だ熱と光を放つ散り散りになった糸片をいともたやすく飲み込んでしまう。半透明の内に囚われた残滓は、断末魔の如く一際強い光を放ち、跡形も無く消えていた。
「外に出てもまた開発か。何処迄仕事の虫なんだよ」
潔斎は吐き捨てる様に云い捨てると、黒髪を靡かせていっそ優美に白刃で空を薙ぎ払う。……単なる威嚇行動としては、忌々し気に顰められた端正な貌と発せられる鬼気が本気過ぎた。
「まあ、元凶は……解っているけれどね?」
眇められた切れ長の目がすうと動く。一瞬、春香に合わせられた視線は絶対零度。そんな視線に晒された春香は顔色を無くして一筋の汗を垂らした。
無実です!!! まーきーこーまーなーいーでーぇぇえええええ!!!!
内心半狂乱になりながら絶叫するものの、ン十年の人生は春香に目に見えて狼狽えさせる事をよしとしない。外見上は、ぴしりと固まって動かない春香を、僅かに高い処から冷静な春香が見下ろしている。
年増の見栄って、筋金入りよね。
些か時間をかけつつもなんとか平常心を取り戻した春香の視線の先では、まるで舞う様に斬りつけ避けていく二つの影があった。
藤と黒。
雅の体現者と品の良い端正な男の、言葉無き殺伐とした語らいはいっそ美しいが故に恐ろしい。
……凄まじいなぁ、此の親子喧嘩。
しみじみと眼前の光景に見入り春香が一人ごちる。
払う。
振るう。
薙ぐ。
衝く。
刃を合わせる事を前提としていない剣技は、恐ろしくも美しい。見応えのある攻防が永遠に続くかと思われた刹那、前触れ無く黒円が重々しい音をたてて再び震えた。苦鳴の如き音が絶えるや否や闇を破り飛び出てきたのは、輝く黄の粒子を纏った大小の影二つ。ひらりと無色を煌めかせる小柄な影は、飛び出た勢いの儘に貴種達の頭上高くに陣取った。
「退け! 中の!!!」
此れ以上無い程に傲岸な響きで、愉しげな声音が横柄に命じる。察した黒衣の偉丈夫が忌々しげに眼を眇め大きく貴種と間を取った刹那、愛らしい顔立ちに似合いの大きな瞳を好奇に輝かせ、小柄な影は手にした獲物を誇らしげに振り翳すと、思い切りよく振り下ろした。
刹那、凄まじい斬撃音が響き渡る。
刀に因る音とは思えない大音響の其れは、威力も尋常では無く、刃の下にクレーターの様に陥没させていた。クレーターと謂えど破砕された訳では無く、まるで空間を歪ませた様な奇妙な引き攣れは音も無くさざめいて他者の追撃を阻んでいる。奇襲の戦果としては十分であろう事象を一顧だにせず、小柄な影は捕らえきれずに逃した痩身を目の先に認め悔しそうでありながら愉しげに口の端を引き上げた。
「至高殿、久しゅう」
「おや、北の主」
にこり、と雅やかながらも人懐こい笑顔を浮かべ、貴種ははんなりと言葉を紡ぐ。
「大切な土地から此の様な異界へ御出でになられるとは、些か浅慮ではありませんかねえ」
未だ安寧とは行かぬ状況でしょうにと貴種が繋げるが、表情を良く映す大きな瞳を戦意に煌めかせ、小さな影はかんらと笑い飛ばした。
「心配無用! 己の地の安寧は強固故!」
豪放磊落な其れは、明らかに嘲笑。
「何よりも」
小柄な影は大きな瞳にきらきらと殺意を浮かべて云い切った。
「過ぎる悪戯には仕置きをせねばのう!」
はわ様もそう申しておられた、と続ける其れに、貴種は頷いてくつりと笑い声を漏らす。
「なんと、素直な事でしょうねえ」
嘲りとも、尊敬とも。
正邪の判別つかぬ呟きに、愛らしい貌が僅かに訝しげな感情をのせたが、すぐにまあ良いと開き直り、傲岸不遜な笑みを向けた。
「将軍の覚えめでたく天子の信頼厚きと云えど、己の大事を奪う等道理無き事よ!」
啖呵、一喝。
素晴らしく気の晴れる声音で堂々と言い放った小柄な影に、呆れた様な声が降る。
「おいおい!」
黒円より現れていたもう一つの影は、派手派手しい装いに似合いの派手派手しい端正な顔立ちと長身を有していた。
「おや、西洲の主迄ですか」
何とも云えぬ感情を含ませた呟きは、貴種の口の中で泡と消える。
「其れぁ、私怨じゃねえか!?」
長い手足を大仰に振って小柄な影に物を云えば、相手は白と黒の瞳を不可思議そうに輝かせ、軽く眉を上げて云い放った。
「其れが如何した」
威風堂々、限り無し。
開き直った其の声に、迷いは無い。
「……そーかよ」
あっはっはーだ、と引きつった笑いを口の端に載せ、長身の影は派手派手しい外見に似合いの派手派手しい所作でばっと腕を振ると開き直った様に笑った。
「勝手にしやがれ。俺はあの莫迦引きずって帰るからな!」
なんで至高殿と事構えなくちゃならねえんだ。
ぶちぶちと呟きながら、派手な顔立ちと装いが映える長い手足が過剰な動きで不平と諦めを表す。何時の間にやら耳に馴染んでしまったぎゃーぎゃーと喚く其の声音に、春香は驚いた様に小さく目を見張り、心底嫌そうに眉根をしかめた。其の様子を認めた城長が、袖に隠れた指先を形の良い頤に当てた刹那。
こうッ。
些か高めの何とも云えぬ音をたて生じた白い光は、城長が春香を伴って座る上座朧に周囲を包んだ。当に足を向けていた男は、派手な衣の裾を華美に捌き、明白に城長を睨みつける。
「……如何云うつもりだ? 此の俺に、楯突きやがるのか」
獰猛な笑みを閃かせる男へ、城長は愉しげな表情を作り上げ、まっすぐに男を見た。
「至高」
だが、呼んだ名は別の存在のモノ。
「はい」
雅に小首を傾げる貴種へ、城長は硬直している春香の頭を指先で二・三度撫でて呟く様に言葉を継いだ。
「其の術は何ぞや」
ほろりとかけられた問いに、貴種ははんなりと笑った。
「其方に居る方に、今日教えて貰った術なのですよ」
ええ、と思い切り顔を引き攣らせる春香と。
やっぱりな、と物騒に笑う黒衣の美丈夫と。
其れを目にしてとても楽しそうに笑う小柄な影と。
其の言葉にげえと心底嫌そうに顔を歪めた派手な男と。
四者四様の反応に、城長はくつくつと笑い声を上げた。
「至高」
ほろほろと、呟く。
「此れで終わりでは、あるまいのお」
白刃の様な声の響きに、だが、貴種は勿論とはんなり笑った。
広間の中央に、影が二つ。
方向的に云えば、其処より下座側に雅やかな影一つ。
方向的に云えば、其処より上座寄りに派手な長身。
そして。
戦場の様な其処から十二分に離れた位置……上座に、城長が優美に座し、春香を傍らに置いている。其の周囲には白い光が下から常に吹き出し、美しい朧を見せる。
表情は様々だ。
不敵に笑う存在。
憎々しげに殺気漲る存在。
嫌そうな存在。
楽しそうな存在。
そして―――――――如何しようと、焦る存在。
ちろりと再度投げられた視線は、三対。
其の視線の一つは如何考えても「後でゆっくり話そうか」と殺気に満ちた意思を伝えてくる。後の二つも「ばあああか」と云う嘲りと「時と場所を選ばぬのか」と云う幾分かの呆れを含ませられれば、とても、味方とは思えなかった。
此の場の元凶とも云えよう貴種は酷く楽しげに笑っている。
―――――――四面楚歌……。
春香の助けは、此の場には存在していない様だ。
貴種の指先が優雅に舞うと、其の指の動きを追う様に虚空からどうと音をたて、一条の流れが現れた。流れはカブトムシの甲の様に黒く、水道の蛇口から出る水程度の量とは云え奔流と云って差し支えのない勢いで宙を奔る。
三者が訝しげに愉しげに嫌そうに其れを警戒する前で、流れは輪を描く様にぐるりと貴種を囲み落ち着いた。
其の刹那。
唐突に黒衣の袖が閃き、橙色の小さな塊が貴種の足元に投げつけられる。間髪入れず、どん、と空気を……否、空間を震わせて、其れは驚くべき勢いで爆発した。木端となり、藁屑となり、もうもうと舞い上がる埃となったのは足元の畳か。立ち上る煙は、未だ貴種の姿を露わにしない。
衝撃の凄まじさに春香が思わず息を呑んだ其の隣で、城長は美しい指先を口唇に寄せ、感心した様に小さく呟いた。
「随分と濃き陽の力だのお。女」
呼び掛けられ、春香が恐る恐る視線を上げれば、口元に綺麗な笑みを刻んで城長がゆったりと言を継いだ。
「あれからも、女の香が漂うて来やるがのお」
げ、と内心で呻き、春香が慌てて目を遣れば、視線の先で黒衣の男は実に愉しげに哄笑している。
「年には勝てないな! 動きが遅いぞ御老体!!!」
「おっとなげねえ……」
「真。鏡を見る様であろ?」
愉しげに弄る様な笑い声を上げる後ろで大きな影と小さな影が小競り合いを始めた其の瞬間。
「……やれ、今度は力押し」
はんなりとした口調で、呆れた様な声音が響く。
派手な貌が驚愕に歪められ、白と黒の眼が愉しげに煌めく其の目の前で、まるで映像を逆回した様に煙が収まり散った木端が戻り―――――――悠然と佇む貴種の小柄な姿が現れた。
ぶより、と空に浮く何かの中に、橙色の小さな点が見える。
其れを見とめた黒衣の美丈夫は、心底忌々しげに舌打ちした。
「ですが、此れもまた面白き術でですねえ。果に陽を当て、力を封じ込めたのですか。なかなかに面白くはありますが、解封印の気配がまるで隠せていませんでしたよ」
精進不足ですねえ、とほほと笑い、貴種はちろりと対峙する三者を見遣る。
「土地の名を冠する者達が、揃っていると云うのに興醒めですねえ。そろそろ、御終いにするとしましょうねえ」
其の声音に応ずるが如く、黒の流れは勢いを増し、ぶより、ぶより、と浮遊する半透明の其れに、幾条にも分かれて絡みついた。大きさこそ違うが見覚えのある其れに、春香が大きく目を見開く。ぶより、とした其れは黒の流れを内に取り込み、刹那、音も無く大きく広がると薙ぎ払われた刃をまるで相手にせず三者を易々と飲み込んでしまった。
ぽてり、と広間の中央に転がる其れは、まるで、巨大な大福餅の様だ。
唖然とする春香の隣で、城長がやんやと囃し満足そうに頷く。上座へ歩み寄り、雅やかに礼を取った貴種は、茫然と巨大大福餅を見つめる春香へはんなりと笑いかけた。
「求肥と黒蜜は、良く合うのですねえ」
こんなに頑強な檻として使えるとは思いませんでしたねえ、と満足げに言を継ぐ貴種の雅やかな笑顔に、春香は些か引きつった笑いを浮かべる以外出来なかった。
そして。
かっこー……ん……。と、何処からか猪脅しの音が聞こえてくる。
……幻聴だけど。
心中で呟いて、春香は涙目になりながら心だけでも現状からの剥離を試みていた。
広く、上質な和室。
畳は青々しく、壁は美しい砂色だ。
大きめの丸窓には、ぴんと張られた障子が美しい白と黒の調和を見せている。
そして。
相対する、二つの影。
―――――――至高と恩恵。
藤の貴種と玲瓏たる貴種は、上品な誂えの和室に勝るとも劣らぬ上品さを醸し出しつつ、相応の距離を取り正面を向いて相対する。
評定、とも云って良いだろう話し合いの場。だがしかし、二人は座して語らず、ただただお互いから目を逸らさずに見つめ合う。本来であればこんな事を許さないだろう恩恵の夫君は、至高に囚われた儘解放されていない。…………春香の丁度正面に無造作に置かれている、巨大大福餅の中に入った儘だ。
上品な和室に優雅に座って相対する美男美女。
其の背景に、大福餅(超巨大)。
此れ程笑える絵面は無いが、此れ程笑えない環境もあるまい。
耳が痛くなる程の静寂の中、春香はほぼ中央に位置しながらも部屋の隅よりに正座していた。春香を挟む様に座る瑠璃の影はあどけない微笑みを浮かべているものの、何とも不穏な雰囲気を発している。……怒っている、らしい。
「義父殿」
鈴を転がす様な声音が呼びかけた。
恩恵の敢ての殿付けに、至高ははんなりと笑みを深め、小さく小首を傾げて先を促す。
まさかの、無言対応。
此の無礼な態度に瑠璃の一対から発せられるのが不穏から殺気混りに変化する。左右からのまさかのプレッシャーに、春香は僅かに顔を蒼褪めさせた。
「春香は、私の保護を受ける者。勝手に連れ出されては困ります」
ひそりと紡がれた言葉に、至高は細い目を更に細めて小さく笑い声を上げる。
「これはこれは。万事冷静沈着にして慧眼澄み渡る氷壁城の女王と云われた桔梗殿の御言葉とは思えぬ過保護ぶりですねえ」
小さく肩すら震わせて見せる至高に、恩恵は玲瓏たる美貌に似合いの冷たさで口の端に笑みを浮かべた。
「教養豊かにして智に長け武に通じ主上の覚えもめでたい畏き智仁の君と名高き義父殿の所業とは思えませぬ事柄でしたので」
常に無い長い言葉を紡ぎ、恩恵はひそりと刺す様に最後の一言を放つ。
「よもや、連れ去る、等」
至高は、ただ、微笑んだ。
ひやりとする眼光にも、雅やかな御仁の砦は崩れない。
「会って欲しいと、請われたのは此方だと思いましたがねえ」
「屋敷から出て欲しいとは、一言も」
「出て行くなとも云われませんでしたねえ」
にこやかに。
朗らかに。
藤の貴種は雅やかでありながら上品極まりない表情を浮かべ、やんわりとやんわりと言葉を紡ぐ。
「其れに、あちらも様変わりしていましたからねえ。道案内は、必要ですしねえ」
ああ、愉しかった。
そう云われ、恩恵は感情の載らない美貌に珍しく不快の表情を刷いて寒々とした声音を漏らす。
「春香を道案内如きに」
至高は返さない。
ただ、上品に笑ってそうそうと言葉を継ぐ。
「私達が行く場所と貴女の生地は繋がっていましたねえ。僥倖ですねえ」
突然視線を向けられ、左右からのプレッシャーで悪くなっていた顔色が更に悪くなる春香に気遣いもせず、貴種ははんなりと言葉を落とした。
「いつでも、帰れますねえ」
一瞬。
春香の周囲から音が消えた。
かえれる。
帰、れる。
帰れる。
愕然とした顔で呆然としながら、春香は腹の奥底で絶叫した。
此処に連れ帰ってきたのは他でもないあんたでしょうがああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?
声に出ていたら怒気に塗れた大絶叫だろう言葉を、春香は必死に腹の奥の奥に押込める。流石に、罵倒が己の命に直結する可能性を無視して感情的に怒鳴る様な若さは持ち合わせていなかった。
結果。
思考行動総凍結してしまった春香から満足気に視線を外し、藤の貴種は愉しげに嬉しげにはんなりと小首を傾げる。
「何故、手放す事が出来ないのでしょうねえ? 桔梗殿」
揶揄する様な声音に、恩恵はだが動じず、氷壁の様な瞳で正面から至高を見遣る。
「義父殿が感じた事を思い出されれば、自ずと解りましょう」
口の端の、僅かな僅かな笑み。
氷は、僅かに融けた時が一番危険だ。
至高の腕を持つ人形師が己の全てを籠めてありとあらゆる美を集めた集大成の様な恩恵の美貌が、冴え冴えと光を帯びて輝いて見える。……其の、殺気故に。
「……さて」
だが、至高は小さく笑い声を漏らして柔らかに呟いて見せた。
「未だお付き合いが短すぎまして、ねえ」
揶揄する様な響きすら含ませ、至高は恩恵の眼をひたりと見据える。
「界を繋いだ神術も、其処を通る為の命を得る術も、真玉を糸と成した術も、果に力を付与した術も。……全て、彼女から齎された術、ですねえ」
突き付けられた言葉は、正鵠を射ている。
だが、僅かな動揺も見せずに変わらぬ無表情で座し続ける恩恵は、無言を以て答えとした。
「知らせぬは責めませんがねえ。知らぬは危うかろうと思うのですがねえ」
さあ、如何。
言外で逃げるなと問われ、恩恵は玲瓏な声音で平淡な声音を紡ぐ。
「私の保護と森の加護を得て、危険等」
ありえぬと。
何処迄も感情の感じられぬ声は、何処迄も傲岸に響いた。
つまりは、此度の事は予想外であったが、春香に害があるとは欠片も思っていなかったらしい。
確かにそうかと、藤の貴種は笑う。
此の常世に生きて、森の不興を買えば、存在の根本から砕かれかねないのだから。
幼い頃から知っている眼前の美女へ僅かに苦笑を向け、至高はまあいいかと収める事にした。
「では、ワタクシはそろそろお暇しましょうかねえ」
優雅に立ち上がる仕草に、漸う自失から立ち直った春香が慌てた様に見上げれば―――――――至高と、思い切り正面から目が合った。
嫌な予感を春香が感じるより早く、至高はああそうそうと愉しげに口を開く。
「其れはお土産として差し上げましょうねえ」
楽しげに云った言葉が指し示すのは、嫌な存在入りの巨大大福。
「ぅええ!?」
余りの言葉に奇声を上げて驚く春香へ、至高はほほと笑ってはんなりと微笑みかける。
「アイスクリームがあったでしょう。あれを使いなさい。簡単に溶けますからねえ」
さらりと重要な事を告げ、藤の貴種は雅やかな香りを残して其の場から消えた。
未だ慌てる春香へ、恩恵はちろりと視線を投げる。其の視線に応じ、瑠璃の一対は常の様に春香の背を撫で大丈夫と落ち着かせた。
怒気を発する事の無い瑠璃の一対に、心底安心した様な視線を向ける春香へ、小さな影達は何とも云えぬ笑みを向けて大丈夫だからと繰り返す。
「……暫くは、此の儘でも良いのだけれど」
密やかに漏らされた恩恵の呟きは、誰の耳にも届かずに静寂に溶けて消えたのだった。
変わった世界に迷い込み、突然自分の居た世界に帰れたと云うのに、うっかり元の変わった世界に戻ってきました。
「……なんつー間抜けな……」
森の四阿。瑠璃の色彩も美しい其の家の唯一の部屋の中央に座り込み、己の現状を端的に示す短文を構築・反芻した春香は思わず呟いていた。
戻ってきてしまった。
何度呟いたか解らない現状の確認を再度心の内で呟き、春香は見るともなしに窓の外を……濡れ縁の向こうを見遣る。森が、在った。美しい、緑溢れる森だ。日の光に、綺羅綺羅と葉と云う葉が輝いている。
そして。
其の日の光を白く弾く、巨大な物体。
―――――――大福餅。
元、と付け加えた方が良いだろうか。
大福餅で在ったモノは、今や片腹を食い破られたかの様に半壊している。大きく口を開ける其の周囲には、でろりとした白い物体。僅かに冷気を放つ乳白色の物体は、風に載せて甘い香りも運んでくる。
「…………超巨大、雪○大福……」
好きだったなあ、アレ。と云いながら、春香の瞳に生気は無かった。濡れ縁から見える景色は、森の緑に小川のせせらぎに反射される陽の光、空の青と、目に優しく何とも穏やかな風景だった―――――――筈だ。水龍が役目を果たした為、小川は無くなっていたが、代わりにひょうたん型の池が出来、さり気無く浮かぶ蓮の花が目にも楽しい。森は変わらず、空も変わらず。……本来であればはあと安堵の溜息を吐きたくなるような風景を、巨大な食べかけ雪見大福が全てひっくるめて台無しにしていた。でろーん、と力なく横たわる求肥らしきそれと、じりじりと溶けてゆく巨大なアイスクリームの塊。
此れを成したのは、瑠璃の一対だった。
恩恵と至高の話し合いの後。大丈夫、大丈夫、と優しく声をかけ続けた瑠璃達は、主の命を受けて巨大大福と春香を森の四阿へと移した。四阿に入り、手を洗い。部屋の中に入った瞬間なんとなく春香の体から力が抜けたのは、帰るべき我が家に帰ってきた安堵感からだろう。最早、春香にとって此方も帰るべき家なのだと確信し、瑠璃の一対は大きな瞳に何とも云えない光を閃かせた。だが其れを春香に悟らせる事は無く、専科が無言で濡れ縁に座布団を敷き、百科が柱に凭れる事が出来る様に位置を調整して座らせる。いつの間にか専科がお茶を淹れて持って来てくれたのをありがとうと礼を云って受け取り、春香はぼおっと外を眺めていた。
と、次の瞬間。
「ひゃっかああ!?」
庭先に現れた百科が如何にも軽々と両手に抱えて持って来たのは、巨大大福だった。
うっすらとした影が餅から透けて見えている。動いてる気配はないが、大中小取り揃えて3つ。確かに存在していた。其れを草が生えているとはいえ、土の上に迷わず置くと、百科はとててと愛らしく春香の傍に走り寄る。
「春香様。主様の御命令を受けました百科が御願い申し上げます。レイゾウコの中に入っておりますあいすくりぃむときなこを戴いても宜しいでしょうか?」
春香の言葉で告げろと命じられている百科が時折発音に苦労しながらも春香へいつもの様に朗らかに言葉をかけた。請われて、春香はさして考える事も無く是と返す。
「両方ともあんまり無いけど、大丈夫?」
足りる?と重ねて問えば、百科は問題無いと朗らかに笑う。
「増えるから平気」
何時の間に持って来たのか、容器を持った専科が春香の隣を行き過ぎ、百科に並んだ。大福を前にして、瑠璃の一対は徐に容器の蓋をあけ、中身を素手で取り出す。無造作に取り出されたアイスクリームは、不思議な事に百科の手の中……正確に言えば、広げられた両の手の間で、まあるく球を象って浮かんでいた。対して黄粉は、専科の掌の中で大人しく小さな砂山を作って鎮座している。
そして。
春香の目の前できなこはアイスクリームに触れた端から黄金の光を放ち消え、象牙色のアイスクリーム球はどんどんどんどん大きくなり…………。
春香ははふうと溜息を吐いた。
貴種達は求肥から一歩出た瞬間姿を消してしまい、未だ春香の目の前には現れていない。瑠璃の一対の云う事には、其れもまた雅やかな藤の貴種の施してあった術であるらしい。国元に強制的に飛ばされれば、如何に国主に甘かろうと不在時の事柄の弁明に追われるだろうから、と笑う一対の愛らしい顔に容赦と同情と心配は欠片も見つけられなかった。
……尤も
春香は思う。
たま様の御主人はきっと、たま様分の補給に走るだけなんだろうけど。
如何考えても黒衣の貴種が配下に叱られる、又は、弁明する姿は、春香には想像できなかった。
諸事を成して、瑠璃の一対が去って。
春香は一人ぼんやりと思う。
帰れる事が確定し、何も憂いは無くなった。きっと万事上手く行く様に、貴種達が取り計らうだろう事が、確約されていないのに春香には当たり前の事として確信が持てた。
眼前に、森。
食料の、宝庫。
様々な事柄を見せられた今でも、春香は自分の料理がとんでもない力を齎すモノであると云う事を本質の部分で納得していない。あれらは、美味しく戴く料理なのだと、頑迷に思う。もうすぐゆるりと日が落ちるだろう。未だ午後の暖かな日差しではあるが、やがて紅葉色に色づき、黄昏時となる。色々な事があり過ぎて飽和状態である己の頭を緩やかに振り、春香は茫洋と呟いた。
「……今日は……何食べようかな」
あ、冷蔵庫見なくちゃ。
何処迄も通常運転な春香の言動に、何処からか品の良い声がころころと笑い声を上げるのが聞こえた気がした。




