私は北の支配者
番外3の1。
彼は。
彼の一族は、隠形に特化している。
ヒトの……否、あらゆる高い知能を誇る生命体に対して、其の特質は有効だった。故に、一地方の豪族であるのに、中央から高い評価を得るに至るのだ。
但し。
彼の一族は決して【強い】一族ではなかった。
故に、精強でありながら土地の統一に手間取りを見せ、其れが遠く離れた地では揶揄の対象になったりする。
だが、しかし。
中央と関係ない状態で、一地方を統治しきった事は、賢明なる存在ならば、十二分に評価できる事柄でありうるのだ。
故に。
中央の有力者には高い評価を得ているのに、些か中央との関係が密ではない輩には軽んじられる……特に、尚武の地からは侮られる傾向にあった。
普通の一族であれば歯噛みして熱り立つであろう其の状況を、だがしかし、此の一族は是と受入れた。
「侮るは彼方の勝手。勝負に於いて死ぬる事になろうとも」
そんないつだかの代の頭領の言葉に、全領民が頷いたのだ。
故に、彼等は余程の事が無い限り沈黙を旨とした。
年若い頭領が立った今も、其れは基本的に変わりはない。
「だがのう」
ぼそりと。愛らしい顔立ちの若い男は上等な設えの自室で上等な誂えの脇息に凭れ掛り不満げに呟いた。
「己の領分に食指を伸ばす輩へも飄々とあらねばならぬとは、些か解せぬわ」
忌々しげにぼやく若き頭首へ、側近中の側近である怜悧な容貌の男は男の平素を鑑みれば不似合い極まりない柔らかな微笑みを浮かべながらやんわりと慰みを含めた諫言を紡ぐ。
「莫迦には莫迦の対応があり、賢しい存在にも賢しい存在特有の対応があります」
柔らかな声音で辛辣に言い放ち、側近たる男は柔らかな表情はそのままに、敬愛して止まない処か目の中に入れても痛くないだろう主君の円やかな頭をそっと撫でた。
「私の主。御心の儘、如何様にも致しましょう。どうぞ、なんなりとお申し付け下さい」
切れ長の黒瞳に静かだが滾る何かを宿らせ請う様に紡がれた言葉に、若い男は白と黒の瞳をきょとんと見開き、次いで大きく笑みに歪ませる。
「随従は、過保護だのう」
ふふふ、と嬉しげに含み笑い笑い声を漏らし洩らし。
年若い頭領は己の近習たる男の変わらぬ姿に何とも云えぬ安堵を感じつつも、何時迄も幼子に相対する様な……真綿に包み全てを覆い尽し望みを全て叶えようとする姿に僅かな寂しさを感じる。
「己は未だ、信頼には値せぬか」
「其の様な存在は滅ぼし尽しましょう」
さらりと。
さらりと発言された完全殺害宣言は日常の挨拶の様な響きを持つが故に何とも恐ろしい。
此の男は、若き頭領の幼き頃からの傍仕えだった。其れは教師の役目を担い、護衛の任を負い、そして、此の頭領が頭領たるに相応しいかを断じる監察官の顔を持っていた。
だが、しかし。
頭領たるに値しなければ主と口の端で云いつつも其の細い首を掻き切る筈であった男は、出会って幾らもしない内に幼き次期党首に傾倒しきった。
専門用語で云えば――――――メロメロ、と云う奴だ。
性的欲求は無い。故に、如何しようも無い。
余りの偏愛ぶりに周囲は一時期引き離す策を講じたが、其れが発動するよりずっと先……立案の時点で発案者が悉く儚くなれば誰もが最早絶対の恐怖と共に諦めの境地に至ろうと云うものだ。
しかも。
若き次期頭領の母御が、明確に近侍たる男を認めた。
此れが決定打だった。
最早口煩い者達の正論なぞ、何の意味も持たぬ。
時が経てば落ち着こうと静観を始めた家臣共に、母御たる女傑は呆れ尽した視線を向け言葉を紡いだものだ。……本質が変質なぞする筈もあるまいにと。
かくして、其の言葉通り。
男は些かのブレも見せず、見事な迄の狂愛振りで第一の臣として若き主に仕えている。
男の容姿も主たる若い男の容姿も、所謂人と変わりがない。
だが、此の場に在るのは、此の土地の支配者だ。単なる人である筈が無い。
では、何だ?
其の問いは中々発せられる事が無い。
此の島国に住まう有力者達にとっては種族なぞ解かり切った事であるし、北の地の支配者である一族の頭領を知らない様な末端は喰らわれる為の存在でしかないのだから。
故に。
此の頭領が昨今懇意にしている森の竜女は、此の年若い男が普通の……己と祖を同じくする人間であろうと判断している。
きっと、森の竜女は驚くであろうな。
若き頭領は、心の内でくつりと笑う。
こんなに簡単に生き物を滅せようと進言する者が傍にいる己が、森の竜女と同じイキモノである訳がないではないか。
其処に、卑下は無い。哀切も無い。ただただ厳然とした種族差を感じ、其の認識の齟齬がなんともおかしいと笑うだけだ。
そう。
笑う、だけ。
若き頭領は、森の竜女を思う際、決して哂わない。嗤わない。
そして、だからこそ。
側近たる此の近侍は、主の単独の行動を諌めず、其れ処か協力すらするのだ。……そして、其れは若き主の母堂とて同じ。
白と黒。
此の世界に在っても稀有極まりない瞳を持つ年若き男が統べる一族は、血族としての繋がりを大事とする。其れが故に内輪揉めの様な戦が頻発していたが、先代頭領の早世から端を発し、若き主の母御や伯父御、そして、優秀極まりない臣下の力を以て若い頭領が全てを平らげた。血族故の不満は、年長者たる伯父御が全て黙らせ、上に立つに値する絶対の力は若き頭領が己の力のみを以て示した。
僅かに住まう異形の民も、圧倒的な支配力を見せた存在に逆らう様な事は無く……北の地は、此の時代稀有な程に平安に満ち満ちた土地と成りえた。
そんな有力者が、女の元へ通うと云う。
本来ならば警戒して止まぬ事柄だ。
だがしかし、其処に欲情は無く。……側近たる男達は、些か残念にすら思っていた。
「森の竜女殿の関係で、何かありましょうか」
春風の様に穏やかでそっと紡がれた暖かな声音に、若い男は頑是ない笑みを浮かべて是と頷く。
「己を頼りとしている事は確かではあるが」
ぱちり、と大きな目が瞬きし、次いで苦笑いの響きを以て言葉が紡がれた。
「其れでも、森の竜女にとっては庇護の対象としての意識が捨てきれぬようでな。……西洲のには、遠慮会釈もないのが業腹よな」
成程と頷き、有能過ぎる程に有能な男は、密やかに西洲の有力者へ送り付ける暗殺者の用意を始める。場所として遠すぎる事もあり、直截な嫌がらせをしても武力衝突はありえないと云う判断だ。
「随従」
愛らしい唇が紡ぐ己の名を耳に留め、男は整った顔に最早常駐と云って良い蕩けた笑みを浮かべ応えを返す。
其の様子に、側近中の側近であり守役でもあった男の行動を察知した若き頭領は些か目元に焦りを刷きながらも、やんわりと笑った。
「争乱は、望まぬ」
「御意」
にっこりと。
にっこりと。
笑顔を交わし、男は云う。
「私達『隠』の本分は何者にも咎められる事無く潜む事。潜み隠れ、其処に在る事にございます」
見つからぬと。
見つからず、潜み、還ると。
「西洲の方々は、足が遅くていらっしゃる。……まあ、雷神殿さえ注意すれば良いかと」
派手派手しい男の生命線たる偉丈夫の別称を口の端に乗せ、だが笑う近侍へ、幼い顔に呆れを滲ませた男はまあいいかと投げた様に脇息に身を沈めた。
「おっまえ! 地味な嫌がらせは止めやがれ!!!」
森の竜女の住いの前。
顔を合わせた途端叫んだ男の話を詳しく聞けば、最近物陰から影の内から虚ろから視線を感じると云う。ねっとりと絡みつく視線は何とも気分が悪く、何時何時も向けられる視線に、男にとっては生きる事と同義ですらある女遊びすら控える事になっていると文句を叩きつけられ、若き男は成程と頷く。
道理で、最近竜女関連の服やら物やらが大量に届いた訳だと。
「雷神殿は喜んでいるがのう」
くすりと笑えば、爆ぜる様に怒声が上がる。
ああ、うるさい。と、若い男はきと滲んで消えた。其れにすら罵声が上がるが気にした事では無い。
此処迄騒いでも出てくる様子が無いのなら、森の竜女は不在なのだろう。ならば、若き頭領にとって此処に居る意味など無い。
瞬く間に己の所領に戻った若き頭領は、己の側近へ賞賛を贈るべく其の名を呼んだのだった。
【隠】
潜む存在。
主に山に住む事が多く、人間と呼ばれる世界との行き来も多い。
隠は角を持つ事も多いが、其の角すらはっきりと認識できない存在が多く、外見的には人間と呼ばれる世界の人と酷似している。
相手の感情に敏感。敵意には敵意を返し、好意には好意を返す、或る意味鏡の様な性質を持つ。
剛力、博識。空間の移動が得意。
良く云えば直向な性質の存在が多く、悪く云えば狭視野的。忠誠は一生モノ。一度気に入れば先ず間違いなく裏切らない。但し、掴んだ手を放す事も無いので、知らないうちに囲われている事もありうる(気が付かなければ幸せと云う典型)。
同じ生活圏に一つ目の様な異形種や大入道の様な巨躯種等も存在するが、総じて穏健。
但し、どの種族も虚偽を嫌い、怠惰を許せないと云う性質を持つ。