悲嘆にくれていたら
番外2の4。
彼は、恐慌状態だったのだと思う。
突然……そう、突然迷い込んだ、昼なお暗い深い森。
フロントガラス越しに見えるその風景は、何とも現実感に満ち満ち……何とも非現実性に溢れていた。
彼が乗っていたのは、社用車だ。
シルバーの軽自動車の横っ腹には、目立つ色ででかでかと社名が書いてある。
彼は、不動産屋に勤めていた。
今度自社が開発を担当する事になった山奥の土地……最早過疎に成り果てた元集落の現状を把握する為に、彼は視察に来たのだ。
東北の、山奥。
荒れ果てた田んぼは単なる草叢でしかなかったが、其処いらを整地し、古い家を手直しし、昔ながらの農村を体験できると銘打てば、物好きな都会人や外国人、今は都会暮らしの元田舎出身者が相当数釣れるだろうと云うのが会社の目論見で。彼も、其の意見に大いに賛同した。
なので、此の視察はまさに願ったり叶ったり――――――で、あったのだが。
うねうねと曲がる山道に辟易し始めた矢先……突然、彼は森に呑まれていることに気が付いたのだった。
いつの間にやら、道は傾斜が無く。
いつの間にやら、木々は微妙に姿を変えていた。
道路の上には茂っていなかった枝葉は、今や空を覆い隠している。
「……なんだこりゃあ」
掠れた声が出た事に、彼は気が付き、そして、自覚した。
此れが、現実だと。
慌てて外に出ようとして、彼は思いとどまる。
携帯電話を出してみても、お約束の様に圏外だ。
タブレットを出すが、ネットにつながる事は無い。
衛星と連携している筈のカーナビも、全く反応しない。
愕然と、彼は車の中で腰を抜かした。
頭が考える事を放棄する。
考えてどうするのだと、本能が哂った。
纏まらない思考の儘に彼は持ち物を漁った。
出てきた細々とした物の中に菓子を幾つか見つけ、其れ等を纏めて助手席の上に置くと鞄から出した弁当と飲み物を置く。
「此れだけ、か」
食べ物は、此れだけ。
何日生きていられるのかと彼は暗く考え、乾いた笑い声を上げる。
此処は、明らかに彼が居た山ではない。知らないうちに道から落ちて遭難したのかと思えれば幸せだが、そんな事、あろう筈がなかった。
車の周囲は、森だ。
どんな動物がいるかもわからない。どんな植物があるのかもわからない。そして――――――どんな人間がいるのかも、知れない。
言葉が通じるか、そもそも姿は己と同じなのか。ぐるぐると考えれば考えるだけ、思考は千千に乱れて纏まらない。そして、恐怖は纏まらぬ儘の思考で走れと急かす。
彼はネクタイを緩め、背広の上を脱いだ。ワイシャツがじっとりと濡れている。冷や汗だ、と気づき、彼は虚ろに笑った。口の中はからからに乾涸びているのに、体は水分を捨てているのかと。
兎に角、籠城するしかないだろう。
彼は、決断した。
可能な限り、車の中から動かない。
そして、通信手段の復活を待つ――――――と。
此の中だけが、彼の安心できる場だった。変な生き物が来たとしても、先ず逃げられる筈だ……彼はそう確信していた。
バッテリーの消費やガソリンの事を考え、エンジンを切る。エアコンが止まるが、防寒具はしっかりと用意してあったし、まどを締め切っているので空気は逃げていかないので、そう簡単に温度が下がる事は無い。狼狽えた儘に、彼は深々と溜息を吐いて天を仰いだ。
なんで、俺がこんな目に……
心中で呟き、理不尽だと愚痴る。
彼は独り身だ。彼女もいない。一人暮らしで、五年目になる社会人生活を過ごしていた。……今回の仕事は、やっ巡ってきたチャンスだったのだ。と己の評価を引き上げる、絶好の機会……の、筈だったのだ。
彼は、ひとりごちる。
なんて運が無いんだ、俺は。
ちくしょう、ちくしょう。
浮かぶのは悪態ばかり。
なんで俺なんだ
ちくしょう
なんだって……
なんで俺がこんな目に……!
鬱々と繰り返し悪態をついていた彼の顔に、ふと影がかかる。
なんだ? とフロントガラス越しに見やれば……大きな大きな何かが遠くに立ち、其れの影が落ちていたのだった。
ひい、と喉をひきつらせ、彼は思わずエンジンをかけた。
何度か失敗しながらもなんとかかかったエンジンを確認するが早いか、彼は思い切りアクセルを踏んだ。
弾丸の如く走り出した、車。闇雲ながら一直線に爆走する其れに木々が一切ぶつからない不思議を彼が感じる事は無かった。
走り走り――――――唐突に広がる、陰鬱とした霧の荒地。
タイヤが小石を蹴り上げ、フロントガラスに当たる。だがそれすらも彼の心には届かなかった。
恐怖で真っ暗になった視界を開こうともせず、彼は車を走らせた。
影は相変わらず、彼の上に……彼の車の上に、被っている。
遠くに! 遠くに!!!
兎に角逃げようとする彼の思いを嘲笑うかのように――――――巨大な何かが、車を潰した。
爆音。
圧搾音。
其れは、一瞬の出来事。
真っ黒な煙も、ちろちろと上がる炎も、巨大な何かには関係が無く…………ただただ悪意を発する大元を滅したと、其れは淡々と断じていた。
「森の傍で?」
白と黒の瞳持つ、年若い男が訝しげに呟く。
傍らに立つ端正な顔立ちの男は是と頷き、委細を告げた。
「……捨て置け。泥田坊が動いたとあらば、其れは余程の悪意であっただけよ」
何の感情もない決。傍に控えた存在は、恭しく是と頷いた。
結論
嘆きも過ぎるととんでもないものを呼び寄せます。