対面(2)
防音設備の整った個室のドアは思いの外重く、必要最低限の荷物しか入っていない巾着袋と、自分の飲み物が邪魔だった。
何も持っていない右手に力を入れてドアノブを回して押しても、重りがかかっているようにびくともしない。
二人に助けを求めれば良いのだが、自尊心が邪魔をして言いだせなかった。
と、唐突に扉の重りが失せ、
「きゃっ!」
体が何か硬いものにぶつかったのと同時に、何か濡れた感触があった。手に持っていた飲み物が着物のほうにかかったようだ。
「あっ」
今日着ていた着物は母の形見だった。秋の風景を愛した母のために祖父が作らせたものだ。
「申し訳ない。」
着物にばかり気をとられていたために気付けなかった。
ぱっと顔を上げると、スーツを着た二十代前半に見える男が立っていた。大変きれいな男だ。繊細で優雅な印象を与える容貌、それでいてなよなよとした女々しい感じはせず、手で触れている胸板から、しっかりとした肉体があることが分かった。
「……いえ。」
はっ、と我にかえって返事をしたのは数瞬あとのことだった。もともと表情が豊かなほうではないから、動揺を気取られる事はないと思うが、顔を上げているのに気まずさを感じ、俯いて体を離そうとした。
「……あの、離したくださいませんか。」 離れようとした椿の手を胸に押し当てたまま握り締めて、男はじっと見つめてきた。
男の手の中から自分の手を取り返そうとしたが、男の力がとても強くてどうしても抜き取れないのだ。
「着物に染みが付くといけない。すぐに拭き取らなくてはいけませんね。着替えの物を持ってこさせましょう。」
青年は丁寧な口調でそう言ったが、私の手を握る手を離そうとはしなかった。 新手のナンパか?
いつのまにかここの責任者らしき穏やかな紳士が傍に控えていた。
「桐生様、準備が調いました。お嬢様のお着替えが用意されております。」
桐生と呼ばれた青年は至極当然のこと、とでも言うように、自分の父親ほどの紳士に尊大にうなずいた。
顔には出さなかったが、私は相当動揺していた。桐生の尊大な態度にではない。彼のスーツを見ればシンプルだが安物ではないと分かったし、腕に付けている時計は私でも知っている、某高級ブランドの新作だ。そんな、見るからに裕福な青年がここの上客ならば、あの尊大な態度も頷ける。
問題はその名前にある。桐生は日本で最も影響力のある家の名前だ。
桐生グループの傘下には、あらゆるジャンルの企業があり、日本の企業の中にこのグループが関与していないところはないと言われている。表の世界ではときどきしか聞かない名だが、裏の世界では常に噂が飛びかっている。 そんな黒い(おそらく私の想像と偏見のイメージの)一族の人間がなぜ、こんなことをするのか。華道の名門といえども、そこら辺にいる普通の女子高生と何らかわらないのに。
そうこうしているうちに、体は桐生にひっぱられるまま和風の個室に押し込められた。少々むっとする。
「こちらにお着替えを用意させていただきました。」
乱暴者ではあるが、女性が着替えようとしている部屋に長居しない、という基本は分かっていたようで、気が付けば落ち着いた女性店員と部屋に二人きり。
仕方なく、用意された洋服に袖を通し、きれいに畳もうとすると、作り物めいた雰囲気を一切感じさせない優しげな笑みを浮かべた女性店員に、やんわりと拒否されてしまった。
「着物は桐生様より、専門の業者の方へ運び入れるように仰せつかっております。」
やはり、接客業のプロだ。ともすれば強引ともとれるような行動も、ささやかな好意のような好印象を与える。
思わず笑みを返したが、断りを入れることに微かな罪悪感を感じていた。
「ご好意は有り難いのですが、懇意にしているところが…。」
「そうですか。承知いたしました。では、着物はそちらの方に…。」
老舗店の名前を言うと、知っていたようで、軽く頭を下げてから部屋を出ていった。
扉が小さな音を立てて閉じると、軽い緊張状態だった体から強ばりが解け、あるかなしかの小さなため息が零れた。
気が抜けてしまった体を、大きなソファに沈めた。
目を瞑ってしまえば、最近の多忙な日々の所為か、堪え難いほどの心地よい眠りが椿を包み込んだ。
沈黙の充ちる部屋では、時計の動く規則正しい音がやけに耳についた。
チクタク、チクタク。
だんだんとその音も遠ざかっていくように思え、終には何も聞こえなくなってしまった。
常ならば到底ありえないこと。
その日の椿は疲れていたし、ここに集まることになったのも昨夜だった。悪態を心の中でつきながら、彼らはその日しか空いていないのだから仕方がない、と自分を納得させたのだ。
今思えば、このことは彼らと自分の未来に必要なことだったのだろう。
認めてしまいたくはないが、自分とあの迷惑男ためにも。