2話
「私のサポーターになりなさい」
「はい?」
皮肉にも神山先輩に拉致された時と同じ校舎裏に連行されてきた僕は、竜胆先輩から突然そんなことを言われた。昼休みに購買に行こうとしたところを捕まったというところまで神山先輩の状況と一致している。今後気をつけたほうがいいかもしれない。仁王立ちした先輩は、僕より身長が低いはずなのに何故か見下ろされているような気分になる。長い髪の毛が日差しを遮って、眼前に影を作った。こええ。
「さ、サポーター……大胸筋サポーターですか?」
「何を言っているの君島くん。蛆に頭でも湧いたの?」
「おかしいでしょうそれ! 僕の頭の中はどうなっちゃってるんですか!」
「ごめんなさい……少し言い過ぎたわ。頭に蛆でも湧いたの?」
「今更まともな言い方されても遅いですよ!」
初っ端から竜胆先輩節が炸裂していた。いや、軽くボケようとした僕も悪かったと言わざるを得ないが。
「そんなことより、先日のこと、忘れてはいないでしょうね」
多分審判員選挙の宣伝をした日のことだろう。
ちなみにあの後、僕が保健室で目を覚ますと夕暮れ時になっていた。言うまでもないが先輩は僕を献身的に看病したり帰り際に様子を見に来てくれたりはしなかった。流石です。
「君島くんのせいで大恥をかいたわ。責任を取ってもらいます」
「せ、責任って……」
僕は先輩の演説によって悪くなった空気をどうにか打開しようとしてと思っていたのは最初だけでしたごめんなさい。言い返そうかと思ったけど、冷静になれば正しいことなんて何ひとつしてませんでした。人の気持ちを考えないなんてぱんつラヴァー失格です。
「人が真面目に話をしている時に君は、その、私のし、しし、下着を――」
ギリッと歯軋りする音が聞こえた。ついでに顔も高潮しているけど、主に血が集まっているのはこぶしのように思える。僕は殴られまいと身を引いて構えながら言い返す。
「し、仕方が無かったんです。僕のぱんつ愛があれを許すなと」
「なに? 言い訳があるなら聞くけど」
言い訳したあとにそのセリフはおかしくないですか。
「ま、まあ良いわ。思い出すと恥ずかしくなるだけだからこの話は止めましょう。そう、忘れましょう」
「そうですね……」
僕にとっても忘れたい出来事だ。うん、忘れよう。ぱんつの神もきっと許してくれるはずだ。そう思おう。
ふう、と一度深呼吸してから、竜胆先輩は仕切りなおすように言った。
「サポーターのことを知ってるかしら君島くんは」
「いえ、そういうものがあるくらいしか……」
「そう。まあ別に説明する必要も無いわ。つまりはお手伝いさんみたいなものよ。選挙宣伝用のポスターを作ったり、私のスケジュール管理、演説文の推敲とか、そういうものを請け負う仕事よ」
「それを僕がやるんですか? まだ入学して半年も経ってない僕が?」
竜胆先輩はそれに首を横に振った。
「というのは普通のサポーターがやること。君島くんは……そうね、別に何もしなくていいわ。どうせ何も出来ないでしょうし」
「まるで僕が無能みたいな言い方しないでくださいよ!?」
「え、何か出来るの?」
そんな無垢な子供のような目で僕を見ないでください。僕は汚い大人なんです。ぱんつ選びなら、とか言おうとしたが止めた。命は大切にするものだと、小学校の頃生き物を飼って学んだのだ。
「無能でした」
「そう。ならいいのよ」
何がっ? ねぇ何がいいのっ? 僕分からないよ!
「実際、私が君島くんをサポーターに呼びたい理由は仕事をやってもらうためじゃないわ」
「え、じゃあなんで……」
すると、先輩は腰に手を当てて僕をビシッと指差してきた。
「君島くんを樹に取られるとまずいからよ」
「い、樹? 神山先輩ですか?」
「そう。なんだか樹と交友関係があるみたいじゃない。どこで会ったのか知らないけど」
何故ここで神山先輩の名前が出てくるんだろう。それに、樹って呼び方。ずいぶん親しい呼び名だけど、知り合いだったりするんだろうか。
「まあ、一応交流はありましたけど……でも、なんで僕が神山先輩に取られるとまずいんですか」
「あの子も知っているからよ。入学式のことを」
毒づくように言う。告白ハラスメントのことだろう。確かに神山先輩はそれを知っているが、それと僕がサポーターになることに何の関係があるのだろうか。むしろ、あの事件があった後だ。僕を遠ざけたいと思うくらいが普通だと思うが。
竜胆先輩は僕をちらちらと見ながら、言葉を模索するように視線を彷徨わせた。
「そ、その、君島くんを相手にすると調子が狂うのよ。初対面でいきなり、その、こ、恋とかなんだとか、あああああああああ!!」
「ぶへぇっ!」
とてつもない速度の鉄拳が予想だにしないタイミングで僕の左頬を襲った。あまりにも前動作が無かったので僕は軽々と吹っ飛んで地面に突っ伏した。
え、超理不尽。
「突然殴るの止めていただけますっ!? アニメのコメディか何かと勘違いしてませんか! そのうち死にますよ僕!」
「ご、ごめんなさい。今のは私に非があるわ。素直に謝ります」
耳まで赤くさせながら竜胆先輩は僕に頭を下げた。素直に謝られては僕もこれ以上何かを言えない。歯が折れてないか確認して安堵したあと、土を払って立ち上がった。
「……つまりはね、樹に君島くんを取られると、私への武器となりえてしまうのよ」
「不安要素は先に摘んでおこうって魂胆ですか」
「そうとも言うわね」
つまり、僕を使って妨害工作をされるのを恐れているのだ。神山先輩がそんなことをするとは思えないが、まあ僕も神山先輩側につく気は最初からさらさら無かったので、竜胆先輩の不安は杞憂に終わるわけだが。
「安心してください。そんなことしないでも、僕は神山先輩のサポーターにはなりませんよ」
と、思っていることを伝えた。すると、竜胆先輩は「へ?」と彼女らしからぬ気の抜けた声を上げた。
「な、ならないの? 樹に誘われても?」
「なりませんよ。僕、あの人苦手ですし」
「だって、樹よ? 龍泉学園のアイドルで男子生徒の人気投票ナンバーワンかつスポーツ万能で明るくて凄く良い子で自分の意見もしっかり持ってる、あの完璧な神山樹よ?」
「ず、ずいぶんと推しますね……」
敵視をしていそうな割には、実は認めているのかもしれない。というか顔が近いです。迫りすぎです。どんだけ神山先輩が好きなんですか。
「ありえない……樹の魅力に悩殺ゾッコン状態にならない人なんて初めて見たわ」
「そんな大げさな……」
「大げさでもなんでもないわよ。あの子の周りには常に誰かがいる。あの子のことは常に誰かがサポートしてくれているわ。女子も男子も、樹を嫌ってる人間なんかどこにもいない」
少し視線を落としながら、竜胆先輩は神山先輩をそう評価した。
「まあ、僕だって嫌いじゃありませんけど、可愛いですし。でもやっぱり得意ではないですね神山先輩は」
「どうして? どこが苦手なの?」
「まず襲われたからっていうのはあります」
「お、おおお襲われた? 樹に?」
「ええ、貞操の危機でした。彼女は僕の好物を餌に使い、僕を奴隷か何かにでもしようとしていたようです」
そんな姿の神山先輩が想像出来ないのか、いまいち理解していなさそうな顔で頭を悩ましている。あの時の神山先輩は少なくともアイドルの姿ではなかった。夜の、と付け加えたら分からないが。
「あとはぱんつですね」
「殴るわよ」
幾度と無く僕を葬ってきた右手こぶしを突き出して言った。
「そんな豹変しないでくださいよ!? 別に冗談で言ってるわけじゃないんですって!」
「殴るわよ」
「いや、あの、その」
「殴るわよ」
「今日はいい天気ですね先輩」
「夕方から曇るって天気予報で聞いたわ」
さいですか……。どうして三回言った。恐怖につい屈してしまったじゃないか。くそう、嘘でもなんでもないのに……。
僕は諦めて、早くここから解放されたい一心で話を進めた。
「とにかく、そういうわけで僕は神山先輩のサポーターにはなりません。だから竜胆先輩も僕をサポーターに無理にしなくていいですよ」
大体、告白ハラスメントがあった後だというのに、竜胆先輩のサポーターに僕というのはあまりに無理がありすぎる。イメージとしては最悪じゃないか。一等生には僕が「コクハラ」という名前で相当の有名人として通ってしまっているし、その被害者である竜胆先輩が僕を選んだとあっては、一体何事だと騒がれてしまう。
「えっ、そ、そういう話になるの?」
「違うんですか? 結局先輩は僕を囲っておきたかったわけでしょう? ならその必要が無いなら僕をサポーターにする意味は無いじゃないですか」
「それはそうだけど……でも、私とこうして対等に話せるっていうのは、凄いスキルじゃない? 仲間に加えておいたほうが得だと思うのよ」
「止めておいた方が良いです。入学式の一件があってから、あまり僕のイメージは良くないですし。選挙に響いたら僕が申し訳ないです。それに、対等に話すくらいなら僕じゃなくてもいいでしょう」
「それもそうだけどっ!」
今度は語尾を荒げて僕に迫ってくる。殴られるかと思って反射で防御体勢を取ってしまった。
「な、何か……?」
「……」
だんまりだった。何が悪いのか分からない。自分で言って虚しいが、僕をサポーターにすることなんて百害あって一利なしだと思う。あ、やっぱり結構きつい。人生何が転機で変わるか分からないね。
このまま押し切られてしまうのは嫌だったので、適当なところで話を切り上げて帰ることにした。
「じ、じゃあそういうことで僕は帰ります。投票が始まったら竜胆先輩に入れるので、その辺りは安心してください。では、また今度……」
すっきりしないが、どうしようもない。このあといざこざがあってまた投げ技でも食らおうものなら本気で死にかねない。平和的に解決出来るうちが吉だろう。昼食の時間もギリギリ残っていそうだし。ゲテモノの菓子パンがおよそ決定したけど。バナナ味のメロンパンとか。
「……のよ」
背を向けた瞬間、竜胆先輩に腕を取られた。明らかに人を引きとめようとする握力の入れ方ではない。腕をへし折ろうとする力が僕を襲う。
「い、痛いです先輩」
「……いのよ」
何か言ったみたいだが、よく聞き取れなかった。先輩は顔を伏せて、まったく視線を合わせようとしない。思いのほか顔が紅潮している気がする。噴火直前、怖い。
「な、なんです? よく聞こえ無かったんですが」
「いないのよっ!」
突然の怒声に思わず縮こまった。同時に腕からミシッという音が聞こえたが気のせいにしておこう。いちいち気にしていたら身が持たない。言葉通りの意味で。
「いないのよっ。私のサポーターになってくれる人がっ!」
「……」
ぽかーん、というのが正しい表現なのだろうか。間抜けにも開かれた口を慌てて閉じて、今の言葉を頭の中でもう一度反芻してみる。
いない。サポーターになってくれる人が。
うん。まあ実に説得力のある言葉だった。人徳という言葉からおよそ無縁な性格をしているだろう先輩のサポーターになることを申し出てくる人はおろか、頼まれてしぶしぶでも了承する人がいるかどうかもわからない。
先輩も人に恥ずかしいことをカミングアウトしたかのように、屈辱にまみれた表情でそっぽを向いていた。永結凍土ってなんだっけ。マグマみたいに真っ赤なんですがこの人。サドの気はないと思っていたが、少しぐっときた。
「もしかして友達いない嘘ですなんでもありません許してください!」
ミシッ、からベキッに昇華した腕の軋みに危機感を覚えて言おうとしていたことを遮った。というかそんなことしたら図星って言っているようなもんじゃないですか。なんだろう、急に親近感が湧いてきた。入学当初便所飯を覚悟していた僕の気持ちをとても理解してくれそうな人に出会ってしまった。遭難している時にようやく人を見つけた時のような安心感に似ている。僕、竜胆先輩と上手くやっていけそうな気がしてきたよ!
「先輩」
「な、何よ。なんでそんな嬉しそうな顔するのよ」
「サポーターの役、僕に任せてください。きっと役に立ちましょう! ついでにお昼ご飯一緒に食べましょう! いいですよね?」
「え、ええ……」
なんだか若干引いている気がするがそんなこと構うもんか。良かった。まだ入学してから出くわしていないシチュエーションだが、翔悟くんが学園を休んだらご飯を食べる友達がいなくてどうしようかと毎日悩んでいたんだ。朝、翔悟くんが学園に来ていた時の安心感、僕のほうが先に来てしまって休むんじゃないかと一時間目が始まるまでドキドキしていた不安感、そのどちらからも開放されるんだ!
「君島くん、私をぼっちか何かだと勘違いしてない?」
「え、違うんですか」
「違うわよ! あなたと一緒にしないで!」
「がーん!」
リアルにショック。同じ趣味の友達を見つけたと思ったらとんでもないにわかだった時くらいショック。
「ご、ごめんなさい。今のは失言だったわ。謝ります」
そう言って先輩は僕の背中をさすってくれた。泣いてなんかいないやい。
ともかく、竜胆先輩がぼっちではないという衝撃の事実を知ってしまった僕だったが、サポーターがいないというのは結構深刻な問題のように思えた。竜胆先輩の威圧的な態度について来られる人がいないのだろう。竜胆先輩とてサポーターがいらないわけでないと思う。本当に人材がいなかったのだ。そこで見つけたのが僕。先日の事件の罪滅ぼしという脅し要素も兼ね、竜胆先輩の雰囲気に一切屈する様子の無い僕に白羽の矢が立ったということだ。
僕は入学式の日に竜胆先輩の真のぱんつを知ってしまっている。あれを覚えている限り、僕が彼女の高圧的な態度にいちいち怯えることはおよそ有り得ないだろう。とか言ったらまた殴られそうな気がするので言わないけど。
「その、審判員には最低一人のサポーターが絶対必須条件なのよ」
「どうしてですか?」
「審判員が生徒会とある程度連立しているのは知っているわよね。審判員として正式に認められると、同時に生徒会役員の名簿にも載るのよ。つまり、仕事の量が膨れ上がるってことなの。そんな時に審判が始まってしまうと仕事の両立が難しいでしょう? そんな時のために、一人以上のサポーターが必要なの」
「え、サポーターって選挙の時だけじゃないんですか?」
「違うわ。正式に審判員のサポーターとして名簿に登録される。ある意味では、サポーターも生徒会に組み込まれているわけね」
別にいつも暇をしているから困りはしないが、僕のような人間がそんなポストについてしまって大丈夫なのだろうか。分不相応な気がするが。
「それでも、引き受けてくれるかしら」
先ほどまでの威勢はどこへ行ったのか、一歩引いた感じの頼み方で僕に聞いてきた。というか先輩、僕がすぐに了承したらこの内容は説明されていたんでしょうか。
兎にも角にも、僕には特に断る理由は無い。むしろあるのは先輩の方だ。
「別に僕は構いませんが、さっきも言ったとおり僕がサポーターになればイメージが最悪だと思いますよ。選挙なんてイメージが結構大切じゃないですか。大丈夫なんですか?」
「私は気にしないわ」
凛とした態度でそう返した。が、すぐにまた赤くなって、
「それに、そ、その、君島くんは、私に、その、こ、ここここここ」
コイキ○ングのモノマネですか? とか言ったら殺される予感がしたので喉の奥に押し込んだ。僕だって学習する。つまりこのままでいたら殴られるということだ。あれ、どっちにしてもダメじゃん!
僕は彼女の暴走を止めるべく、遮るようにして言った。
「ひ、引き受けます先輩。先輩が気にしていないなら僕が断る理由はありませんからっ」
「そ、そう? 本当に良いのね?」
僕はそれに激しく頷く。もうどうとでもなればいいよ。
先輩は一安心したかのようにほっと胸をなでおろし、今まで緊張に張っていた表情を崩した。その一瞬に、僕は心臓を掴み取られたかのような衝撃を覚えた。
長い黒髪の隙間からほんの少し見えた表情は、永結凍土の女豹などという物々しい称号とは打って変わった、年相応の少女のものだった。通学路で見た、灰色のアスファルトを彩る桜の花びらが作り出した桃色の絨毯を思い出す。表情を変えないだなんて誰が言ったんだ。竜胆先輩だって、こうして一喜一憂している。なんだか、竜胆先輩に対する世間の評価の低さが無性に腹立たしくなった。いや、むしろそういう評価を与えている竜胆先輩にだろうか。こういう顔を少しでもみんなに見せてあげれば、すぐに評価は変わるはずなのに。竜胆先輩がサポーターに僕を選ぶなんていう苦渋の選択に迫られずに済んだのに。
「……」
先日の黒いぱんつを思い出す。まるで小手先のごまかし技術。入学式の純白ぱんつに感動を覚えた僕は黒のぱんつに絶望し、その時の情動に身を任せて暴走してしまった。しかし、冷静になってみればあれもまた一つの選択。彼女があの日あの場面で黒のぱんつを選択した彼女の心情とはなんだったのか。
そう、それは何かに似ている気がした。
「……神山先輩の、緑のぱんつ」
学園のアイドルである神山先輩が、アイドルであるために選択したぱんつ。
間違いない。神山先輩がはく緑のぱんつと、竜胆先輩がはく黒のぱんつは一致する。一体彼女らは、ぱんつで何を隠しているのだろうか。あのぱんつの奥には、何が潜んでいるというのだろうか。僕はほんの少しだけ、それを覗いてみたいと思ってしまった。
変態じゃないぞ。
「ありがとう君島くん、助かるわ。それで、早速で悪いのだけど、今日の放課後は空いているかしら?」
「放課後ですか? 空いてますけど、何かやるんですか」
「生徒会にサポーター登録に行くのよ。明日から活動出来るように今日中に済ませておきたいの」
「分かりました。授業が終わったら向かいます」
「お願いね」
先輩とは校門の前辺りで別れた。先輩はそのまま教室へ。僕は残飯を漁りに購買部へ向かった。
しかし、生徒会か……。まったく面識の無い人たちと顔を合わせるのはなんだか緊張する。こんなややこしい学校を纏めている生徒会だ。きっと生徒会長なんかは凄いやり手の人なんだろう。優しい人だといいなぁ……。
あることないことを妄想しながら購買部に到着すると、無常にも昼休み終了の鐘が鳴り響いた。あまりの絶望感に音の余韻で腹を満たすとかわけのわからないことを考え、僕は購買部のおばさんに背中で別れを告げながら教室へ急いだ。
じゃらじゃらとポケットの中で五百円玉がうるさく泣いていた。
目が、痛い。
放課後。先輩に言われた通り生徒会室までやってきた僕であったが、いくら特殊な学園と言えども認めがたい光景が目の前に広がっていた。
一言で言えば生徒会室はゴージャスな宮殿だった。もうちょっと詳細に言い表すと、扉は僕の背丈の三倍はあろうかというでかさで、取っ手は金ピカ。傍に白い手袋が置いてあり、「入室の際には必ず手袋をはめて扉を開け閉めするように」という、目の前のブツが明らかに高級品であるかのような注意書きがされていた。中に入るとまず赤い絨毯が入室者を迎える。恐らく大理石であろう白く艶やかな床が一面に広がり、その広さは学内一番だとすべての部屋を見回っていない僕でさえ容易に想像のつく面積だった。なんだかマーライオンの贋物らしきものが部屋の四方に備え付けられ、口から水を流している。その清涼な音が自然の豊かさを融合させ、安らぎの空間を作り出している。天井を仰ぎ見れば豪華絢爛なシャンデリアが部屋中を照らし出し、生徒会室の神々しさを演出していた。
どこだよここ。石油王の宮殿か。
赤い絨毯を踏みながら、慣れた足つきで進んでいく竜胆先輩についていく。間違った場所を踏んだら爆発するとかいう仕掛けがあるんじゃないかと先ほどから疑心暗鬼で、先輩の歩いた場所を一寸違わずなぞっています。チキンです。
「あれが生徒会長、轟季冬次郎会長よ」
絨毯の奥の奥。中学の頃に見学に行った国会議事堂で見たようなデスクがそこに存在していた。そしてその更に奥に、誰が見ても高価だと分かる黒いチェアーに腰掛けた、一昔前の軍人かっ、と突っ込みたくなるような格好の男がいた。明らかに学園指定の制服じゃない。今から戦争に行ってきますと敬礼されたら思わず返してしまうくらいの、バリバリの軍人服だった。そして、遠目に見ても分かる軍服の中に隠された筋肉。ムキムキではない、体型を引き絞るための筋肉。喧嘩でも吹っかけようものなら確実に殺されそうだ。
「轟季会長、お久しぶりです」
竜胆先輩が声をかけると、会長は顔をゆっくりを上げた。糸目、かと思ったが違う。目を閉じているだけだった。瞼を閉じたまま、会長はその口を開いた。
「竜胆あかり、か。久しくはないだろう、入学式の時に会ったばかりじゃないか。それと、そっちの生徒は?」
目を閉じているはずなのに僕の存在に気づいていた。不気味にも、そのままの顔で僕のほうを向いた。
「ぼ、僕は今年この龍泉学園に入学しました、君島幸一といいます」
「君島幸一……ああ、君が噂のコクハラくんか」
「僕は君島です」
「ふむ。自分の名前は間違って欲しくないタイプの人間と見える」
「普通誰だってそうでしょう!?」
あ、しまった。会って間もない、しかも生徒会長にツッコミを入れてしまった!
「そう、フランクで構わない。私が生徒会長である轟季冬次郎だ。以後よろしく」
「よろしくお願いします……」
良かった。見た目はなんだか怖いけど、優しそうな人だった。僕は微動だにしない会長に向かって一礼した。そして、顔を上げる途中で会長の胸元にあるバッチが目に入った。
「凄い……」
そのおびただしい数のバッチに、思わず声を漏らしてしまった。目で追って数えても、二十個以上ある。卒業用件は完全にクリアーしている。流石生徒会長だ。
「バッチのことか?」
「あ、はい。そうですけど、良く分かりますね、目を閉じているのに」
「何、初めて私を見る人間は大抵同じ反応をする。パターンだよ。君の横にいる竜胆あかりも、初めは君と同じ反応をしていた」
そりゃあそうだ。十個取るのも一苦労だっていうのに、その倍以上なんて考えたこともない。もはやバッチが装飾品のように見える。肩から横腹にかけてずらっと並ぶ様子は、幾多の戦場を潜り抜けた歴戦の老兵のようだ。
ん? ちょっと待てよ。竜胆先輩も同じ反応をしたってことは、去年もこうだったってことか。
「えっと、今年卒業なんですよね?」
「いや、私は卒業しないよ」
さもそれが当たり前かのように会長は言った。なんとなく予想していたことではあるが、こうして実際に姿として見られるとは思わなかった。
バッチを二十個以上取得する意味なんて一つしかないのだ。
「コクハラくんは特別報酬制度を知っているかな」
「会長、僕は君島――」
「ああーすまない、目が悪くてよく聞こえないんだ」
「意味が分かりませんよ!?」
やばい。この人も僕をコクハラで通していくつもりだ。
「特別報酬制度は、卒業用件と同じバッチ十個、それも学年バッチを含まない十個を学園に提出することで、ある程度の無理を学園に通すことが出来る制度なんだが、まあ基本は就職などの推薦文を書いてもらうためのものだ」
生徒手帳に書いてあったことを説明的に会長は述べた。
この龍泉学園では十個のバッチ取得が基本的に最低条件となるわけだが、勿論それ以上を取得することも可能だ。四年間の間に更に十個のバッチを取得した超成績優秀者には、学園側から報酬が送られる。とは言え、どんな無理も通るわけではないために、会長の言うように基本的には就職活動や進学に使われるらしい。学園に入学する時のプレゼンテーションで超真面目に話を聞いていた僕は、特別報酬制度を利用した生徒の報酬内容を表したグラフを覚えているが、八割がそんな感じだったと思う。
「私はその特別報酬制度を使って、生徒会長になっているんだよ」
「生徒会長に、ですか?」
「そう。今年で生徒会長になって四年目だ」
「なっ――」
つまりそれは、『四年間連続で十個以上のバッチを取得した』ということを意味する。成績優秀者なんてレベルの話じゃない。もはや怪物の類だ。今まで優しそうな先輩だなぁー程度に思っていた会長が、急にただものじゃなく思えてきた。
「一年前に私がここに来た時も、同じことを質問して、同じことを返されたわ。二年前には二十個のバッチを提出して、生徒会長を継続する権利と、そして生徒会室の改装をしたそうよ」
「二十個なんて一年で取得出来るんですか……」
「不可能ではないわ。限りなく不可能なだけであってね」
竜胆先輩が呆れたように言うと、会長はハッハッハ、とわざとらしく笑った。
「あの時は流石の私も死に物狂いだったよ。南の紛争地域に銃器を担いで行ったときは、真面目に自分が何をしているのか分からなくなった」
「生徒会長に命賭けすぎでしょう!?」
「何、青春とはそういうものだ」
「絶対違う!」
そんな死と隣り合わせの青春があってたまるか。青春とは無垢な女の子、もしくは少し背伸びした女の子と、そしてぱんつがあって初めて成り立つものだ。ちきしょう、バッグは教室に置いてきてしまったんだ。あれがあれば、会長に青春とはなんたるかを語ってやるのに。例えば青春には四歳から六歳までの青春と、七歳から十二歳までの青春、そして十八歳までの青春が……。
「だが、コクハラくんもそういう目的でこの学園に入学した口なのだろう?」
「……まあ、そりゃそうですが」
大体、こんな特殊なシステムを取っている学園に入学する理由なんか一つしかない。
「今年も南の方に行く予定だが、一緒にどうだね?」
「丁重にお断りします」
「なぁに、死にはしないよ。足の一本でも覚悟すれば、一気にバッチ三つくらいは取得出来る美味しい作業だと思うが」
「だから命賭け過ぎでしょう!? どこにも美味しい要素ありませんよ!」
「そのくらいやらねば、一年で十個以上を取得することは出来ない」
急に声のトーンを落とし、会長はそう言った。
「どうしてそこまで生徒会長を……」
「誰も出来ないからだよ」
会長の言葉には、先ほどまでの少しおちゃらけた調子は少しも混じっていなかった。
「この学園は、放って置けば、必ず腐る。だから、私が統治する」
「……」
何も言い返せはしなかった。僕がこの学園に対して思うことが無かったわけではなく、会長の確固たる意思が伝わったからだ。竜胆先輩や神山先輩も「去年は」と学園について苦言を漏らしていたが、それはどうやら冗談で済まされる程度ではないのかもしれない。
「ロングスカートなど、有り得ないのだよ……っ」
「ん!? 今、何か言いましたか」
何か聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする。
「いや、なんでもない。……それで、何か用があって来たのだろう?」
竜胆先輩のほうに向き直り、会長はそう訊いた。
「彼を、私のサポーターとして登録しに来ました」
「ほう……君のサポーター」
目を開けていないのに、値踏みするような視線を感じた。足の指先から頭のてっぺんまでを隅々まで探られるような、嫌な感覚だった。
「コクハラくん。サポーターとはどういうものなのか分かっているのかな?」
「はい。先ほど竜胆先輩から内容は聞きました」
「ふむ、そうか」
汚物に絡め取られたかのような、ねちっこい、どろりとした感覚。
知っている。これは――。
「ちょっと失礼するよ」
次の瞬間。
「――な」
風だった。身体が押し戻されるほどの風を感じた。吹き荒れる風は風ではなく、言うなればオーラ。到底人間が発生させられるものとは思えない、とてつもない威圧感が僕を襲った。
会長が目を開いた。ただそれだけのことだったのに、僕は息を詰まらせ、手足を拘束され、視線を動かせなくなった。宇宙、とでも言うべきなのだろうか。僕はその中に投げ出された。そして数多の星が僕を見つめる。一つ一つが目になる。ぎょろり、ぎょろりと目玉が動き、観察対象を逃がさないと眼差しで威嚇する。身体の震えがとまらない。動悸が激しくなる。苦しい。呼吸はひゅうっと音を鳴らすだけで、本来の機能を失っていた。
怖い、怖い、怖いっ!
「大丈夫か、コクハラくん」
「――」
……帰ってきた、のか?
周りを見渡すと、場違いに豪華な装飾品たちが僕を迎えてくれた。
「すまないね。私はどうにも目つきが悪いらしく、人が私を目線を合わせると縮こまらせてしまうのだよ。だから、普段はいつも閉じている」
「そう、なんですか……」
縮こまらせてしまう、なんてレベルのものじゃなかった。圧殺されかねないぞあれは。
「とは言え初対面の生徒に対してそれは失礼だろうし、私も一度目に焼き付けておきたいのでな。いやしかし、君が竜胆のサポーターに選ばれたというのも分かる気がするよ」
「本当ですか?」
目を瞑っているおかげで普通に話が出来る。いつの間にか動悸も治まっていた。額に浮いた冷や汗だけが、先ほどの感覚が事実であった事を如実に語っていた。
「なるほど。こうして見てみると、君は実に美しい顔立ちをしている」
「……は?」
「いかに永結凍土がどうのと言われた竜胆あかりであっても、美形男子に弱いという女性的な一面は隠しきれなかったということか」
いやいやいや! この人は一体何を言っているんだ。僕が美形だって? 冗談もたいがいにしてくれ。年齢=彼女いない歴の僕が美形だったら、今までの人生はなんだったんだってことになるじゃないか。ほんと、相当酷い人格でも無い限り一人くらい彼女がいた経歴があっても……あ、ぱんつのせいか。ならいいや。
「ち、違います! そんな不純な動機で彼をサポーターにしたわけではありません!」
「そうなのか。じゃあなんだ、何らかしらの技能に長けているのか? そうは見えなかったが……」
第一印象は無能ってことですかそれは? 竜胆先輩といい、なんかこの学園の先輩方は後輩に対して厳しくないですか?
「その、彼がどうしてもと言うので仕方なく」
「嘘だッ!」
僕は自分でも驚くくらい速く、その言葉に反応した。今のは聞き捨てならない。竜胆先輩は目線で「空気読め」的な意思を僕に送り込んでくるが、そんなもの構うものか。ここで彼女の言葉をスルーしたら、必死に頑張ってくれた僕の身体に申し訳が立たない。
「先輩が僕に頼んできたんじゃないですか! 見てくださいこの青痣を! 先輩とのやり取りが嘘ではない事を証明してくれています!」
そう言って僕は左腕の袖を捲り上げた。先輩に掴まれたところが青くなっている。改めてみると結構エグいなこれ。掴まれただけなのに。
「なるほど、これは酷い。竜胆、本当に君がつけたものなのか?」
「違います」
しらっと嘘をつくなこの人! なんでそこを頑なに認めようとしないんだ。
「会長、彼が無類の、その、し、下着好きだというのはご存知でしょうか」
「ちょっと!? なんで人の好みを勝手にカミングアウトしちゃってるんですか!」
下手すりゃ社会的に抹殺されかねない趣味なのにっ!
「君島幸一、それは本当か?」
「本当です!」
嘘をつく必要なんて僕には無かった。何故ならそれが僕だったから。
竜胆先輩がまるで何らかしらの被害にあったかのような、たどたどしい口調で話を進める。
「彼の青痣は、自らの腕に下着を巻きつけて出来たものです。昼間会った時に見ました」
嘘の飛躍度が天を突破していた。どういうことですか、腕に下着を巻きつけるって。流石の僕でもそんなことはしな――いと言えるのか? いやしないよ。
しかし、考えてみるとこの青痣は本当に竜胆先輩につけられたものなのか分からなくなってきた。確かに、直接この腕に手を下したのは彼女自身の握力に違いない。僕はあの痛みを確かに覚えている。だが、事の発端を追えば、その原因とはぱんつでなかっただろうか。
白のぱんつをたまたま入学式の日に見てしまったがゆえに、僕は今こうして先輩と共に生徒会室にいる。青痣はその過程だ。黒のぱんつをはいた先輩が僕に仕返しでもしようと思っているというのならば、そう、これはぱんつに噛み付かれたようなものだ。白のぱんつが僕という存在に観測された事に腹をたて、自らを黒に変色させ、僕に襲い掛かってきた。そう考えれば、この青痣はぱんつによって出来たものと解釈しても問題ないように思える。
自業自得。まさにこの言葉が似合うだろう。
そうか、そこまで先輩は考えて発言したのか。幾ら僕でも考えが至らなかった。やはりぱんつを愛するものとしてまだまだ精進が足りないな僕は……。やはりぱんつは女性のほうが理解が深いのか。竜胆先輩、また一つあなたを神として崇めたくなる要素が増えました。
「会長、確かにこの青痣は、僕が自分の責任でつけてしまったものでした。今、先輩に気づかされました」
「そうか。自分の否を認めることは良いことだ」
「ですが、サポーターは先輩から誘ってきたんです。それだけは信じてください」
「君島くんっ!」
先輩が何か言っているが僕には聞こえなかった。照れ隠しだか何だか知りませんが、僕に責任を押し付けるのはやめていただきたい。スカート捲りますよ?
「そうか。竜胆あかりが、自分から申し出を、ね。興味深い話だが、それはまた今度にしよう。こちらも仕事が詰まっているのでな。さっさと済ませてしまおう。君島幸一が正式なサポーターとして活動出来るよう、名簿に君のサインが欲しいのだが……はて、名簿帳をどこへやったか」
目を瞑ったまま机の上を見渡したり、引き出しを開けて確認している。見えてるのそれ。
「希木実! 名簿をどこへやったか知らないか?」
会長は、引き出しを覗き込みながら誰かの名前らしきものを口にした。しかし、生徒会室には僕ら三人しかいない。暗号か何かだったのだろうか。と、僕が首をかしげていると、横から竜胆先輩が、
「副会長の名前よ」
親切にもそう教えてくれた。のはいいが、当の副会長の姿が見えない。大理石の床がいちいち目に痛い生徒会室を見渡しながら探してみたが、やはり見当たらない。見渡しだけはやたらと良いので隠れるスペースもない。
そう思っていたら、会長の座っているチェアーの横から、すっと手が伸びて、会長に一枚の紙を手渡した。
そこにいたのか。全然気づかなかったっていうか、なんでそんな微妙な空間にいるんですか。
「おお、ありがとう。何々、『バアムクーヘンが食べたい』。なるほど、それはともかく審判員選挙立候補者の名簿帳を知らないか?」
また一枚の紙を持った手が後ろから出てくる。
「『早く買ってこいよこのクズが。人が目の前にいるからっていい子ぶってんじゃねーぞ』と。ふむ、困ったね。あまり生徒会室で飲食をしてもらいたくないのだが、致し方あるまい」
ため息をつくと、会長はデスクの中から菓子箱を取り出した。マジックか何かで『バアムクーヘン』と書かれている。それをチェアーの後ろに差し出した。すると、数秒後に入れ替わりに紙が会長に渡される。
「『目の前』。おお、これか。ありがとう希副会長」
後ろから「任せろ」とでも言いたげに親指を立てた手が飛び出してくる。なんなんだこの副会長。
「っていうか目の前って本当に目の前じゃないですか! デスクの上のド真ん中のものを探すなんて聞いたことないですよ!」
「すまないね。目を閉じていると色々不便で仕方がない」
結構深刻な悩みらしかった。
会長は名簿を開くと、後ろから何ページか指で数えているのだろう、ゆっくりとページを捲りながら、あるところで止まった。そこには、今年審判員に立候補した人たちの名前が載っている。竜胆あかりという名前は勿論のこと、神山先輩の名前もあった。意外と立候補者は多く、パッと見ただけでも十名は超えている。人気のない役職だと思っていたが、競争率は結構高そうだ。立候補者の名前の横に、幾つか欄がある。そこにサポーターの名前を書き込んでいるのだろう。一人につき、平均三人くらいだろうか。神山先輩の欄だけ枠内に収まりきっていない。言うまでもないが竜胆先輩の横には誰の名前も無かった。
「ここに名前と学年を書いてくれ。君の直筆で頼む」
「判子とかはいらないんですか?」
「直筆で、といっただろう。それが直接君島幸一という生徒の証明になる」
筆跡鑑定でもするつもりなんだろうか。相変わらずよく分からない生徒会だった。
僕は竜胆先輩の横に、『君島幸一』としっかり書き込んだ。決してコクハラとか不名誉な名前を残さんと、筆圧強めで。
「ありがとう。ふむ、これは、君島幸一と読むのかな?」
「違いますよ!? 一体どういう読み方したらそうなるんですか! ちょっと、振り仮名振るのやめてください」
生真面目に振り仮名を振ろうとしていた会長を止める。冗談じゃない。名簿までコクハラの名前で通ってたまるか。
「ははっ、ユーモアだよユーモア」
人のあだ名で遊ぶのはユーモアなんでしょうか。
会長は名簿を閉じて横に除けると、僕と先輩を順に見てから言った。
「さて、これでサポーター登録は済んだよ。このバッチを受け取りたまえ」
会長が引き出しから、竜胆先輩と同じグレーのバッチを僕に渡してきた。丸い形に「サ」と書かれた単調なものだったが、僕にとっては記念すべき二つ目のバッチだ。恐らく先輩のバッチと同じく仮のものなのだろうけど、僕はほかのクラスメイトより一歩前に出られたことで、素直に嬉しかった。
「君島幸一と竜胆あかりが審判員、サポーターの関係であることを表すものだ。仮バッチだが、見事審判員に当選すれば金色のバッチに変わって真に君のものとなる」
「あ、ありがとうございます」
「精進してくれたまえ。明日から良く励むように」
「ありがとうございます」
竜胆先輩がお辞儀したのを見て、僕も合わせておく。
用は済んだのか、先輩はそのまま別れの挨拶を適当に済ませて、身を翻した。僕も一礼した後、彼女の靡く黒髪を追った。
「君島幸一」
不意に、会長に呼びかけられた。振り返ると、会長は目を開けて僕を射殺すような視線で見ていた。槍で撃たれ、繋ぎとめられたかのように、僕はまた動けなくなる。
「竜胆あかりが、この生徒会室に誰かを連れてやってきたのは、君が二人目だ」
「どういう、ことですか」
腹の底から搾り取るように力を入れると、ようやく声は出た。
「期待しているよ、ということだ」
すっ、と刺されていた槍が抜かれ、底に溜まるような重圧から開放される。会長が目を閉じた。荒い呼吸を抑えながら、僕は会長を見据えた。チェアーの後ろから副会長らしき人の手が『ガンバ!』と書かれた小さいホワイトボードを僕に向けていた。案外いい人なのかもしれない。会長は僕への興味を失ったかのように、手探りで出した書類を片付けている。どうやって書類ものの仕事やっているんだあの人は。
期待されたというのは、素直に喜べば良いのだろうか。どうにも裏があるような発言に聞こえたが、僕の考えすぎだろうか。それに、二人目って。竜胆先輩は以前、僕以外の誰かを連れてここにやってきたことがあるということだ。あの、竜胆先輩が。
扉の前で僕を苛立たしく待っている先輩を見る。カツカツ、と靴を鳴らし僕を急かしていた。……あの人に友達がいたとかあんまり考えられないとか言ったら絶対殺されるよね。
「扉を開けなさい。サポーターでしょ」
僕がそこまで辿り着くと、突然先輩はそんなことを言い放った。どこかのお嬢様ですかあなたは。とは言え重そうだったので、僕は身体全体を使って扉を開けた。
目に映りこんだのは久々と感じてしまう校舎の光景。夕焼けが廊下に差込み、黄昏時のなんとも言えない憂鬱感を演出していた。カラスの鳴く声でも聞こえたら、ここに座り込んでのんびりしたい気分だった。
しかし、実に長く感じる一日だった。昼休みは潰されるし放課後は気疲れするほどの眼力をお持ちの会長と顔を合わせるし、相変わらず竜胆先輩は傍若無人というか、遠慮を知らないし。
あぁ、早く帰ってぱんつの研究でもしたい。今の課題は竜胆先輩のために選ぶ七種類のぱんつを選ぶことだった。今日一体何色のどんなぱんつをはいているのか分からないが、少なくとも僕の心がときめいていないので正常な判断によって選択されたものではないのだろう。あの入学式のときの感動を僕はもう一度味わいたかったのだ。
だが、ここで甘えてはいけない。白のぱんつをはかせればいいじゃないかなんて意見は言語道断だ。日によって女の子のぱんつの質は変わる。人の気持ちとは常に変動し、一日たりとも同じ日が無いように、ぱんつも同様なのだ。
ブルーな気分の時にはくもの。嬉しい時にはくもの。雨の日にはくもの。晴れの日にはくもの。細かく分ければもっと状況はある。
例えば、今の竜胆先輩に似合うぱんつは何だろうか。あまり明るい色ではないし、セクシー系も今日の気分ではないだろう。なるだけ簡素で、なおかつ白に近いベージュなどが良いんじゃないだろうか。ゆったりとした、お尻全体を包んでくれるくらいのローレグがいいかもしれない。うーん、悩ましいね。
そんなことを妄想しながら空を見上げていると、
「あっ、コクハラくんじゃん!」
と聞き覚えのある声が僕を現実に引き戻した。ポニーテールを揺らしながら近づいてくる神山先輩だった。僕の正面まで来ると、ぶいっ、とピースを作った。いや何が。
「どうしたのこんなところで? もしかしてあたしを探してた?」
小悪魔的な表情を見せながら僕にそう詰め寄った。
「そんなわけないじゃないですか。正しいぱんつをはけない人に興味はありません」
「えっ、何、あたしのパンツ見たいの?」
「はいっ!」
好物のえさがつけられた釣り針をスルーするほど、僕は進化した人類ではなかった。生物とは敵から身を護るために、常に環境に順応するものだ。黒き邪神Gでさえも、何度も同じ罠に引っかかる馬鹿ではない。過去の経験から危機を察知する力。ことぱんつにおいてはそのセンサーは働かないように設定されています。あれ、今の話、暗に自分がゴキブリ以下ってことにならないか?
「ふふっ、良いけど、条件があるなぁ」
スカートの裾に手がかかる。僕はごくり、と生唾を飲み込み、スカートに穴が開くくらい目を凝らした。
「じょ、条件?」
「あたしのサポーターになってくれたら――」
その瞬間、僕は後ろに大きく引っ張られ、思わず体勢を崩した。代わりに長い黒髪が僕の前に躍り出た。
「相変わらず、人に媚び諂って生きるのが得意ね、樹」
険しい顔で神山先輩を睨み付ける竜胆先輩だった。神山先輩も嫌なものでも見たかのようにしかめっ面になり、手をかけていたスカートを手放して大げさにリアクションを取った。
「あぁ、あかりじゃん。いたんだ?」
「いたわよ。それより、人のサポーターにちょっかい出すのやめて貰えない?」
「人のサポーター?」
神山先輩が僕の胸元を覗き込む。そこには先ほど会長から貰ったグレーのサポーターバッチが輝いていた。
「なるほどね。そうなるとは思ってたけど、やっぱり抱え込んだんだ」
「どういうことよ」
「だって、あかりのサポーターになってくれる人なんていなかったんでしょ?」
まるで挑発するような口調。ヤバイ、と思った時には竜胆先輩は神山先輩に掴みかかっていた。怒りの形相。止めようとした僕の足がすくむほどだった。しかし、当の神山先輩は飄々とした感じで、挙句の果てには笑っているようにも見えた。
掴み掛かったまではいいが、竜胆先輩はそのまま一言も発さずに神山先輩を睨み付けているだけだった。
「……言い返さないんだ? ううん、言い返せないんだよね。だって図星だもん」
「黙りなさい」
「黙れって? いつまでそうやって人を威圧するようなことしてんの? だから周りに誰もいなくなっちゃうんだって、まだ分からないんだ?」
「黙りなさいっ!」
廊下に怒声が響き渡る。思わず耳を塞いでしまうほどの迫力に身を縮こまらせた。
一触即発。
竜胆先輩の口ぶりから、なんとなく神山先輩とは知り合いのような気はしていたが、なんだこれは、まるで犬猿の仲じゃないか。売り言葉に買い言葉じゃないが、神山先輩もわざと彼女を刺激するような言葉選びをしているんじゃないかと疑ってしまうくらい、酷く挑発的な言葉をぶつける。竜胆先輩の我慢が利かないのは今更だが、こうして怒っている姿を見たことが無かったので、僕はビビッて動けずにいる。
「樹にだけは言われたくないわ。私のことなんて何も分からないくせに」
すると、今まで余裕を見せていた神山先輩にひびが入った。酷く傷ついたように表情を曇らせると、さっきまでの挑発的な口調から打って変わって、静かに、囁くように言った。
「そういうこと言うんだ。悲しいな、それは」
「――っ」
弾かれたように竜胆先輩が神山先輩を突き放した。ふらっとしながらもきちんと二本の足で立つと、神山先輩は曇りガラスのような瞳を携えてこっちを見据えてきた。少し乱れた制服を直そうともせずに、まるで竜胆先輩がしたことを僕に見せ付けるかのように、静かに立っていた。
「あたし、絶対に当選すると思うよ」
断定。自分に絶対の自信を感じ取れる言葉だった。そして、それを憶測でも否定できる人物はこの中にいなかった。彼女の人気、彼女の知名度、彼女の意思、彼女の成績、どれを取っても突っ込むべき場所が見当たらない。目の前の生徒は、選挙という場において凶悪なアドバンテージを有している。当選するための、無類の強さを持っている。
「だからさ、コクハラくんもあたしに付けば、そのサポーターバッチ、絶対に本物にすることが出来るんだよ。どう? そんな無愛想で威圧的な女なんか捨ててさ、あたしのとこに来なよ。そっちのほうが良いって」
「樹っ!」
竜胆先輩が悲痛な面持ちで声を上げた後、泣きそうな顔をして見てきた。神山先輩が曇りガラスなら、竜胆先輩はさながら豪雨に耐え切れず、割れそうになっているガラスだった。やっぱり、永結凍土なんて嘘だ。こんな顔を向けられてまだそんなことが言えるやつがいたら僕の前に連れて来い。ぶん殴ってやる。
「何度も言うように、僕は神山先輩のサポーターにはなりませんって」
「どうして? 私のことなんて分からないくせにっ、とか言っちゃう痛い子だよ? いっつもむすっとしてて、自分のことばっかで、超ウザい子じゃん」
「僕は別にそうは思ってませんから」
「……へぇ」
反応が意外だったのか、驚いたように目を丸くした。
僕は知っている。入学式のときに見た竜胆先輩が、本当の彼女だということを知っている。だから、殴られようが罵られようが、僕はそうして断言する事が出来る。
「竜胆先輩は不器用なだけですよ。宣伝の日に黒いぱんつをはいてしまうくらいなんですから、ほんと不器用です」
「ちょっと君島くんっ」
赤面して恥ずかしがったかと思ったけど力いっぱいぶん殴られました。軽く吹っ飛んで廊下の壁に叩きつけられ、僕は脱力して崩れ落ちた。今のは少しだけ故意だったので彼女を攻める事は出来ない。
「見せ付けちゃってくれるねぇ、コクハラくん。その優しさ、あたしにも分けてくれないかな?」
神山先輩が中腰になって地面に這いつくばる僕を見下ろした。制服の胸元から美しい鎖骨が姿を現し、思わず目を逸らした。下のほうはどんとこいなのだが、上のほうにはめっきり耐性のない僕である。
「僕をコクハラとかいうよくわからない名前で呼ぶ人に与える優しさはありません」
「そうなの? じゃあ今からコーイチくんって呼ぶ」
「やめてください! なんかむず痒い!」
いやなんでむず痒いんだ。僕のれっきとした名前じゃないか。何か今まで土足で踏み入られてきた名前というプライバシー空間に、突然靴を脱いで新品の靴下で入ってこられたような感覚だった。よくわからない。
「ねぇあかり。勝負しない?」
数秒僕を見つめたかと思うと、突然そんなことを言い出した。
「勝負?」
「そ。コーイチくんを賭けて、あたしと勝負しようよ」
こーいち? なんだっけそれ。凄く聞き覚えのある言葉なんだけど、よく思い出せない。
「どうしてそこで君島くんが出てくるのよ」
ああ君島くん。君島って僕じゃないか。
え、僕っ!?
「僕を賭けるってどういうことですか!」
「あたし、本格的にコーイチくんが欲しくなっちゃった」
「ひぃっ」
ドキッとするようなことを言われたはずなのに、舌なめずりをし妖艶に微笑む神山先輩を見た途端、恐怖に変わった。狩猟者の目だ。ちろっ、と唇の上で蠢く赤い舌はまさに蛇そのもの。僕は狙いを定められた獲物のごとく、ただただ狩られる瞬間を怯えながら待つしかない、惨めな存在になった気分がした。
「勝負の内容を聞かせて」
「えっ、受けるんですか!」
「樹からの挑戦を跳ね除けるなんて、逃げてるみたいで嫌だもの」
てっきり「意味が分からないわ」みたいなことを言って断ると思ってたのに! ディーラーの前に出されるチップには意思などないとでも言うように、僕はいとも簡単に賭けの対象と化した。
「そうこなくっちゃ。内容は簡単、審判員選挙での票数。これで勝敗を決めるってのはどう?」
「それは……」
突きつけられた内容に、竜胆先輩は瞳に迷いの色を浮かべた。
無謀。その言葉がよく当てはまる勝負だ。その条件を突きつけた神山先輩を卑怯だと罵っても問題ないくらいに、それは神山先輩側に有利な勝負の内容だった。彼女が先ほど自分で言ったように、僕から見ても神山先輩の当選はほぼ確実だと思われる。相当酷い事件でも起きない限り、それは揺るがないだろう。そんな相手と票差をつけ、勝たなければならない。馬鹿らしい。ゴールテープ手前にいる相手をスタートラインから抜き去るくらいの難易度。クソゲー過ぎてワゴン行き決定だろう。
僕はふざけるなと声を荒げてやりたくなったが、
「受けるわ」
という信じられない言葉に遮られてしまった。
「へえ、受けるんだ。本当に良いの? 分かってる、自分の言っていることの意味?」
僕が思ったことは、そのまま神山先輩が代弁してくれた。
「何度も言わせないで。受けるって言ってるでしょ」
竜胆先輩を見て、僕は絶句した。
意思が無い。激流に流されながら、はたから見ている人には「泳いでいるの」と言い放つような、不安と嘘だらけの酷い顔をしていた。隠そうとしても隠し切れていない不安。自分の意思で泳いでなんていない。プライドから出た強がりで、泳いだふりをして、必死に取り繕うだけの惨めな格好。泳いでいるのは目のほうだ。後悔する前に今の発言を撤回してください。この賭けが少しでも無謀だと思うのなら、今すぐに撤回してください。そして、自分に有利になるような条件を提示して、冷静に勝負を見極めてください。
「分かった。じゃあそういうことで交渉成立ね。もう待ったは聞かないから」
「そんなことしないわ」
「そ。明日広報部がアンケートで取った途中結果を掲示板に掲載するらしいから、授業が始まる前にでも見ると良いよ。自分で言っておいてなんだけどさ、正直受けるとは思わなかった。流石のあかりもそんな馬鹿じゃないって思ってたけど、違ったね。掲示板見て、反省すると良いよ」
「忠告どうも。何か用事があるんでしょ、早く行けば?」
「そうさせてもらうよ。じゃ、コーイチくんもバイバイッ!」
言って、神山先輩は風のように去っていった。
取り残された僕と竜胆先輩は、互いに気まずい空気でしばらくその場を動けなかった。正直、僕は竜胆先輩が謝ってくれるんじゃないかと、そんな淡い期待を抱いていた。勝手に決めてしまってごめんなさいねとか、少し無謀だったかもしれないわとか、そういう言葉を待っていて、だから僕はずっと黙っていた。
でも、僕が一人で立ち上がるまで、彼女はたったの一言も口にしなかった。顔を合わせようともしない。最後に神山先輩に言い放ったものも、きっと顔を合わせていられなかったからだろう。
大分暗くなってきた夕焼けが、竜胆先輩の横顔に影を作っていた。僕は眩しいほうに視線を向けながら、「帰りましょう」と提案した。
「先に帰って良いわよ。私はまだやることがあるから」
「選挙関係ですか? だったら手伝いますけど……」
「テスト関連よ。一等生の君島くんに手伝える事はないわ」
「そうですか……」
テストなんて、ずっと先なのに。もう勉強し始めるんですか。
「分かりました。先にお暇します。明日から頑張りましょうね」
「ええ……」
声に力が無い。明らかに意気消沈している先輩に対して、段々と怒りのようなものが湧いてきた。せめて、せめて空元気でも良いから自信満々でいて欲しい。既に負け戦を体験しているような顔をしないで欲しい。
僕は背を向けかけた身体を元に戻し、声を低く抑えて言った。
「やるからには、勝ってくださいよ。僕は神山先輩が苦手なんですよ。彼女のサポーターになんかなったら、一体どんなことをされるか分かったもんじゃありません。だから僕は全力で先輩をサポートします。何かあったら言ってくださいね」
「分かってるわよ」
ほんの少しだけ色の混じった声で返して、先輩は小さく頷いた。
校舎を後にする。外から暁色に染まった校舎を見上げ、さっきまでいた生徒会室前を探してしまった。僕も僕で、先輩のことは言えないのかもしれない。
本当は言ってやりたかった。
あなたはどんな勝算があってこの勝負を受けたんですか。一体何割の確率を信じて神山先輩に対抗しようとしているんですか。
それとも。
僕があなたのサポーターでなくなっても、別に構わないと思っているんですか、と。