読む者の値段
宿場町は、道の途中にあるはずなのに、道そのものみたいな顔をしていた。
荷車が行き交い、馬の鼻息が白く、干し肉と湯気の匂いが混じる。建物は低く、看板は大きい。旅人が迷わないように、迷わない程度の派手さだけが揃っていた。
エルディアとリュシアが町に入った瞬間、視線が寄る。
勇者だから、ではない。
「噂が先に着いている」視線だった。
宿の前で、リュシアが足を止めた。看板を見上げるふりをして、入り口の脇の張り紙に目を留める。
羊皮紙の端に、粗い筆で書かれた短文がある。
――勇者、記録官を連れて辺境へ。
――公文書院、原本を隠匿。
――評議会、追及へ。
どれも断定の形をしていて、断定できる者の気配がない。噂の文章だ。噂が、噂以上の速度で整えられている。
「……歪みが早い」
リュシアが小さく呟く。
「監察局か?」
「監察局なら、もっと正しい言葉を使います」
彼女は張り紙の角を指先で押さえ、紙の質を確かめるように撫でた。
「これは市場の言葉。売買の匂いがする」
宿に入ると、暖気が肌にまとわりついた。火鉢の音、人の笑い、木の床が軋む音。旅の途中で人が立ち寄り、疲れを落とし、また去っていく場所の音だ。
だが、その音の底に、別の音がある。
小さな囁き。
「勇者だ」
「記録官も一緒だって」
「原本を隠したらしい」
誰もこちらに近づかない。距離を置いたまま、言葉だけが纏わりついてくる。
エルディアは、それが剣より厄介だと思った。
剣なら、間合いがある。近づけば切れる。遠ければ届かない。
噂は違う。近づかなくても刺さる。遠くまで届く。
「部屋を」
リュシアが宿主に告げると、宿主は必要以上に丁寧に頭を下げた。
「もちろん。……あの、できればお二人とも、今夜は外へ出ない方が」
「理由は?」
リュシアが訊く。
宿主は言い淀み、目を泳がせて答えた。
「商会の方が……訪ねてくるかもしれません」
商会。
リュシアの眉が、ほんの少しだけ動く。
「どこの」
「灰色帳簿商会です」
宿主は言い切った。言い切れるほど、この町ではその名が“普通”なのだ。
「物流も警備も、だいたいあそこが」
宿主はそれ以上言わず、鍵を渡して退いた。言わないことが、言っている。
階段を上がり、二階の端の部屋へ入ると、窓から街道が見えた。道の先に、道が続いている。旅の途中の町は、旅人を留めないために作られている。
「ここで噂が整うのは早すぎる」
リュシアが荷を下ろしながら言う。
「誰かが、噂を“流している”」
「商会か」
「可能性が高い。噂は商品ですから」
リュシアは小箱を抱えて机の引き出しに入れ、鍵を掛けた。鍵を掛けたことで安全になったわけではない。けれど、掛けないよりはましだ。
「今夜は様子を見る。動くなら、相手の顔を見てから」
彼女はそう言って、窓の外を見た。
宿場町の夕暮れは早い。灯りが点き、影が伸び、噂が歩く。
⸻
夜、階下の酒場は賑やかだった。
笑い声が壁を伝い、木の床が揺れる。けれど、その賑やかさは、部屋の扉を閉めれば遠い。遠いのに、消えない。
リュシアは机の上に紙を広げ、短い覚え書きを作っていた。今日見た張り紙、宿主の言葉、視線の種類。記録官の手つきは、こういう時に止まらない。
エルディアは、鞘に触れないまま椅子に座っていた。
「剣で解けない」
ぽつりと漏らすと、リュシアは筆を止めずに言う。
「剣で解ける問題は、ここにはありません。あるのは、使われる言葉です」
使われる言葉。
第五話で見た歪んだ引用が、すぐに脳裏に浮かぶ。
その時、廊下の床が、かすかに鳴った。
酒場の足音ではない。重心が低く、静かで、目的のある歩き方。
エルディアは視線だけでリュシアに合図する。リュシアは一瞬だけ筆を止め、何も言わずに紙を畳んだ。
扉の向こうで、息がする。
鍵穴に、金属が触れる微かな音。
――来た。
エルディアは立ち上がり、剣には触れず、扉の横に立った。リュシアは机の影へ移り、灯りを少し落とした。暗がりは怖さを生む。だが、怖さは武器にもなる。
鍵が回る。ゆっくり。慎重に。
だが、鍵は回らない。宿の鍵は簡単だが、簡単なものほど、失敗が目立つ。
扉が、薄く開いた。
黒い影が、するりと入ってくる。
その瞬間、エルディアは相手の腕を掴み、扉へ押し戻した。相手が叫ぶ前に、口元に手を当てる。刃は抜かない。音を出さない。
影が暴れ、肘が当たって小さな音が鳴った。だが、それ以上の騒ぎにはならなかった。
エルディアは相手を床に押さえ、耳元で低く言う。
「何を探しに来た」
影は息を荒くし、言葉にならない声を出す。
リュシアが近づき、灯りの下へ影の顔を引き寄せた。若い男だ。旅装ではない。革の手袋。指先が硬い。書類を扱う者の手ではない。鍵や箱を扱う手だ。
リュシアは男の腰袋を探り、小さな紙片を取り出した。折り畳まれた走り書き。
――箱。
――鍵。
――勇者の荷。
短い単語だけ。
内容よりも、その形式が怖い。
「指示書ね」
リュシアが言う。
「誰から」
男は震え、視線を逸らす。
エルディアが力を少しだけ強めると、男は呻き、かすれ声で吐いた。
「……商会」
リュシアの目が細くなる。
「灰色帳簿商会?」
男は頷く。頷きながら、どこか安心している。正しい答えを言えば殺されない、と信じている顔だった。つまり、彼は“殺される可能性”がある仕事をしている。
「箱を見つけたら、どうするつもりだった」
リュシアが訊く。
男は唇を噛み、答えた。
「……中身は要らない」
その言葉に、部屋の空気が一段冷える。
「要るのは、存在の証拠だ。箱があるってだけで、値段がつく」
噂が商品になる理由が、ここにあった。
リュシアは男の手袋を外し、指先を見た。蝋の欠片が付着している。封蝋を扱った痕だ。公文書院の封蝋とは色が違う。灰色に近い、鈍い赤。
「封印の色」
彼女は小さく呟いた。
「この町の封印は、商会の色だ」
エルディアは男を起こし、扉の外へ出した。廊下の端、暗がりで低く言う。
「今すぐ帰れ」
「……帰れって」
「帰って、伝えろ。箱の中身は売れない。売れるのは、売ろうとしたお前の首だ」
男は目を見開き、震えながら頷いた。脅しではない。現実だ。商会の下働きは、失敗すれば切られる。
男が逃げるように階段を下りていく音が消えると、リュシアは扉を閉め、背を預けた。
「監察局じゃない」
「市場だ」
エルディアが言う。
「市場は、制度より速い。制度は印章で動くけど、市場は噂で動く。噂は誰の手にも握られないようでいて、握っている者がいる」
リュシアは机へ戻り、紙を広げた。今度は覚え書きではない。対策の設計だ。
「灰色帳簿商会の目的は二つ。私たちの荷を確かめること。もう一つは、私たちを“自分たちの値札”にすること」
「値札?」
「勇者が動いた、記録官が動いた。原本があるらしい。そういう札を立てれば、人が寄る」
人が寄れば金になる。
金になれば、力になる。
力になれば、制度にも触れられる。
「……明日、来るわね」
リュシアが言った。
「訪ねてくる。礼儀正しく」
礼儀正しい敵は、断り方が難しい。
⸻
翌日、昼。
予想通り、商会の人間は来た。
宿の一階の奥、借りた小部屋に通される。火鉢があり、茶が出る。もてなしの形が整いすぎていて、こちらが拒絶しづらい。
扉が開き、男が入ってきた。
身なりがいい。派手ではないが、布が上質だ。笑みは柔らかく、目は冷たい。
「お会いできて光栄です。勇者エルディア殿。公文書院の記録官リュシア殿」
男は名乗った。
「灰色帳簿商会、代表取締役――ソーレンと申します」
代表取締役、という言葉はこの世界に似合わないはずなのに、彼が言うと似合ってしまう。制度の言葉を市井に落とし、商品にする人間の口だ。
「突然の訪問をお許しください。宿場町では噂が荒れやすい。お二人を守るために、まず礼を尽くしたい」
「礼は要りません」
リュシアが平らに言う。
「要るのは、用件です」
ソーレンは笑みを崩さない。
「用件は単純です。協力関係を築きたい」
「何の」
「噂の整理です」
リュシアの眉が微かに動く。
「整理?」
「噂は汚い。放っておくと、無辜の者が傷つく。だから我々が、適切に整える。秩序のために」
秩序。
その言葉が、監察官レオニスと同じ匂いを持っていた。
「あなたは、監察局の真似をする」
リュシアが言うと、ソーレンは軽く首を振った。
「逆です。監察局が、我々の真似をしている」
市場の方が先にあった、と言いたいのだろう。
「具体的に言いましょう」
ソーレンは指を鳴らさずに、机の上へ紙を置いた。印章付きの書面。商会の紋章。灰色の帳簿を象った意匠。
「我々は、あなた方の“辺境報告抄録”を配布します。正確な形で」
エルディアが言う。
「抄録?」
「全文は重い。人は読まない。読むのは要点だ。要点を配れば、誤解は減る」
誤解は減る。
その言葉は正しい顔をしている。正しい顔をした言葉ほど危険だ。
「条件は?」
リュシアが訊くと、ソーレンは待っていましたと言わんばかりに言う。
「あなた方の“承認”です」
承認。署名に近い響き。
「勇者エルディア殿の名が必要だ。あなたの言葉は、人を動かす。記録官殿の名も必要だ。形式が正しければ、人は信じる」
エルディアは、静かに首を振った。
「断る」
即答だった。
ソーレンは驚かない。驚かないように準備してきた顔だ。
「なぜ。誤解が減る。人が救われる」
「救われるのは、誰だ」
エルディアの問いに、ソーレンは笑みを保ったまま答える。
「町です。人々です。もちろん……我々も利益は得る」
利益は得る、と言えるのが彼の強みだ。嘘がない。嘘がないから信用される。
「あなた方は、旅をしている。その旅路は、危険でしょう」
ソーレンの声が少しだけ低くなる。
「箱が狙われる。噂が増える。監察局も動く。……我々はそれを止められる」
止められる、と言い切る。つまり、止めるかどうかを握っている。
「代価は?」
リュシアが問う。
「名です」
ソーレンは繰り返す。
「そして、解釈です」
リュシアの目が細くなる。
「解釈を混ぜる?」
「混ぜる、ではなく整える。例えば――『勇者は秩序を望む』。そう書けば、人は安心する」
安心。
安心のために、余白を埋める。白い余白を、都合のいい言葉で。
「あなたは、余白を売る」
リュシアが言うと、ソーレンは肩をすくめた。
「余白は不安だ。不安は暴れる。暴れる前に、値札を付けて落ち着かせる。それが商いです」
エルディアは、机の上の紙を見た。承認欄がある。勇者の名を書く場所がある。
これは、評議会の署名要求と同じ構造だ。
制度が求めるか、市場が求めるかの違いしかない。
「断る」
エルディアはもう一度言った。
「俺の名は、誰の秩序にも売らない」
ソーレンの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「残念です」
それでも彼は、怒らない。怒る必要がないからだ。
「では、別の形で協力しましょう。あなた方が探している“読む人”――この町にもいます」
リュシアが目を細める。
「知っているの?」
「もちろん。読む者は、商品です」
ソーレンはさらりと言った。
「読む者は噂を正しくする可能性がある。だからこそ、保護が必要だ」
保護。
また、その言葉だ。
「我々の庇護下に置けば安全だ。あなた方が直接会うより、ずっと」
リュシアは息を吸い、吐いた。
「あなたは、読む者を飼う」
ソーレンは否定しない。
「安全のためです。どうか、理解を」
理解。
その言葉の温度の低さが、部屋を冷やした。
ソーレンは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「今夜、返事を。噂は待ってくれません」
彼が去ると、部屋には火鉢の音だけが残った。
リュシアが小さく言う。
「監察官レオニスと同じ。正しい顔で、余白を埋める」
「違うところは?」
「値段が見える」
リュシアは言い切った。
「制度は値段を隠す。市場は値段を見せる」
どちらがましかは、簡単には決められない。
見える値段は払いやすい。払いやすいから、払ってしまう。
「読む人、か」
エルディアが呟く。
「会うべきだ」
リュシアはうなずいた。
「ただし、巻き込まない方法で」
巻き込まない方法。
それが、今の二人の戦い方だった。
⸻
写本工房は、町の端にあった。
宿場町の中心は酒と荷だが、端には紙と墨がある。旅人が通り、噂が生まれ、噂が文字になり、また噂になる。写本工房は、噂の加工場でもある。
扉を開けると、墨の匂いが濃い。紙が積まれ、羽ペンが並び、乾燥させた羊皮紙が天井から吊られている。
奥で、少年が机に向かっていた。十六、七。細い肩。だが背中の線は真っ直ぐだ。読む人間の背中だ。
少年は二人に気づき、目を上げた。驚くより先に、確認する目。
「……勇者」
少年が言った。名ではなく役割で呼ぶ。修道院の修道士と同じ距離感。
「ここは写本屋だ」
少年は続けた。
「剣を買いに来たなら、隣の店」
「買いに来たのは、剣じゃない」
エルディアが言う。
「読む人を探している」
少年の目が、ほんの少しだけ変わる。熱が入る。
「読む人?」
リュシアが名乗った。
「公文書院の記録官、リュシア。あなたの名前は」
少年は少し迷ってから言った。
「ユノ」
「ユノ。あなたは何を読んでいるの」
リュシアが訊くと、ユノは机の上の紙束を見せた。粗い写し。ところどころ文字が薄い。何度も回された跡。
エルディアは、そこに自分の言葉を見つけた。
話の断片。
歪んだ引用も混じっている。けれどユノは、歪みを歪みとして扱っていた。紙束の端に小さな注釈がある。
――出所不明。
――文脈欠落。
――言い切りは危険。
「……どうして、そんな注釈を」
リュシアが訊く。
ユノは墨のついた指で紙の端を押さえ、静かに言った。
「人が切られるから」
短い言葉だった。
「言葉で」
ユノは目を逸らさない。
「切られた人は、いなくなる。いなくなると、最初からいなかったみたいになる」
エルディアの胸の奥が痛んだ。セイラの声と同じ匂いがした。
「だから、残す」
ユノは続けた。
「残すために読む。使うためじゃない」
リュシアは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。喜びと痛みが混じった表情だった。
「……あなたは危険だ」
リュシアが言うと、ユノは首を傾げた。
「危険なのは読むことじゃない。読ませ方だ」
鋭い。
「灰色帳簿商会に会った?」
リュシアが問うと、ユノはわずかに口元を歪めた。
「毎日来る。『噂を整える』って言って」
「彼らの庇護下に入れと言われた?」
「言われた。断った」
ユノは淡々と言った。
「断ると、紙が入らなくなる。墨が高くなる。客が減る」
それは暴力ではない。生活を締める暴力だ。市場の暴力。
「それでも断った?」
エルディアが訊くと、ユノはうなずく。
「読むのは仕事じゃない。息みたいなものだ」
息を止めろと言われたら死ぬ。
読むのを止めろと言われたら、ユノはここで死ぬ。
リュシアは机の上の紙束を見つめ、低く言った。
「あなたを巻き込みたくない」
「巻き込まないなら、来ない方がよかった」
ユノは言った。
「来た時点で、もう巻き込んでる」
正しい。
正しいから痛い。
エルディアは、剣ではなく言葉を選んだ。
「原本は渡せない」
ユノは頷く。期待していなかった顔だ。
「でも」
エルディアは続ける。
「読み方は渡せる」
リュシアが息を止める。
ユノの目が少しだけ見開かれる。
「読み方?」
「余白を残す読み方だ」
エルディアは言った。
「切り取られた言葉を、切り取られたまま扱わない。文脈がないなら、ないと書く。断定しない。分からないと言う」
ユノは、小さく笑った。
「それ、普通のことだ」
「普通じゃない」
リュシアが言った。
「今の世界では、普通じゃない」
ユノは笑みを消し、真面目に頷いた。
「じゃあ、教えて」
その瞬間、リュシアは決めた顔になった。
彼女は紙を一枚取り出し、ペンを取った。
「注釈の作法を教える。公文書院の形式じゃない。地下目録の形式」
「地下目録」
ユノが繰り返す。
「目録は、一冊である必要がない」
リュシアは言った。
「断片でいい。断片を持つ人が増えれば、誰か一人が奪われても全ては消えない」
エルディアは、小箱には触れないまま、懐から小さな封筒を一つ取り出した。中身は紙片。地名の頭文字と番号、符号。
鍵の一部ではない。鍵へ至る道の、一部。
それをユノに渡す瞬間、胸の奥がひやりとした。
渡す=巻き込む。
でも、渡さなければ独りだ。独りは簡単に消える。
「これは、断片」
エルディアが言う。
「これだけでは、何も開かない。だが、あなたが読めば、いつか繋がる」
ユノは受け取り、掌の上で紙片を見つめた。重さはない。けれど受け取る手が、少しだけ震えた。
「……値段は」
ユノが訊いた。
リュシアが答えた。
「あなたが生きること」
ユノは目を瞬かせた。意味を測るように。
「そして、誰も切らないこと」
エルディアが続ける。
「あなたの読みが誰かを切りそうになったら、止まれ。止まって、余白に『止まった』と書け」
ユノはゆっくり頷いた。
「分かった」
その時、外で騒ぎが起きた。
足音が増え、男の声がする。乱暴ではない。乱暴になれる位置に、乱暴にならない言葉を置く声。
「ユノ。客だ」
ユノの顔色が変わる。
「……商会」
リュシアが立ち上がり、窓の外を覗く。灰色帳簿商会の紋章が刺繍された上着。二人。笑っている。
笑いながら、扉を叩いている。
「開けなくていい」
エルディアが言う。
「でも、開けないと……」
ユノが言い淀む。
「次から紙が入らない。墨が……」
生活を締める暴力は、扉を壊さない。扉を壊さないから、こちらが壊れる。
リュシアは一瞬だけ目を閉じ、開いた。
「……逃げ道」
彼女は工房の奥を見た。小さな裏口。紙の束が積まれた隙間。
「ユノ。今夜、工房を離れられる?」
ユノは唇を噛む。
「離れたら、ここが終わる」
「終わらない」
エルディアが言った。
「終わるのは、ここじゃない。あなたが消えることだ」
扉の叩く音が、もう一度。丁寧に。
「ユノ。話がある。あなたにとって悪い話じゃない」
ソーレンの声ではない。部下だろう。
ユノは決めたように、小さく頷いた。
「……今夜、出る」
リュシアはすぐに動いた。紙束を取り、箱に入れ、隠すのではなく“見える場所”に置く。探す側が探したくなる餌を作る。時間を稼ぐための仕事だ。
「今は会わない」
リュシアが言う。
「扉は閉めたまま。返事は保留。あなたは奥へ」
ユノは奥へ走り、裏口の扉に手を掛けた。
エルディアは、剣に触れず、工房の扉へ近づいた。扉の向こうに、こちらの呼吸を感じさせる距離。
「ユノは今いない」
低く言うと、向こうの叩く手が止まった。
「……勇者殿?」
驚きの声。
「商会に伝えろ。今夜、返事はしない」
沈黙。
「では、明日」
「明日も同じだ」
エルディアは言った。
「返事が欲しいなら、噂を止めろ」
向こうが小さく笑った気配がする。
「噂は止まりません。噂は道です」
「なら、道を変えろ」
エルディアは言い切った。
「道を変えるのが商会だろう」
扉の向こうは、それ以上何も言わなかった。
足音が遠ざかる。
静けさが戻る。戻った静けさは、さっきより怖い。次は、生活の方から締めてくる。
リュシアが小さく息を吐いた。
「今夜、ここを出る。ユノは一緒に宿へ来ない。目立つ」
「じゃあ、どこへ」
「修道院じゃない。修道院はもう使えない」
リュシアは言った。
「旧戦時倉庫へ向かう道の途中に、放棄された見張り小屋がある。そこまで」
エルディアは頷いた。
ユノが裏口から戻ってきた。顔は青いが、目は決まっている。
「……読んで、いい?」
ユノが掌の紙片を見つめて言う。
「いい」
エルディアが答える。
「ただし、あなた一人で全部を背負わない。背負いそうになったら、余白に置け」
ユノはゆっくり頷いた。
「余白に、置く」
リュシアはユノの机に小さな紙を置いた。そこには一行。
――断定しない。出所を書け。分からないなら分からないと書け。
「これが、地下目録の最初の掟」
リュシアが言った。
「あなたが読むことで、記録は生き延びる。でも、あなたが壊れたら意味がない」
ユノは短く頷き、紙を畳んで懐へ入れた。
「行く」
その一言は、決断だった。
工房を出る時、ユノは振り返らなかった。振り返れば、戻りたくなるからだろう。
宿場町の裏路地は暗く、灯りが少ない。けれど少ない灯りほど影が濃い。影の濃い場所を選び、三人は静かに歩いた。
エルディアは剣に触れない。触れれば、剣の物語になる。今必要なのは剣の物語ではない。読む者の物語だ。
町外れの草地に出る直前、遠くで馬の蹄の音がした。
追手ではない。追手に見えない速さ。市場の足。噂の足。
リュシアが低く言う。
「動いた。早い」
エルディアは歩幅を変えずに言った。
「走るな。走れば追われる」
走らずに消える。
消えるために、目立つ話を残す。
リュシアは小さく封筒を一つ取り出し、道端の掲示板に貼り付けた。新しい噂を上書きするための噂。
――勇者、商会の誘いを断る。
――原本はない。
――読む者は、誰にも売られない。
事実と嘘が混じる。けれど、真実を守るための嘘だ。
ユノがそれを見て、息を呑んだ。
「……嘘だ」
「嘘です」
リュシアは言い切った。
「でも、あなたを守る嘘。私たちは今、そういう段階にいる」
ユノは言葉を失い、ただ頷いた。読む人は、こういう時に黙る。黙って、余白を覚える。
町の灯りが背後で小さくなる。風が冷たい。草が擦れる音がする。
見張り小屋に着いた時、三人はようやく呼吸を戻した。
小屋は古い。壁が剥げ、床がきしむ。それでも屋根がある。屋根があるだけで、人は少しだけ安心する。
ユノが小さく言った。
「……読むって、こんなに重いのか」
リュシアが答える。
「読むのは背負うことです。だから一人で背負わない仕組みを作る」
エルディアは窓から外を見た。遠くに宿場町の灯り。灯りの下で噂が増えているだろう。
「値段を払わせるのが市場だ」
エルディアが呟く。
「俺たちは?」
ユノが訊く。
エルディアは少し考えてから言った。
「値段を分ける。背負う重さを分ける」
それが地下目録の思想だ。
真実は一枚で残らない。読む手を増やして残す。
リュシアはユノに向き直った。
「あなたは、ここから先、私たちと一緒には行かない」
ユノの目が見開かれる。
「……置いていく?」
「置くんじゃない。広げる」
リュシアは静かに言った。
「あなたはこの町へ戻る。商会の中に“読む目”を置く。危険なら、逃げる。その判断はあなたがする」
ユノの手が震える。
「戻ったら、潰されるかもしれない」
「潰されそうになったら、余白を使う」
リュシアは言う。
「『今は書けない』と書く。それも記録。生き延びるための記録」
ユノは唇を噛み、頷いた。
「分かった」
エルディアはユノの掌に、もう一つだけ小さな紙片を置いた。
そこには短い合図。
――朝の約束。
言葉は暗号ではない。約束だ。読む者同士の、目印。
「何かあったら、この言葉を使え」
「誰に」
「読む人に」
エルディアは言った。
「読む人は一人じゃない。君が増やすんだ」
ユノは紙片を握りしめ、目を閉じた。短く深呼吸をして、開いた。
「……生きて読む」
その言葉は、祈りに近かった。
⸻
その頃、宿場町の中心では、灰色帳簿商会のソーレンが、窓辺で紙片を指先で弄んでいた。
部下が報告する。
「工房のユノが消えました。勇者と記録官が接触した形跡があります」
「そう」
ソーレンは笑う。怒らない。怒る必要がない。
「読む者は、守られると価値が上がる」
部下が戸惑う。
「追いますか」
「追うのは簡単だ。だが、追えば監察局が嗅ぎつける」
ソーレンは机の上の別の紙を示した。王都の印のある短い書面。監察局からの問い合わせだ。礼儀正しく、しかし拒めない文面。
「市場は制度に勝てない。勝つ必要もない。……制度の刃を、こちらの値札に掛ければいい」
部下が息を呑む。
「監察局に売るのですか」
「売る、ではなく“共有”する」
ソーレンは微笑んだ。
「噂は道だ。道は一つじゃない。――勇者は道を変えろと言った。なら変える」
彼は窓の外を見た。宿場町の灯りの中で、噂が増殖している。
「読む者は、いずれ見つかる。見つかった瞬間が一番高い」
そして小さく付け加える。
「その瞬間に、値段を決めるのは我々だ」
⸻
夜明け前、見張り小屋でエルディアとリュシアは荷を整えた。
ユノは小屋の隅で、小さな紙束に注釈を書いている。恐怖で眠れないのではない。読む者は、怖い時ほど書く。
リュシアがユノに最後の確認をする。
「出所を書けるものだけを残す。出所が曖昧なものは、曖昧だと書く」
「うん」
「断定しない。断定すると、誰かが切られる」
「うん」
ユノは頷き続ける。その頷きが、背負う覚悟に見えた。
エルディアは扉を開け、外の空気を吸った。冷たい。だが、冷たさは目を覚ます。
この旅は、剣で勝つ旅ではない。
読む人を増やし、余白を守る旅だ。
「行く」
エルディアが言うと、リュシアは頷いた。
「次は旧戦時倉庫。その先で、もう一つ置く」
置く。分ける。広げる。
勝つのではなく、消されない形にする。
背後でユノが小さく言った。
「朝の約束」
確認のように。
エルディアは振り返らずに答えた。
「朝の約束」
合図が合図として成立した瞬間、読む人の輪郭が一つ増えた。
夜明けの光が、草地に薄く落ちる。
その同じ光のどこかで、噂もまた走り始める。
誰が値段を付けるのか。
誰が背負うのか。
答えはまだ白い余白にある。
だから、歩く。
もし続きが気になりましたら、★評価をいただけると励みになります。




