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9/12

読む者の値段

 宿場町は、道の途中にあるはずなのに、道そのものみたいな顔をしていた。


 荷車が行き交い、馬の鼻息が白く、干し肉と湯気の匂いが混じる。建物は低く、看板は大きい。旅人が迷わないように、迷わない程度の派手さだけが揃っていた。


 エルディアとリュシアが町に入った瞬間、視線が寄る。


 勇者だから、ではない。


 「噂が先に着いている」視線だった。


 宿の前で、リュシアが足を止めた。看板を見上げるふりをして、入り口の脇の張り紙に目を留める。


 羊皮紙の端に、粗い筆で書かれた短文がある。


 ――勇者、記録官を連れて辺境へ。

 ――公文書院、原本を隠匿。

 ――評議会、追及へ。


 どれも断定の形をしていて、断定できる者の気配がない。噂の文章だ。噂が、噂以上の速度で整えられている。


「……歪みが早い」


 リュシアが小さく呟く。


「監察局か?」


「監察局なら、もっと正しい言葉を使います」


 彼女は張り紙の角を指先で押さえ、紙の質を確かめるように撫でた。


「これは市場の言葉。売買の匂いがする」


 宿に入ると、暖気が肌にまとわりついた。火鉢の音、人の笑い、木の床が軋む音。旅の途中で人が立ち寄り、疲れを落とし、また去っていく場所の音だ。


 だが、その音の底に、別の音がある。


 小さな囁き。


「勇者だ」


「記録官も一緒だって」


「原本を隠したらしい」


 誰もこちらに近づかない。距離を置いたまま、言葉だけが纏わりついてくる。


 エルディアは、それが剣より厄介だと思った。


 剣なら、間合いがある。近づけば切れる。遠ければ届かない。

 噂は違う。近づかなくても刺さる。遠くまで届く。


「部屋を」


 リュシアが宿主に告げると、宿主は必要以上に丁寧に頭を下げた。


「もちろん。……あの、できればお二人とも、今夜は外へ出ない方が」


「理由は?」


 リュシアが訊く。


 宿主は言い淀み、目を泳がせて答えた。


「商会の方が……訪ねてくるかもしれません」


 商会。


 リュシアの眉が、ほんの少しだけ動く。


「どこの」


「灰色帳簿商会です」


 宿主は言い切った。言い切れるほど、この町ではその名が“普通”なのだ。


「物流も警備も、だいたいあそこが」


 宿主はそれ以上言わず、鍵を渡して退いた。言わないことが、言っている。


 階段を上がり、二階の端の部屋へ入ると、窓から街道が見えた。道の先に、道が続いている。旅の途中の町は、旅人を留めないために作られている。


「ここで噂が整うのは早すぎる」


 リュシアが荷を下ろしながら言う。


「誰かが、噂を“流している”」


「商会か」


「可能性が高い。噂は商品ですから」


 リュシアは小箱を抱えて机の引き出しに入れ、鍵を掛けた。鍵を掛けたことで安全になったわけではない。けれど、掛けないよりはましだ。


「今夜は様子を見る。動くなら、相手の顔を見てから」


 彼女はそう言って、窓の外を見た。


 宿場町の夕暮れは早い。灯りが点き、影が伸び、噂が歩く。



 夜、階下の酒場は賑やかだった。


 笑い声が壁を伝い、木の床が揺れる。けれど、その賑やかさは、部屋の扉を閉めれば遠い。遠いのに、消えない。


 リュシアは机の上に紙を広げ、短い覚え書きを作っていた。今日見た張り紙、宿主の言葉、視線の種類。記録官の手つきは、こういう時に止まらない。


 エルディアは、鞘に触れないまま椅子に座っていた。


「剣で解けない」


 ぽつりと漏らすと、リュシアは筆を止めずに言う。


「剣で解ける問題は、ここにはありません。あるのは、使われる言葉です」


 使われる言葉。

 第五話で見た歪んだ引用が、すぐに脳裏に浮かぶ。


 その時、廊下の床が、かすかに鳴った。


 酒場の足音ではない。重心が低く、静かで、目的のある歩き方。


 エルディアは視線だけでリュシアに合図する。リュシアは一瞬だけ筆を止め、何も言わずに紙を畳んだ。


 扉の向こうで、息がする。


 鍵穴に、金属が触れる微かな音。


 ――来た。


 エルディアは立ち上がり、剣には触れず、扉の横に立った。リュシアは机の影へ移り、灯りを少し落とした。暗がりは怖さを生む。だが、怖さは武器にもなる。


 鍵が回る。ゆっくり。慎重に。

 だが、鍵は回らない。宿の鍵は簡単だが、簡単なものほど、失敗が目立つ。


 扉が、薄く開いた。


 黒い影が、するりと入ってくる。


 その瞬間、エルディアは相手の腕を掴み、扉へ押し戻した。相手が叫ぶ前に、口元に手を当てる。刃は抜かない。音を出さない。


 影が暴れ、肘が当たって小さな音が鳴った。だが、それ以上の騒ぎにはならなかった。


 エルディアは相手を床に押さえ、耳元で低く言う。


「何を探しに来た」


 影は息を荒くし、言葉にならない声を出す。


 リュシアが近づき、灯りの下へ影の顔を引き寄せた。若い男だ。旅装ではない。革の手袋。指先が硬い。書類を扱う者の手ではない。鍵や箱を扱う手だ。


 リュシアは男の腰袋を探り、小さな紙片を取り出した。折り畳まれた走り書き。


 ――箱。

 ――鍵。

 ――勇者の荷。


 短い単語だけ。

 内容よりも、その形式が怖い。


「指示書ね」


 リュシアが言う。


「誰から」


 男は震え、視線を逸らす。


 エルディアが力を少しだけ強めると、男は呻き、かすれ声で吐いた。


「……商会」


 リュシアの目が細くなる。


「灰色帳簿商会?」


 男は頷く。頷きながら、どこか安心している。正しい答えを言えば殺されない、と信じている顔だった。つまり、彼は“殺される可能性”がある仕事をしている。


「箱を見つけたら、どうするつもりだった」


 リュシアが訊く。


 男は唇を噛み、答えた。


「……中身は要らない」


 その言葉に、部屋の空気が一段冷える。


「要るのは、存在の証拠だ。箱があるってだけで、値段がつく」


 噂が商品になる理由が、ここにあった。


 リュシアは男の手袋を外し、指先を見た。蝋の欠片が付着している。封蝋を扱った痕だ。公文書院の封蝋とは色が違う。灰色に近い、鈍い赤。


「封印の色」


 彼女は小さく呟いた。


「この町の封印は、商会の色だ」


 エルディアは男を起こし、扉の外へ出した。廊下の端、暗がりで低く言う。


「今すぐ帰れ」


「……帰れって」


「帰って、伝えろ。箱の中身は売れない。売れるのは、売ろうとしたお前の首だ」


 男は目を見開き、震えながら頷いた。脅しではない。現実だ。商会の下働きは、失敗すれば切られる。


 男が逃げるように階段を下りていく音が消えると、リュシアは扉を閉め、背を預けた。


「監察局じゃない」


「市場だ」


 エルディアが言う。


「市場は、制度より速い。制度は印章で動くけど、市場は噂で動く。噂は誰の手にも握られないようでいて、握っている者がいる」


 リュシアは机へ戻り、紙を広げた。今度は覚え書きではない。対策の設計だ。


「灰色帳簿商会の目的は二つ。私たちの荷を確かめること。もう一つは、私たちを“自分たちの値札”にすること」


「値札?」


「勇者が動いた、記録官が動いた。原本があるらしい。そういう札を立てれば、人が寄る」


 人が寄れば金になる。

 金になれば、力になる。

 力になれば、制度にも触れられる。


「……明日、来るわね」


 リュシアが言った。


「訪ねてくる。礼儀正しく」


 礼儀正しい敵は、断り方が難しい。



 翌日、昼。


 予想通り、商会の人間は来た。


 宿の一階の奥、借りた小部屋に通される。火鉢があり、茶が出る。もてなしの形が整いすぎていて、こちらが拒絶しづらい。


 扉が開き、男が入ってきた。


 身なりがいい。派手ではないが、布が上質だ。笑みは柔らかく、目は冷たい。


「お会いできて光栄です。勇者エルディア殿。公文書院の記録官リュシア殿」


 男は名乗った。


「灰色帳簿商会、代表取締役――ソーレンと申します」


 代表取締役、という言葉はこの世界に似合わないはずなのに、彼が言うと似合ってしまう。制度の言葉を市井に落とし、商品にする人間の口だ。


「突然の訪問をお許しください。宿場町では噂が荒れやすい。お二人を守るために、まず礼を尽くしたい」


「礼は要りません」


 リュシアが平らに言う。


「要るのは、用件です」


 ソーレンは笑みを崩さない。


「用件は単純です。協力関係を築きたい」


「何の」


「噂の整理です」


 リュシアの眉が微かに動く。


「整理?」


「噂は汚い。放っておくと、無辜の者が傷つく。だから我々が、適切に整える。秩序のために」


 秩序。

 その言葉が、監察官レオニスと同じ匂いを持っていた。


「あなたは、監察局の真似をする」


 リュシアが言うと、ソーレンは軽く首を振った。


「逆です。監察局が、我々の真似をしている」


 市場の方が先にあった、と言いたいのだろう。


「具体的に言いましょう」


 ソーレンは指を鳴らさずに、机の上へ紙を置いた。印章付きの書面。商会の紋章。灰色の帳簿を象った意匠。


「我々は、あなた方の“辺境報告抄録”を配布します。正確な形で」


 エルディアが言う。


「抄録?」


「全文は重い。人は読まない。読むのは要点だ。要点を配れば、誤解は減る」


 誤解は減る。

 その言葉は正しい顔をしている。正しい顔をした言葉ほど危険だ。


「条件は?」


 リュシアが訊くと、ソーレンは待っていましたと言わんばかりに言う。


「あなた方の“承認”です」


 承認。署名に近い響き。


「勇者エルディア殿の名が必要だ。あなたの言葉は、人を動かす。記録官殿の名も必要だ。形式が正しければ、人は信じる」


 エルディアは、静かに首を振った。


「断る」


 即答だった。


 ソーレンは驚かない。驚かないように準備してきた顔だ。


「なぜ。誤解が減る。人が救われる」


「救われるのは、誰だ」


 エルディアの問いに、ソーレンは笑みを保ったまま答える。


「町です。人々です。もちろん……我々も利益は得る」


 利益は得る、と言えるのが彼の強みだ。嘘がない。嘘がないから信用される。


「あなた方は、旅をしている。その旅路は、危険でしょう」


 ソーレンの声が少しだけ低くなる。


「箱が狙われる。噂が増える。監察局も動く。……我々はそれを止められる」


 止められる、と言い切る。つまり、止めるかどうかを握っている。


「代価は?」


 リュシアが問う。


「名です」


 ソーレンは繰り返す。


「そして、解釈です」


 リュシアの目が細くなる。


「解釈を混ぜる?」


「混ぜる、ではなく整える。例えば――『勇者は秩序を望む』。そう書けば、人は安心する」


 安心。

 安心のために、余白を埋める。白い余白を、都合のいい言葉で。


「あなたは、余白を売る」


 リュシアが言うと、ソーレンは肩をすくめた。


「余白は不安だ。不安は暴れる。暴れる前に、値札を付けて落ち着かせる。それが商いです」


 エルディアは、机の上の紙を見た。承認欄がある。勇者の名を書く場所がある。


 これは、評議会の署名要求と同じ構造だ。

 制度が求めるか、市場が求めるかの違いしかない。


「断る」


 エルディアはもう一度言った。


「俺の名は、誰の秩序にも売らない」


 ソーレンの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。


「残念です」


 それでも彼は、怒らない。怒る必要がないからだ。


「では、別の形で協力しましょう。あなた方が探している“読む人”――この町にもいます」


 リュシアが目を細める。


「知っているの?」


「もちろん。読む者は、商品です」


 ソーレンはさらりと言った。


「読む者は噂を正しくする可能性がある。だからこそ、保護が必要だ」


 保護。

 また、その言葉だ。


「我々の庇護下に置けば安全だ。あなた方が直接会うより、ずっと」


 リュシアは息を吸い、吐いた。


「あなたは、読む者を飼う」


 ソーレンは否定しない。


「安全のためです。どうか、理解を」


 理解。

 その言葉の温度の低さが、部屋を冷やした。


 ソーレンは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。


「今夜、返事を。噂は待ってくれません」


 彼が去ると、部屋には火鉢の音だけが残った。


 リュシアが小さく言う。


「監察官レオニスと同じ。正しい顔で、余白を埋める」


「違うところは?」


「値段が見える」


 リュシアは言い切った。


「制度は値段を隠す。市場は値段を見せる」


 どちらがましかは、簡単には決められない。

 見える値段は払いやすい。払いやすいから、払ってしまう。


「読む人、か」


 エルディアが呟く。


「会うべきだ」


 リュシアはうなずいた。


「ただし、巻き込まない方法で」


 巻き込まない方法。

 それが、今の二人の戦い方だった。



 写本工房は、町の端にあった。


 宿場町の中心は酒と荷だが、端には紙と墨がある。旅人が通り、噂が生まれ、噂が文字になり、また噂になる。写本工房は、噂の加工場でもある。


 扉を開けると、墨の匂いが濃い。紙が積まれ、羽ペンが並び、乾燥させた羊皮紙が天井から吊られている。


 奥で、少年が机に向かっていた。十六、七。細い肩。だが背中の線は真っ直ぐだ。読む人間の背中だ。


 少年は二人に気づき、目を上げた。驚くより先に、確認する目。


「……勇者」


 少年が言った。名ではなく役割で呼ぶ。修道院の修道士と同じ距離感。


「ここは写本屋だ」


 少年は続けた。


「剣を買いに来たなら、隣の店」


「買いに来たのは、剣じゃない」


 エルディアが言う。


「読む人を探している」


 少年の目が、ほんの少しだけ変わる。熱が入る。


「読む人?」


 リュシアが名乗った。


「公文書院の記録官、リュシア。あなたの名前は」


 少年は少し迷ってから言った。


「ユノ」


「ユノ。あなたは何を読んでいるの」


 リュシアが訊くと、ユノは机の上の紙束を見せた。粗い写し。ところどころ文字が薄い。何度も回された跡。


 エルディアは、そこに自分の言葉を見つけた。


 話の断片。


 歪んだ引用も混じっている。けれどユノは、歪みを歪みとして扱っていた。紙束の端に小さな注釈がある。


 ――出所不明。

 ――文脈欠落。

 ――言い切りは危険。


「……どうして、そんな注釈を」


 リュシアが訊く。


 ユノは墨のついた指で紙の端を押さえ、静かに言った。


「人が切られるから」


 短い言葉だった。


「言葉で」


 ユノは目を逸らさない。


「切られた人は、いなくなる。いなくなると、最初からいなかったみたいになる」


 エルディアの胸の奥が痛んだ。セイラの声と同じ匂いがした。


「だから、残す」


 ユノは続けた。


「残すために読む。使うためじゃない」


 リュシアは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。喜びと痛みが混じった表情だった。


「……あなたは危険だ」


 リュシアが言うと、ユノは首を傾げた。


「危険なのは読むことじゃない。読ませ方だ」


 鋭い。


「灰色帳簿商会に会った?」


 リュシアが問うと、ユノはわずかに口元を歪めた。


「毎日来る。『噂を整える』って言って」


「彼らの庇護下に入れと言われた?」


「言われた。断った」


 ユノは淡々と言った。


「断ると、紙が入らなくなる。墨が高くなる。客が減る」


 それは暴力ではない。生活を締める暴力だ。市場の暴力。


「それでも断った?」


 エルディアが訊くと、ユノはうなずく。


「読むのは仕事じゃない。息みたいなものだ」


 息を止めろと言われたら死ぬ。

 読むのを止めろと言われたら、ユノはここで死ぬ。


 リュシアは机の上の紙束を見つめ、低く言った。


「あなたを巻き込みたくない」


「巻き込まないなら、来ない方がよかった」


 ユノは言った。


「来た時点で、もう巻き込んでる」


 正しい。

 正しいから痛い。


 エルディアは、剣ではなく言葉を選んだ。


「原本は渡せない」


 ユノは頷く。期待していなかった顔だ。


「でも」


 エルディアは続ける。


「読み方は渡せる」


 リュシアが息を止める。


 ユノの目が少しだけ見開かれる。


「読み方?」


「余白を残す読み方だ」


 エルディアは言った。


「切り取られた言葉を、切り取られたまま扱わない。文脈がないなら、ないと書く。断定しない。分からないと言う」


 ユノは、小さく笑った。


「それ、普通のことだ」


「普通じゃない」


 リュシアが言った。


「今の世界では、普通じゃない」


 ユノは笑みを消し、真面目に頷いた。


「じゃあ、教えて」


 その瞬間、リュシアは決めた顔になった。


 彼女は紙を一枚取り出し、ペンを取った。


「注釈の作法を教える。公文書院の形式じゃない。地下目録の形式」


「地下目録」


 ユノが繰り返す。


「目録は、一冊である必要がない」


 リュシアは言った。


「断片でいい。断片を持つ人が増えれば、誰か一人が奪われても全ては消えない」


 エルディアは、小箱には触れないまま、懐から小さな封筒を一つ取り出した。中身は紙片。地名の頭文字と番号、符号。


 鍵の一部ではない。鍵へ至る道の、一部。


 それをユノに渡す瞬間、胸の奥がひやりとした。


 渡す=巻き込む。


 でも、渡さなければ独りだ。独りは簡単に消える。


「これは、断片」


 エルディアが言う。


「これだけでは、何も開かない。だが、あなたが読めば、いつか繋がる」


 ユノは受け取り、掌の上で紙片を見つめた。重さはない。けれど受け取る手が、少しだけ震えた。


「……値段は」


 ユノが訊いた。


 リュシアが答えた。


「あなたが生きること」


 ユノは目を瞬かせた。意味を測るように。


「そして、誰も切らないこと」


 エルディアが続ける。


「あなたの読みが誰かを切りそうになったら、止まれ。止まって、余白に『止まった』と書け」


 ユノはゆっくり頷いた。


「分かった」


 その時、外で騒ぎが起きた。


 足音が増え、男の声がする。乱暴ではない。乱暴になれる位置に、乱暴にならない言葉を置く声。


「ユノ。客だ」


 ユノの顔色が変わる。


「……商会」


 リュシアが立ち上がり、窓の外を覗く。灰色帳簿商会の紋章が刺繍された上着。二人。笑っている。


 笑いながら、扉を叩いている。


「開けなくていい」


 エルディアが言う。


「でも、開けないと……」


 ユノが言い淀む。


「次から紙が入らない。墨が……」


 生活を締める暴力は、扉を壊さない。扉を壊さないから、こちらが壊れる。


 リュシアは一瞬だけ目を閉じ、開いた。


「……逃げ道」


 彼女は工房の奥を見た。小さな裏口。紙の束が積まれた隙間。


「ユノ。今夜、工房を離れられる?」


 ユノは唇を噛む。


「離れたら、ここが終わる」


「終わらない」


 エルディアが言った。


「終わるのは、ここじゃない。あなたが消えることだ」


 扉の叩く音が、もう一度。丁寧に。


「ユノ。話がある。あなたにとって悪い話じゃない」


 ソーレンの声ではない。部下だろう。


 ユノは決めたように、小さく頷いた。


「……今夜、出る」


 リュシアはすぐに動いた。紙束を取り、箱に入れ、隠すのではなく“見える場所”に置く。探す側が探したくなる餌を作る。時間を稼ぐための仕事だ。


「今は会わない」


 リュシアが言う。


「扉は閉めたまま。返事は保留。あなたは奥へ」


 ユノは奥へ走り、裏口の扉に手を掛けた。


 エルディアは、剣に触れず、工房の扉へ近づいた。扉の向こうに、こちらの呼吸を感じさせる距離。


「ユノは今いない」


 低く言うと、向こうの叩く手が止まった。


「……勇者殿?」


 驚きの声。


「商会に伝えろ。今夜、返事はしない」


 沈黙。


「では、明日」


「明日も同じだ」


 エルディアは言った。


「返事が欲しいなら、噂を止めろ」


 向こうが小さく笑った気配がする。


「噂は止まりません。噂は道です」


「なら、道を変えろ」


 エルディアは言い切った。


「道を変えるのが商会だろう」


 扉の向こうは、それ以上何も言わなかった。


 足音が遠ざかる。


 静けさが戻る。戻った静けさは、さっきより怖い。次は、生活の方から締めてくる。


 リュシアが小さく息を吐いた。


「今夜、ここを出る。ユノは一緒に宿へ来ない。目立つ」


「じゃあ、どこへ」


「修道院じゃない。修道院はもう使えない」


 リュシアは言った。


「旧戦時倉庫へ向かう道の途中に、放棄された見張り小屋がある。そこまで」


 エルディアは頷いた。


 ユノが裏口から戻ってきた。顔は青いが、目は決まっている。


「……読んで、いい?」


 ユノが掌の紙片を見つめて言う。


「いい」


 エルディアが答える。


「ただし、あなた一人で全部を背負わない。背負いそうになったら、余白に置け」


 ユノはゆっくり頷いた。


「余白に、置く」


 リュシアはユノの机に小さな紙を置いた。そこには一行。


 ――断定しない。出所を書け。分からないなら分からないと書け。


「これが、地下目録の最初の掟」


 リュシアが言った。


「あなたが読むことで、記録は生き延びる。でも、あなたが壊れたら意味がない」


 ユノは短く頷き、紙を畳んで懐へ入れた。


「行く」


 その一言は、決断だった。


 工房を出る時、ユノは振り返らなかった。振り返れば、戻りたくなるからだろう。


 宿場町の裏路地は暗く、灯りが少ない。けれど少ない灯りほど影が濃い。影の濃い場所を選び、三人は静かに歩いた。


 エルディアは剣に触れない。触れれば、剣の物語になる。今必要なのは剣の物語ではない。読む者の物語だ。


 町外れの草地に出る直前、遠くで馬の蹄の音がした。


 追手ではない。追手に見えない速さ。市場の足。噂の足。


 リュシアが低く言う。


「動いた。早い」


 エルディアは歩幅を変えずに言った。


「走るな。走れば追われる」


 走らずに消える。

 消えるために、目立つ話を残す。


 リュシアは小さく封筒を一つ取り出し、道端の掲示板に貼り付けた。新しい噂を上書きするための噂。


 ――勇者、商会の誘いを断る。

 ――原本はない。

 ――読む者は、誰にも売られない。


 事実と嘘が混じる。けれど、真実を守るための嘘だ。


 ユノがそれを見て、息を呑んだ。


「……嘘だ」


「嘘です」


 リュシアは言い切った。


「でも、あなたを守る嘘。私たちは今、そういう段階にいる」


 ユノは言葉を失い、ただ頷いた。読む人は、こういう時に黙る。黙って、余白を覚える。


 町の灯りが背後で小さくなる。風が冷たい。草が擦れる音がする。


 見張り小屋に着いた時、三人はようやく呼吸を戻した。


 小屋は古い。壁が剥げ、床がきしむ。それでも屋根がある。屋根があるだけで、人は少しだけ安心する。


 ユノが小さく言った。


「……読むって、こんなに重いのか」


 リュシアが答える。


「読むのは背負うことです。だから一人で背負わない仕組みを作る」


 エルディアは窓から外を見た。遠くに宿場町の灯り。灯りの下で噂が増えているだろう。


「値段を払わせるのが市場だ」


 エルディアが呟く。


「俺たちは?」


 ユノが訊く。


 エルディアは少し考えてから言った。


「値段を分ける。背負う重さを分ける」


 それが地下目録の思想だ。

 真実は一枚で残らない。読む手を増やして残す。


 リュシアはユノに向き直った。


「あなたは、ここから先、私たちと一緒には行かない」


 ユノの目が見開かれる。


「……置いていく?」


「置くんじゃない。広げる」


 リュシアは静かに言った。


「あなたはこの町へ戻る。商会の中に“読む目”を置く。危険なら、逃げる。その判断はあなたがする」


 ユノの手が震える。


「戻ったら、潰されるかもしれない」


「潰されそうになったら、余白を使う」


 リュシアは言う。


「『今は書けない』と書く。それも記録。生き延びるための記録」


 ユノは唇を噛み、頷いた。


「分かった」


 エルディアはユノの掌に、もう一つだけ小さな紙片を置いた。


 そこには短い合図。


 ――朝の約束。


 言葉は暗号ではない。約束だ。読む者同士の、目印。


「何かあったら、この言葉を使え」


「誰に」


「読む人に」


 エルディアは言った。


「読む人は一人じゃない。君が増やすんだ」


 ユノは紙片を握りしめ、目を閉じた。短く深呼吸をして、開いた。


「……生きて読む」


 その言葉は、祈りに近かった。



 その頃、宿場町の中心では、灰色帳簿商会のソーレンが、窓辺で紙片を指先で弄んでいた。


 部下が報告する。


「工房のユノが消えました。勇者と記録官が接触した形跡があります」


「そう」


 ソーレンは笑う。怒らない。怒る必要がない。


「読む者は、守られると価値が上がる」


 部下が戸惑う。


「追いますか」


「追うのは簡単だ。だが、追えば監察局が嗅ぎつける」


 ソーレンは机の上の別の紙を示した。王都の印のある短い書面。監察局からの問い合わせだ。礼儀正しく、しかし拒めない文面。


「市場は制度に勝てない。勝つ必要もない。……制度の刃を、こちらの値札に掛ければいい」


 部下が息を呑む。


「監察局に売るのですか」


「売る、ではなく“共有”する」


 ソーレンは微笑んだ。


「噂は道だ。道は一つじゃない。――勇者は道を変えろと言った。なら変える」


 彼は窓の外を見た。宿場町の灯りの中で、噂が増殖している。


「読む者は、いずれ見つかる。見つかった瞬間が一番高い」


 そして小さく付け加える。


「その瞬間に、値段を決めるのは我々だ」



 夜明け前、見張り小屋でエルディアとリュシアは荷を整えた。


 ユノは小屋の隅で、小さな紙束に注釈を書いている。恐怖で眠れないのではない。読む者は、怖い時ほど書く。


 リュシアがユノに最後の確認をする。


「出所を書けるものだけを残す。出所が曖昧なものは、曖昧だと書く」


「うん」


「断定しない。断定すると、誰かが切られる」


「うん」


 ユノは頷き続ける。その頷きが、背負う覚悟に見えた。


 エルディアは扉を開け、外の空気を吸った。冷たい。だが、冷たさは目を覚ます。


 この旅は、剣で勝つ旅ではない。

 読む人を増やし、余白を守る旅だ。


「行く」


 エルディアが言うと、リュシアは頷いた。


「次は旧戦時倉庫。その先で、もう一つ置く」


 置く。分ける。広げる。

 勝つのではなく、消されない形にする。


 背後でユノが小さく言った。


「朝の約束」


 確認のように。


 エルディアは振り返らずに答えた。


「朝の約束」


 合図が合図として成立した瞬間、読む人の輪郭が一つ増えた。


 夜明けの光が、草地に薄く落ちる。

 その同じ光のどこかで、噂もまた走り始める。


 誰が値段を付けるのか。

 誰が背負うのか。


 答えはまだ白い余白にある。


 だから、歩く。

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