地下目録の鍵
朝の公文書院は、紙の匂いより先に、静けさが肌を撫でた。
開館前の廊下には本来、さざ波のような音がある。鍵束が触れ合う微かな金属音、台車の車輪、職員の小声。それが「今日も記録が動き出す」という合図になる。
今朝は、その合図が薄い。
静かすぎるのではない。整いすぎている。誰もが余計な音を避けているような、息を詰めた整い方だった。
書庫の扉の前で、リュシアが足を止めた。しゃがみ込み、鍵穴の縁を指先でなぞる。爪が一瞬だけ引っかかる。
「……昨日は、なかった」
声は平らだった。平らだからこそ確信が伝わる。
鍵穴の周囲に、細い擦れ。無理に回した跡。開かなかった者の苛立ちが金属にだけ残っている。
「開けられた形跡は?」
エルディアが訊くと、リュシアは首を振った。
「開いていない。開けられていない。でも、触れられた」
触れられた、という事実だけが重い。力ずくで開けるよりも、こちらの心の方を狙っている。
執務室に入ると、机上の記録簿がきれいに揃えられていた。いつも以上に、几帳面に。
リュシアは束を持ち上げ、角を確かめた。指に薄い粉がつく。封蝋の欠片だ。
「封印を作り直してる」
「封印していたのか?」
「していません。だから、作り直す必要もない」
必要のない手間が施されている。隠すためではない。知らせるためだ。
監察官レオニスの声が、脳裏に蘇る。
――白い余白を守る。
気づいたのではなく、気づかせたのだ。こちらが守ろうとする場所を、意識させて追い詰める。
リュシアは引き出しから、あの小さな鍵を掌に乗せた。金属の冷たさが、朝の光を小さく跳ね返す。
「原本は、ここに置けません」
「公文書院が持つべきだろう」
「持つべきです。だから、置けません」
矛盾ではない。持つことと、一箇所に置くことは違う。守るとは、奪われない形にすることだ。
リュシアは白紙に手早く書きつけた。地名、日付、手順。書式は簡素だが迷いがない。
「保管先を分散します。あなたと私で運ぶ」
「二人で?」
「護衛を付けると目立つ。名目は辺境調査の再開。あなたの任務として正当です」
彼女は地図を引き寄せ、王都外れを指した。
「まず修道院。神殿系の保管庫がある。奇跡が起きなかった記録を扱っている場所です」
第三話の神殿を思い出す。祈られない神像、沈黙の恐れ、読む者の声。
「次に旧戦時倉庫。軍の未使用施設。監察局の手が直接は届きにくい」
リュシアは一瞬だけ言葉を探し、最後を低く置いた。
「それから……“読む人”」
読む人。制度の外で、記録を武器にしない読み方をする誰か。いると断言できないが、いないと決めた瞬間に、この旅は終わる。
「探す価値はある」とリュシアは言った。「あなたの記録を、制度の外にも置くために」
エルディアはうなずいた。
「運ぼう」
剣ではなく箱を。名誉ではなく余白を。
⸻
準備は急だった。
リュシアの荷は少ない。筆記具、封蝋と糸、衣類。手のひらほどの木箱が二つ。
「これは保険です」
彼女はひとつを指した。封蝋の色が公文書院のものと違う。
「監察局は“ありそうな原本”を探します。時間を稼ぐ」
リュシアは嘘を嫌う。けれど嫌いなことをしなければ守れないものがある。その事実を、彼女自身が痛いほど知っている目をしていた。
もうひとつの小箱を、彼女はエルディアへ差し出した。
「本命。軽いです。重いのは意味です」
掌に収まる軽さが、逆に怖い。
出立の直前、書庫係の若い職員が駆け込んできた。
「……監察が入るそうです。昼に。正式通知が」
リュシアは顔色を変えずに言う。
「ありがとう。あなたはいつも通り」
「でも……」
「いつも通りに見えることが、今は一番重要です」
職員が去ると、リュシアは裏口を選んだ。搬入口。台車が通る扉。物を運ぶ者は目立たない。目立たないように動くのではない。目立つ世界の中で、目立たない動きをする。
王都の路地で、リュシアがぽつりとこぼした。
「あなたと歩くのは、不思議です」
「不思議?」
「剣で守られている感じがしない」
「失礼だな」
「そういう意味じゃない」
彼女は言い直した。
「剣じゃなくて……選択で守られている」
それが、いまの二人の関係だった。剣を抜くかどうかではなく、どの余白を守るかの選択で繋がっている。
⸻
修道院は丘の上にあった。派手な装飾はなく、古い石の壁と深い木目の扉。門番の修道士は、二人を見ても過剰に驚かない。
「公文書院の方ですね。……そして、勇者」
名ではなく役割で呼ぶ距離感が、救いになる。
リュシアが小箱を差し出す。
「保管をお願いします」
「理由は」
「今は言えません」
修道士は少し考え、うなずいた。
「ここは奇跡を集める場所ではありません。奇跡が起きなかった記録を守る場所です」
地下の保管庫は冷え、蝋燭の火が小さく揺れた。棚に並ぶのは祈りの成功譚ではなく、祈りが届かなかった証言の束だった。
エルディアは、胸の奥が少しだけ落ち着くのを感じた。武器になりにくい場所。少なくとも、ここには「使うために読む」手つきが少ない。
修道士が小箱を受け取り、掌で軽く確かめる。
「軽い」
「重いのは読む側です」
エルディアが言うと、修道士は微かに笑った。
「読むとは、背負うことですから」
階段を上がり、外気に触れた時、リュシアは小さく息を吐いた。
「ひとつ、置けた」
ひとつ。まだ、ひとつ。
⸻
王都に戻る途中、リュシアが道端の草を見て足を止めた。浅い足跡。新しい。
「追われている?」
「追手でなくても追えます」
彼女は淡々と言う。
「監査という制度で。噂という流通で。あなたの名で」
正面から戻ると、公文書院の前に黒衣の職員がいた。監察局の印の入った箱が積まれ、礼儀正しい笑みが並ぶ。
リュシアが低く言った。
「捕まるのは“原本を持っている時”です。今は持っていない」
彼女は堂々と歩いた。エルディアも並ぶ。
「監査のため立ち入りを」
「手続きは?」
書面が出される。正しい文言、正しい印章。正しい権限。
リュシアは一読し、静かに返す。
「協力します。ただし原本の保全は公文書院の責任です。破損・紛失があれば、貴局の責任も問われます」
笑みがほんの少し固まる。
「当然、承知しております」
「なら、封印の扱いには注意を。封印は“作り直せるもの”ではありません」
皮肉は制度に届かない。けれど届かない皮肉でも、こちらの姿勢は残せる。
監査は形式通り進んだ。棚が開かれ、目録が照合され、職員たちの視線が紙より“余白”を探して動く。
その手が、偽装箱へ伸びた。
リュシアは表情を崩さず言う。
「それは内部の未整理箱です。触れれば破損します」
「破損?」
「未整理ですから」
未整理という言葉は、この建物では盾になる。職員は迷い、別の棚へ移った。監査とは、見たいものを一つに絞らせない戦いでもある。
夕方、監察局の職員が引き上げた時、リュシアは机に手をついた。疲れを隠せない。
「……私は、ここにいるほど危ない」
「公文書院を空けていいのか」
「空けられない。でも、押さえられる」
矛盾の中で、最も生き残る選択を選ぶしかない。
「明日、夜明け前に出ます。辺境調査の任務として、私が同行する形で」
彼女は続けた。
「“読む人”を、本気で探します」
その声は硬い。折れることも含めて、それでも進む覚悟の硬さだった。
エルディアはうなずいた。
「行こう」
⸻
夜明け前の門は静かだった。必要なのは勇者の名ではなく、通行許可の印だけ。
王都を離れる土の道で、リュシアは小箱を抱え直しながら言った。
「昔は、書けないことが怖かった」
「今は?」
「書いたことが怖い」
正直な告白だった。記録官が記録を恐れる。それでも記録しようとする。
「でも、運ぶ。残す」
エルディアは剣に触れずに歩いた。箱を運ぶ旅は静かで、ずっと危険だ。敵を斬れない。勝利を示せない。誰も拍手しない。
それでも、誰かが読むために。誰かが消されないために。
地平が白み、朝が来る。
⸻
一方、評議会棟の高窓の部屋で、監察官レオニスは報告書に目を落としていた。
「原本は確認できず。ただし封印に不自然な点が」
部下の報告を聞き、レオニスは静かに笑う。
「不自然は、意図の匂いです」
「追跡を?」
「追跡ではありません」
彼は窓の外、目覚め始める王都を見下ろした。
「鍵は動いた」
断定ではなく、確信の報告。
「動く鍵は音を立てます。音の先に、余白がある」
机を軽く指で叩く。
「余白は、いずれ埋まる。埋める人間が現れた時、彼らは責任を負う」
レオニスは微笑んだ。
「なら、次は“読む人”です。探すのは、彼らだけではない」
同じ朝、エルディアとリュシアは王都を離れ、鍵と箱と白い余白を抱えて歩いている。
記録の旅は、もう後戻りできない場所へ進み始めていた。
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