表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/13

地下目録の鍵

 朝の公文書院は、紙の匂いより先に、静けさが肌を撫でた。


 開館前の廊下には本来、さざ波のような音がある。鍵束が触れ合う微かな金属音、台車の車輪、職員の小声。それが「今日も記録が動き出す」という合図になる。


 今朝は、その合図が薄い。


 静かすぎるのではない。整いすぎている。誰もが余計な音を避けているような、息を詰めた整い方だった。


 書庫の扉の前で、リュシアが足を止めた。しゃがみ込み、鍵穴の縁を指先でなぞる。爪が一瞬だけ引っかかる。


「……昨日は、なかった」


 声は平らだった。平らだからこそ確信が伝わる。


 鍵穴の周囲に、細い擦れ。無理に回した跡。開かなかった者の苛立ちが金属にだけ残っている。


「開けられた形跡は?」


 エルディアが訊くと、リュシアは首を振った。


「開いていない。開けられていない。でも、触れられた」


 触れられた、という事実だけが重い。力ずくで開けるよりも、こちらの心の方を狙っている。


 執務室に入ると、机上の記録簿がきれいに揃えられていた。いつも以上に、几帳面に。


 リュシアは束を持ち上げ、角を確かめた。指に薄い粉がつく。封蝋の欠片だ。


「封印を作り直してる」


「封印していたのか?」


「していません。だから、作り直す必要もない」


 必要のない手間が施されている。隠すためではない。知らせるためだ。


 監察官レオニスの声が、脳裏に蘇る。


 ――白い余白を守る。


 気づいたのではなく、気づかせたのだ。こちらが守ろうとする場所を、意識させて追い詰める。


 リュシアは引き出しから、あの小さな鍵を掌に乗せた。金属の冷たさが、朝の光を小さく跳ね返す。


「原本は、ここに置けません」


「公文書院が持つべきだろう」


「持つべきです。だから、置けません」


 矛盾ではない。持つことと、一箇所に置くことは違う。守るとは、奪われない形にすることだ。


 リュシアは白紙に手早く書きつけた。地名、日付、手順。書式は簡素だが迷いがない。


「保管先を分散します。あなたと私で運ぶ」


「二人で?」


「護衛を付けると目立つ。名目は辺境調査の再開。あなたの任務として正当です」


 彼女は地図を引き寄せ、王都外れを指した。


「まず修道院。神殿系の保管庫がある。奇跡が起きなかった記録を扱っている場所です」


 第三話の神殿を思い出す。祈られない神像、沈黙の恐れ、読む者の声。


「次に旧戦時倉庫。軍の未使用施設。監察局の手が直接は届きにくい」


 リュシアは一瞬だけ言葉を探し、最後を低く置いた。


「それから……“読む人”」


 読む人。制度の外で、記録を武器にしない読み方をする誰か。いると断言できないが、いないと決めた瞬間に、この旅は終わる。


「探す価値はある」とリュシアは言った。「あなたの記録を、制度の外にも置くために」


 エルディアはうなずいた。


「運ぼう」


 剣ではなく箱を。名誉ではなく余白を。



 準備は急だった。


 リュシアの荷は少ない。筆記具、封蝋と糸、衣類。手のひらほどの木箱が二つ。


「これは保険です」


 彼女はひとつを指した。封蝋の色が公文書院のものと違う。


「監察局は“ありそうな原本”を探します。時間を稼ぐ」


 リュシアは嘘を嫌う。けれど嫌いなことをしなければ守れないものがある。その事実を、彼女自身が痛いほど知っている目をしていた。


 もうひとつの小箱を、彼女はエルディアへ差し出した。


「本命。軽いです。重いのは意味です」


 掌に収まる軽さが、逆に怖い。


 出立の直前、書庫係の若い職員が駆け込んできた。


「……監察が入るそうです。昼に。正式通知が」


 リュシアは顔色を変えずに言う。


「ありがとう。あなたはいつも通り」


「でも……」


「いつも通りに見えることが、今は一番重要です」


 職員が去ると、リュシアは裏口を選んだ。搬入口。台車が通る扉。物を運ぶ者は目立たない。目立たないように動くのではない。目立つ世界の中で、目立たない動きをする。


 王都の路地で、リュシアがぽつりとこぼした。


「あなたと歩くのは、不思議です」


「不思議?」


「剣で守られている感じがしない」


「失礼だな」


「そういう意味じゃない」


 彼女は言い直した。


「剣じゃなくて……選択で守られている」


 それが、いまの二人の関係だった。剣を抜くかどうかではなく、どの余白を守るかの選択で繋がっている。



 修道院は丘の上にあった。派手な装飾はなく、古い石の壁と深い木目の扉。門番の修道士は、二人を見ても過剰に驚かない。


「公文書院の方ですね。……そして、勇者」


 名ではなく役割で呼ぶ距離感が、救いになる。


 リュシアが小箱を差し出す。


「保管をお願いします」


「理由は」


「今は言えません」


 修道士は少し考え、うなずいた。


「ここは奇跡を集める場所ではありません。奇跡が起きなかった記録を守る場所です」


 地下の保管庫は冷え、蝋燭の火が小さく揺れた。棚に並ぶのは祈りの成功譚ではなく、祈りが届かなかった証言の束だった。


 エルディアは、胸の奥が少しだけ落ち着くのを感じた。武器になりにくい場所。少なくとも、ここには「使うために読む」手つきが少ない。


 修道士が小箱を受け取り、掌で軽く確かめる。


「軽い」


「重いのは読む側です」


 エルディアが言うと、修道士は微かに笑った。


「読むとは、背負うことですから」


 階段を上がり、外気に触れた時、リュシアは小さく息を吐いた。


「ひとつ、置けた」


 ひとつ。まだ、ひとつ。



 王都に戻る途中、リュシアが道端の草を見て足を止めた。浅い足跡。新しい。


「追われている?」


「追手でなくても追えます」


 彼女は淡々と言う。


「監査という制度で。噂という流通で。あなたの名で」


 正面から戻ると、公文書院の前に黒衣の職員がいた。監察局の印の入った箱が積まれ、礼儀正しい笑みが並ぶ。


 リュシアが低く言った。


「捕まるのは“原本を持っている時”です。今は持っていない」


 彼女は堂々と歩いた。エルディアも並ぶ。


「監査のため立ち入りを」


「手続きは?」


 書面が出される。正しい文言、正しい印章。正しい権限。


 リュシアは一読し、静かに返す。


「協力します。ただし原本の保全は公文書院の責任です。破損・紛失があれば、貴局の責任も問われます」


 笑みがほんの少し固まる。


「当然、承知しております」


「なら、封印の扱いには注意を。封印は“作り直せるもの”ではありません」


 皮肉は制度に届かない。けれど届かない皮肉でも、こちらの姿勢は残せる。


 監査は形式通り進んだ。棚が開かれ、目録が照合され、職員たちの視線が紙より“余白”を探して動く。


 その手が、偽装箱へ伸びた。


 リュシアは表情を崩さず言う。


「それは内部の未整理箱です。触れれば破損します」


「破損?」


「未整理ですから」


 未整理という言葉は、この建物では盾になる。職員は迷い、別の棚へ移った。監査とは、見たいものを一つに絞らせない戦いでもある。


 夕方、監察局の職員が引き上げた時、リュシアは机に手をついた。疲れを隠せない。


「……私は、ここにいるほど危ない」


「公文書院を空けていいのか」


「空けられない。でも、押さえられる」


 矛盾の中で、最も生き残る選択を選ぶしかない。


「明日、夜明け前に出ます。辺境調査の任務として、私が同行する形で」


 彼女は続けた。


「“読む人”を、本気で探します」


 その声は硬い。折れることも含めて、それでも進む覚悟の硬さだった。


 エルディアはうなずいた。


「行こう」



 夜明け前の門は静かだった。必要なのは勇者の名ではなく、通行許可の印だけ。


 王都を離れる土の道で、リュシアは小箱を抱え直しながら言った。


「昔は、書けないことが怖かった」


「今は?」


「書いたことが怖い」


 正直な告白だった。記録官が記録を恐れる。それでも記録しようとする。


「でも、運ぶ。残す」


 エルディアは剣に触れずに歩いた。箱を運ぶ旅は静かで、ずっと危険だ。敵を斬れない。勝利を示せない。誰も拍手しない。


 それでも、誰かが読むために。誰かが消されないために。


 地平が白み、朝が来る。



 一方、評議会棟の高窓の部屋で、監察官レオニスは報告書に目を落としていた。


「原本は確認できず。ただし封印に不自然な点が」


 部下の報告を聞き、レオニスは静かに笑う。


「不自然は、意図の匂いです」


「追跡を?」


「追跡ではありません」


 彼は窓の外、目覚め始める王都を見下ろした。


「鍵は動いた」


 断定ではなく、確信の報告。


「動く鍵は音を立てます。音の先に、余白がある」


 机を軽く指で叩く。


「余白は、いずれ埋まる。埋める人間が現れた時、彼らは責任を負う」


 レオニスは微笑んだ。


「なら、次は“読む人”です。探すのは、彼らだけではない」


 同じ朝、エルディアとリュシアは王都を離れ、鍵と箱と白い余白を抱えて歩いている。


 記録の旅は、もう後戻りできない場所へ進み始めていた。

もし続きが気になりましたら、★評価をいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ