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7/12

検閲官と白い余白

 差し戻しは、昼のうちに届いた。


 ローディアで書いた報告書を王都へ送ったのが昨日。封蝋がまだ指先の感触として残っているうちに、同じ封筒が別の印で戻ってきた。


 宿の主人が、言いにくそうに封書を差し出す。


「……王都からだ。今朝、早馬が来た」


 封筒は破られていない。だが、紙の角が揃いすぎている。開封された形跡を隠す手つきは、慣れた者のものだった。


 印章を見て、エルディアは息を止める。


 王国評議会付――監察局。


 公文書院ではない。リュシアでもない。


 封を切ると、薄い紙が三枚。最初の一枚は短い通達だった。


 ――提出文書につき、以下の箇所を削除・修正のうえ再提出せよ。

 ――推察表現の使用を禁ず。

 ――沈黙を理由とする記述は不要。

 ――当事者保護の観点から、該当部分は一律削除。


 次の二枚は、赤い印と線で埋まっていた。自分が書いた文が、呼吸のように切られている。


 ——当事者の一名は、聞き取りを拒否。理由:過去に記録が引用され、不利益を受けた経験によるものと推察。


 そこが丸ごと削除指定になっている。


 エルディアは紙を畳み、机に置いた。剣を抜く時よりも、指が冷たい。


 最後に、小さな別紙が挟まっていた。


 整った筆跡。短い追記。


 ――公文書院の管轄を越えました。戻ってください。

 ――リュシア


 その一行が、通達よりも重かった。


 世界は救われた。だから勇者は職を失った。

 そして今――勇者の言葉が、剣より鋭く扱われ始めている。


 エルディアは立ち上がり、宿の窓から街道を見た。


 平和な道だ。魔物も、旗もない。

 だが、戻ってこいと言う紙は、命令の形をしていなくても、命令より逃げ場がなかった。


 彼は荷をまとめ、王都へ向かった。



 公文書院は、以前より静かに見えた。


 人の出入りは多いのに、声が低い。廊下の足音は早い。紙の匂いは濃いのに、窓は開けられていない。


 リュシアの執務室の扉を叩くと、返事はすぐ来た。


「どうぞ」


 中に入ると、彼女は机に向かったまま顔を上げた。目の下に薄い影がある。眠っていないのだと分かった。


「早かったですね」


「差し戻しが早かった」


 エルディアが監察局の通達を机に置くと、リュシアは紙面を見ただけで眉をわずかに寄せた。


「……やはり」


「君は知っていたのか」


「予感はありました」


 彼女は通達を丁寧に揃え、息を吐いた。


「あなたの記録は、もう“内部資料”ではありません。評議会の方針の材料になっている。材料になれば、整形されます」


「整形?」


「角を削って、危険な部分を落として、使いやすくする」


 言い方は冷静だ。だが、その冷静さが怖い。


「沈黙を落とすのは、危険だからか」


「ええ。沈黙の理由は、読む側の想像を刺激します。想像は扇動になる」


 リュシアは、机の端に指を置いた。


「監察局は、そう判断します」


「監察局……誰が?」


 リュシアは一瞬だけ迷い、答えた。


「監察官レオニス。評議会付の監察局で、記録の公開と運用を監督する人です」


 名前が出た瞬間、空気に輪郭が生まれた。

 敵は制度そのものではなく、制度の顔をした誰かになる。


「会えるのか」


「会えます。向こうが望んでいますから」


 リュシアは立ち上がり、扉へ向かった。


「今日の午後、監察局で面談が入っています。あなたが戻ることも、想定済みです」


「……早すぎる」


「早いのが、彼らの仕事です」


 リュシアは扉を開け、廊下へ出た。

 エルディアは一歩遅れて続く。


 公文書院の廊下は、紙の海のようだった。書類箱が並び、分類札が増え、誰かが何かを急いで運んでいる。


 救われた世界が、記録で組み立て直されている。


 その骨組みの中で、言葉が武器になる。



 監察局は、評議会棟の一角にあった。


 扉は新しく、守衛の制服も新しい。入る者の名前を確認する手つきが、丁寧すぎる。


 通された応接室は、飾りが少なかった。机と椅子、壁に掛けられた王国紋章。

 静かで、清潔で、息が詰まる。


 やがて扉が開き、男が入ってきた。


 年は三十代半ば。背は高く、無駄のない身なり。髪は整えられ、手袋を外す動作が儀礼のように滑らかだった。


「勇者エルディア殿」


 声は柔らかい。だが、柔らかさの裏に、刃物の冷たさがある。


「監察官レオニスです。お戻りいただき感謝します」


 握手を求めてはこない。距離は詰めない。

 礼儀としての丁寧さが、逆に相手の自由を奪う。


「差し戻しを受け取った」


「はい。内容に不満が?」


「不満というより……削除の理由を聞きたい」


 レオニスは微笑む。


「理由は簡単です。記録は秩序のためにあります」


「忘れないためではないのか」


「忘れないため、も含まれます」


 彼は“含まれます”と言った。主ではない、と静かに告げたのと同じだ。


「英雄の記録は影響力が強い。あなたが意図しなくても、人はそれを基準にします」


 エルディアの胸の奥が冷える。


「だから、曖昧さを排します。推察、沈黙、理由——それらは火種になります」


「沈黙の理由が火種になるのは、理由が消えるからだ」


 エルディアが言うと、レオニスは首を傾げた。


「あなたは善意で書いている。理解しています」


 理解、という言葉が、見下ろしに聞こえた。


「ですが善意は、しばしば現場を揺らします。記録は、人々を落ち着かせるためにある。揺らす記録は、危険です」


「危険なのは、揺らすことじゃない。揺らされた結果を、誰かが握ることだ」


 レオニスの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。


「それもまた、秩序の一部です」


 彼は机の上に、修正済みの紙を置いた。


「こちらが修正版です。内容は整っている。公開に耐える」


 修正版は、きれいだった。余白が多い。怖いほどに。


 沈黙は削られ、拒否は消え、恐れは存在しないことになっている。

 ただ「衝突未遂」「死傷者なし」「武器使用なし」「口頭で沈静化」――結果だけが並ぶ。


「これに、あなたの署名を」


 レオニスの声は変わらない。


「署名?」


「はい。あなたの名があるから、各地が従う」


 エルディアは、目の前の紙を見つめた。


 署名は、剣を抜くのと同じだ。

 一線を越えれば、以後その線は戻らない。


「署名すれば、俺の言葉は完全に“あなたたちの武器”になる」


「武器ではありません。指針です」


「言い換えただけだ」


 レオニスは、少しだけ息を吐く。


「勇者殿。あなたは世界を救った。だからこそ、今度は世界を落ち着かせる責任がある」


 責任。

 その言葉が、丁寧に突き刺さる。


 隣でリュシアが、微かに唇を結んだ。彼女が何か言いかけて、飲み込んだのが分かった。


 レオニスは続ける。


「署名がなければ、あなたの任命は取り消しになります。公文書院の業務も、監察局の管理下に入る」


 脅しではない、とでも言うように、淡々と。


「公文書院を守るために、署名を」


 その言葉が、最も卑怯だった。


 守るために従え。

 正しさのために折れろ。

 それは、折れた者の責任になる。


 エルディアは、答えなかった。


 沈黙が落ちる。レオニスは焦らない。沈黙を待つのが仕事だ。


 だが、その沈黙を破ったのは別の報告だった。


 扉がノックされ、局員が入ってくる。


「監察官。ローディアの件、追加情報です」


 レオニスは視線だけで促す。


「当事者の一名、“セイラ”に接触しました。事情聴取を開始します。保護の名目で」


 その名前が出た瞬間、エルディアの体が固まった。


 名は書かなかった。報告書に名はない。

 それでも――割り出された。


 レオニスが、申し訳なさそうな顔を作る。


「ご心配なく。保護です。証言者は大切に扱います」


 大切に扱う、という言葉ほど、人を壊す言葉はない。


 リュシアが、低い声で言った。


「……彼女は話せません。過去の経験で」


「ならなおさら保護が必要です」


 レオニスの声は、やさしい。


「話せない人は、善意で守られるべきだ」


 善意。

 また、善意だ。


 エルディアは理解した。

 書かなかったことで守れると思ったのは、甘かった。


 人は探し当てる。噂と証言と、制度の網で。

 だから、守り方を記録の中で設計しなければならない。


「面談はここまでにします」


 レオニスが言う。


「署名は明日まで。あなたが賢明な選択をすることを願います」


 扉が開き、局員が丁寧に退出を促す。


 エルディアは立ち上がり、最後に一つだけ言った。


「俺は、署名しない」


 レオニスの眉が、ほんの少し動く。


「理由は?」


「それが、俺の言葉を守る唯一の方法だからだ」


 レオニスは一瞬沈黙し、そして微笑んだ。


「では、あなたは秩序と対立する」


「違う」


 エルディアは言った。


「秩序の中で、人を消さない」



 公文書院へ戻る道すがら、リュシアは何も言わなかった。


 夕暮れの王都は美しい。塔が影を落とし、露店が灯りをつけ、人々が明日のパンを買っている。

 その平和が、余計に残酷だった。


 執務室に戻ると、リュシアは机に手を置いたまま、ようやく口を開いた。


「署名しないのは、正しいです」


 意外な言葉だった。


「でも、潰されます」


「潰されるのは、記録か?」


「……あなたです」


 リュシアの声が、ほんの少し震えた。


「あなたを潰せば、記録は扱いやすくなる。英雄が黙れば、紙は自由になる」


 エルディアは椅子に座り、手を見た。


「なら、どうする」


 リュシアは目を閉じ、開いた。


「折れるしかない、と私は思っていました」


「過去形か」


「はい」


 彼女は、机の引き出しから鍵束を出した。小さな鍵が一つ、他と違う形でぶら下がっている。


「公文書院には、公開目録があります。誰でも閲覧できる記録の一覧」


 リュシアは続ける。


「それとは別に、原本目録を作ります。閲覧は制限し、管理は公文書院が持つ。監察局に渡さない」


「隠すのか」


「守るために、隔てる」


 彼女の言葉は、苦い。


「私はずっと、記録は一つであるべきだと思っていました。でも……」


 机の上の白い修正版を見て、唇を噛む。


「あれが“唯一の記録”になるくらいなら、二つに分けた方がまだ誠実です」


 エルディアは、ゆっくりとうなずいた。


「公開版は、制度が読む」


「はい」


「原本は、人が読む」


「ええ。いつか、正しく読める人が現れた時のために」


 エルディアは、胸の奥の重さが、少しだけ形を変えるのを感じた。軽くはならない。だが、握れる重さになる。


「監察局は気づく」


「気づきます」


 リュシアは、ためらわず言った。


「だから、原本は“存在しない形式”で管理します。目録に載せず、鍵で管理し、私と——」


 言葉が止まる。


「あなたが関わるなら、あなたも狙われる」


 エルディアが言うと、リュシアは目を逸らさない。


「もう狙われています」


 そう言い切った。


「あなたの記録を守ると言った時点で、私は“向こう側”です」


 向こう側。

 その言葉が、二人を同じ場所に立たせた。


 エルディアは机の上の紙を取り、裏返した。白い余白がある。


「公開版には事実だけを書く。削られない形で」


「はい」


「原本には、沈黙の理由も、迷いも、注釈も書く。だが、誰も傷つけない形で」


 リュシアが微かに笑う。疲れた笑みだったが、確かに笑みだった。


「難しい仕事ですね」


「剣より難しい」


 エルディアが言うと、リュシアは頷いた。


 その時、扉がノックされた。


 若い職員が顔を出し、恐る恐る言う。


「リュシアさん。監察局から連絡が……」


 リュシアは立ち上がり、職員に小さく指示する。


「後で」


 職員が去ると、部屋に沈黙が戻った。


 エルディアは、修正版の紙に目を落とした。白い余白。消された部分。整えられた事実。


 これが世に出れば、人々は安心するだろう。

 そして、安心したまま、誰かが切られる。


 エルディアは炭筆を取った。


「署名の代わりに、条件を書く」


「条件?」


「公開版は、俺の署名ではなく、公文書院の発行とする。俺の名は“提出者”に留める」


 リュシアが眉を上げる。


「受け入れますか」


「受け入れなくても、書く」


 エルディアは紙に一行を書いた。


 ――本記録は、勇者の命令ではない。判断の代替ではない。


 それは抵抗にならないかもしれない。

 切り取られるかもしれない。

 それでも、残さなければ何も始まらない。


 リュシアは、鍵束を握りしめた。


「原本目録の鍵は、二つ作ります」


「一つは君」


「もう一つは、あなた」


 エルディアは受け取り、掌の中で鍵の冷たさを確かめた。


 剣ではない。

 だが、これもまた武器になる。守るための武器だ。


 その夜、監察局からの返答は早かった。


 翌朝、レオニスが公文書院へ現れた。

 いつも通り丁寧に、いつも通り柔らかく。


「署名は?」


 エルディアは首を振った。


「しない」


「では、修正版は?」


「公文書院発行として出す。俺の名は提出者」


 レオニスは少しだけ目を細めた。


「巧妙ですね」


「必要なだけだ」


 レオニスは、机の上の紙を指で軽く叩く。


「あなたは“二つの記録”を持つつもりですか」


 空気が凍る。


 リュシアの指が、鍵束の上で微かに動いた。


 エルディアは、ゆっくりと答えた。


「二つじゃない」


 視線を逸らさず言う。


「失われるものを、失われない形にするだけだ」


 レオニスは、短く笑った。楽しそうではない。確認した、とでもいう笑いだ。


「なら、あなたは“白い余白”を守る」


 白い余白。

 彼は、言葉を選んだ。的確すぎる。


「余白は、いつか埋まります」


 レオニスは扉へ向かいながら、振り返りもせず言った。


「埋める人間が現れた時、あなたは責任を問われるでしょう」


 扉が閉まる。


 静寂が落ちる。


 リュシアが小さく息を吐いた。


「気づきましたね」


「ああ」


 エルディアは鍵を握りしめる。


 戦いは始まった。

 剣の戦いではない。


 記録の戦いだ。


 そして、白い余白を守る戦いだ。


 誰かが読むために。

 誰かが消されないために。


 エルディアは炭筆を取り、次の頁を開いた。

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