検閲官と白い余白
差し戻しは、昼のうちに届いた。
ローディアで書いた報告書を王都へ送ったのが昨日。封蝋がまだ指先の感触として残っているうちに、同じ封筒が別の印で戻ってきた。
宿の主人が、言いにくそうに封書を差し出す。
「……王都からだ。今朝、早馬が来た」
封筒は破られていない。だが、紙の角が揃いすぎている。開封された形跡を隠す手つきは、慣れた者のものだった。
印章を見て、エルディアは息を止める。
王国評議会付――監察局。
公文書院ではない。リュシアでもない。
封を切ると、薄い紙が三枚。最初の一枚は短い通達だった。
――提出文書につき、以下の箇所を削除・修正のうえ再提出せよ。
――推察表現の使用を禁ず。
――沈黙を理由とする記述は不要。
――当事者保護の観点から、該当部分は一律削除。
次の二枚は、赤い印と線で埋まっていた。自分が書いた文が、呼吸のように切られている。
——当事者の一名は、聞き取りを拒否。理由:過去に記録が引用され、不利益を受けた経験によるものと推察。
そこが丸ごと削除指定になっている。
エルディアは紙を畳み、机に置いた。剣を抜く時よりも、指が冷たい。
最後に、小さな別紙が挟まっていた。
整った筆跡。短い追記。
――公文書院の管轄を越えました。戻ってください。
――リュシア
その一行が、通達よりも重かった。
世界は救われた。だから勇者は職を失った。
そして今――勇者の言葉が、剣より鋭く扱われ始めている。
エルディアは立ち上がり、宿の窓から街道を見た。
平和な道だ。魔物も、旗もない。
だが、戻ってこいと言う紙は、命令の形をしていなくても、命令より逃げ場がなかった。
彼は荷をまとめ、王都へ向かった。
⸻
公文書院は、以前より静かに見えた。
人の出入りは多いのに、声が低い。廊下の足音は早い。紙の匂いは濃いのに、窓は開けられていない。
リュシアの執務室の扉を叩くと、返事はすぐ来た。
「どうぞ」
中に入ると、彼女は机に向かったまま顔を上げた。目の下に薄い影がある。眠っていないのだと分かった。
「早かったですね」
「差し戻しが早かった」
エルディアが監察局の通達を机に置くと、リュシアは紙面を見ただけで眉をわずかに寄せた。
「……やはり」
「君は知っていたのか」
「予感はありました」
彼女は通達を丁寧に揃え、息を吐いた。
「あなたの記録は、もう“内部資料”ではありません。評議会の方針の材料になっている。材料になれば、整形されます」
「整形?」
「角を削って、危険な部分を落として、使いやすくする」
言い方は冷静だ。だが、その冷静さが怖い。
「沈黙を落とすのは、危険だからか」
「ええ。沈黙の理由は、読む側の想像を刺激します。想像は扇動になる」
リュシアは、机の端に指を置いた。
「監察局は、そう判断します」
「監察局……誰が?」
リュシアは一瞬だけ迷い、答えた。
「監察官レオニス。評議会付の監察局で、記録の公開と運用を監督する人です」
名前が出た瞬間、空気に輪郭が生まれた。
敵は制度そのものではなく、制度の顔をした誰かになる。
「会えるのか」
「会えます。向こうが望んでいますから」
リュシアは立ち上がり、扉へ向かった。
「今日の午後、監察局で面談が入っています。あなたが戻ることも、想定済みです」
「……早すぎる」
「早いのが、彼らの仕事です」
リュシアは扉を開け、廊下へ出た。
エルディアは一歩遅れて続く。
公文書院の廊下は、紙の海のようだった。書類箱が並び、分類札が増え、誰かが何かを急いで運んでいる。
救われた世界が、記録で組み立て直されている。
その骨組みの中で、言葉が武器になる。
⸻
監察局は、評議会棟の一角にあった。
扉は新しく、守衛の制服も新しい。入る者の名前を確認する手つきが、丁寧すぎる。
通された応接室は、飾りが少なかった。机と椅子、壁に掛けられた王国紋章。
静かで、清潔で、息が詰まる。
やがて扉が開き、男が入ってきた。
年は三十代半ば。背は高く、無駄のない身なり。髪は整えられ、手袋を外す動作が儀礼のように滑らかだった。
「勇者エルディア殿」
声は柔らかい。だが、柔らかさの裏に、刃物の冷たさがある。
「監察官レオニスです。お戻りいただき感謝します」
握手を求めてはこない。距離は詰めない。
礼儀としての丁寧さが、逆に相手の自由を奪う。
「差し戻しを受け取った」
「はい。内容に不満が?」
「不満というより……削除の理由を聞きたい」
レオニスは微笑む。
「理由は簡単です。記録は秩序のためにあります」
「忘れないためではないのか」
「忘れないため、も含まれます」
彼は“含まれます”と言った。主ではない、と静かに告げたのと同じだ。
「英雄の記録は影響力が強い。あなたが意図しなくても、人はそれを基準にします」
エルディアの胸の奥が冷える。
「だから、曖昧さを排します。推察、沈黙、理由——それらは火種になります」
「沈黙の理由が火種になるのは、理由が消えるからだ」
エルディアが言うと、レオニスは首を傾げた。
「あなたは善意で書いている。理解しています」
理解、という言葉が、見下ろしに聞こえた。
「ですが善意は、しばしば現場を揺らします。記録は、人々を落ち着かせるためにある。揺らす記録は、危険です」
「危険なのは、揺らすことじゃない。揺らされた結果を、誰かが握ることだ」
レオニスの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「それもまた、秩序の一部です」
彼は机の上に、修正済みの紙を置いた。
「こちらが修正版です。内容は整っている。公開に耐える」
修正版は、きれいだった。余白が多い。怖いほどに。
沈黙は削られ、拒否は消え、恐れは存在しないことになっている。
ただ「衝突未遂」「死傷者なし」「武器使用なし」「口頭で沈静化」――結果だけが並ぶ。
「これに、あなたの署名を」
レオニスの声は変わらない。
「署名?」
「はい。あなたの名があるから、各地が従う」
エルディアは、目の前の紙を見つめた。
署名は、剣を抜くのと同じだ。
一線を越えれば、以後その線は戻らない。
「署名すれば、俺の言葉は完全に“あなたたちの武器”になる」
「武器ではありません。指針です」
「言い換えただけだ」
レオニスは、少しだけ息を吐く。
「勇者殿。あなたは世界を救った。だからこそ、今度は世界を落ち着かせる責任がある」
責任。
その言葉が、丁寧に突き刺さる。
隣でリュシアが、微かに唇を結んだ。彼女が何か言いかけて、飲み込んだのが分かった。
レオニスは続ける。
「署名がなければ、あなたの任命は取り消しになります。公文書院の業務も、監察局の管理下に入る」
脅しではない、とでも言うように、淡々と。
「公文書院を守るために、署名を」
その言葉が、最も卑怯だった。
守るために従え。
正しさのために折れろ。
それは、折れた者の責任になる。
エルディアは、答えなかった。
沈黙が落ちる。レオニスは焦らない。沈黙を待つのが仕事だ。
だが、その沈黙を破ったのは別の報告だった。
扉がノックされ、局員が入ってくる。
「監察官。ローディアの件、追加情報です」
レオニスは視線だけで促す。
「当事者の一名、“セイラ”に接触しました。事情聴取を開始します。保護の名目で」
その名前が出た瞬間、エルディアの体が固まった。
名は書かなかった。報告書に名はない。
それでも――割り出された。
レオニスが、申し訳なさそうな顔を作る。
「ご心配なく。保護です。証言者は大切に扱います」
大切に扱う、という言葉ほど、人を壊す言葉はない。
リュシアが、低い声で言った。
「……彼女は話せません。過去の経験で」
「ならなおさら保護が必要です」
レオニスの声は、やさしい。
「話せない人は、善意で守られるべきだ」
善意。
また、善意だ。
エルディアは理解した。
書かなかったことで守れると思ったのは、甘かった。
人は探し当てる。噂と証言と、制度の網で。
だから、守り方を記録の中で設計しなければならない。
「面談はここまでにします」
レオニスが言う。
「署名は明日まで。あなたが賢明な選択をすることを願います」
扉が開き、局員が丁寧に退出を促す。
エルディアは立ち上がり、最後に一つだけ言った。
「俺は、署名しない」
レオニスの眉が、ほんの少し動く。
「理由は?」
「それが、俺の言葉を守る唯一の方法だからだ」
レオニスは一瞬沈黙し、そして微笑んだ。
「では、あなたは秩序と対立する」
「違う」
エルディアは言った。
「秩序の中で、人を消さない」
⸻
公文書院へ戻る道すがら、リュシアは何も言わなかった。
夕暮れの王都は美しい。塔が影を落とし、露店が灯りをつけ、人々が明日のパンを買っている。
その平和が、余計に残酷だった。
執務室に戻ると、リュシアは机に手を置いたまま、ようやく口を開いた。
「署名しないのは、正しいです」
意外な言葉だった。
「でも、潰されます」
「潰されるのは、記録か?」
「……あなたです」
リュシアの声が、ほんの少し震えた。
「あなたを潰せば、記録は扱いやすくなる。英雄が黙れば、紙は自由になる」
エルディアは椅子に座り、手を見た。
「なら、どうする」
リュシアは目を閉じ、開いた。
「折れるしかない、と私は思っていました」
「過去形か」
「はい」
彼女は、机の引き出しから鍵束を出した。小さな鍵が一つ、他と違う形でぶら下がっている。
「公文書院には、公開目録があります。誰でも閲覧できる記録の一覧」
リュシアは続ける。
「それとは別に、原本目録を作ります。閲覧は制限し、管理は公文書院が持つ。監察局に渡さない」
「隠すのか」
「守るために、隔てる」
彼女の言葉は、苦い。
「私はずっと、記録は一つであるべきだと思っていました。でも……」
机の上の白い修正版を見て、唇を噛む。
「あれが“唯一の記録”になるくらいなら、二つに分けた方がまだ誠実です」
エルディアは、ゆっくりとうなずいた。
「公開版は、制度が読む」
「はい」
「原本は、人が読む」
「ええ。いつか、正しく読める人が現れた時のために」
エルディアは、胸の奥の重さが、少しだけ形を変えるのを感じた。軽くはならない。だが、握れる重さになる。
「監察局は気づく」
「気づきます」
リュシアは、ためらわず言った。
「だから、原本は“存在しない形式”で管理します。目録に載せず、鍵で管理し、私と——」
言葉が止まる。
「あなたが関わるなら、あなたも狙われる」
エルディアが言うと、リュシアは目を逸らさない。
「もう狙われています」
そう言い切った。
「あなたの記録を守ると言った時点で、私は“向こう側”です」
向こう側。
その言葉が、二人を同じ場所に立たせた。
エルディアは机の上の紙を取り、裏返した。白い余白がある。
「公開版には事実だけを書く。削られない形で」
「はい」
「原本には、沈黙の理由も、迷いも、注釈も書く。だが、誰も傷つけない形で」
リュシアが微かに笑う。疲れた笑みだったが、確かに笑みだった。
「難しい仕事ですね」
「剣より難しい」
エルディアが言うと、リュシアは頷いた。
その時、扉がノックされた。
若い職員が顔を出し、恐る恐る言う。
「リュシアさん。監察局から連絡が……」
リュシアは立ち上がり、職員に小さく指示する。
「後で」
職員が去ると、部屋に沈黙が戻った。
エルディアは、修正版の紙に目を落とした。白い余白。消された部分。整えられた事実。
これが世に出れば、人々は安心するだろう。
そして、安心したまま、誰かが切られる。
エルディアは炭筆を取った。
「署名の代わりに、条件を書く」
「条件?」
「公開版は、俺の署名ではなく、公文書院の発行とする。俺の名は“提出者”に留める」
リュシアが眉を上げる。
「受け入れますか」
「受け入れなくても、書く」
エルディアは紙に一行を書いた。
――本記録は、勇者の命令ではない。判断の代替ではない。
それは抵抗にならないかもしれない。
切り取られるかもしれない。
それでも、残さなければ何も始まらない。
リュシアは、鍵束を握りしめた。
「原本目録の鍵は、二つ作ります」
「一つは君」
「もう一つは、あなた」
エルディアは受け取り、掌の中で鍵の冷たさを確かめた。
剣ではない。
だが、これもまた武器になる。守るための武器だ。
その夜、監察局からの返答は早かった。
翌朝、レオニスが公文書院へ現れた。
いつも通り丁寧に、いつも通り柔らかく。
「署名は?」
エルディアは首を振った。
「しない」
「では、修正版は?」
「公文書院発行として出す。俺の名は提出者」
レオニスは少しだけ目を細めた。
「巧妙ですね」
「必要なだけだ」
レオニスは、机の上の紙を指で軽く叩く。
「あなたは“二つの記録”を持つつもりですか」
空気が凍る。
リュシアの指が、鍵束の上で微かに動いた。
エルディアは、ゆっくりと答えた。
「二つじゃない」
視線を逸らさず言う。
「失われるものを、失われない形にするだけだ」
レオニスは、短く笑った。楽しそうではない。確認した、とでもいう笑いだ。
「なら、あなたは“白い余白”を守る」
白い余白。
彼は、言葉を選んだ。的確すぎる。
「余白は、いつか埋まります」
レオニスは扉へ向かいながら、振り返りもせず言った。
「埋める人間が現れた時、あなたは責任を問われるでしょう」
扉が閉まる。
静寂が落ちる。
リュシアが小さく息を吐いた。
「気づきましたね」
「ああ」
エルディアは鍵を握りしめる。
戦いは始まった。
剣の戦いではない。
記録の戦いだ。
そして、白い余白を守る戦いだ。
誰かが読むために。
誰かが消されないために。
エルディアは炭筆を取り、次の頁を開いた。
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