言葉の余波
任務書は、一枚だけだった。
厚い封筒に入っていたが、中身は簡素だ。地名、日付、要件。余計な修飾はなく、命令文もない。ただ「調査」とだけ記されている。
——小都市ローディアにおける衝突事案の経緯確認。
エルディアは、それを読み終え、紙を折りたたんだ。
公文書院の一室で、リュシアが説明を続けている。
「規模は小さいです。死者は出ていません。だからこそ、記録が必要になります」
「剣は?」
「携行は許可されています。ただし——」
「介入は最小限」
言葉を継ぐと、リュシアは小さくうなずいた。
「あなたは、解決するために行くのではありません」
その言い方に、少しだけ間があった。
「書くために行くのです」
エルディアは、腰の剣に視線を落とす。鞘に収まったままの剣は、静かだった。
「書くだけなら、簡単だ」
そう言うと、リュシアは否定もし、肯定もしなかった。
「そう思えるうちは、まだ余裕があります」
それが忠告なのか、期待なのかは分からない。
王都を発つ準備は、すぐに整った。護衛は付かない。同行者もいない。勇者としてではなく、記録官としての任務だからだ。
門を出ると、街道は明るかった。平和な道。魔物の気配はない。
エルディアは歩きながら、任務書の一文を思い返す。
——経緯確認。
結果ではない。責任の所在でもない。
だが、経緯を書いた記録は、いずれ結果を生む。
それを、彼はもう知っている。
剣を抜くよりも、重い仕事が始まった。
エルディアはそう感じながら、最初の正式任務へと向かった。
ローディアは、城壁のない町だった。
街道がそのまま大通りになり、荷車がすれ違い、屋台が声を張り上げる。小都市と呼ぶには控えめだが、通過点としては十分に栄えている。平和の匂いがした。
——問題なんて、起きていないように見える。
町の入口で、エルディアは立ち止まった。
視線が、刺さる。
剣にではない。腰の鞘を一瞥して終わる目もあるが、多くは顔を見ている。確かめるような目だ。
誰かが囁いた。
「……来た」
続けて別の声。
「勇者だ」
「違う、今は——」
言葉の続きは飲み込まれた。飲み込まれること自体が、妙に明確だった。
エルディアは歩き出す。背筋を伸ばすでも、伏せるでもなく、ただ普通に。普通に、というのがいちばん難しいと知りながら。
役場は町の中央にあり、扉の前にはすでに人が集まっていた。待ち合わせの約束はない。それなのに、待たれている。
中年の男が一歩前へ出た。服は地味だが清潔で、手がよく動く。町の調停役——そういう人間の匂いがする。
「エルディアさんですね」
「そうだ」
「お待ちしていました」
「待つ必要はない。俺は——」
「記録官、ですね」
男が先に言った。
その言い方が、引っかかった。勇者ではなく、記録官。だが敬意も距離も、どちらも過剰に乗っている。
「こちらへ」
役場の小部屋に通される。机が一つ、椅子が数脚。そこにすでに三人、座っていた。若い男、年嵩の女、そして腕を組んだ壮年の男。互いに目を合わせない。衝突の匂いが、まだ残っている。
エルディアが椅子に座る前に、若い男が口を開いた。
「先に、確認していいですか」
言い方は丁寧だが、刃が入っている。
「あなたは“判断しない”って聞いた。でも……書くんですよね」
「事実を」
「その“事実”が問題なんです」
若い男は懐から紙を取り出した。折り目のついた写し。墨が薄い。誰かが回し読みした跡がある。
エルディアは、そこにある文字を見て、息を止めた。
——剣を抜かなかった理由。
——争いは、広がる前に止められた。
——話を聞くことが、最初の介入になった。
自分の書いた文が、そこにあった。村の一件。夜に、炭筆で書いた短い記録。王都に送ったはずのもの。
「これ」
若い男が紙を揺らす。
「みんな読んでる。ここでも、他所でも。評議会が参考にしたって話もある」
年嵩の女が、ぽつりと言う。
「読まれたら終わりよ。もう、元に戻らない」
壮年の男が低く笑った。
「だから、こっちも準備する。どう書かれるかで、明日が変わるからな」
エルディアは、その言葉を飲み込むのに時間がかかった。
——俺は、聞きに来ただけだ。
そう思っていた。観察者として、外側から事実を拾うつもりだった。
だが、違う。
すでにこの町では、記録が先に立っている。
エルディアという名が、剣ではなく文章として、先に届いている。
「……俺は」
言いかけて、止めた。
ここで不用意に言葉を出せば、それもまた紙になって、どこかで切り取られる。
沈黙が落ちる。
それは、彼にとって慎重さだったが、相手にとっては“答えを選ばない態度”として映る。
若い男が、少し身を乗り出した。
「今回も、同じように書いてくれますよね」
頼みではない。
当然の確認でもない。
——要求だ。
エルディアは、ようやく立場を理解した。
剣を帯びているから警戒されるのではない。
勇者だから崇められるのでもない。
読まれたから、期待される。
書いたから、裁かれる。
彼は椅子に座ったまま、まっすぐに言った。
「俺は、誰のためにも書かない」
一瞬、部屋の空気が止まる。
「起きたことのために書く」
それが、今のエルディアに言える精一杯の宣言だった。
「起きたことのために書く」
エルディアの言葉の後、部屋の空気はしばらく固まったままだった。
若い男が舌打ちしかけ、思い直したように口を閉じる。年嵩の女は視線を落とし、壮年の男は腕を組んだまま、どこか愉快そうに鼻で笑う。
調停役の中年が咳払いをして、机の上の紙束を整えた。
「では、順に伺います。衝突が起きたのは三日前の夕刻。場所は北門近くの井戸場——」
「……待って」
年嵩の女が、急に声を上げた。
声は小さいのに、よく通った。
「その前に。話していない人がいるでしょう」
中年が一瞬だけ困った顔をした。
「……呼びました。ですが」
「来ないの?」
女は問い詰めるでもなく、ただ確かめるように言った。
中年は視線を逸らし、短く答える。
「拒否されました」
拒否。
その言葉が、机の上に落ちた。
若い男が苛立ちを隠さず言う。
「またかよ。いつもそうだ。言わなきゃ、分からねえだろ」
壮年の男が、静かに同意する。
「都合のいい沈黙だな。言わないなら、言える側の話で決まる」
年嵩の女が、目を上げずに言った。
「……言えない人もいるの」
その声音に、エルディアは顔を向けた。
「誰だ」
中年が答える。
「井戸場の管理をしていた者です。名は、セイラ。彼女が最初に叫んだという証言がある」
若い男が吐き捨てる。
「叫んだくせに、今さら黙るってか」
中年が首を振る。
「叫んだのは、止めるためだったのでしょう。……ですが、話すことはしないと」
エルディアは、静かに立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きい。
「会いに行く」
「今? ここで聞き取りを——」
「聞き取りは、後でいい」
エルディアは机の紙束に手を触れなかった。
「その人がいない経緯は、経緯じゃない」
中年が迷い、年嵩の女が小さくうなずいた。
「案内する。……でも、無理に口を開かせるな。あの人は——」
最後の言葉は、飲み込まれた。
役場を出ると、町の音が戻ってくる。屋台の呼び声、荷車の軋み。平和の皮膚は厚い。だが、その下で、確かに何かがこすれていた。
中年が裏通りへ折れる。石畳の陰に入ると、人の気配は薄くなった。
「ここです」
小さな家だった。窓は閉じられ、扉の前に桶が置いてある。生活の痕跡はあるのに、呼吸が感じられない。
中年が扉を叩く。
「セイラ。記録官殿が——」
返事はない。
もう一度、叩く。
それでも、沈黙。
中年が小さく言う。
「……こうなる」
エルディアは、扉に向かって声を落とした。
「エルディアだ。勇者じゃない。記録官でもない」
少し間を置き、続ける。
「話さなくていい。理由だけ、聞きたい。なぜ、話せないのか」
扉の向こうで、微かな音がした。
床がきしむ。人が動いた気配。
だが、鍵は開かない。
やがて、内側から声が漏れた。小さく、擦れた声。
「……書かれたくない」
エルディアは、息を止めた。
「何を」
「わたしを」
声は震えていた。
「前に……書かれたの。誰かが、わたしの言葉を“証拠”にした。あれは、わたしの言葉じゃなかったのに」
中年が苦しそうに顔を歪める。
エルディアは、静かに問いを重ねた。
「どうなった」
扉の向こうの沈黙が長くなり、やがて声が落ちる。
「切られた。仕事も。居場所も」
短い言葉だった。説明を拒むというより、説明する体力がない。
「書くって、そういうことなんでしょう」
最後の一言が、釘のように刺さる。
エルディアは、何も言えなかった。
記録は、裁かないためにある。忘れないためにある。
そう信じてきた。
だが今、記録は彼女の世界を切っていた。
「……今日は帰る」
エルディアは、扉に向かって言った。
「無理に言葉を奪わない。だが、ひとつだけ」
指先が、無意識に鞘へ触れかけて止まる。
「書かれない沈黙も、記録に残る」
扉の向こうの呼吸が、わずかに止まった気配がした。
エルディアは背を向ける。
中年が追いすがるように言う。
「これでは、片方の話で——」
「だから、書けない」
エルディアは歩きながら答えた。
「話せない人がいるなら、俺は“決めない”」
それは逃げに見えるかもしれない。
だが、逃げることと、奪わないことは違う。
町の大通りへ戻ると、平和の音がまた耳を満たした。
その中で、エルディアは確かに感じていた。
言葉を集めるだけでは、足りない。
そして、沈黙には、沈黙の理由がある。
記録は、そこから始めなければならない。
役場へ戻る道すがら、エルディアは自分の足音だけを数えていた。
扉の向こうの声が、耳から離れない。書かれたくない。書かれた言葉で、切られた。仕事も、居場所も。
——剣で傷つくなら、まだ分かる。
だが、言葉で傷つくのは、痕が残らない。痛みの場所が見えない。だから周囲は、何もなかった顔をする。
役場の前に着くと、空気が違っていた。
人が増えている。遠巻きの輪ができ、声が重なっている。中年の調停役が青い顔で走り寄ってきた。
「まずいことになりました」
「何が」
「井戸場で、また——」
言い終える前に、怒号が上がった。
北門の方角。人が集まり、押し合っている。棒が一本、振り上げられるのが見えた。
エルディアは走った。
剣は鞘の中で跳ね、腰にぶつかる。いつでも抜ける位置にある。抜けば、早い。抜けば、終わる。
井戸場は、昼の光の下で荒れていた。
若い男が叫んでいる。壮年の男が腕を組んだまま、周囲を煽るように言葉を投げている。年嵩の女は、人々の間で必死に手を広げているが、押し戻されていた。
「ほら見ろ! 黙るってのはそういうことだ!」
「言わないなら、こっちで決めるしかねえ!」
誰かが誰かの胸倉を掴む。別の誰かが押す。輪が傾き、倒れそうになる。
その瞬間、木の棒が振り下ろされた。
エルディアの体が先に動いた。
鞘のまま、剣を横に払う。棒の軌道が逸れ、乾いた音を立てて地面に落ちる。刃は抜かれていない。だが、動きは鋭かった。
ざわめきが止まる。
皆の視線が、エルディアに集まる。
ここで剣を抜けば、完全に終わる。恐怖で鎮まる。誰も逆らえない。勇者としての「成功例」になる。
そして、その「成功」が、次の町に運ばれる。
——英雄は剣で収めた、と。
エルディアは、剣から手を離した。
鞘を地面に置く。
人々が息を呑む。
「剣で止めるのは簡単だ」
声は低く、よく通った。
「だが、剣で止めた争いは、剣がいない場所で増える」
若い男が反発する。
「じゃあどうしろってんだ! 黙ってる奴がいるんだぞ!」
エルディアは、そちらを見た。
「黙ってるんじゃない。話せない」
その言葉に、輪のどこかが揺れた。
「話せない人間の沈黙を、都合よく使うな」
壮年の男が鼻で笑う。
「聞いたふりをするな。結局、お前が決めるんだろ。勇者様が」
エルディアは首を振った。
「俺は決めない」
繰り返す。
「だが、決まってしまう前に、止める」
彼は一歩前へ出た。手ぶらのまま。
「ここにいる全員が、今日この場で言えることを言え。証言じゃない。主張じゃない。『自分が失うのが怖いもの』を一つだけ」
誰も動かない。
エルディアは待った。急かさない。沈黙を、奪わない。
最初に年嵩の女が口を開いた。
「……町が割れるのが怖い」
次に、若い男が言う。
「……家族が飢えるのが怖い」
壮年の男が、少し遅れて吐き捨てるように言った。
「……権威がなくなるのが怖い」
周囲から短い息が漏れる。露骨すぎる本音に、場が冷える。だが、嘘ではなかった。
エルディアはうなずいた。
「それでいい」
そして続ける。
「怖いなら、殴る前に言え。決める前に言え」
彼は視線を巡らせた。
「話せない人間の代わりに、誰かが声を作るな」
沈黙が落ちる。
だが、先ほどの沈黙とは違う。怒号の前の沈黙ではなく、考えるための沈黙だった。
剣を抜かなかった。
代わりに、場を開いた。
それは、勝ちでも負けでもない。明確な解決でもない。だが、棒は拾われず、殴り合いは起きなかった。
エルディアは地面の鞘を拾い、腰に戻した。
刃は、最後まで抜かれないままだった。
剣を抜くより重い選択を、今、確かにしたのだと感じながら。
その日の夕方、役場の部屋は、昼よりも狭く感じた。
人々は一度散り、衝突の当事者たちも口数を減らして戻ってきた。誰も勝った顔はしていない。だが、殴り合いが起きなかったという一点だけが、床に残った埃みたいに、確かな手触りを持っていた。
エルディアは机に向かい、何も書けずにいた。
言葉を拾おうとすると、拾った瞬間に刃になる気がする。沈黙を記せば、沈黙の理由が別の形で暴かれる気がする。
扉が叩かれた。
調停役の中年が入ってくる。顔色が悪い。手にしているのは封書ではなく、薄い紙束だった。
「……これが、町に回り始めました」
広報用の紙だ。王都から流れてくる告知文——いまは誰もそう呼ばない。人はただ、「お触れの写し」と言う。
中年は机にそれを置き、指で一行を示した。
太字の見出し。
『勇者エルディア、剣を抜かずして治安を回復させる』
エルディアの喉が、ひゅっと鳴った。
紙には、彼の名前がある。紋章もある。公文書院ではなく、評議会の印。
その下に、引用符付きの文が並んでいた。
——「剣で止めた争いは、剣がいない場所で増える」
——「怖いなら、殴る前に言え」
確かに自分が言った言葉だ。
だが、その前後が切り落とされている。
「話せない人間の沈黙を、都合よく使うな」も。
「俺は決めない」も。
誰かの恐れに触れた部分も。
丸ごと、ない。
代わりに、次の行が続いていた。
『ゆえに、辺境紛争の即時鎮圧を目的として、巡察隊の常設化を推奨する』
『反抗の兆しがある集会は事前に解散させること』
エルディアは、紙を見つめたまま動けなかった。
剣を抜かない選択が、「解散させろ」という命令の根拠にされている。
言葉が、別の刃に作り替えられている。
「……俺は、そんなことは言っていない」
絞り出すように言うと、中年は苦しそうに眉を寄せた。
「分かっています。けれど、皆……こう読むんです」
エルディアは紙束をめくった。末尾に小さな注記がある。
『本指針は勇者の戦後記録を参考に編纂した』
“参考”。
その二文字で、逃げ道が消える。
間違って引用した、とは誰も言わない。都合よく切り取った、とも言わない。参考にしただけだ、と言い張れる。
中年が声を落とす。
「すでに別の町にも回っているでしょう。あなたの言葉として」
エルディアは、机に置いた手に力が入るのを感じた。
剣に触れていないのに、指先が痛む。
あの場で、剣を抜けば簡単だった。恐怖で沈黙させれば、誰も怪我はしなかったかもしれない。
だが、その「成功」は、もっと分かりやすい形で拡散しただろう。
剣でも言葉でも、同じだ。
使う者がいれば、武器になる。
エルディアは、紙束をきれいに揃え、机に戻した。
「……これを、どこへ?」
中年が答える。
「評議会は、あなたの“実績”として扱うでしょう。さらに広げる」
実績。
その言葉が、腹の底を冷やした。
エルディアは立ち上がる。
今すぐ王都へ戻って抗議するべきか。リュシアに伝えるべきか。そもそも、誰に何を言えばいい。
言えば、また切り取られる。
沈黙すれば、同意と見なされる。
この二つの罠の間で、初めて足元がぐらついた。
中年が、おそるおそる言った。
「あなたは、どう書くんですか」
エルディアは答えなかった。
答えを持っていないからではない。
答えにした瞬間、それもまた紙になるからだ。
彼はただ、机の上の白紙を見つめた。
白紙は安全だ。誰も傷つけない。誰にも使われない。
だが——
白紙は、なかったことになる。
その事実だけが、重く、逃げ場なく胸に落ちた。
夜、宿の部屋は静かだった。
窓の外では、町の灯りが点々と揺れている。遠くで犬が一度吠え、すぐに黙った。昼の騒ぎが嘘のように、世界は眠りへ沈んでいく。
エルディアは机に向かい、白紙を広げた。
炭筆を取る。先端が紙に触れる手前で、止まる。
今日、書けば誰かを傷つけるかもしれない。
書かなければ、誰かが傷ついた事実が消える。
どちらも、痛みがある。
机の上には、評議会の写しが置かれていた。あの歪んだ引用。自分の言葉が、自分の手を離れて別の形になった証拠。
それでも、書くしかない。
エルディアは息を吸い、最初の一行を書いた。
——ローディア小都市、井戸場における衝突未遂。
——死傷者なし。器物破損軽微。武器使用なし。
事実だけ。乾いた文字列。ここまでは書ける。
次が、書けない。
セイラ。扉の向こうの声。書かれたくない、という拒絶。
彼女の名を書けば、その名が歩き出す。
書かなければ、彼女の沈黙は「なかったこと」として処理される。
エルディアは炭筆を置き、手のひらで目を覆った。
剣を抜く方が、楽だった。
剣なら、抜くか抜かないかだけだ。刃が見える。血が見える。結果が見える。
言葉は違う。
言葉は、刃が見えない。誰の手が握っているのかも分からない。傷は遅れて現れ、傷ついた者は声を上げない。
——それでも、残す。
エルディアは、炭筆を取り直した。
名は書かない。だが、沈黙を消さない。
——当事者の一名は、聞き取りを拒否。
——理由:過去に記録が引用され、不利益を受けた経験によるものと推察。
“推察”という言葉を入れたことに、自分で驚く。事実だけを、と決めていたはずなのに。
だが、沈黙は事実だけでは残らない。沈黙の形を、言葉で補わなければならない。
エルディアは続けた。
——本件は、双方の恐れが先に立ち、沈黙が利用されかけた。
——介入は剣ではなく、発言の場を設けることで行った。
——「決定」は行っていない。今後の判断は、当事者の合意を前提とすべき。
最後の一行を書き終えたところで、手が止まった。
ここまででも十分に危うい。誰かにとって都合が悪い。誰かにとって都合がいい。
また、切り取られるかもしれない。
それでも、白紙よりはましだ。
エルディアは、紙の末尾に小さく一文を加えた。公文書院の様式にはない。誰にも求められていない一文。
——この記録を読む者へ。ここに書かれない沈黙があることを忘れないでほしい。
炭筆を置くと、ようやく息が戻った。
書く責任とは、正しく書くことではない。
誤解される可能性を知りながら、それでも残すことだ。
エルディアは紙を畳み、封筒に入れた。封をする手が、わずかに震えている。
窓の外で、夜が深まっていく。
彼は剣ではなく、封書を懐にしまった。
明日、それが誰の手に渡るかは分からない。
それでも、歩く。
そして、書く。
——逃げないために。
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