表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/12

言葉の余波

 任務書は、一枚だけだった。


 厚い封筒に入っていたが、中身は簡素だ。地名、日付、要件。余計な修飾はなく、命令文もない。ただ「調査」とだけ記されている。


 ——小都市ローディアにおける衝突事案の経緯確認。


 エルディアは、それを読み終え、紙を折りたたんだ。


 公文書院の一室で、リュシアが説明を続けている。


「規模は小さいです。死者は出ていません。だからこそ、記録が必要になります」


「剣は?」


「携行は許可されています。ただし——」


「介入は最小限」


 言葉を継ぐと、リュシアは小さくうなずいた。


「あなたは、解決するために行くのではありません」


 その言い方に、少しだけ間があった。


「書くために行くのです」


 エルディアは、腰の剣に視線を落とす。鞘に収まったままの剣は、静かだった。


「書くだけなら、簡単だ」


 そう言うと、リュシアは否定もし、肯定もしなかった。


「そう思えるうちは、まだ余裕があります」


 それが忠告なのか、期待なのかは分からない。


 王都を発つ準備は、すぐに整った。護衛は付かない。同行者もいない。勇者としてではなく、記録官としての任務だからだ。


 門を出ると、街道は明るかった。平和な道。魔物の気配はない。


 エルディアは歩きながら、任務書の一文を思い返す。


 ——経緯確認。


 結果ではない。責任の所在でもない。


 だが、経緯を書いた記録は、いずれ結果を生む。


 それを、彼はもう知っている。


 剣を抜くよりも、重い仕事が始まった。


 エルディアはそう感じながら、最初の正式任務へと向かった。



 ローディアは、城壁のない町だった。


 街道がそのまま大通りになり、荷車がすれ違い、屋台が声を張り上げる。小都市と呼ぶには控えめだが、通過点としては十分に栄えている。平和の匂いがした。


 ——問題なんて、起きていないように見える。


 町の入口で、エルディアは立ち止まった。


 視線が、刺さる。


 剣にではない。腰の鞘を一瞥して終わる目もあるが、多くは顔を見ている。確かめるような目だ。


 誰かが囁いた。


「……来た」


 続けて別の声。


「勇者だ」


「違う、今は——」


 言葉の続きは飲み込まれた。飲み込まれること自体が、妙に明確だった。


 エルディアは歩き出す。背筋を伸ばすでも、伏せるでもなく、ただ普通に。普通に、というのがいちばん難しいと知りながら。


 役場は町の中央にあり、扉の前にはすでに人が集まっていた。待ち合わせの約束はない。それなのに、待たれている。


 中年の男が一歩前へ出た。服は地味だが清潔で、手がよく動く。町の調停役——そういう人間の匂いがする。


「エルディアさんですね」


「そうだ」


「お待ちしていました」


「待つ必要はない。俺は——」


「記録官、ですね」


 男が先に言った。


 その言い方が、引っかかった。勇者ではなく、記録官。だが敬意も距離も、どちらも過剰に乗っている。


「こちらへ」


 役場の小部屋に通される。机が一つ、椅子が数脚。そこにすでに三人、座っていた。若い男、年嵩の女、そして腕を組んだ壮年の男。互いに目を合わせない。衝突の匂いが、まだ残っている。


 エルディアが椅子に座る前に、若い男が口を開いた。


「先に、確認していいですか」


 言い方は丁寧だが、刃が入っている。


「あなたは“判断しない”って聞いた。でも……書くんですよね」


「事実を」


「その“事実”が問題なんです」


 若い男は懐から紙を取り出した。折り目のついた写し。墨が薄い。誰かが回し読みした跡がある。


 エルディアは、そこにある文字を見て、息を止めた。


 ——剣を抜かなかった理由。

 ——争いは、広がる前に止められた。

 ——話を聞くことが、最初の介入になった。


 自分の書いた文が、そこにあった。村の一件。夜に、炭筆で書いた短い記録。王都に送ったはずのもの。


「これ」


 若い男が紙を揺らす。


「みんな読んでる。ここでも、他所でも。評議会が参考にしたって話もある」


 年嵩の女が、ぽつりと言う。


「読まれたら終わりよ。もう、元に戻らない」


 壮年の男が低く笑った。


「だから、こっちも準備する。どう書かれるかで、明日が変わるからな」


 エルディアは、その言葉を飲み込むのに時間がかかった。


 ——俺は、聞きに来ただけだ。


 そう思っていた。観察者として、外側から事実を拾うつもりだった。


 だが、違う。


 すでにこの町では、記録が先に立っている。


 エルディアという名が、剣ではなく文章として、先に届いている。


「……俺は」


 言いかけて、止めた。


 ここで不用意に言葉を出せば、それもまた紙になって、どこかで切り取られる。


 沈黙が落ちる。


 それは、彼にとって慎重さだったが、相手にとっては“答えを選ばない態度”として映る。


 若い男が、少し身を乗り出した。


「今回も、同じように書いてくれますよね」


 頼みではない。


 当然の確認でもない。


 ——要求だ。


 エルディアは、ようやく立場を理解した。


 剣を帯びているから警戒されるのではない。

 勇者だから崇められるのでもない。


 読まれたから、期待される。

 書いたから、裁かれる。


 彼は椅子に座ったまま、まっすぐに言った。


「俺は、誰のためにも書かない」


 一瞬、部屋の空気が止まる。


「起きたことのために書く」


 それが、今のエルディアに言える精一杯の宣言だった。



 「起きたことのために書く」


 エルディアの言葉の後、部屋の空気はしばらく固まったままだった。


 若い男が舌打ちしかけ、思い直したように口を閉じる。年嵩の女は視線を落とし、壮年の男は腕を組んだまま、どこか愉快そうに鼻で笑う。


 調停役の中年が咳払いをして、机の上の紙束を整えた。


「では、順に伺います。衝突が起きたのは三日前の夕刻。場所は北門近くの井戸場——」


「……待って」


 年嵩の女が、急に声を上げた。


 声は小さいのに、よく通った。


「その前に。話していない人がいるでしょう」


 中年が一瞬だけ困った顔をした。


「……呼びました。ですが」


「来ないの?」


 女は問い詰めるでもなく、ただ確かめるように言った。


 中年は視線を逸らし、短く答える。


「拒否されました」


 拒否。


 その言葉が、机の上に落ちた。


 若い男が苛立ちを隠さず言う。


「またかよ。いつもそうだ。言わなきゃ、分からねえだろ」


 壮年の男が、静かに同意する。


「都合のいい沈黙だな。言わないなら、言える側の話で決まる」


 年嵩の女が、目を上げずに言った。


「……言えない人もいるの」


 その声音に、エルディアは顔を向けた。


「誰だ」


 中年が答える。


「井戸場の管理をしていた者です。名は、セイラ。彼女が最初に叫んだという証言がある」


 若い男が吐き捨てる。


「叫んだくせに、今さら黙るってか」


 中年が首を振る。


「叫んだのは、止めるためだったのでしょう。……ですが、話すことはしないと」


 エルディアは、静かに立ち上がった。


 椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きい。


「会いに行く」


「今? ここで聞き取りを——」


「聞き取りは、後でいい」


 エルディアは机の紙束に手を触れなかった。


「その人がいない経緯は、経緯じゃない」


 中年が迷い、年嵩の女が小さくうなずいた。


「案内する。……でも、無理に口を開かせるな。あの人は——」


 最後の言葉は、飲み込まれた。


 役場を出ると、町の音が戻ってくる。屋台の呼び声、荷車の軋み。平和の皮膚は厚い。だが、その下で、確かに何かがこすれていた。


 中年が裏通りへ折れる。石畳の陰に入ると、人の気配は薄くなった。


「ここです」


 小さな家だった。窓は閉じられ、扉の前に桶が置いてある。生活の痕跡はあるのに、呼吸が感じられない。


 中年が扉を叩く。


「セイラ。記録官殿が——」


 返事はない。


 もう一度、叩く。


 それでも、沈黙。


 中年が小さく言う。


「……こうなる」


 エルディアは、扉に向かって声を落とした。


「エルディアだ。勇者じゃない。記録官でもない」


 少し間を置き、続ける。


「話さなくていい。理由だけ、聞きたい。なぜ、話せないのか」


 扉の向こうで、微かな音がした。


 床がきしむ。人が動いた気配。


 だが、鍵は開かない。


 やがて、内側から声が漏れた。小さく、擦れた声。


「……書かれたくない」


 エルディアは、息を止めた。


「何を」


「わたしを」


 声は震えていた。


「前に……書かれたの。誰かが、わたしの言葉を“証拠”にした。あれは、わたしの言葉じゃなかったのに」


 中年が苦しそうに顔を歪める。


 エルディアは、静かに問いを重ねた。


「どうなった」


 扉の向こうの沈黙が長くなり、やがて声が落ちる。


「切られた。仕事も。居場所も」


 短い言葉だった。説明を拒むというより、説明する体力がない。


「書くって、そういうことなんでしょう」


 最後の一言が、釘のように刺さる。


 エルディアは、何も言えなかった。


 記録は、裁かないためにある。忘れないためにある。


 そう信じてきた。


 だが今、記録は彼女の世界を切っていた。


「……今日は帰る」


 エルディアは、扉に向かって言った。


「無理に言葉を奪わない。だが、ひとつだけ」


 指先が、無意識に鞘へ触れかけて止まる。


「書かれない沈黙も、記録に残る」


 扉の向こうの呼吸が、わずかに止まった気配がした。


 エルディアは背を向ける。


 中年が追いすがるように言う。


「これでは、片方の話で——」


「だから、書けない」


 エルディアは歩きながら答えた。


「話せない人がいるなら、俺は“決めない”」


 それは逃げに見えるかもしれない。


 だが、逃げることと、奪わないことは違う。


 町の大通りへ戻ると、平和の音がまた耳を満たした。


 その中で、エルディアは確かに感じていた。


 言葉を集めるだけでは、足りない。


 そして、沈黙には、沈黙の理由がある。


 記録は、そこから始めなければならない。



 役場へ戻る道すがら、エルディアは自分の足音だけを数えていた。


 扉の向こうの声が、耳から離れない。書かれたくない。書かれた言葉で、切られた。仕事も、居場所も。


 ——剣で傷つくなら、まだ分かる。


 だが、言葉で傷つくのは、痕が残らない。痛みの場所が見えない。だから周囲は、何もなかった顔をする。


 役場の前に着くと、空気が違っていた。


 人が増えている。遠巻きの輪ができ、声が重なっている。中年の調停役が青い顔で走り寄ってきた。


「まずいことになりました」


「何が」


「井戸場で、また——」


 言い終える前に、怒号が上がった。


 北門の方角。人が集まり、押し合っている。棒が一本、振り上げられるのが見えた。


 エルディアは走った。


 剣は鞘の中で跳ね、腰にぶつかる。いつでも抜ける位置にある。抜けば、早い。抜けば、終わる。


 井戸場は、昼の光の下で荒れていた。


 若い男が叫んでいる。壮年の男が腕を組んだまま、周囲を煽るように言葉を投げている。年嵩の女は、人々の間で必死に手を広げているが、押し戻されていた。


「ほら見ろ! 黙るってのはそういうことだ!」


「言わないなら、こっちで決めるしかねえ!」


 誰かが誰かの胸倉を掴む。別の誰かが押す。輪が傾き、倒れそうになる。


 その瞬間、木の棒が振り下ろされた。


 エルディアの体が先に動いた。


 鞘のまま、剣を横に払う。棒の軌道が逸れ、乾いた音を立てて地面に落ちる。刃は抜かれていない。だが、動きは鋭かった。


 ざわめきが止まる。


 皆の視線が、エルディアに集まる。


 ここで剣を抜けば、完全に終わる。恐怖で鎮まる。誰も逆らえない。勇者としての「成功例」になる。


 そして、その「成功」が、次の町に運ばれる。


 ——英雄は剣で収めた、と。


 エルディアは、剣から手を離した。


 鞘を地面に置く。


 人々が息を呑む。


「剣で止めるのは簡単だ」


 声は低く、よく通った。


「だが、剣で止めた争いは、剣がいない場所で増える」


 若い男が反発する。


「じゃあどうしろってんだ! 黙ってる奴がいるんだぞ!」


 エルディアは、そちらを見た。


「黙ってるんじゃない。話せない」


 その言葉に、輪のどこかが揺れた。


「話せない人間の沈黙を、都合よく使うな」


 壮年の男が鼻で笑う。


「聞いたふりをするな。結局、お前が決めるんだろ。勇者様が」


 エルディアは首を振った。


「俺は決めない」


 繰り返す。


「だが、決まってしまう前に、止める」


 彼は一歩前へ出た。手ぶらのまま。


「ここにいる全員が、今日この場で言えることを言え。証言じゃない。主張じゃない。『自分が失うのが怖いもの』を一つだけ」


 誰も動かない。


 エルディアは待った。急かさない。沈黙を、奪わない。


 最初に年嵩の女が口を開いた。


「……町が割れるのが怖い」


 次に、若い男が言う。


「……家族が飢えるのが怖い」


 壮年の男が、少し遅れて吐き捨てるように言った。


「……権威がなくなるのが怖い」


 周囲から短い息が漏れる。露骨すぎる本音に、場が冷える。だが、嘘ではなかった。


 エルディアはうなずいた。


「それでいい」


 そして続ける。


「怖いなら、殴る前に言え。決める前に言え」


 彼は視線を巡らせた。


「話せない人間の代わりに、誰かが声を作るな」


 沈黙が落ちる。


 だが、先ほどの沈黙とは違う。怒号の前の沈黙ではなく、考えるための沈黙だった。


 剣を抜かなかった。


 代わりに、場を開いた。


 それは、勝ちでも負けでもない。明確な解決でもない。だが、棒は拾われず、殴り合いは起きなかった。


 エルディアは地面の鞘を拾い、腰に戻した。


 刃は、最後まで抜かれないままだった。


 剣を抜くより重い選択を、今、確かにしたのだと感じながら。



 その日の夕方、役場の部屋は、昼よりも狭く感じた。


 人々は一度散り、衝突の当事者たちも口数を減らして戻ってきた。誰も勝った顔はしていない。だが、殴り合いが起きなかったという一点だけが、床に残った埃みたいに、確かな手触りを持っていた。


 エルディアは机に向かい、何も書けずにいた。


 言葉を拾おうとすると、拾った瞬間に刃になる気がする。沈黙を記せば、沈黙の理由が別の形で暴かれる気がする。


 扉が叩かれた。


 調停役の中年が入ってくる。顔色が悪い。手にしているのは封書ではなく、薄い紙束だった。


「……これが、町に回り始めました」


 広報用の紙だ。王都から流れてくる告知文——いまは誰もそう呼ばない。人はただ、「お触れの写し」と言う。


 中年は机にそれを置き、指で一行を示した。


 太字の見出し。


 『勇者エルディア、剣を抜かずして治安を回復させる』


 エルディアの喉が、ひゅっと鳴った。


 紙には、彼の名前がある。紋章もある。公文書院ではなく、評議会の印。


 その下に、引用符付きの文が並んでいた。


 ——「剣で止めた争いは、剣がいない場所で増える」

 ——「怖いなら、殴る前に言え」


 確かに自分が言った言葉だ。


 だが、その前後が切り落とされている。


 「話せない人間の沈黙を、都合よく使うな」も。

 「俺は決めない」も。

 誰かの恐れに触れた部分も。


 丸ごと、ない。


 代わりに、次の行が続いていた。


 『ゆえに、辺境紛争の即時鎮圧を目的として、巡察隊の常設化を推奨する』

 『反抗の兆しがある集会は事前に解散させること』


 エルディアは、紙を見つめたまま動けなかった。


 剣を抜かない選択が、「解散させろ」という命令の根拠にされている。


 言葉が、別の刃に作り替えられている。


「……俺は、そんなことは言っていない」


 絞り出すように言うと、中年は苦しそうに眉を寄せた。


「分かっています。けれど、皆……こう読むんです」


 エルディアは紙束をめくった。末尾に小さな注記がある。


 『本指針は勇者の戦後記録を参考に編纂した』


 “参考”。


 その二文字で、逃げ道が消える。


 間違って引用した、とは誰も言わない。都合よく切り取った、とも言わない。参考にしただけだ、と言い張れる。


 中年が声を落とす。


「すでに別の町にも回っているでしょう。あなたの言葉として」


 エルディアは、机に置いた手に力が入るのを感じた。


 剣に触れていないのに、指先が痛む。


 あの場で、剣を抜けば簡単だった。恐怖で沈黙させれば、誰も怪我はしなかったかもしれない。


 だが、その「成功」は、もっと分かりやすい形で拡散しただろう。


 剣でも言葉でも、同じだ。


 使う者がいれば、武器になる。


 エルディアは、紙束をきれいに揃え、机に戻した。


「……これを、どこへ?」


 中年が答える。


「評議会は、あなたの“実績”として扱うでしょう。さらに広げる」


 実績。


 その言葉が、腹の底を冷やした。


 エルディアは立ち上がる。


 今すぐ王都へ戻って抗議するべきか。リュシアに伝えるべきか。そもそも、誰に何を言えばいい。


 言えば、また切り取られる。


 沈黙すれば、同意と見なされる。


 この二つの罠の間で、初めて足元がぐらついた。


 中年が、おそるおそる言った。


「あなたは、どう書くんですか」


 エルディアは答えなかった。


 答えを持っていないからではない。


 答えにした瞬間、それもまた紙になるからだ。


 彼はただ、机の上の白紙を見つめた。


 白紙は安全だ。誰も傷つけない。誰にも使われない。


 だが——


 白紙は、なかったことになる。


 その事実だけが、重く、逃げ場なく胸に落ちた。



 夜、宿の部屋は静かだった。


 窓の外では、町の灯りが点々と揺れている。遠くで犬が一度吠え、すぐに黙った。昼の騒ぎが嘘のように、世界は眠りへ沈んでいく。


 エルディアは机に向かい、白紙を広げた。


 炭筆を取る。先端が紙に触れる手前で、止まる。


 今日、書けば誰かを傷つけるかもしれない。

 書かなければ、誰かが傷ついた事実が消える。


 どちらも、痛みがある。


 机の上には、評議会の写しが置かれていた。あの歪んだ引用。自分の言葉が、自分の手を離れて別の形になった証拠。


 それでも、書くしかない。


 エルディアは息を吸い、最初の一行を書いた。


 ——ローディア小都市、井戸場における衝突未遂。

 ——死傷者なし。器物破損軽微。武器使用なし。


 事実だけ。乾いた文字列。ここまでは書ける。


 次が、書けない。


 セイラ。扉の向こうの声。書かれたくない、という拒絶。


 彼女の名を書けば、その名が歩き出す。

 書かなければ、彼女の沈黙は「なかったこと」として処理される。


 エルディアは炭筆を置き、手のひらで目を覆った。


 剣を抜く方が、楽だった。


 剣なら、抜くか抜かないかだけだ。刃が見える。血が見える。結果が見える。


 言葉は違う。


 言葉は、刃が見えない。誰の手が握っているのかも分からない。傷は遅れて現れ、傷ついた者は声を上げない。


 ——それでも、残す。


 エルディアは、炭筆を取り直した。


 名は書かない。だが、沈黙を消さない。


 ——当事者の一名は、聞き取りを拒否。

 ——理由:過去に記録が引用され、不利益を受けた経験によるものと推察。


 “推察”という言葉を入れたことに、自分で驚く。事実だけを、と決めていたはずなのに。


 だが、沈黙は事実だけでは残らない。沈黙の形を、言葉で補わなければならない。


 エルディアは続けた。


 ——本件は、双方の恐れが先に立ち、沈黙が利用されかけた。

 ——介入は剣ではなく、発言の場を設けることで行った。

 ——「決定」は行っていない。今後の判断は、当事者の合意を前提とすべき。


 最後の一行を書き終えたところで、手が止まった。


 ここまででも十分に危うい。誰かにとって都合が悪い。誰かにとって都合がいい。


 また、切り取られるかもしれない。


 それでも、白紙よりはましだ。


 エルディアは、紙の末尾に小さく一文を加えた。公文書院の様式にはない。誰にも求められていない一文。


 ——この記録を読む者へ。ここに書かれない沈黙があることを忘れないでほしい。


 炭筆を置くと、ようやく息が戻った。


 書く責任とは、正しく書くことではない。


 誤解される可能性を知りながら、それでも残すことだ。


 エルディアは紙を畳み、封筒に入れた。封をする手が、わずかに震えている。


 窓の外で、夜が深まっていく。


 彼は剣ではなく、封書を懐にしまった。


 明日、それが誰の手に渡るかは分からない。


 それでも、歩く。


 そして、書く。


 ——逃げないために。

もし続きが気になりましたら、★評価をいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ