記録は、誰のものか
それは、命令ではなかった。
だが、断れる類のものでもなかった。
街道沿いの宿で朝食を取っていると、宿主が気まずそうに近づいてきた。手にした封書は、厚く、重い。
「王都からだ」
それ以上の説明はなかった。
封筒には、王国評議会の紋章が押されている。公文書院の印ではない。角ばった文字で、エルディアの名が記されていた。
——提出された記録について、確認が必要。
文面は、それだけだった。
期限も、理由もない。あるのは、場所と日付だけ。
エルディアは、封書を畳み、懐にしまった。
逃げ道は、初めから用意されていない。
宿を出ると、街は普段通りだった。商人は声を張り上げ、子どもたちは走り回る。救われた世界は、今日も問題なく動いている。
それが、余計に重かった。
王都への道は、よく整備されている。かつて軍が頻繁に行き交った道だ。今は、旅人と荷馬車が使うだけになった。
エルディアは歩きながら、これまでの記録を思い返す。
書いたのは、事実だけだ。判断も、命令も、付け加えていない。
それでも、誰かの手に渡れば、意味は変わる。
王都の城壁が見えてきた頃、胸の奥に、わずかな違和感が生まれた。
——これは、確認ではない。
選別だ。
門をくぐると、兵は彼を止めなかった。勇者としてではなく、呼ばれた者として、通される。
王都は変わっていない。整った石畳、そびえる塔、行き交う人々。
だが、公文書院の方角だけが、どこか重く感じられた。
エルディアは歩みを止めない。
呼ばれた理由を知るためにではない。
記録が、誰のものになろうとしているのかを、確かめるために。
王都の門を抜けた瞬間、音が戻ってきた。
人の声、馬蹄の響き、荷車の軋む音。石畳に反射する光は明るく、空は高い。戦の気配は、どこにもない。
露店の列は以前より増えていた。香辛料の匂い、焼き菓子の甘い香り。大道芸人が子どもたちを笑わせ、通りは活気に満ちている。
——変わらない。
いや、むしろ良くなっている。
エルディアは人波を縫うように歩く。視線を向けられることはあっても、呼び止められることはない。英雄を称える声も、期待の視線も、もう少ない。
それでいい、と感じる自分がいる。
公文書院の前に立つと、空気が変わった。
建物自体は以前と同じだ。高い壁、規則正しく並ぶ窓、厳格な意匠。だが、出入りする人の足取りが早い。書類を抱えた者たちの顔には、余裕がない。
中に入ると、紙の匂いが濃くなった。
廊下の壁には、分類札が増えている。新設された棚、仮置きの箱。記録が、想定よりも多く集まっていることが、一目で分かる。
「戻られたのですね」
声をかけてきたのは、見覚えのある若い職員だった。以前より痩せたように見える。
「あなたの記録が、話題になっています」
良い意味ではない、と言外に伝わる。
「評議会が、直接目を通した」
エルディアは足を止める。
「誰の判断で?」
「……正式には、公文書院を経由しています」
言葉を選んでいる。
廊下の先で、扉が開閉する音がした。聞き慣れた声が、短く指示を出している。
リュシアだ。
彼女は、部屋から出てくると、エルディアを見て一瞬だけ表情を緩めた。すぐに、公的な顔に戻る。
「来てしまいましたね」
責めるでも、安堵するでもない言い方だった。
「呼ばれた」
「ええ」
彼女は小さくうなずく。
「想定より、早く」
その一言で、事態の深刻さが伝わった。
公文書院は、平和だ。整っていて、機能している。
だが、その中で、記録だけが先を走っている。
エルディアは、リュシアの横に立つ。
王都に戻ってきた。
だが、戻る場所は、もう以前と同じではなかった。
リュシアの執務室は、以前よりも物が増えていた。
書見台が二つになり、机の上には束ねられた記録簿が積まれている。分類札の色も増え、壁際には未整理の箱が置かれていた。
「座ってください」
彼女はそう言い、自分は立ったままだった。
エルディアは椅子に腰を下ろす。木製の背もたれが、思ったより硬い。
「呼び戻す形になって、すみません」
「仕事なら仕方ない」
短く答えると、リュシアは一瞬、視線を伏せた。
「……あなたの記録が、思った以上に読まれています」
「読まれるために書いた」
「ええ。でも——」
言葉が途切れる。
彼女は一冊の記録簿を手に取り、机の上に置いた。表紙は擦り切れている。エルディアが最初に提出したものだ。
「ここに書かれていることが、判断材料に使われています」
「何の?」
「人事、税、辺境の統治方針。場合によっては、治安維持の指針にも」
エルディアは黙った。
自分が剣を振るった理由、振るわなかった理由。迷った時間。言葉にしなかった感情。
それらが、線を引く道具になっている。
「私は、事実を書いただけだ」
「そうですね」
リュシアは否定しなかった。
「だからこそ、強い」
彼女は机に手をつく。
「あなたの文章は、英雄の言葉として読まれます。意図しなくても」
「英雄じゃない」
「ええ。でも、そう呼ばれた記録は、消えない」
部屋の外で、紙をめくる音がした。忙しなく、人が行き交っている。
「私は、記録を残したかっただけだ」
「分かっています」
リュシアは、そこで初めて椅子に座った。
「私も、同じです」
視線が合う。
「でも私は、記録を“使う側”にいます」
静かな告白だった。
「あなたが歩いた道は、私にとって、選択肢の一覧になる」
エルディアは、息を吐く。
「それが、間違いだと思うか?」
少しの沈黙。
「……いいえ」
リュシアは首を振る。
「ただ、危うい」
「どちらが?」
「両方です」
彼女は、記録簿に指を置いた。
「あなたは、無自覚に世界を動かす」
「君は?」
「私は、自覚的に動かそうとしている」
言葉は、冷静だった。
だが、その奥に、かつて共有した静かな時間が、確かに残っている。
「だから、距離が必要になります」
「仕事として?」
「仕事として」
リュシアはそう言い切った。
エルディアは、うなずく。
「分かった」
簡単な返事だった。
それが、今の二人に許された、最も誠実な言葉だった。
再会は終わった。
だが、関係が断たれたわけではない。
ただ、同じ方向を向いていないだけだ。
評議会の間は、静かだった。
円卓の中央には何も置かれていない。旗も、剣も、象徴となるものはすべて排されている。あるのは、書類の束と、人の視線だけだ。
エルディアは、壁際に立っていた。
発言権はない。ただ、呼ばれただけの存在だ。
「勇者エルディアの記録について」
議長が口を開く。
「第四巻、辺境村落の章。該当箇所を」
書記が、淡々と読み上げた。
——剣を抜かなかった理由。
——相手が、恐れていたこと。
——争いが起きる前に、誰かが話を聞くべきだったこと。
自分が、夜に一人で書いた言葉だ。
「この記述は、示唆に富んでいる」
別の評議員が言う。
「武力介入を控えるべき状況の判断材料として、有効だ」
「同意する」
重ねる声。
「これを基準とし、今後の辺境対応を——」
「待ってください」
エルディアの声が、間に落ちた。
全員の視線が集まる。
「それは、俺の話だ」
空気が張り詰める。
「再現性はない。状況も、人も、同じじゃない」
「しかし、成功例であることは事実だ」
議長は淡々としている。
「英雄の判断として、重みがある」
英雄。
その言葉が、胸に沈んだ。
「俺は、責任を取って剣を抜かなかった」
「記録にあります」
「だからこそ、同じ選択を他人に強いるな」
一瞬、沈黙。
リュシアが、席の一つから立ち上がった。
「補足を」
彼女の声は、冷静だった。
「この記録は、“判断の例”であって、“命令”ではありません」
「しかし、基準にはなる」
「基準になる瞬間、言葉は武器になります」
その言葉に、評議員たちが目を細める。
「武器?」
「ええ」
リュシアは、記録簿に手を置く。
「剣よりも、広く、長く届く」
エルディアは、初めて理解した。
自分の言葉が、誰かの背中を押し、誰かの判断を縛る。
そして、失敗したとき、そこに自分の名が残ることを。
「決定します」
議長が言った。
「当面、この記録を参考資料として正式採用」
木槌が、静かに打たれる。
その音は、剣戟よりも軽い。
だが、確かに世界を切り替えた。
会議が終わり、人々が立ち去る。
エルディアは、その場に残った。
剣は、腰にある。
だが、今、重いのは——言葉だった。
評議会の間を出ると、王都は夕暮れに沈みかけていた。
塔の影が石畳を横切り、人々は家路を急いでいる。今日も、特別な出来事があった様子はない。
それが、平和なのだろう。
エルディアは、公文書院の裏手へ回った。
人の通らない小さな庭。石のベンチと、手入れの行き届いた低木だけがある。
そこで、剣を外した。
鞘ごと、ベンチの横に立てかける。
地面に置かなかったのは、まだ、完全に手放せないからだ。
剣は、軽かった。
長年、命を預けてきたはずなのに、驚くほど、軽い。
代わりに、胸の奥に重さが残る。
——言葉。
書いたもの。残したもの。読まれるもの。
それらが、もう自分の手を離れ、他人の選択に影を落とす。
エルディアは、手を見た。
血を流した手だ。守った手でもある。
これからは、同じ手で、記録を書く。
剣を握るより、震える作業だ。
庭の入口に、足音がした。
振り返ると、リュシアが立っている。
「ここにいると思いました」
「顔に出ていたか」
「ええ」
彼女は、剣に一瞬だけ視線を落とした。
「置いていくのですか」
「まだ」
エルディアは答える。
「だが、振るわない」
リュシアは、うなずいた。
「それで十分です」
彼女は、一冊の記録簿を差し出す。
「次の分です」
「もう、始まっているのか」
「ええ」
仕事として。
それでも、以前より少しだけ、声が柔らかかった。
エルディアは、記録簿を受け取る。
紙の重みが、確かにある。
「読まれる前提で、書く」
「それが、あなたの剣になります」
言葉に、誇張はなかった。
夕暮れの光が、庭を赤く染める。
エルディアは、剣を置いたまま、王都の空を見上げた。
救われた世界で、なお、引き受けるものがある。
それでも、歩く。
今度は、言葉とともに。
もし続きが気になりましたら、ブックマークや★評価をいただけると励みになります。




