書かれた声、届かぬ返事
町の郵送所は、思っていたよりも賑わっていた。
王都ほどではないが、人の行き来があり、掲示板には新しい告知が貼られている。戦後の混乱は落ち着き、物と情報が、ようやく巡り始めている証だった。
「記録官宛だ」
名を告げると、窓口の男が眉を上げた。
「王都から?」
「ああ」
男は棚を探り、一通の封筒を差し出す。厚手の紙に、整った文字で宛名が書かれていた。封蝋は簡素だが、崩れがない。
見覚えのある筆跡だった。
エルディアは、礼を言って郵送所を出た。人目の少ない路地に入り、立ち止まる。すぐに開く気にはなれなかった。
封筒の重みは、内容以上のものを含んでいる。
リュシア。
王都公文書院の記録官。彼に仕事を渡し、監督し、時に小言を言う女。だが、その書式の厳密さの裏に、誰よりも記録を信じている人間だ。
封を切る。
紙を取り出し、目を走らせる。
――提出された第二報について。
冒頭から、事務的だった。村名、日付、記載形式。主観的表現の削除要請。注釈の追加指示。
赤を入れられたかのように、具体的で、容赦がない。
エルディアは、思わず口元を緩めた。
文末に、短い追記があった。
――記録は、残りました。
――それで、十分です。
それだけで、胸の奥に溜まっていたものが、わずかにほどける。
彼女は、現場を見ていない。剣も抜いていない。だが、書かれた事実を、確かに受け取っている。
紙を畳み、懐にしまう。
返事を書くべきだろう。だが、今は言葉が見つからなかった。
町の鐘が鳴る。正午だ。
エルディアは歩き出す。書簡は、背中を押すでも、引き留めるでもない。ただ、そこにある。
会わずとも、道は繋がっている。
そう思いながら、彼は次の記録対象へ向かった。
町の中央には、神殿があった。
石造りの建物は手入れが行き届き、崩れた箇所もない。白い柱は磨かれ、扉の金具も新しい。戦の爪痕は見当たらず、むしろ豊かさすら感じさせる。
それでも、エルディアは違和感を覚えた。
人が、いない。
昼時だというのに、祈りに訪れる者の姿はなく、参道も静まり返っている。露店が並ぶ形跡も、寄進を呼びかける声もなかった。
広場の縁で、子どもたちが石を蹴って遊んでいる。笑い声はあるが、神殿の方を振り返ることはない。
エルディアは、ゆっくりと階段を上った。
扉は開いている。中に入ると、空気が一段冷えた。香の匂いは薄く、祭壇の火も小さい。
神像は、そこに立っていた。
人の姿を模した、穏やかな表情。傷も欠けもない。だが、視線を合わせようとすると、どこか遠い。
——祈られていない。
その事実が、空間に満ちている。
奥から足音がして、神官が現れた。年は若くはないが、老いてもいない。装束は整い、姿勢も崩れていない。
「参拝か?」
「記録のために」
エルディアは名乗り、用件を告げた。
神官は、わずかに眉をひそめる。
「ここには、書くことはない」
即答だった。
「奇跡もなく、災厄もなかった。神は沈黙し、人は生き延びた。それだけだ」
その言い方に、誇りも諦めも含まれていた。
エルディアは、祭壇を見回す。
「信仰は、続いているのか」
「形だけはな」
神官は、ためらいなく答えた。
「人々は祈る。だが、期待しない」
言葉が、静かに落ちる。
外から、子どもたちの笑い声が聞こえた。神殿の中まで届くが、足を運ぶ者はいない。
エルディアは、神像から目を離した。
ここにも、空白がある。
壊れた場所ではなく、機能を失ったまま残っている場所。
彼は、その静けさを、記録すべきものだと感じていた。
神殿の奥には、小さな書庫があった。
巻物と帳簿が整然と並び、埃も少ない。管理は行き届いているが、新しい記録はほとんど増えていないようだった。
「記録官殿」
神官は、背を向けたまま言う。
「なぜ、ここを書こうとする」
問いは穏やかだが、拒絶を含んでいる。
「奇跡が起きなかったからだ」
エルディアは答えた。
「起きなかったことも、事実だ」
神官は、棚から一冊の帳簿を抜き取り、机に置いた。表紙は擦り切れている。
「昔はな、ここには溢れるほどの記録があった」
帳簿を開く。かつての祈願、奉納、治癒の報告。文字は生き生きとしている。
「だが、戦の最中、奇跡は起きなかった」
声が、わずかに硬くなる。
「祈りは届かなかった。神は沈黙した」
エルディアは、何も言わない。
「それを書かれれば、人は問う」
神官は、帳簿を閉じる。
「なぜ神は救わなかったのか。なぜ祈りが無意味だったのか」
神官の視線が、真っ直ぐに向けられる。
「その問いは、刃になる」
責める相手が必要になるからだ、と続けようとして、言葉を飲み込む。
「この町は、ようやく立ち直った」
神官は、低く言った。
「信仰を失っても、争わずに済んだ。それで十分だ」
エルディアは、ゆっくりとうなずいた。
「だから、黙っている」
「そうだ」
神官は、はっきりと答える。
「書かれなければ、問われない」
沈黙が落ちる。
外から、鐘の音が響いた。定時のものだが、祈りを促す力はない。
「記録は、刃にもなる」
エルディアは、静かに言った。
「だが、鞘にもなる」
神官が、わずかに眉を動かす。
「書かれないままなら、疑念は形を持たない。だが、残れば——」
「誰かが読む」
「誰かが考える」
神官は、苦笑した。
「それが、怖い」
率直な言葉だった。
エルディアは、書庫を見渡す。過去の記録と、今の沈黙。その対比が、はっきりと目に映る。
対立は、剣では解けない。
だが、避けても消えない。
ここにあるのは、語られない理由だ。
そして、それを巡る選択だった。
神殿を出ると、広場に人が集まり始めていた。
誰かが話を聞きつけたのだろう。記録官が来ている、と。あるいは、勇者が来ている、と。
視線が集まる。
その中に、期待と警戒が混じっているのを、エルディアは感じ取った。
「勇者様だ」
誰かが、そう呟いた。
その一言で、空気が変わる。
人々の背筋が伸び、距離が縮まる。神殿で祈らなかった者たちが、今度は彼を見上げている。
エルディアは、足を止めた。
——名が、剣より先に抜かれている。
「奇跡は起きなかったそうだな」
男の声だった。責める調子ではないが、試す響きがある。
「勇者がいても、神は動かなかったのか」
問いが、波紋のように広がる。
エルディアは答えない。
答えれば、立場が定まる。勇者としてか、記録官としてか。
沈黙が、別の声を呼ぶ。
「それでも、俺たちは生きている」
「救われたのは事実だ」
「だが、誰に?」
声は重なり、方向を失う。
エルディアは、一歩前に出た。剣には触れない。
「俺は、ここで戦っていない」
静かな声だったが、広場に届いた。
「祈りを聞いたのも、奇跡を見たのも、俺じゃない」
人々が、息を呑む。
「だから、判断しない」
その言葉に、ざわめきが走る。
「勇者が、判断しない?」
疑問と不満が混じる。
エルディアは続ける。
「記録官として、書くことはできる」
「だが、勇者として答えれば、それは命令になる」
沈黙。
神官が、少し離れた場所からこちらを見ている。表情は硬いが、目は逸らさない。
エルディアは、視線を巡らせた。
ここにいる誰もが、答えを欲しがっている。だが、その答えは一つでなくていい。
——俺が立つ場所は、どこだ。
勇者であれば、前に立てる。
記録官であれば、後ろに下がれる。
だが、どちらか一方では、今ここで起きていることを、正しく残せない。
「俺は、名前を使わない」
そう宣言すると、空気が張り詰めた。
「勇者としての名も、記録官としての肩書きもだ」
それは、逃げに聞こえたかもしれない。
だが、神官は気づいたように、わずかに目を細めた。
エルディアは、立ち位置を定めないことで、初めて立てる場所に立っていた。
剣でも、名でもない場所に。
広場の空気が、張り詰めたまま動かなくなった。
誰もが口を開きかけ、閉じている。勇者が判断しないと言った以上、次に言葉を出すのは、別の誰かでなければならなかった。
「……あの」
小さな声がした。
人垣の端。神殿の陰から、若い神官見習いが一歩前に出る。装束はまだ簡素で、袖も短い。視線は伏せられているが、手は震えていなかった。
「記録は……誰が読むんですか」
問いは、素朴だった。
エルディアは、その声に向き直る。
「王都の公文書院に収められる」
「それだけ、ですか」
見習いは、唇を噛み、言葉を探す。
「未来の人も、読む」
エルディアが補う。
見習いは、うなずいた。
「なら……僕も、読みたいです」
ざわめきが起きる。
「ここで、奇跡が起きなかったことを」
見習いは、顔を上げた。
「祈って、何も起きなかったことを。誰も悪くなかったことを」
神官が、鋭く視線を向ける。
「それを書けば、信仰は——」
「壊れません」
見習いは、はっきりと言った。
「もう、壊れてません」
静寂。
続ける。
「でも、残っていないと、最初から無かったことになります」
その言葉が、広場に落ちる。
誰かが、息を吸う音がした。
エルディアは、胸の奥で、何かが噛み合うのを感じた。
——書く理由は、説得ではない。
読む人がいるからだ。
神官は、しばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……好きにしろ」
許可ではない。拒否の撤回でもない。
ただ、止めないという意思表示だった。
見習いは、深く頭を下げる。
エルディアは、その姿を見つめた。
この記録は、王都のためではない。
今、ここにいる誰かのためでもない。
まだ見ぬ誰かが、読むためのものだ。
価値は、そこで反転していた。
夜、宿の灯りは低く絞られていた。
木机に向かい、エルディアは紙を広げる。炭筆を手に取り、止めた。王都へ向けた返書を書くためだと、誰に言われたわけでもないが、そう決まっている。
——神殿の記録について。
書き出しの言葉は、すぐに浮かんだ。形式も、報告の順序も分かっている。リュシアなら、どの表現を嫌い、どこに注釈を求めるかも想像できた。
だが、筆は進まなかった。
今日、書けたこと。
奇跡が起きなかったこと。
祈りが届かなかったと、人々が感じていること。
今日、書けなかったこと。
それでも祈りを続ける理由。
沈黙を選んだ神官の恐れ。
「読みたい」と言った、あの見習いの声。
どれも、記録には残せる。
だが、報告には向かない。
エルディアは炭筆を置き、紙を畳んだ。
リュシアは、記録を信じている。
だが、記録に書かれなかった余白まで、今は渡せない。
それは、怠慢ではない。
まだ、言葉にならないだけだ。
窓の外で、風が鳴る。神殿の鐘は、もう鳴らない時間だ。町は眠り、明日へ向かって静かに沈んでいく。
エルディアは荷をまとめ、書簡を懐に入れたまま立ち上がる。
返事は、書かない。
書けないのではなく、書かないと選んだ。
記録は、読む人のためにある。
だが、誰に向けて書くのかを、まだ決めきれずにいる。
扉を開け、夜気の中へ踏み出す。
明日、また別の場所で、別の空白が待っているだろう。
そのすべてに、すぐ答えを書く必要はない。
エルディアはそう思いながら、剣に触れず、歩き出した。
書かれなかった返事とともに。
もし続きが気になりましたら、ブックマークや★評価をいただけると励みになります。




