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3/12

記録されなかった村

 王都の門をくぐるのに、もう許可証はいらなかった。


 かつては、魔物の襲撃に備え、出入りのたびに検問が行われていたという。だが今、門番は旅人の顔を一瞥するだけで、何も言わずに通す。腰に剣を帯びていても、止められることはない。


 それが、この世界が救われた証だった。


 エルディアは街道を歩く。舗装された道の両脇には草が伸び、遠くでは農夫が鍬を振るっている。護衛を雇う商隊も減り、行き交う旅人は皆、軽装だった。


 魔物の気配はない。


 耳を澄ませば、聞こえるのは風と、車輪の軋む音だけだ。かつて命を削って聞き分けていた異変は、ここには存在しない。


 エルディアは、無意識に剣の柄に触れ、そして手を離す。


 この道で、剣は必要ない。


 歩きながら、懐の紙に思いを巡らせる。公文書院で渡された、あの一枚。地名と、簡素な説明だけの資料。魔王討伐後に起きた出来事として、片隅に置かれていた記録。


 仕事だとは思っていない。


 だが、無関係でもなかった。


 あの時、進んだ先で何が起き、進まなかった場所で何が残ったのか。それを確かめるために歩いている。


 街道の分岐点で、エルディアは足を止めた。案内標識は新しく、行き先の文字ははっきりしている。かつて、地図にも載らなかった村の名が、そこに刻まれていた。


「……残っている、か」


 小さく呟き、進路を決める。


 背後で、王都の鐘が鳴った。正午を告げる、平和な音だ。戦を知らせるものではない。


 エルディアは振り返らず、歩き出した。


 救われた世界の中で、救われなかったかもしれない場所へ。



 村は、確かにそこにあった。


 街道を外れ、なだらかな丘を越えた先に、低い木造の家々が並んでいる。屋根は修繕され、畑も耕されていた。煙突からは細い煙が立ち上り、生活が続いていることを示している。


 それでも、エルディアは足を止めた。


 ——静かすぎる。


 昼下がりのはずだった。作業の声や、家畜の鳴き声があってもおかしくない。だが、聞こえるのは風が草を揺らす音だけだ。


 村の入口に立つと、ようやく人影が見えた。井戸のそばで水桶を運ぶ老人と、家の影からこちらを窺う子ども。視線は集まるが、誰も近づいてこない。


 歓迎でも、拒絶でもない。


 距離だけが、はっきりと保たれている。


 エルディアは剣から手を離し、ゆっくりと歩を進めた。敵意はない、と示すための、昔からの癖だ。


「旅の者だ」


 声をかけると、老人が一瞬だけ顔を上げ、すぐに視線を逸らす。


「宿は……」


「ない」


 短い答えだった。


「昔はあったが、今は使っていない」


 理由は語られなかった。


 村の中央に近づくにつれ、家の数が減っていくのがわかる。基礎だけが残った跡、埋め戻された地面。再建された建物の間に、ぽっかりと空白が挟まっている。


 ——埋められていない場所。


 エルディアは、その空白から目を離せなかった。


 畑で作業していた女が、鍬を止め、こちらを見る。視線が合うと、わずかに眉をひそめた。


「……用は何だ」


 責めるような声ではない。ただ、確かめる調子だった。


「記録のために来た」


 そう答えると、女は目を伏せる。


「もう終わったことだ」


 それは、何度も聞いた言葉だった。


 エルディアは、それ以上踏み込まなかった。剣を抜く必要はない。問いを重ねる必要もない。


 村は続いている。だが、何かが欠けたまま、静かに息をしている。


 エルディアは、その事実を胸に刻みながら、村の奥へと歩いていった。



 村の集会所は、外から見るよりも狭かった。


 木の長椅子がいくつか並び、壁には古い祭りの飾りがそのまま残されている。色あせた布は、いつから取り替えられていないのか分からない。


 エルディアが腰を下ろすと、向かいに村の代表らしき男が座った。年嵩だが、長老というほどではない。顔には、疲れが染みついている。


「記録のためだと言ったな」


「ああ」


 それ以上の説明はしなかった。説明すればするほど、言葉が軽くなる気がした。


 男は、しばらく黙ってから口を開く。


「魔王の話なら、もう語ることはない」


「聞きたいのは、戦いじゃない」


 エルディアは、静かに言った。


「戦いのあとだ」


 男の視線が、わずかに揺れる。


「……終わったことだ」


 また、その言葉だった。


 エルディアは、机の上に懐から取り出した紙を置く。公文書院の未整理資料。そこには、簡単な日付と、被害の有無が書かれているだけだった。


「ここには、何も書かれていない」


 男は紙を見下ろし、苦笑する。


「書くことがなかったんだ」


「本当に?」


 問いは、責めるものではなかった。確認に近い。


 沈黙が落ちる。


 集会所の外で、誰かが扉の前を通り過ぎる気配がした。聞き耳を立てているのか、それとも通りすがりなのかは分からない。


「……あんたは」


 男が、低い声で言った。


「勇者だな」


 エルディアは否定しなかった。


「だから、聞く資格があると思っているなら——」


「違う」


 即座に答える。


「俺は、通り過ぎた」


 その言葉に、男は目を伏せた。


「通り過ぎた場所の話を、聞きに来た」


 長い沈黙の後、男はゆっくりと息を吐いた。


「村は、残った」


「だが、人は減った」


 エルディアが続けると、男の肩がわずかに揺れる。


「皆、逃げた。逃げきれなかった者もいた」


「助けは?」


「来なかった」


 それだけで、十分だった。


 エルディアは、胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。資料に書かれていなかった理由が、はっきりと形を持つ。


「記録に残す必要はない」


 男が言う。


「いまさら、誰かを責めたいわけじゃない」


「責めるためじゃない」


 エルディアは、ゆっくりと首を振った。


「忘れないためだ」


 男は、しばらく考え込み、やがて小さくうなずいた。


「……夜になれば、話せる者もいるかもしれん」


 それが、精一杯の譲歩だった。


 エルディアは立ち上がる。


「それでいい」


 集会所を出ると、夕暮れの光が村を包んでいた。修繕された家々と、埋められなかった空白が、同じ色に染まっている。


 語られない出来事は、確かにそこにあった。


 記録されていないだけで。



 夜は、思っていたよりも早く訪れた。


 村の外れ、崩れかけた石垣のそばで、エルディアは一人焚き火を起こした。火打ち石を使う手つきは、体に染みついたものだ。炎が立ち上がると、闇が一歩退く。


 剣を地面に置く。


 焚き火の光を受けて、刃が淡く光った。数えきれない戦場を越えてきた剣だ。魔王を討ったのも、この剣だった。


 エルディアは、その柄を見つめる。


 ——この剣で、何人を救ったのか。


 答えは出ない。


 同時に、救えなかった顔が、いくつも思い浮かぶ。名も知らぬ者たち。叫び声だけが記憶に残っている者たち。


 進め、と命じられた。


 一刻も早く、魔王のもとへ。被害は覚悟の上だと。


 正しかったのかどうかは、今でも分からない。


 焚き火に小枝をくべる。火花が弾け、夜空に散る。


 あの時、立ち止まっていれば——。


 思考は、そこから先へ進まなかった。仮定は、どこまで行っても仮定でしかない。


 エルディアは、深く息を吸い、吐いた。


 「勇者」という言葉は、肩書きだ。選ばれた者に与えられ、役目が終われば剥がされる。


 だが、選んだのは自分だった。


 進むことも、戻らないことも。


 焚き火の向こうで、村の明かりが点々と灯る。数は、少ない。


 それでも、消えてはいない。


 エルディアは、剣から目を離し、焚き火に視線を移した。


 ——まだ、終わっていない。


 戦いは終わった。だが、世界は続いている。そして、その続きの中に、自分は立っている。


 剣を拾い上げ、鞘に納める。


 今夜、これを抜くつもりはなかった。


 勇者であることを、誇るためでも、捨てるためでもない。


 ただ、背負ったまま、歩くために。


 焚き火が静かに燃え続ける中、エルディアは夜を越える準備をした。



 物音に気づいたのは、夜が深まってからだった。


 焚き火を落とし、眠りに入ろうとした頃、村の方角から乾いた音が響く。木がぶつかる音。続いて、押し殺した声。


 争いだ。


 エルディアは立ち上がった。反射的に剣へ手が伸びかけ、止まる。


 ——魔物ではない。


 そう確信できるほど、音は近く、人のものだった。


 村の倉庫の裏で、二人の男が向かい合っていた。一人は若く、痩せている。もう一人は年嵩で、肩に力が入っていた。


「返せと言っているだろう」


「返せるなら、最初からやってる!」


 足元には、袋が落ちている。中身は穀物だ。冬を越すための、貴重な蓄え。


 エルディアは、二人の間に割って入った。


「やめろ」


 低い声だったが、よく通った。


 二人が同時に振り向く。剣は抜かれていない。そのことに、わずかな戸惑いが浮かぶ。


「部外者が口を出すな」


 年嵩の男が言う。


「盗みだ」


「違う!」


 若い男が叫ぶ。


「分け前だ。約束だった!」


 言葉は荒いが、刃は向けられない。ここでは、誰も剣を使う覚悟がない。


 エルディアは、袋を拾い上げ、地面に置いた。


「事情を聞かせろ」


「聞く必要はない!」


「ある」


 短く言い切る。


「剣を抜かないで済むなら、それに越したことはない」


 二人は、はっとしたように黙り込んだ。


 若い男が、ぽつりと語り始める。


「畑が……去年の被害で、まだ戻らない。働いても、分け前が減る一方で……」


 年嵩の男は、目を伏せる。


「皆、苦しい。だが、盗みを認めたら、村は保たん」


 どちらも、正しかった。


 エルディアは、しばらく考え、袋を二つに分けた。


「これは、今夜の分だ」


「なに?」


「残りは、朝に話し合え。逃げ場も、剣も、ここにはいらない」


 二人は言葉を失う。


「俺は、判断しない」


 エルディアは続けた。


「ただ、争いが広がらないようにしただけだ」


 沈黙の後、若い男が袋を受け取った。年嵩の男も、ゆっくりとうなずく。


「……礼は言わん」


「それでいい」


 エルディアは背を向けた。


 倉庫の影から離れると、夜風が頬を打つ。剣は、鞘の中にある。


 抜かなかった。


 それで、十分だった。


 勇者でなくても、できることがある。


 そう確かめるように、エルディアは歩き出した。



 夜明け前、村はまだ眠っていた。


 空の端がわずかに白み、鳥の声が一つ、二つと重なっていく。エルディアは焚き火の跡を整え、荷を背負った。倉庫での一件は、誰にも騒がれないまま終わったらしい。


 それでいい。


 村の入口に立ち、振り返る。家々は静かに並び、欠けた空白も、そのままそこにある。埋められていないが、消えてもいない。


 背後から、声がした。


「……あの時」


 女だった。畑で鍬を振るっていた、あの女だ。目を伏せ、躊躇いながら言葉を探している。


「来てほしかった」


 それだけだった。


 責める響きはない。期待でもない。ただ、事実を置くような声音。


 エルディアは、うなずいた。


「来なかった」


 否定もしない。言い訳もしない。


 女は、それ以上何も言わず、村へ戻っていった。


 エルディアは歩き出す。街道に出る前、立ち止まり、懐から紙と炭筆を取り出した。膝の上で、簡単な記録を書く。


 村の名。人口の概数。修繕の状況。被害の有無。


 一行、空白を空ける。


 そこに、事実を書く。


 ——魔王討伐時、救援なし。生存者あり。村は存続。


 感情は書かない。評価もしない。だが、消しもしない。


 紙を畳み、懐に戻す。


 それで、十分だ。


 記録は、裁くためのものではない。誰かを英雄にするためのものでもない。


 ただ、そこにあったことを、なかったことにしないためにある。


 街道の先に、次の分岐が見える。標識には、また知らない地名が刻まれていた。


 エルディアは、剣に触れず、歩き出す。


 救われた世界の中で、語られなかった場所を、拾い上げるために。


 その旅は、まだ始まったばかりだった。

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