記録されなかった村
王都の門をくぐるのに、もう許可証はいらなかった。
かつては、魔物の襲撃に備え、出入りのたびに検問が行われていたという。だが今、門番は旅人の顔を一瞥するだけで、何も言わずに通す。腰に剣を帯びていても、止められることはない。
それが、この世界が救われた証だった。
エルディアは街道を歩く。舗装された道の両脇には草が伸び、遠くでは農夫が鍬を振るっている。護衛を雇う商隊も減り、行き交う旅人は皆、軽装だった。
魔物の気配はない。
耳を澄ませば、聞こえるのは風と、車輪の軋む音だけだ。かつて命を削って聞き分けていた異変は、ここには存在しない。
エルディアは、無意識に剣の柄に触れ、そして手を離す。
この道で、剣は必要ない。
歩きながら、懐の紙に思いを巡らせる。公文書院で渡された、あの一枚。地名と、簡素な説明だけの資料。魔王討伐後に起きた出来事として、片隅に置かれていた記録。
仕事だとは思っていない。
だが、無関係でもなかった。
あの時、進んだ先で何が起き、進まなかった場所で何が残ったのか。それを確かめるために歩いている。
街道の分岐点で、エルディアは足を止めた。案内標識は新しく、行き先の文字ははっきりしている。かつて、地図にも載らなかった村の名が、そこに刻まれていた。
「……残っている、か」
小さく呟き、進路を決める。
背後で、王都の鐘が鳴った。正午を告げる、平和な音だ。戦を知らせるものではない。
エルディアは振り返らず、歩き出した。
救われた世界の中で、救われなかったかもしれない場所へ。
村は、確かにそこにあった。
街道を外れ、なだらかな丘を越えた先に、低い木造の家々が並んでいる。屋根は修繕され、畑も耕されていた。煙突からは細い煙が立ち上り、生活が続いていることを示している。
それでも、エルディアは足を止めた。
——静かすぎる。
昼下がりのはずだった。作業の声や、家畜の鳴き声があってもおかしくない。だが、聞こえるのは風が草を揺らす音だけだ。
村の入口に立つと、ようやく人影が見えた。井戸のそばで水桶を運ぶ老人と、家の影からこちらを窺う子ども。視線は集まるが、誰も近づいてこない。
歓迎でも、拒絶でもない。
距離だけが、はっきりと保たれている。
エルディアは剣から手を離し、ゆっくりと歩を進めた。敵意はない、と示すための、昔からの癖だ。
「旅の者だ」
声をかけると、老人が一瞬だけ顔を上げ、すぐに視線を逸らす。
「宿は……」
「ない」
短い答えだった。
「昔はあったが、今は使っていない」
理由は語られなかった。
村の中央に近づくにつれ、家の数が減っていくのがわかる。基礎だけが残った跡、埋め戻された地面。再建された建物の間に、ぽっかりと空白が挟まっている。
——埋められていない場所。
エルディアは、その空白から目を離せなかった。
畑で作業していた女が、鍬を止め、こちらを見る。視線が合うと、わずかに眉をひそめた。
「……用は何だ」
責めるような声ではない。ただ、確かめる調子だった。
「記録のために来た」
そう答えると、女は目を伏せる。
「もう終わったことだ」
それは、何度も聞いた言葉だった。
エルディアは、それ以上踏み込まなかった。剣を抜く必要はない。問いを重ねる必要もない。
村は続いている。だが、何かが欠けたまま、静かに息をしている。
エルディアは、その事実を胸に刻みながら、村の奥へと歩いていった。
村の集会所は、外から見るよりも狭かった。
木の長椅子がいくつか並び、壁には古い祭りの飾りがそのまま残されている。色あせた布は、いつから取り替えられていないのか分からない。
エルディアが腰を下ろすと、向かいに村の代表らしき男が座った。年嵩だが、長老というほどではない。顔には、疲れが染みついている。
「記録のためだと言ったな」
「ああ」
それ以上の説明はしなかった。説明すればするほど、言葉が軽くなる気がした。
男は、しばらく黙ってから口を開く。
「魔王の話なら、もう語ることはない」
「聞きたいのは、戦いじゃない」
エルディアは、静かに言った。
「戦いのあとだ」
男の視線が、わずかに揺れる。
「……終わったことだ」
また、その言葉だった。
エルディアは、机の上に懐から取り出した紙を置く。公文書院の未整理資料。そこには、簡単な日付と、被害の有無が書かれているだけだった。
「ここには、何も書かれていない」
男は紙を見下ろし、苦笑する。
「書くことがなかったんだ」
「本当に?」
問いは、責めるものではなかった。確認に近い。
沈黙が落ちる。
集会所の外で、誰かが扉の前を通り過ぎる気配がした。聞き耳を立てているのか、それとも通りすがりなのかは分からない。
「……あんたは」
男が、低い声で言った。
「勇者だな」
エルディアは否定しなかった。
「だから、聞く資格があると思っているなら——」
「違う」
即座に答える。
「俺は、通り過ぎた」
その言葉に、男は目を伏せた。
「通り過ぎた場所の話を、聞きに来た」
長い沈黙の後、男はゆっくりと息を吐いた。
「村は、残った」
「だが、人は減った」
エルディアが続けると、男の肩がわずかに揺れる。
「皆、逃げた。逃げきれなかった者もいた」
「助けは?」
「来なかった」
それだけで、十分だった。
エルディアは、胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。資料に書かれていなかった理由が、はっきりと形を持つ。
「記録に残す必要はない」
男が言う。
「いまさら、誰かを責めたいわけじゃない」
「責めるためじゃない」
エルディアは、ゆっくりと首を振った。
「忘れないためだ」
男は、しばらく考え込み、やがて小さくうなずいた。
「……夜になれば、話せる者もいるかもしれん」
それが、精一杯の譲歩だった。
エルディアは立ち上がる。
「それでいい」
集会所を出ると、夕暮れの光が村を包んでいた。修繕された家々と、埋められなかった空白が、同じ色に染まっている。
語られない出来事は、確かにそこにあった。
記録されていないだけで。
夜は、思っていたよりも早く訪れた。
村の外れ、崩れかけた石垣のそばで、エルディアは一人焚き火を起こした。火打ち石を使う手つきは、体に染みついたものだ。炎が立ち上がると、闇が一歩退く。
剣を地面に置く。
焚き火の光を受けて、刃が淡く光った。数えきれない戦場を越えてきた剣だ。魔王を討ったのも、この剣だった。
エルディアは、その柄を見つめる。
——この剣で、何人を救ったのか。
答えは出ない。
同時に、救えなかった顔が、いくつも思い浮かぶ。名も知らぬ者たち。叫び声だけが記憶に残っている者たち。
進め、と命じられた。
一刻も早く、魔王のもとへ。被害は覚悟の上だと。
正しかったのかどうかは、今でも分からない。
焚き火に小枝をくべる。火花が弾け、夜空に散る。
あの時、立ち止まっていれば——。
思考は、そこから先へ進まなかった。仮定は、どこまで行っても仮定でしかない。
エルディアは、深く息を吸い、吐いた。
「勇者」という言葉は、肩書きだ。選ばれた者に与えられ、役目が終われば剥がされる。
だが、選んだのは自分だった。
進むことも、戻らないことも。
焚き火の向こうで、村の明かりが点々と灯る。数は、少ない。
それでも、消えてはいない。
エルディアは、剣から目を離し、焚き火に視線を移した。
——まだ、終わっていない。
戦いは終わった。だが、世界は続いている。そして、その続きの中に、自分は立っている。
剣を拾い上げ、鞘に納める。
今夜、これを抜くつもりはなかった。
勇者であることを、誇るためでも、捨てるためでもない。
ただ、背負ったまま、歩くために。
焚き火が静かに燃え続ける中、エルディアは夜を越える準備をした。
物音に気づいたのは、夜が深まってからだった。
焚き火を落とし、眠りに入ろうとした頃、村の方角から乾いた音が響く。木がぶつかる音。続いて、押し殺した声。
争いだ。
エルディアは立ち上がった。反射的に剣へ手が伸びかけ、止まる。
——魔物ではない。
そう確信できるほど、音は近く、人のものだった。
村の倉庫の裏で、二人の男が向かい合っていた。一人は若く、痩せている。もう一人は年嵩で、肩に力が入っていた。
「返せと言っているだろう」
「返せるなら、最初からやってる!」
足元には、袋が落ちている。中身は穀物だ。冬を越すための、貴重な蓄え。
エルディアは、二人の間に割って入った。
「やめろ」
低い声だったが、よく通った。
二人が同時に振り向く。剣は抜かれていない。そのことに、わずかな戸惑いが浮かぶ。
「部外者が口を出すな」
年嵩の男が言う。
「盗みだ」
「違う!」
若い男が叫ぶ。
「分け前だ。約束だった!」
言葉は荒いが、刃は向けられない。ここでは、誰も剣を使う覚悟がない。
エルディアは、袋を拾い上げ、地面に置いた。
「事情を聞かせろ」
「聞く必要はない!」
「ある」
短く言い切る。
「剣を抜かないで済むなら、それに越したことはない」
二人は、はっとしたように黙り込んだ。
若い男が、ぽつりと語り始める。
「畑が……去年の被害で、まだ戻らない。働いても、分け前が減る一方で……」
年嵩の男は、目を伏せる。
「皆、苦しい。だが、盗みを認めたら、村は保たん」
どちらも、正しかった。
エルディアは、しばらく考え、袋を二つに分けた。
「これは、今夜の分だ」
「なに?」
「残りは、朝に話し合え。逃げ場も、剣も、ここにはいらない」
二人は言葉を失う。
「俺は、判断しない」
エルディアは続けた。
「ただ、争いが広がらないようにしただけだ」
沈黙の後、若い男が袋を受け取った。年嵩の男も、ゆっくりとうなずく。
「……礼は言わん」
「それでいい」
エルディアは背を向けた。
倉庫の影から離れると、夜風が頬を打つ。剣は、鞘の中にある。
抜かなかった。
それで、十分だった。
勇者でなくても、できることがある。
そう確かめるように、エルディアは歩き出した。
夜明け前、村はまだ眠っていた。
空の端がわずかに白み、鳥の声が一つ、二つと重なっていく。エルディアは焚き火の跡を整え、荷を背負った。倉庫での一件は、誰にも騒がれないまま終わったらしい。
それでいい。
村の入口に立ち、振り返る。家々は静かに並び、欠けた空白も、そのままそこにある。埋められていないが、消えてもいない。
背後から、声がした。
「……あの時」
女だった。畑で鍬を振るっていた、あの女だ。目を伏せ、躊躇いながら言葉を探している。
「来てほしかった」
それだけだった。
責める響きはない。期待でもない。ただ、事実を置くような声音。
エルディアは、うなずいた。
「来なかった」
否定もしない。言い訳もしない。
女は、それ以上何も言わず、村へ戻っていった。
エルディアは歩き出す。街道に出る前、立ち止まり、懐から紙と炭筆を取り出した。膝の上で、簡単な記録を書く。
村の名。人口の概数。修繕の状況。被害の有無。
一行、空白を空ける。
そこに、事実を書く。
——魔王討伐時、救援なし。生存者あり。村は存続。
感情は書かない。評価もしない。だが、消しもしない。
紙を畳み、懐に戻す。
それで、十分だ。
記録は、裁くためのものではない。誰かを英雄にするためのものでもない。
ただ、そこにあったことを、なかったことにしないためにある。
街道の先に、次の分岐が見える。標識には、また知らない地名が刻まれていた。
エルディアは、剣に触れず、歩き出す。
救われた世界の中で、語られなかった場所を、拾い上げるために。
その旅は、まだ始まったばかりだった。
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