記録される勇者
王都の朝は、もう剣を必要としない。
石畳を行き交う人々の足取りは軽く、屋台からは焼き菓子の甘い匂いが流れてくる。かつて魔物警戒の鐘が鳴っていた城門は、いまでは商人の呼び声を反響させるだけだった。
エルディアは、その喧騒の中を一人歩いていた。
腰には剣がある。鞘に収まったまま、抜かれることのない剣だ。通りすがりの視線が、一瞬だけそこに集まり、すぐに逸らされる。誰もがそれを危険視しているわけではない。ただ、もう必要のないものを見たときの、あの居心地の悪い沈黙だった。
王都職業斡旋所は、城壁沿いの古い建物にある。扉の前には「戦後再編支援」の文字が掲げられていた。エルディアはそれを見上げ、息をひとつ吐いてから中へ入る。
窓口の職員は、書類から顔を上げ、彼の姿を認めると一瞬だけ言葉を失った。
「……ええと。ご用件は?」
「仕事を」
それだけ答えると、職員は慌てて書類をめくり始めた。
「力仕事でしたら、倉庫の荷運びが——」
「断る」
「では、夜警の補助なども——」
「剣を抜かない仕事なら、他に適任がいる」
職員は困ったように視線を泳がせた。視線の先には、壁に掛けられた記念式典の告知文がある。勇者凱旋十周年記念。エルディアの名も、そこにはあった。
「あの……式典で、勇者様として——」
「それも断る」
言葉は短く、拒絶は静かだった。称号で呼ばれることも、像のように立たされることも、彼には仕事とは思えなかった。
沈黙が落ちる。
職員は、しばらく迷った末、声を低くした。
「……話を聞くだけでいい、という仕事があります」
エルディアは、顔を上げる。
「王都公文書院です。戦後記録の整理で、人手が足りなくて」
話を聞くだけ。その言葉は、奇妙なほど重く胸に残った。
エルディアは腰の剣に視線を落とし、ゆっくりとうなずいた。
「それでいい」
剣が役に立たない仕事でも、生きていくための理由にはなる。
少なくとも、今日は。
王都公文書院は、城の裏手にひっそりと建っていた。
白い外壁はところどころくすみ、飾り気のない建物は、記念碑や塔の影に隠れるように佇んでいる。英雄の名を刻む場所が光の当たる広場にあるのなら、こちらはその裏側だった。
重い扉を押し開けると、乾いた紙の匂いが鼻を突いた。
広い室内には窓が少なく、天井近くの採光口から差し込む光が、無数の紙束を照らしている。机の上、床の隅、壁際の棚。どこを見ても書類の山だった。羊皮紙、製本された報告書、封も切られていない封筒。それらが無秩序に積み上げられ、まるで戦後の瓦礫のように残されている。
エルディアは、足を止めた。
ここには、戦いの音がなかった。剣戟も、咆哮も、魔法の閃光もない。あるのは、文字だけだ。人の生き死にを、淡々と並べた黒いインクの列。
壁際の棚に、「魔王討伐戦・戦後処理報告」と記された背表紙が並んでいるのが見えた。見覚えのある地名、覚えのない名前。自分が通り過ぎた戦場が、頁の中では数行に圧縮されている。
——こんなものか。
胸の奥で、小さく何かが沈んだ。
案内役の事務官が、気まずそうに咳払いをする。
「現在、記録が追いついておりません。英雄の方々の証言も、ほとんど手つかずで……」
英雄、という言葉が、やけに軽く聞こえた。
エルディアは、机の上に積まれた書類の一つに目を落とす。かすれた文字で書かれた報告書には、村の名と、被害人数だけが記されていた。理由も、経緯も、そこにはない。
剣を振るえば、守れたかもしれないものがある。
だが、ここでは剣は使えない。
「俺にできることは?」
そう尋ねると、事務官はほっとしたように答えた。
「聞き取りです。勇者エルディア本人の戦後報告を」
その言葉と同時に、室内の奥から、紙を束ねる音が聞こえた。
誰かが、こちらを見ている気配がする。
エルディアは顔を上げ、書類の山の向こうへ視線を向けた。
書類の山の向こうから、一人の女性が姿を現した。
年若く見えるが、歩き方に無駄がない。明るい栗色の髪を後ろで束ね、腕には分厚い帳簿を抱えている。書記官の制服は地味だが、皺一つなく整えられていた。
彼女はエルディアを見ると、すぐにひざまずいたりはしなかった。代わりに、帳簿を抱え直し、小さく一礼する。
「勇者様……ではなく」
一瞬の間。
「エルディアさんで、よろしいですか」
その呼び方に、エルディアはわずかに目を見開いた。
「構わない」
「ありがとうございます」
彼女はそれだけ言って、向かいの椅子を引いた。英雄を迎えるというより、仕事相手を迎える仕草だった。
「私はリュシア・フェルネ。王都公文書院、下級書記官です。本日は、戦後記録の聞き取りを担当します」
事務官が慌てて補足しようとしたが、リュシアは軽く首を振って制した。
「形式的な称号は省きます。必要でしたら、途中で休憩も取れます」
エルディアは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
剣を帯びたままでいいかと問われることもなかった。それが、妙にありがたい。
「……話すことは、あまりない」
「問題ありません」
リュシアは帳簿を開き、羽根ペンを取る。
「今日は、勝ち方ではなく——」
ペン先が紙に触れる直前、彼女は顔を上げた。
「迷った場所を、教えてください」
その問いに、エルディアの指が、無意識に剣の柄をなぞった。
これまで、何度も語ってきた。英雄譚として、祝祭の言葉として。だが、その質問を向けられたことは、一度もなかった。
「……なぜ、そんなことを?」
問い返すと、リュシアは少しだけ考え、答えた。
「記録は、強い言葉から書くと、他が消えてしまうんです」
淡々とした声だった。
「残った世界には、勝利の理由より、迷いの跡が必要ですから」
エルディアは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「最初に迷ったのは、北の関門だ」
リュシアのペンが、音もなく動き出す。
その音を聞きながら、エルディアは思った。
ここでは、剣ではなく、言葉が試されるのだと。
北の関門——。
その名を口にした瞬間、エルディアの視線は机の上から外れ、遠くを見るもののそれに変わった。
「地図には載っていない。載せるほどの場所でもないからな」
リュシアは何も言わず、ただペンを走らせる。問いを挟まない沈黙が、かえって話を続けさせた。
「魔王軍が動いたのは、もっと後だ。あの時点では、警戒も薄かった。だから……迷った」
「何に、ですか」
「助けるか、進むか」
簡潔な答えだったが、言葉の端に重さが滲んでいる。
エルディアは机に置いた両手を見つめた。剣を握るよりも、よほど落ち着かない。
「関門の外に、避難しきれなかった村があった。戻れば、魔王の城へ向かうのが遅れる。進めば、あの村は——」
言葉が途切れる。
リュシアは顔を上げなかった。ただ、静かに問いを続ける。
「どうしましたか」
「……進んだ」
それだけ言って、エルディアは息を吐いた。
「結果として、世界は救われた。あの判断が正しかったかどうかは、今もわからない」
リュシアのペンが、止まる。
「その村の記録は、残っていますか」
エルディアは首を横に振った。
「名前も、人数も、報告書にはなかった。通過地点として、一行だけだ」
しばらくの沈黙。
公文書院の奥で、紙をめくる音がかすかに響く。世界が救われた後の、静かな音だった。
「……勇者の記録は、多いんです」
リュシアが、ようやく顔を上げた。
「勝利の場面、最後の一撃、称賛の言葉。でも、迷いについては、ほとんど書かれていません」
「書く必要がないからだろう」
エルディアは自嘲気味に言った。
「迷っていた勇者なんて、物語にならない」
「いいえ」
リュシアの声は小さいが、はっきりしていた。
「物語にしなかっただけです」
彼女は帳簿の一頁を指で押さえる。
「ここに書かれるのは、正しさではありません。結果でもありません。ただ、起きたことです」
エルディアは、ゆっくりと顔を上げた。
「それに、迷いは——」
リュシアは一瞬だけ言葉を探し、
「——その人が、世界をどう見ていたかを残します」
その言葉に、胸の奥で何かが軋んだ。
剣を振るった理由。進んだ理由。置いてきたもの。
それらは、誰にも問われず、誰にも残されず、終わったはずのものだった。
「……こんな話、役に立たない」
エルディアが言うと、リュシアは即座に首を振った。
「役に立たなくても、残さなければ消えます」
ペン先が、再び紙をなぞる。
「世界は救われました。でも、その途中にあったものまで救われたとは、限りませんから」
エルディアは、しばらく黙っていた。
やがて、小さくうなずく。
「次は、どこから話せばいい」
リュシアは、初めてわずかに微笑んだ。
「エルディアさんが、もう一度戻りたいと思った場所から」
その言葉に、剣の柄に置かれていた彼の指が、ゆっくりと離れた。
帳簿に記された文字が、何枚か進んだところで、リュシアはふと手を止めた。
「ここまでで、今日は十分です」
エルディアは顔を上げる。
「まだ、話せる」
「ええ。でも——」
彼女は帳簿を閉じ、静かに続けた。
「これ以上は、記録ではなくなりますから」
意味を測りかねていると、リュシアは視線を机の上に落とした。
「勇者の報告書として必要なのは、ここまでです。これ以上は……個人の話になります」
個人、という言葉に、エルディアは小さく息を吸った。
「俺は、役目を終えた人間だ」
独り言のような声音だった。
「剣を振るう理由も、行く場所もない。こんな話を聞いても、何の役にも立たない」
リュシアはすぐには答えなかった。代わりに、帳簿の束を丁寧に揃え、棚の空いた一角に置く。
「役に立つかどうかで、人を測るのは」
そこで一度、言葉を切る。
「——制度の仕事です」
エルディアは、思わず彼女を見る。
「私は、記録する側です」
リュシアは、まっすぐに彼を見返した。
「役目を終えた人が、何を失い、何を残したのか。それを書き留めるのが、私の仕事です」
彼女は、先ほどまで書いていた頁を、そっと指でなぞる。
「ここに残るのは、英雄の価値ではありません。エルディアさんが、確かにそこにいたという事実です」
その言葉は、称賛でも慰めでもなかった。
だが、エルディアの胸の奥で、長く固まっていた何かを、わずかに緩めた。
「……そんなものが、必要なのか」
「必要です」
即答だった。
「救われた世界は、すぐに次のことを始めます。でも、置いていかれた人は、記録がなければ誰にも見えません」
彼女は、机の引き出しから一枚の紙を取り出す。
端が折れ、文字も薄い、未整理の資料だった。
「これは、戦後に起きた小さな事件です。公式記録には、まだなっていません」
エルディアは紙を受け取り、目を走らせる。見覚えのある地名が、そこにあった。
「……ここは」
「はい」
リュシアは、少しだけ声を落とす。
「書類だけでは、書けない場所です」
沈黙が落ちる。
やがて、エルディアは紙を折り、懐にしまった。
「見てくる」
短い言葉だったが、迷いはなかった。
リュシアは、初めて深く頭を下げた。
「お願いします。——記録のために」
その言葉に、エルディアは小さく首を振る。
「違う」
そして、ゆっくりと言った。
「俺のためだ」
公文書院の窓から差し込む光が、二人の間の机を照らしていた。
世界は救われた。
だが、物語は、ここから動き出す。
公文書院を出ると、王都の空は高かった。
石畳を踏む足音が、やけに大きく響く。剣を帯びた腰の重みは変わらないのに、歩幅だけが、わずかに広がっていた。
エルディアは立ち止まり、懐から一枚の紙を取り出す。
地名と、簡単な状況説明。公式記録になる前の、曖昧な文字。救われた世界の隅に、取り残された出来事。
それは、仕事の依頼ではなかった。命令でも、期待でもない。
——記録のため。
リュシアの言葉を思い出し、エルディアは小さく息を吐く。
「……そうか」
誰に言うでもなく、呟いた。
剣は、世界を救うために振るうものだった。だが、振るわれなかった剣が、何も残さないわけではない。
王都の門へ向かう途中、通りの片隅で子どもたちが木剣を振っているのが見えた。笑い声が上がり、誰もそれを止めない。
守られた日常。
エルディアは、足を止めなかった。
門の外へ出ると、街道は静かに続いている。魔物の気配はなく、風だけが草を揺らしていた。
彼は剣の柄に触れ、確かめるように握る。
戦うためではない。
忘れられないために。
エルディアは歩き出す。
世界は救われた。
だから、勇者は職を失った。
——そして、物語を拾いに行く。
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