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河の下の避難線

 宿場町に近づくほど、音が減った。


 正確には、音はある。荷車の軋み、客引きの声、馬の鼻息。だがそれらが、どこか「型どおり」に聞こえる。町全体が、役割を演じている。見られている町の音だった。


 街道脇の掲示板が、遠目にも分かるほど白い。


 紙が増えている。紙が新しい。紙が、風でめくれないように角まで丁寧に留められている。


 エルディアは剣に触れず、足を止めた。リュシアが先に掲示板へ歩き、貼られた紙を上から下まで目で追う。文字を追う速さが、いつもより遅い。遅いほど、慎重だ。


 ――旅人への聞き取りに協力を。

 ――偽情報の流布は王国秩序を乱します。

 ――証言者保護局 臨時窓口開設。

 ――英雄の名誉保護に関する注意喚起。

 ――写本の無許可配布の取り締まり。


 最後の一枚の隅に、灰色帳簿商会の小さな紋章があった。


「網ね」


 リュシアが呟いた。


「張り方が丁寧。引っかかった人が“自分で絡まった”と思う張り方」


 横を見ると、門番のような役人が道端に立っている。旅人の荷を覗き、笑顔で質問する。笑顔は優しい。優しいから拒絶しづらい。拒絶しづらいから、協力の名で情報が集まる。


 救出した写本職人――河港町で連行された男は、帽子を深く被り直した。昨日までの「怯え」は消えていないが、怯えが目を曇らせなくなっていた。怯えたままでも手は動く、と彼自身が証明したからだ。


「……ユノの工房、あの路地だ」


 彼は低い声で言い、街道の外れを指した。宿場町の中心から少し離れた、小さな通り。そこに紙の匂いが集まる場所がある。


 エルディアは言った。


「正面からは行かない。先に“線”を作る」


 リュシアが頷く。


「避難線。逃げ道を、一本じゃなく」


 一本の道は切られる。一本の鍵は奪われる。だから編む。


 河港町からついてきた旅商人が、荷を背負ったまま口を開いた。


「河運は使える。ここから下流に小さな船着きがある。樽荷なら通る」


「樽」


 写本職人が眉を寄せる。


「酒か、油か」


「何でもいい」


 旅商人が言う。


「伝票が整ってれば通る。通る顔があれば通る」


 通る顔。合法の顔。


 リュシアは視線を神殿の方向へ向けた。宿場町の外れに、小さな神殿の尖塔が見える。派手ではないが、町の人間が自然に頭を下げる場所。中立の壁。


「神殿書庫」


 リュシアが言った。


「一夜だけなら、隠せる。書記は読む人かもしれない」


 旅商人が頷く。


「河港町の書記が言ってた。ここにも“読む手”がいるって」


 エルディアは短く言った。


「三層にする」


 指を一本ずつ立てる。


「旧兵站路。河運。神殿書庫」


 リュシアが付け足す。


「そして、経路記録。どこからどこへ、誰が運んだか。合図は言葉じゃなく形式」


 形式は増殖する。形式は盗まれても、注釈で守れる。


 彼らは町へ入らず、まず川へ向かった。船着き場は、宿場町の裏側にある。表から見えない場所ほど、流通は正直になる。正直というより、利害がむき出しになる。


 船着き場では、油樽が積まれていた。樽を転がす男が、旅商人の顔を見るなり肩をすくめる。


「今日は監視がうるさいぞ」


「うるさいから、樽が動く」


 旅商人が笑う。


「紙は燃やされるが、油は燃えたら困る。だから守られる」


 守られる、という言葉の意味が、こんなところでひっくり返る。


 船主は渋い顔をしながらも、伝票を見せろと言った。旅商人はすでに白紙を用意している。白紙は余白だ。余白は鍵だ。


「印は?」


「俺の」


 旅商人が自分の小さな商人印を押し、さらに別の印の余地を残す。二つの印があれば、片方だけでは通らない。片方だけを偽造しても足りない。


 リュシアは見て、頷いた。


「これで河運は生きる」


 次に神殿へ向かう。神殿の門前は静かで、石畳に落ちる影が細い。書庫へ続く扉は重く、開けると紙と蝋の匂いがした。


 奥にいた書記は、若くはない女性だった。眼鏡のような細工を掛け、指先に墨の染みがある。読む手だ。


 リュシアが名乗ると、書記は一瞬だけ驚き、しかしすぐに静かに礼をした。


「公文書院の方が、こんな田舎へ」


「お願いがある」


 リュシアは余計な説明を省いた。説明は切り取られる。必要なのは、形式だ。


「一夜だけ、匿ってほしい人がいる。証言者保護局に狙われている」


 書記は顔色を変えなかった。ただ、指先が机の縁を一度なぞった。それが彼女の恐れだと、リュシアは読んだ。


「保護局は、悪ではありません」


 書記は静かに言った。


「守るために必要な場合もある」


「分かってます」


 リュシアは頷く。


「だからこそ、守るために逃がしたい。逃がしたいのは人だけじゃない。読む作法も」


 書記の視線が、リュシアの鞄へ向いた。鞄の中に、注釈付き写本の雛形があると知っている目だ。


「……朝の約束」


 書記が、合図を口にした。


 リュシアが返す。


「朝の約束/注釈あり」


 書記は、ほんの少しだけ微笑んだ。


「あなた方はもう、言葉だけで繋がっていないのですね」


「繋がり方が変わらないと、奪われる」


 リュシアが言うと、書記は扉の向こうを見た。


「一夜なら。書庫の奥に、小部屋があります。帳簿の空箱の陰なら、誰も覗きません」


「ありがとう」


 エルディアが言うと、書記は小さく首を振った。


「礼は、記録で返してください。守るために匿った、と。匿われる側だけが罪にならないように」


 リュシアは強く頷いた。


「書きます。あなたの沈黙も、沈黙として残す」


 書記はその言葉に、少しだけ肩の力を抜いた。


 三層の線が、ここで結ばれた。


 残るのは、中心――ユノだ。



 ユノの工房は、路地の奥にあった。


 看板は出ていない。紙を求める者だけが辿り着く。扉の隙間から、灯りと紙の匂いが漏れている。だがその匂いの周りに、別の匂いが混じっていた。


 監視の匂い。


 路地の角に、保護局の制服ではない男が立っている。商会の手の者だろう。荷車の影に、もう一人。目が忙しく動く。噂を数える目だ。


「静かすぎる」


 写本職人が呟く。


「工房の前は、本来もっと雑だ。紙を買う人間は焦るから、足音がうるさい」


 リュシアが言った。


「“保護の申し出”が増えると、こうなる。来る人が減る。来る人は名簿に載る」


 工房の扉が、内側からわずかに開いた。


 隙間から覗いたのは、ユノだった。


 頬が少しこけている。目の下に淡い影。だが瞳は、生きている。生きているから、削れているのが分かる。


「……来たんだ」


 声は小さい。小さいが、震えていない。


 エルディアが頷く。


「迎えに来た」


 ユノは一瞬だけ笑って、それから首を振った。


「迎えはいらない。……もう配った」


「何を」


 リュシアが問うと、ユノは工房の奥へ二人を招き入れた。扉は静かに閉まり、鍵が掛けられる。鍵が掛けられる音が、妙に重い。


 工房の中は片づけられていた。紙束は半分になり、棚が空いている。畳む準備だ。逃げる準備だ。


 机の上に、薄い束が三つ。どれも同じではない。本文、注釈、経路。合図欄まで付いている。


「注釈付き写本のテンプレ」


 ユノが言った。


「合図の運用ルール。経路記録の付け方。……全部、別々に」


「別々に?」


 写本職人が眉を寄せる。


「一つにしたら、燃えたら終わる」


 ユノの言葉は乾いていた。乾いているのに、熱がある。


「私が消えても、作法が残れば勝ち。作法が残れば、読む人は増える」


 リュシアの胸が詰まる。人を救うのか、仕組みを守るのか。どちらも救いで、どちらも痛い。


「あなたが消えたら、勝ちじゃない」


 リュシアが言うと、ユノは首を傾げた。


「勝ち負けじゃない。……消されないための形」


 エルディアが言った。


「形は、人が作る。人がいなければ、形は続かない」


 ユノは一拍沈黙し、それから小さく息を吐いた。


「……網が来る」


 その言葉と同時に、外で足音がした。丁寧な足音。礼儀の足音。


 扉が叩かれる。乱暴ではない。朗らかな声。


「証言者保護局です。ユノさん、面談の件で」


 保護の訪問。檻の扉。


 ユノの瞳が一瞬揺れ、すぐに静まった。


「……来るの、早い」


 リュシアが言う。


「商会も来る。二重包囲」


 その予感は当たった。保護局の声の後、別の声が重なる。軽い、しかし距離を詰める声。


「ユノさん、灰色帳簿商会です。買い取りの件でお話を——」


 同じ扉に、同時に二つの善意が押し寄せる。


 ユノは机の紙束を見て、唇を噛んだ。


「時間を稼ぐ」


 彼女が言う。


「いったん、協力するふりをする」


「危険だ」


 写本職人が即座に言った。


「協力するふりは、協力の証拠になる」


「証拠になるなら、注釈を付ける」


 ユノが返す。


「同意に注釈を付ければいい。」


 リュシアが息を吸った。ミラの顔が浮かぶ。合法の穴を使うと、必ず誰かが疑われる。


「……なら、逃げ道を先に動かす」


 エルディアが言った。


「護送を逆手に取る。保護局の移送に見せかけて、河へ」


「樽荷」


 旅商人が小声で言い、頷いた。


「伝票はある。印の余地も残してる」


 リュシアはすでに鞄から紙を取り出していた。白紙。余白。鍵。


「注釈付き移送同意」


 彼女は机の上で筆を走らせる。保護局の書式を真似る。真似るのは敵に合わせるためではない。穴を使うためだ。


 ――移送に同意する。

 ただし行先は「一時預かり先(神殿書庫)」とし、期間は一夜に限る。

 面会権は保持する。

 押収品は目録を付し、返却期限を明記する。

 抄録は監修版と注釈版の併記とする。


 書きながら、リュシアの眉がひとつ動く。


「……神殿書庫を行先に書くと、神殿が危ない」


「行先は“中立の預かり先”とだけ」


 ユノが言った。


「神殿の名は注釈に隠す。経路記録だけが知る」


 経路記録。形式に戻す。


 リュシアは頷き、行先欄を曖昧にし、代わりに“預かり先の条件”を列挙した。名ではなく条件。名は刃になる。条件は盾になる。


 扉がまた叩かれる。


「ユノさん、お返事を」


 朗らかさが、少しだけ強くなる。丁寧な圧。


 ユノはエルディアを見た。


「……私が出る。あなたたちは“荷”になる」


 言い方が痛い。だが仕方がない。合法の顔を通すには、荷にならなければならない時がある。


 写本職人が小声で言った。


「俺が樽の中に入る経験があるわけじゃないが……」


「入るのはユノだ」


 旅商人が言った。


「ユノを樽荷に紛れさせる。俺の船で下流へ。下流の合流点で旧兵站路へ繋ぐ」


「息は?」


 リュシアが問うと、旅商人は頷いた。


「油樽は無理だ。空樽だ。中は臭いが、死ぬよりまし」


 ユノが笑った。


「臭いのは慣れてる。紙の匂いよりは嫌だけど」


 笑いが、工房の空気を一瞬だけ軽くした。軽くなると、怖さが見える。怖いまま動くしかない。


 ユノは扉へ向かった。扉を開ける前に、机の紙束を見て言った。


「これ、持っていって」


「持っていく」


 リュシアが言い、紙束を三つに分けて鞄へ入れる。本文、注釈、経路。ひとつにしない。ひとつにすると燃える。


 ユノが扉を開けた。


 外には保護局の男が二人。笑顔。笑顔のまま、目が鋭い。商会の男が少し離れて立っている。笑顔。笑顔のまま、指が値段を数えている。


「ユノさん」


 保護局の男が言った。


「ご協力いただければ、あなたを安全な場所へ保護できます。支援も——」


「保護、ね」


 ユノは穏やかに返す。


「じゃあ、同意書をください。条件を書きたい」


 保護局の男が眉を動かす。条件は、手続きの外側から生える。外側から生えるものを、組織は嫌う。


「条件は、こちらで——」


「私が書く」


 ユノは笑ったまま言った。


「私の言葉なんだから」


 その言葉に、商会の男が小さく笑った。


「さすがだ。あなたの言葉は売れる」


 ユノは商会の男へ視線を向けない。視線を向けると、値札が付く。


 保護局の男が紙を差し出した。所定の書式。綺麗な檻の鍵。


 ユノは紙を受け取り、リュシアが用意した注釈付き移送同意を重ねるようにして書いた。書式の枠の中に注釈を滑り込ませる。枠は守る。中身は変える。合法の穴。


 保護局の男は不満げに言った。


「……このような注釈は」


「規程に禁じる条文は?」


 ユノが穏やかに返す。


 男が口を閉じる。条文は盾であり鎖だ。


 そこへ商会の男が一歩近づいた。


「ユノさん、買い取りの話は移送先で——」


「買い取りはしない」


 ユノは即答した。


「私の形式は、誰の商売でもない」


 商会の男の笑顔が、わずかに薄くなる。


「なら、誰のものです?」


 問いは甘い。答えを切り取るための問いだ。


 ユノは言った。


「読む人のもの。……そして、余白のもの」


 商会の男は笑ったまま、少しだけ目を細めた。


「余白は値段がつかない。つかないものは、潰すしかない」


 小さな独り言のように言って、彼は距離を取った。距離を取る時、刃は投げられる。


 保護局の男が言う。


「では、移送します。護送車へ」


「護送車はいらない」


 ユノが言った。


「人目が多い。噂が増える。……あなた方の目的は保護でしょう。なら、噂を減らすべき」


 正しい。正しい言葉で、正しい側を縛る。


 保護局の男は黙り、やがて言った。


「……裏口から、短い移送を」


 裏口。短い移送。

 その“短い”の隙間が、河へ繋がる。



 工房の裏口から出ると、路地は狭く、空気が冷たい。


 旅商人が先に歩き、角を曲がった先に空樽を用意していた。樽は大きい。中は暗い。暗いほど名が守られる、というのは、こういうことかもしれない。


 ユノは一瞬だけ樽を見て、笑った。


「まさか、私が“荷”になる日が来るとは」


「荷じゃない」


 エルディアが言った。


「読み手だ」


 ユノはその言葉に頷き、髪をまとめ直して樽に入った。最後に、彼女の目がリュシアを見た。


「……残る人が出るよね」


 小声だった。テーマそのものの問い。


 リュシアは答えた。


「出る。でも、残る人の記録も残す」


 ユノは目を閉じ、樽の蓋が静かに閉められた。


 保護局の男がそれを見て眉を寄せる。


「これは——」


「短い移送」


 旅商人が即座に言った。


「人目を避ける。保護のため」


 男が渋い顔をし、同意書へ目を落とす。注釈がある。注釈は気持ち悪い。だが条文がない。条文がないものを止めると、彼が悪になる。彼は悪になりたくない。


「……行け」


 男は言った。


 樽が転がり、船着き場へ向かう。転がる音は鈍く、しかしそれが心臓の鼓動みたいに響く。商会の男の視線が、背中に刺さる。刺さるが、今は振り返らない。振り返れば、値札が付く。


 船着き場に着くと、船主が伝票を受け取り、目を細めた。


「印が二つ?」


「二つないと通らない」


 旅商人が言い、もうひとつの印を押す余地を指で示した。


 そこへ、神殿書記が現れた。扉の陰から滑るように。手には小さな蝋印。中立の壁の印。


「預かりのため」


 彼女は短く言い、伝票の隅に蝋印を落とした。名を書かない。条件だけを足す。けれど印は残る。残るものを、残る形で。


 船主は息を呑み、頷いた。


「……乗せる」


 樽が船底へ運ばれ、紐で固定される。固定は守りでもあり檻でもある。だが今日は守りだ。


 船が岸を離れる瞬間、保護局の男が最後に言った。


「経路記録は残せ。事故があれば——」


「残す」


 リュシアが即答した。


「事故も、事故として」


 船がゆっくり流れに乗る。川面が黒く光り、夜の中に細い道が開く。河の下の避難線。見えないから切られにくい線。


 だが、切る者は見えない線を嗅ぐ。


 岸の影に、商会の男が立っていた。笑っている。笑ったまま、指で何かをなぞっている。伝票の印の癖だろうか。筆圧の癖だろうか。値札を付ける手つきで、違和感を数えている。


「気づいた?」


 旅商人が小声で言う。


「気づくさ」


 写本職人が答える。


「商会は“癖”を見つける。癖は利益になるから」


 リュシアは船縁を握り、指を白くした。


「だから同時に配る。注釈版声明も、テンプレも」


「もう走らせた」


 旅商人が言う。


「河港町の読む人へ、神殿書記の経路へ。複数へ。切り取りが追いつかないように」


 水の音が、船の軋みを隠す。隠す音は優しい。優しい音は、刃の音を見落とさせる。


 しばらくして、船底から小さな叩き音がした。樽の内側から。ユノの合図。


 旅商人が指で二回、船板を叩く。返事。形式化された合図。言葉ではなく、回数と経路。


 叩き音が止まる。


 救出は静かだ。静かだから、現実だ。



 下流の合流点で、船は岸に寄せた。ここから旧兵站路へ繋ぐ細い道がある。陸の横道。河の合法の顔から、土の影へ戻る。


 樽が運び出され、蓋が開いた。ユノが顔を出し、夜の空気を吸った。頬に泥が付いている。髪が乱れている。だが目が、生きている。


「……生きてる」


 彼女は笑った。笑いが小さいのに、胸に刺さる。


 リュシアが肩を抱く。


「よかった」


 ユノは小さく首を振った。


「よかった、だけじゃない。……残った人がいる」


 ユノの視線が遠くを見る。保護局の中に残ったミラ。河港町の読む人。神殿書記。写本職人の工房。残った人は、いつも狙われる。


 その時、旅商人が息を切らして戻ってきた。手に紙を握っている。紙は湿っている。急いで渡された紙だ。


 ――証言者保護局 臨時通達。

 ――内部協力者の疑いあり。

 ――関係者の事情聴取を強化する。

 ――注釈付き写本の所持は危険物として確認対象とする。


 リュシアの顔色が変わった。


「……ミラ」


 写本職人が歯を食いしばる。


「俺の工房も、押収される」


 ユノが静かに言った。


「だから言った。守るために逃がすと、残る人が生まれる」


 言葉は責めではない。事実の確認だ。現場の言葉だ。


 エルディアは紙を受け取り、折り畳んだ。折り畳む動作が、決断の形になる。


「残る人の記録を残す」


 リュシアが言う。


「切られたなら、切られたと。疑われたなら、疑われたと。沈黙したなら、沈黙したと」


 ユノが目を閉じる。


「……それで、救いになる?」


「救いじゃない」


 リュシアは正直に言った。


「でも、消されない。消されないことが、次の線になる」


 エルディアが言う。


「次は、避難線を維持する」


「維持するだけじゃ足りない」


 ユノが目を開けた。疲れているのに、瞳が鋭い。


「保護局が全国に広がるなら、線は踏まれる。踏まれたら引き直す。でも——引き直すたびに残る人が増える」


 沈黙が落ちる。夜の中で、沈黙は重い。


 写本職人が言った。


「告発するのか」


 リュシアが迷う。迷いは、敵が一番欲しい余白だ。だが今日は、その余白を注釈に変える。


「選ぶ」


 リュシアは言った。


「避難線を太くするか、公開戦に出るか。どちらも正しい。どちらも誰かを晒す」


 エルディアは短く言った。


「両方やる」


 ユノが目を細める。


「両方?」


「線を太くしながら、公開の設計も進める」


 エルディアは剣に触れないまま言った。


「剣を抜かない代わりに、時間を使う。時間は刃に追われるが、刃も時間には勝てない」


 ユノは、ゆっくり息を吐いた。


「……あなた、変わったね」


「変わったのは世界だ」


 エルディアは言った。


「言葉が武器になった。なら、言葉の鞘を作る」


 鞘。注釈。余白。形式。


 神殿書記が、遠くから合図を送る。指を二回、空に切る。経路の確認。彼女も残る人だ。残る人が、線を支える。


 リュシアは鞄の中の紙束に触れた。本文、注釈、経路。三つに分かれた作法。三層の避難線。


 夜明けはまだ遠い。


 けれど、河の下を通った線は、確かにここにある。


 ユノは肩に布を掛けられ、旧兵站路へ歩き出した。足取りは重い。重いが止まらない。止まらないことが、救いの形になる。


 背後で、川が流れている。

 水は形を持たない。形を持たないから、檻をすり抜ける。


 そして水の上で、きっと誰かが値段を付けようとしている。

 合法の刃も、市場の値札も、追ってくる。


 だから、書く。

 逃げたことを、逃げたと書く。

 残した人を、残したと書く。

 切られたなら、切られたと書く。


 河の下の避難線は、静かに続いていく。


 次に踏まれた時、引き直すために。

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