焼けた目録と兵站の幽霊
旧戦時倉庫は、地図の上ではただの四角だった。
王都から離れ、街道を外れ、草の背が低くなるあたり。戦が終わった後に忘れられる場所は、だいたい風の通りがいい。誰も留まらないから、風だけが通る。
倉庫の外壁は黒ずんでいた。煤ではない。時間が、火の跡みたいに壁を舐めている色だ。入口には封鎖札が下がっている。王国軍の印が押され、文言は正しい。
――立入禁止。管理不在。危険。
正しい札の下で、地面に新しい轍がついていた。
荷車が通った跡。昨日ではない。今朝か、せいぜい昨夜。
リュシアが札を見上げ、静かに言った。
「管理不在、は嘘ね」
「誰かが使ってる」
エルディアは扉の隙間を覗いた。鍵は古いが、壊されてはいない。壊さない方が目立たない。誰かが“許可されたように”出入りしている。
リュシアは小箱を抱え直した。手の位置が変わるだけで、彼女の緊張が見える。
「ここは……記録が“処分”された場所かもしれない」
「処分?」
「戦争の記録は、残すだけじゃ終わらない。残すと都合の悪いものも残る。だから、処分する」
彼女はそう言い、言葉を一度止めた。
「処分は、いつも正しい顔をしている」
扉に手を掛ける前に、エルディアは周囲を見回した。草むらの端、誰かが立っていた痕。折れた草。小さな焚き火の跡。見張りがいる。
扉が軋み、倉庫の中の冷気が流れ出した。
中は、空ではなかった。
木箱が積まれ、麻袋が膨らみ、壊れた荷車が片隅で横倒しになっている。兵站用の箱には部隊名札が残っていた。薄い板に手書きの番号。剥がれ、破れ、焼けているものもある。
奥の棚は、半分が黒く焦げていた。紙の匂いが、まだ残っている。燃えた後の匂いは、時間が経っても消えない。
ここは倉庫だ。物を置く場所。だが同時に、物を捨てる場所でもある。
人の気配がした。
「そこまでだ」
低い声。扉の影から男が出てきた。年は四十前後。軍の制服ではないが、身体の癖が軍人だった。足の置き方、目線の動き。戦場で生き残った者の動き。
男は二人を見て、目を細めた。
「……勇者か」
吐き捨てるような言い方だった。
リュシアが一歩前に出る。
「公文書院の記録官、リュシアです。ここは旧軍の——」
「旧軍の倉庫だ。だから、今も軍のものだ」
男は言い切った。
「封鎖札、見ただろう」
「見ました。でも、轍も見ました」
リュシアが指摘すると、男の口元がわずかに歪む。
「……よく見てる」
褒めてはいない。警戒だ。
「名を」
リュシアが言うと、男は少しだけためらい、それでも答えた。
「リオネル。元補給将校だ。今は……後始末係みたいなものだ」
後始末係。
それは、誰もやりたがらない仕事の名だ。
「私たちは、ここに保管をお願いしたいものがある」
リュシアが小箱に触れそうになり、触れずに言った。
リオネルの目が小箱へ向く。向いた瞬間、空気が変わった。
「やめろ」
即答だった。
「ここは“置き場”じゃない。ここに置けば、俺が狙われる」
「狙うのは誰?」
リュシアが問う。
リオネルは鼻で笑った。
「制度と市場と、正義と、善意。どれも同じ顔をして襲ってくる」
彼はエルディアを一瞥した。
「勇者。お前も、その一つだ」
エルディアは否定しなかった。否定は簡単だ。簡単な否定は信用されない。
「俺は、剣を抜かない」
エルディアが言うと、リオネルは肩をすくめた。
「抜かなくても切れる。英雄の名前はな」
胸の奥が冷える。言葉で切られる、というのはこういうことだ。
リュシアが息を整え、静かに言った。
「私たちは、ここに“処分”されたものがあると見ています」
リオネルの目が動いた。ほんの一瞬。隠しきれない反応。
「……公文書院の連中が、今さら何を」
「公文書院だけの問題ではありません」
リュシアの声が少しだけ低くなる。
「記録が消されている。消され方が“整っている”。その匂いがする」
リオネルは黙ったまま、二人を倉庫の奥へ案内した。拒絶ではない。否定でもない。見せる、という形の防御。
焦げた棚の前で、リオネルが言う。
「ここには帳簿があった」
「兵站の?」
「兵站だけじゃない。損耗、欠品、命令、撤退の時間、誰がどこで止まったか。現場の記録だ」
彼は棚の黒い部分を指で軽く叩いた。
「燃えた。燃やした」
「誰が」
リュシアが問うと、リオネルは答えなかった。答えないことが答えだった。
代わりに、彼は懐から薄い革表紙の帳面を出した。
紙質が違う。公文書院のものではない。余白が多い。字は荒いが、迷いのない筆圧。
「これが俺の“現場帳”だ」
リュシアが目を落とす。視線の速度が変わる。読む時の顔になる。
「……署名がない命令の写し」
「現場は署名なんて待ってくれない」
リオネルは吐き捨てる。
「『上から言われた』で死ぬ。『記録がない』で消える。俺はそれが嫌で、書いた」
嫌で書いた。
それは、ユノの「息みたいなもの」と同じ根に繋がっている。
エルディアはリオネルを見る。
「それを、なぜ見せる」
リオネルは睨むように言った。
「見せることで、置いていかれるのを防ぐ。お前らが“正義の箱”をここに置けば、俺はまた現場を背負わされる。だから先に言う。ここを道具にするな」
リュシアが小さく頷いた。
「道具にしません」
言い切る声が震えていた。彼女も分かっている。守るための隠匿が、別の誰かを危険に晒すということを。
「じゃあ、どうする」
リオネルが問う。
エルディアは、小箱に触れずに言った。
「置かない」
リュシアが目を上げる。
「置かない、って」
「ここに“実体”を置かない。目録の断片だけを残す」
エルディアは続ける。
「もしここが燃えても、断片は別に残る。もし奪われても、断片だけでは何も開かない」
リオネルの眉がわずかに動く。
「……断片化か」
「地下目録のやり方です」
リュシアが言葉を継いだ。
「一冊で守ろうとすると、一冊で消される。だから、読む手を増やして守る」
リオネルは吐息のように笑った。
「読む手、ね。現場には読む余裕なんてないが」
「読む余裕がないから、現場帳が必要だったんでしょう」
リュシアが返すと、リオネルは黙った。否定しない沈黙。
倉庫のさらに奥、焦げた棚の裏で、エルディアがふと立ち止まった。
空気が違う。壁の冷え方が変だ。音が吸われる。
棚の脚が、地面に固定されていない。わずかに揺れる。
「ここ」
エルディアが指を差すと、リオネルが顔をしかめる。
「……触るな」
だが、止める声は遅かった。エルディアが棚を押すと、棚が僅かにずれ、奥の板が露わになった。板には、古い釘と、擦れた取っ手。
隠し扉だ。
リュシアが息を呑む。
「……床下保管庫」
リオネルが低く言った。
「俺は知らなかった」
その言葉が本当だと、エルディアは分かった。知らない者の目だ。
扉を開けると、湿った冷気が上がってきた。中には、布に包まれた束があった。焼けた匂い。焦げた端。けれど、完全には燃えていない。
リュシアが震える手で布を解く。
出てきたのは紙片の山だった。命令書の断片、損耗記録の破れ、部隊名の札。どれも、燃やす途中で隠されたもの。
「……処分の途中」
リュシアが呟く。
紙片の中に、公文書院の書式に似た欄がある。けれど印章が違う。評議会の印も、軍の印もない。空白のまま。
エルディアは、そこに“白い余白”を見た。
余白は、偶然の空白ではない。意図のある空白だ。署名を残さずに命令を通すための空白。責任を滑らせるための空白。
リュシアは、紙片を拾い上げ、声を落とした。
「……公文書院の外で、もっと大きい処分が行われていた」
彼女の指が止まる。ある紙片に、短い文が残っていた。
――補給停止。理由:不明。
――現地判断に委ねる。
現地判断。
その言葉で、現場は死ぬ。
リオネルが歯を食いしばる音がした。
「……あったのか」
彼は紙片を掴み、見つめ、拳を震わせた。
「俺たちは『記録がない』と言われた。だから、俺の現場帳は“嘘”だと言われた」
リュシアが静かに言う。
「嘘ではない。消された」
その一言が、倉庫の中で重く落ちた。
消された記録は、存在しないことになる。存在しないなら、語った者が嘘になる。嘘になった者は切られる。仕事も、居場所も。
セイラの声が遠くで繋がる。
「……ここは」
リュシアが言葉を探した。
「記録の墓場」
墓場は、花を供える場所ではない。墓場は、忘れたふりをする場所だ。
その時、外で小さな音がした。
扉が、軋む音。
リオネルの顔が変わる。戦場の顔だ。
「来た」
エルディアは剣に触れないまま、体を前へ出した。相手を切るためではない。時間を稼ぐために。
倉庫の入口側で、黒い影が二つ、三つ動く。足取りが軽い。軍ではない。商会の雇い手か、情報屋か、傭兵。
狙いは箱ではない。
影の一人が、リオネルの現場帳に視線を落とした。もう一人が、床下の紙片へ手を伸ばす。
読む手を消す。
記録を燃やす。
それが一番早い。
「動くな」
エルディアが低く言うと、影は笑った気配を出した。
「勇者殿。剣は抜かねえのか」
挑発。だが、挑発は罠だ。
エルディアは剣を抜かずに距離を詰め、相手の手首を取った。関節を捻り、床へ落とす。音を最小にする。制圧はできる。剣がなくても。
だが、別の影が袋を投げた。
床に落ちた袋が裂け、粉が散る。白い粉。乾いた匂い。
リュシアが息を呑む。
「……火薬」
次の瞬間、火打ち石の音がした。
火は、剣より早い。
火は、言葉を残さない。
火が床を舐め、棚へ移り、乾いた木箱に走る。燃える音が、倉庫の空気を喰い始める。
リュシアが床下の紙片へ手を伸ばした。
「だめだ!」
リオネルが叫び、彼女の腕を掴んだ。
「燃える! 今は持ち出せない!」
「でも、これが——!」
「持ち出して死ねば、全部消える!」
現場の言葉だった。合理でできた叫び。
エルディアは火元へ走り、剣ではなく木箱を蹴り倒した。火の進路を変える。だが火は回り込む。火は賢い。賢いというより、容赦がない。
リオネルが怒鳴った。
「砂だ! 兵站箱の裏に砂袋がある!」
兵站の知恵が、ここで生きる。
エルディアは砂袋を引きずり出し、破る。砂が床に広がり、火の舌を鈍らせる。リュシアも動いた。彼女は水桶を見つけ、砂の上へ水をかける。火は一瞬暴れ、そして沈む。
侵入者が舌打ちし、退く。
「次は燃やし尽くせ」
誰かが言い残し、影が闇へ溶けた。追う余裕はない。追えば火が勝つ。
火は完全には止まらなかった。棚の端が焦げ、紙が黒く丸まり、空気が苦くなる。
リオネルが、現場帳を抱えたまま、咳き込む。
「……くそ」
彼の腕の中で、現場帳の端が焦げていた。火が、わずかに噛んだ。紙の角が黒くなり、文字が数行消えた。
リオネルの顔が歪む。怒りではない。痛みだ。自分の体の一部を削られた痛み。
リュシアが床に膝をつき、焦げた紙片を拾い集めた。拾えるものは拾う。拾えないものは、拾えないと書く。彼女の手つきは止まらない。
エルディアは、燃え残った断片を見つめた。
火は、相手が誰でも使える。
制度も市場も、火を使える。
火は言い訳を要らない。燃えたのだ、と言えば終わる。
だからこそ、燃えたこと自体を残す必要がある。
リュシアが、炭の匂いの中で、紙の余白に書いた。
――ここで、いくつかの記録が失われた。
――失われたことを、失われたまま残す。
それは、敗北の記録だった。だが敗北を隠さない記録は、次の生存に繋がる。
リオネルが低く言った。
「お前らが来たから、燃えた」
責める言葉ではない。事実の確認だ。現場の人間は、感情より先に事実を置く。
リュシアが答える。
「私たちが来なくても、いつか燃えた」
彼女は顔を上げた。
「あなたの現場帳が、狙われていた。私たちが来たのは、早かっただけ」
リオネルは鼻で笑い、そして息を吐いた。
「早いのは、あいつらの仕事だ」
その言い方は、レオニスやソーレンに向けたものにも聞こえた。
エルディアが言う。
「ここに実体は置かない。置けない。だが、断片は残す。リオネル、君の現場帳と、繋がる形で」
リオネルは迷った。迷うのは当然だ。断片を持つことは、火の標的になることだ。
それでも彼は、焦げた現場帳の端を指で押さえ、低く言った。
「……一つだけだ。これ以上は背負えない」
「一つでいい」
リュシアが言った。
「一つが増えれば、輪ができる」
輪。
その言葉を、リオネルは少しだけ苦そうに噛んだ。
「輪は、折れる」
「孤立は、もっと早く折れる」
リュシアの返答は、ユノに言った言葉と同じ根だった。
倉庫の火が完全に鎮まり、空気が少しだけ軽くなった頃、外から小さな笛の音がした。
合図。
誰かが、敵ではない形で近づいている。
エルディアが倉庫の外へ出ると、旅装の男が立っていた。荷を背負い、帽子を深く被っている。目だけが忙しく動き、周囲を確かめている。
「……エルディア殿か」
「そうだ」
男は懐から小さな紙を出した。紙は薄く、端が汚れている。急いで渡された紙だ。
「宿場町から。写本工房の……ユノからだ」
胸が締まる。ユノが動いた。噂が動いた。値段が動いた。
紙には短い文があった。
――朝の約束。
――商会が監察局へ流した。
――“読む人”を囲い込む。名前で。保護で。
――次は、あなたの隣を狙う。
リュシアが紙を読み、唇を噛んだ。
「“名前で囲い込む”……」
「保護の名で切る」
エルディアが言うと、リオネルが低く笑った。
「火より確実だな。合法の刃だ」
リュシアは紙を畳み、封筒に入れた。封をしない。封をすれば、開けた瞬間に切り取られる。封をしなければ、持ち歩く者が背負う。
「読む人が、孤立する」
リュシアの声がわずかに震える。
「ユノが危ない。ここも危ない。公文書院も——」
言いかけて止めた。言えば、自分の恐れが形になる。形になれば、敵が使う。
エルディアが言う。
「読む人が集まれる場所が必要だ」
「集まれば燃える」
リオネルが即座に返す。
「集まれば、目立つ。目立てば切られる」
「だから、集まれる場所じゃない」
エルディアは考えながら言った。
「集まらなくても繋がれる仕組みだ。断片を回す。読み方を回す。誰か一人に背負わせない」
リュシアが顔を上げる。
「……地下目録を、旅の中で作る?」
「作る」
エルディアは言い切った。
「俺たちは原本を守るだけじゃ足りない。読む手を守る。読む手が生き延びる線を引く」
リオネルが腕を組み、しばらく黙った。
やがて彼は、焦げた現場帳を胸に抱え直し、吐き捨てるように言った。
「……勝ち方じゃないな」
「消されないためのやり方だ」
リュシアが答える。
リオネルは鼻で笑い、そして少しだけ真面目な目になった。
「なら、俺も一つ、渡す」
彼は現場帳の間から、小さな紙片を抜いた。そこには地図のような線と、倉庫の脇に続く細い道の印。
「旧兵站路だ。表の街道じゃない。使う奴は少ない。使えば、見つかりにくい」
リュシアが息を呑む。
「そんな道が」
「現場には、正面がない」
リオネルは言う。
「正面は死ぬ。だから横ができる」
エルディアは紙片を受け取った。剣の柄より、確かな重さがある。
「ありがとう」
「礼はいらん」
リオネルは倉庫の焦げた棚を見上げた。
「……ただ、燃えたことは書け。美談にするな。現場は美談で死ぬ」
リュシアは強く頷いた。
「書きます。失われたことを、失われたまま」
夜が近づき、風が冷たくなる。倉庫は燃え残りの匂いを抱えたまま立っている。墓場は、簡単には消えない。
エルディアは倉庫の出口で振り返った。
ここに置くはずだったものは、置けなかった。
だが、置けなかったという事実は残った。
燃えたという事実も残った。
そして、読む手が一つ増えた。
それが勝利かは分からない。
ただ、消されないための一歩だ。
「次へ行く」
エルディアが言うと、リュシアは小箱を抱え直した。
「次は、読む手を守る線を引く場所」
リオネルが背中越しに言う。
「線は、いつか踏まれる。踏まれたら引き直せ」
エルディアは頷いた。
踏まれても、引き直す。
燃えても、失われたと書く。
切り取られても、文脈がないと残す。
夜の端に、かすかな朝の匂いが混じっていた。
遠くで、誰かが読む。誰かが売る。誰かが消す。
その中で、エルディアとリュシアは歩き出す。
白い余白を、次の土地へ運ぶために。
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