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10/13

焼けた目録と兵站の幽霊

 旧戦時倉庫は、地図の上ではただの四角だった。


 王都から離れ、街道を外れ、草の背が低くなるあたり。戦が終わった後に忘れられる場所は、だいたい風の通りがいい。誰も留まらないから、風だけが通る。


 倉庫の外壁は黒ずんでいた。煤ではない。時間が、火の跡みたいに壁を舐めている色だ。入口には封鎖札が下がっている。王国軍の印が押され、文言は正しい。


 ――立入禁止。管理不在。危険。


 正しい札の下で、地面に新しい轍がついていた。


 荷車が通った跡。昨日ではない。今朝か、せいぜい昨夜。


 リュシアが札を見上げ、静かに言った。


「管理不在、は嘘ね」


「誰かが使ってる」


 エルディアは扉の隙間を覗いた。鍵は古いが、壊されてはいない。壊さない方が目立たない。誰かが“許可されたように”出入りしている。


 リュシアは小箱を抱え直した。手の位置が変わるだけで、彼女の緊張が見える。


「ここは……記録が“処分”された場所かもしれない」


「処分?」


「戦争の記録は、残すだけじゃ終わらない。残すと都合の悪いものも残る。だから、処分する」


 彼女はそう言い、言葉を一度止めた。


「処分は、いつも正しい顔をしている」


 扉に手を掛ける前に、エルディアは周囲を見回した。草むらの端、誰かが立っていた痕。折れた草。小さな焚き火の跡。見張りがいる。


 扉が軋み、倉庫の中の冷気が流れ出した。


 中は、空ではなかった。


 木箱が積まれ、麻袋が膨らみ、壊れた荷車が片隅で横倒しになっている。兵站用の箱には部隊名札が残っていた。薄い板に手書きの番号。剥がれ、破れ、焼けているものもある。


 奥の棚は、半分が黒く焦げていた。紙の匂いが、まだ残っている。燃えた後の匂いは、時間が経っても消えない。


 ここは倉庫だ。物を置く場所。だが同時に、物を捨てる場所でもある。


 人の気配がした。


「そこまでだ」


 低い声。扉の影から男が出てきた。年は四十前後。軍の制服ではないが、身体の癖が軍人だった。足の置き方、目線の動き。戦場で生き残った者の動き。


 男は二人を見て、目を細めた。


「……勇者か」


 吐き捨てるような言い方だった。


 リュシアが一歩前に出る。


「公文書院の記録官、リュシアです。ここは旧軍の——」


「旧軍の倉庫だ。だから、今も軍のものだ」


 男は言い切った。


「封鎖札、見ただろう」


「見ました。でも、轍も見ました」


 リュシアが指摘すると、男の口元がわずかに歪む。


「……よく見てる」


 褒めてはいない。警戒だ。


「名を」


 リュシアが言うと、男は少しだけためらい、それでも答えた。


「リオネル。元補給将校だ。今は……後始末係みたいなものだ」


 後始末係。

 それは、誰もやりたがらない仕事の名だ。


「私たちは、ここに保管をお願いしたいものがある」


 リュシアが小箱に触れそうになり、触れずに言った。


 リオネルの目が小箱へ向く。向いた瞬間、空気が変わった。


「やめろ」


 即答だった。


「ここは“置き場”じゃない。ここに置けば、俺が狙われる」


「狙うのは誰?」


 リュシアが問う。


 リオネルは鼻で笑った。


「制度と市場と、正義と、善意。どれも同じ顔をして襲ってくる」


 彼はエルディアを一瞥した。


「勇者。お前も、その一つだ」


 エルディアは否定しなかった。否定は簡単だ。簡単な否定は信用されない。


「俺は、剣を抜かない」


 エルディアが言うと、リオネルは肩をすくめた。


「抜かなくても切れる。英雄の名前はな」


 胸の奥が冷える。言葉で切られる、というのはこういうことだ。


 リュシアが息を整え、静かに言った。


「私たちは、ここに“処分”されたものがあると見ています」


 リオネルの目が動いた。ほんの一瞬。隠しきれない反応。


「……公文書院の連中が、今さら何を」


「公文書院だけの問題ではありません」


 リュシアの声が少しだけ低くなる。


「記録が消されている。消され方が“整っている”。その匂いがする」


 リオネルは黙ったまま、二人を倉庫の奥へ案内した。拒絶ではない。否定でもない。見せる、という形の防御。


 焦げた棚の前で、リオネルが言う。


「ここには帳簿があった」


「兵站の?」


「兵站だけじゃない。損耗、欠品、命令、撤退の時間、誰がどこで止まったか。現場の記録だ」


 彼は棚の黒い部分を指で軽く叩いた。


「燃えた。燃やした」


「誰が」


 リュシアが問うと、リオネルは答えなかった。答えないことが答えだった。


 代わりに、彼は懐から薄い革表紙の帳面を出した。


 紙質が違う。公文書院のものではない。余白が多い。字は荒いが、迷いのない筆圧。


「これが俺の“現場帳”だ」


 リュシアが目を落とす。視線の速度が変わる。読む時の顔になる。


「……署名がない命令の写し」


「現場は署名なんて待ってくれない」


 リオネルは吐き捨てる。


「『上から言われた』で死ぬ。『記録がない』で消える。俺はそれが嫌で、書いた」


 嫌で書いた。

 それは、ユノの「息みたいなもの」と同じ根に繋がっている。


 エルディアはリオネルを見る。


「それを、なぜ見せる」


 リオネルは睨むように言った。


「見せることで、置いていかれるのを防ぐ。お前らが“正義の箱”をここに置けば、俺はまた現場を背負わされる。だから先に言う。ここを道具にするな」


 リュシアが小さく頷いた。


「道具にしません」


 言い切る声が震えていた。彼女も分かっている。守るための隠匿が、別の誰かを危険に晒すということを。


「じゃあ、どうする」


 リオネルが問う。


 エルディアは、小箱に触れずに言った。


「置かない」


 リュシアが目を上げる。


「置かない、って」


「ここに“実体”を置かない。目録の断片だけを残す」


 エルディアは続ける。


「もしここが燃えても、断片は別に残る。もし奪われても、断片だけでは何も開かない」


 リオネルの眉がわずかに動く。


「……断片化か」


「地下目録のやり方です」


 リュシアが言葉を継いだ。


「一冊で守ろうとすると、一冊で消される。だから、読む手を増やして守る」


 リオネルは吐息のように笑った。


「読む手、ね。現場には読む余裕なんてないが」


「読む余裕がないから、現場帳が必要だったんでしょう」


 リュシアが返すと、リオネルは黙った。否定しない沈黙。


 倉庫のさらに奥、焦げた棚の裏で、エルディアがふと立ち止まった。


 空気が違う。壁の冷え方が変だ。音が吸われる。


 棚の脚が、地面に固定されていない。わずかに揺れる。


「ここ」


 エルディアが指を差すと、リオネルが顔をしかめる。


「……触るな」


 だが、止める声は遅かった。エルディアが棚を押すと、棚が僅かにずれ、奥の板が露わになった。板には、古い釘と、擦れた取っ手。


 隠し扉だ。


 リュシアが息を呑む。


「……床下保管庫」


 リオネルが低く言った。


「俺は知らなかった」


 その言葉が本当だと、エルディアは分かった。知らない者の目だ。


 扉を開けると、湿った冷気が上がってきた。中には、布に包まれた束があった。焼けた匂い。焦げた端。けれど、完全には燃えていない。


 リュシアが震える手で布を解く。


 出てきたのは紙片の山だった。命令書の断片、損耗記録の破れ、部隊名の札。どれも、燃やす途中で隠されたもの。


「……処分の途中」


 リュシアが呟く。


 紙片の中に、公文書院の書式に似た欄がある。けれど印章が違う。評議会の印も、軍の印もない。空白のまま。


 エルディアは、そこに“白い余白”を見た。


 余白は、偶然の空白ではない。意図のある空白だ。署名を残さずに命令を通すための空白。責任を滑らせるための空白。


 リュシアは、紙片を拾い上げ、声を落とした。


「……公文書院の外で、もっと大きい処分が行われていた」


 彼女の指が止まる。ある紙片に、短い文が残っていた。


 ――補給停止。理由:不明。

 ――現地判断に委ねる。


 現地判断。

 その言葉で、現場は死ぬ。


 リオネルが歯を食いしばる音がした。


「……あったのか」


 彼は紙片を掴み、見つめ、拳を震わせた。


「俺たちは『記録がない』と言われた。だから、俺の現場帳は“嘘”だと言われた」


 リュシアが静かに言う。


「嘘ではない。消された」


 その一言が、倉庫の中で重く落ちた。


 消された記録は、存在しないことになる。存在しないなら、語った者が嘘になる。嘘になった者は切られる。仕事も、居場所も。


 セイラの声が遠くで繋がる。


「……ここは」


 リュシアが言葉を探した。


「記録の墓場」


 墓場は、花を供える場所ではない。墓場は、忘れたふりをする場所だ。


 その時、外で小さな音がした。


 扉が、軋む音。


 リオネルの顔が変わる。戦場の顔だ。


「来た」


 エルディアは剣に触れないまま、体を前へ出した。相手を切るためではない。時間を稼ぐために。


 倉庫の入口側で、黒い影が二つ、三つ動く。足取りが軽い。軍ではない。商会の雇い手か、情報屋か、傭兵。


 狙いは箱ではない。


 影の一人が、リオネルの現場帳に視線を落とした。もう一人が、床下の紙片へ手を伸ばす。


 読む手を消す。


 記録を燃やす。


 それが一番早い。


「動くな」


 エルディアが低く言うと、影は笑った気配を出した。


「勇者殿。剣は抜かねえのか」


 挑発。だが、挑発は罠だ。


 エルディアは剣を抜かずに距離を詰め、相手の手首を取った。関節を捻り、床へ落とす。音を最小にする。制圧はできる。剣がなくても。


 だが、別の影が袋を投げた。


 床に落ちた袋が裂け、粉が散る。白い粉。乾いた匂い。


 リュシアが息を呑む。


「……火薬」


 次の瞬間、火打ち石の音がした。


 火は、剣より早い。


 火は、言葉を残さない。


 火が床を舐め、棚へ移り、乾いた木箱に走る。燃える音が、倉庫の空気を喰い始める。


 リュシアが床下の紙片へ手を伸ばした。


「だめだ!」


 リオネルが叫び、彼女の腕を掴んだ。


「燃える! 今は持ち出せない!」


「でも、これが——!」


「持ち出して死ねば、全部消える!」


 現場の言葉だった。合理でできた叫び。


 エルディアは火元へ走り、剣ではなく木箱を蹴り倒した。火の進路を変える。だが火は回り込む。火は賢い。賢いというより、容赦がない。


 リオネルが怒鳴った。


「砂だ! 兵站箱の裏に砂袋がある!」


 兵站の知恵が、ここで生きる。


 エルディアは砂袋を引きずり出し、破る。砂が床に広がり、火の舌を鈍らせる。リュシアも動いた。彼女は水桶を見つけ、砂の上へ水をかける。火は一瞬暴れ、そして沈む。


 侵入者が舌打ちし、退く。


「次は燃やし尽くせ」


 誰かが言い残し、影が闇へ溶けた。追う余裕はない。追えば火が勝つ。


 火は完全には止まらなかった。棚の端が焦げ、紙が黒く丸まり、空気が苦くなる。


 リオネルが、現場帳を抱えたまま、咳き込む。


「……くそ」


 彼の腕の中で、現場帳の端が焦げていた。火が、わずかに噛んだ。紙の角が黒くなり、文字が数行消えた。


 リオネルの顔が歪む。怒りではない。痛みだ。自分の体の一部を削られた痛み。


 リュシアが床に膝をつき、焦げた紙片を拾い集めた。拾えるものは拾う。拾えないものは、拾えないと書く。彼女の手つきは止まらない。


 エルディアは、燃え残った断片を見つめた。


 火は、相手が誰でも使える。

 制度も市場も、火を使える。

 火は言い訳を要らない。燃えたのだ、と言えば終わる。


 だからこそ、燃えたこと自体を残す必要がある。


 リュシアが、炭の匂いの中で、紙の余白に書いた。


 ――ここで、いくつかの記録が失われた。

 ――失われたことを、失われたまま残す。


 それは、敗北の記録だった。だが敗北を隠さない記録は、次の生存に繋がる。


 リオネルが低く言った。


「お前らが来たから、燃えた」


 責める言葉ではない。事実の確認だ。現場の人間は、感情より先に事実を置く。


 リュシアが答える。


「私たちが来なくても、いつか燃えた」


 彼女は顔を上げた。


「あなたの現場帳が、狙われていた。私たちが来たのは、早かっただけ」


 リオネルは鼻で笑い、そして息を吐いた。


「早いのは、あいつらの仕事だ」


 その言い方は、レオニスやソーレンに向けたものにも聞こえた。


 エルディアが言う。


「ここに実体は置かない。置けない。だが、断片は残す。リオネル、君の現場帳と、繋がる形で」


 リオネルは迷った。迷うのは当然だ。断片を持つことは、火の標的になることだ。


 それでも彼は、焦げた現場帳の端を指で押さえ、低く言った。


「……一つだけだ。これ以上は背負えない」


「一つでいい」


 リュシアが言った。


「一つが増えれば、輪ができる」


 輪。


 その言葉を、リオネルは少しだけ苦そうに噛んだ。


「輪は、折れる」


「孤立は、もっと早く折れる」


 リュシアの返答は、ユノに言った言葉と同じ根だった。


 倉庫の火が完全に鎮まり、空気が少しだけ軽くなった頃、外から小さな笛の音がした。


 合図。

 誰かが、敵ではない形で近づいている。


 エルディアが倉庫の外へ出ると、旅装の男が立っていた。荷を背負い、帽子を深く被っている。目だけが忙しく動き、周囲を確かめている。


「……エルディア殿か」


「そうだ」


 男は懐から小さな紙を出した。紙は薄く、端が汚れている。急いで渡された紙だ。


「宿場町から。写本工房の……ユノからだ」


 胸が締まる。ユノが動いた。噂が動いた。値段が動いた。


 紙には短い文があった。


 ――朝の約束。

 ――商会が監察局へ流した。

 ――“読む人”を囲い込む。名前で。保護で。

 ――次は、あなたの隣を狙う。


 リュシアが紙を読み、唇を噛んだ。


「“名前で囲い込む”……」


「保護の名で切る」


 エルディアが言うと、リオネルが低く笑った。


「火より確実だな。合法の刃だ」


 リュシアは紙を畳み、封筒に入れた。封をしない。封をすれば、開けた瞬間に切り取られる。封をしなければ、持ち歩く者が背負う。


「読む人が、孤立する」


 リュシアの声がわずかに震える。


「ユノが危ない。ここも危ない。公文書院も——」


 言いかけて止めた。言えば、自分の恐れが形になる。形になれば、敵が使う。


 エルディアが言う。


「読む人が集まれる場所が必要だ」


「集まれば燃える」


 リオネルが即座に返す。


「集まれば、目立つ。目立てば切られる」


「だから、集まれる場所じゃない」


 エルディアは考えながら言った。


「集まらなくても繋がれる仕組みだ。断片を回す。読み方を回す。誰か一人に背負わせない」


 リュシアが顔を上げる。


「……地下目録を、旅の中で作る?」


「作る」


 エルディアは言い切った。


「俺たちは原本を守るだけじゃ足りない。読む手を守る。読む手が生き延びる線を引く」


 リオネルが腕を組み、しばらく黙った。


 やがて彼は、焦げた現場帳を胸に抱え直し、吐き捨てるように言った。


「……勝ち方じゃないな」


「消されないためのやり方だ」


 リュシアが答える。


 リオネルは鼻で笑い、そして少しだけ真面目な目になった。


「なら、俺も一つ、渡す」


 彼は現場帳の間から、小さな紙片を抜いた。そこには地図のような線と、倉庫の脇に続く細い道の印。


「旧兵站路だ。表の街道じゃない。使う奴は少ない。使えば、見つかりにくい」


 リュシアが息を呑む。


「そんな道が」


「現場には、正面がない」


 リオネルは言う。


「正面は死ぬ。だから横ができる」


 エルディアは紙片を受け取った。剣の柄より、確かな重さがある。


「ありがとう」


「礼はいらん」


 リオネルは倉庫の焦げた棚を見上げた。


「……ただ、燃えたことは書け。美談にするな。現場は美談で死ぬ」


 リュシアは強く頷いた。


「書きます。失われたことを、失われたまま」


 夜が近づき、風が冷たくなる。倉庫は燃え残りの匂いを抱えたまま立っている。墓場は、簡単には消えない。


 エルディアは倉庫の出口で振り返った。


 ここに置くはずだったものは、置けなかった。

 だが、置けなかったという事実は残った。

 燃えたという事実も残った。

 そして、読む手が一つ増えた。


 それが勝利かは分からない。


 ただ、消されないための一歩だ。


「次へ行く」


 エルディアが言うと、リュシアは小箱を抱え直した。


「次は、読む手を守る線を引く場所」


 リオネルが背中越しに言う。


「線は、いつか踏まれる。踏まれたら引き直せ」


 エルディアは頷いた。


 踏まれても、引き直す。

 燃えても、失われたと書く。

 切り取られても、文脈がないと残す。


 夜の端に、かすかな朝の匂いが混じっていた。


 遠くで、誰かが読む。誰かが売る。誰かが消す。

 その中で、エルディアとリュシアは歩き出す。


 白い余白を、次の土地へ運ぶために。

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