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第九十九話「テスト週間⑤」


静まり返っていた図書館にも、始業時間が近づくにつれ、少しずつ人の気配が増え始めていた。教科書をめくる乾いた音、微かな衣擦れ、そして春馬のペンが紙面を走る規則的なリズム。蒼奈から次々と繰り出される演習問題は、基本から標準、そして巧妙なひねりが加えられた応用問題へと、淀みないグラデーションを描いて難易度を上げていく。


「……できた。判別式 D/4 を適用し、解の公式から虚数解を導出した。さらに解と係数の関係を用いて、定数 k の値を逆算。……これで矛盾はないはずだ」


春馬が最後の一線を書き終えると、隣で頬杖をつきながらその手元をじっと観測していた蒼奈が、満足げに目を細めた。彼女の赤ペンが、春馬のノートに淀みない円を描いていく。


「完璧! 春馬くん、さっきよりずっと計算の迷いがなくなってるね。……ねえ、これだけスムーズに解けるようになったんだから、次は別のステップに進んでみない?」


「……別のステップ? これ以上の難問は、今の俺の基礎体力ではオーバーフローを起こす可能性があるが」


春馬が警戒するように視線を下に向けると、蒼奈はいたずらっぽく、それでいて教育者としての深みを感じさせる笑みを浮かべた。


「あのね、春馬くん。勉強っていうのは、ただ問題を解くだけが勉強じゃないんだよ。インプットした情報を整理して、自分の言葉で出力する……つまり、『人に教えること』も、内容を本質的に理解する上ですっごく重要なプロセスなの。自分が分かっているつもりでも、言葉に詰まる場所があれば、そこが本当の弱点だって気づけるでしょ?」


蒼奈はそう言って、春馬のペンを指差し、彼を促すように身を乗り出した。


「春馬くんも、誰かに教えてみたら? 今覚えたての複素数の面白さを、誰かに伝えてみるの。」


その提案を聞いた瞬間、春馬の脳裏には、先日見た階段下の女子グループや、これまでの人生で構築してきた「孤独な要塞」の風景が過ぎった。彼は、自嘲気味に鼻で笑い、視線をノートの余白へと落とした。


「……それは、前提条件が欠落した非現実的な提案だ。俺には、教える相手などいない。そして俺に教えを乞う物好きも、この学園には存在しない。統計的に見て、俺の対人関係リソースは限りなくゼロに近いんだ。お前も知っているだろう?」


「えー、そんな寂しいこと言わないでよ」


「事実を述べているだけだ。……だが、そうだな。……強いて言うなら、対象は若宮、君だけだろうな」


春馬は、努めて無機質に、事務的なトープでそう付け加えた。彼にとって、この発言は最大限の歩み寄りであり、同時に「若宮蒼奈という特異点」だけが、自分の閉ざされた世界にアクセスすることを許可された唯一の存在であることを認める、事実上の独占宣言でもあった。


「……俺がお前に教える。それは論理的な矛盾を孕んでいるように聞こえるが、お前が意図的に『分からないフリ』をして、俺に解説の機会を与えるというシミュレーションであれば、実行可能かもしれない。……お前相手なら、俺の支離滅裂な論理の試行錯誤を晒しても、致命的な社会的損失には繋がらないからな」


春馬のその「屈折した信頼」の言葉を受け、蒼奈は一瞬だけ驚いたように目を丸くした。しかし、すぐにその表情は、春の陽だまりのような柔らかな、そしてどこか勝ち誇ったような笑みに変わる。


「……ふふっ、そっか。私の特等席だね。……いいよ、春馬くん。じゃあ、さっきの『解と係数の関係』の証明、私が納得するまでたっぷり、丁寧に教えてくれる? 私を唸らせるような、春馬くんだけの特別な解説、期待してるからね」


蒼奈はそう言って、わざとらしく小首をかしげ、春馬の次の言葉を待つ「生徒」のポーズをとった。


春馬は、喉の奥に溜まっていた微かな熱を逃がすように小さく咳払いをすると、おぼつかない手つきで、しかし昨日よりもずっと力強く、自分だけの「数式の物語」を、隣の少女へと語り始めた。

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